当たり散らすなよ、自分の機嫌くらい自分でとれ!〜無能な婚約者の八つ当たりに耐えかねたので、実務も借金の穴埋めも全部放り投げて婚約破棄して差し上げます〜
当たり散らすなよ、自分の機嫌くらい自分でとれ!〜無能な婚約者の八つ当たりに耐えかねたので、実務も借金の穴埋めも全部放り投げて婚約破棄して差し上げます〜
サロンの豪奢な扉が乱暴に蹴破られるように開いた瞬間、室内の空気がぴきりと凍りついた。
入ってきたのは、クラウディオ伯爵令息。私の、形式上の婚約者だ。
彼は上等な絹の上着を雑に脱ぎ捨て、給仕の少年へ叩きつけるように押しつけると、銀のトレイを蹴飛ばさんばかりの勢いで私のもとへと大股で歩み寄ってきた。
「おい、エレオノーラ! 喉が渇いているんだ、早く冷えたぶどう酒を用意させろ! それから、なぜ今日の王宮の茶会でお前は私の引き立て役に徹しなかった? 王太子殿下に挨拶する私の横で、余計な機転を利かせて目立ちおって! おかげで私の面目が丸つぶれだ!」
真っ赤な顔をして唾を飛ばしながら喚き散らす男の頭上には、立ちのぼるような湯気が見えそうなほどだった。
要するに、王太子の前で的外れな経済論をぶち上げて失笑を買った自分の無能さを、私のせいにして八つ当たりしているのだ。
いつものことだった。
機嫌が良ければ「俺の広い心に感謝しろ」と傲慢に笑い、自分の思い通りにいかないことがあれば「お前の気が利かないからだ」「周囲の頭が悪すぎる」と当たり散らす。
伯爵家の長男として甘やかされ、周囲が腫れ物に触るように機嫌を取ってきたせいで、この男は二十歳を過ぎてもなお、玩具を取り上げられた赤ん坊のままだった。
「聞いているのかエレオノーラ! 私が苛立っているのが分からないのか! 気が利かん女だ、さっさと私を宥めろ!」
わめくクラウディオを見上げながら、私は手元のティーカップをソーサーへ静かに置いた。
カチャリ、と硬質な磁器の音が、静まり返った部屋に澄んだ響きを立てる。
ふう、と息をひとつ吐き出した。
私の中で、長年張り詰めていた細い糸が、あっけなく音を立てて千切れた瞬間だった。
「……あのね、クラウディオ様」
「なんだ、言い訳か!?」
「**外で嫌なことがあったからって、私に当たり散らすのやめてもらえます? いい歳した大人が、自分の機嫌くらい自分で取ったらどうなんです?**」
サロン中の使用人たちが、息を呑んで目を見張った。
クラウディオ本人はといえば、鳩が豆鉄砲を食らったような間抜けな顔で固まり、数秒後に顔を真っ赤にして怒号を上げた。
「な、なんだと……!? 婚約者の男を立て、苛立ちを受け止めて癒やすのが女の務めだろうが! 我が家の庇護下にある子爵家の分際で、この私に口答えする気か!」
「務め? 誰の務めです? 私は貴方の婚約者であって、感情のゴミ箱でも、機嫌取り係の乳母でもありません」
私は立ち上がり、乱れたドレスの裾を払った。
身長差はあるはずなのに、見下ろしているのは私のほうだった。冷え切った私の視線に気圧されたのか、クラウディオが一歩後ずさる。
「第一、庇護下とおっしゃいますが……伯爵家の帳簿、ここ三年誰が穴埋めしてきたかご存じないのですか?」
「は……? 帳簿だと?」
「貴方が見栄を張って王都のサロンで散財し、怪しげな投機話に引っかかって作った負債。それを領地の特産品開発と商会との交渉で補填し、伯爵家の体面を保ってきたのは、私の実家である子爵家です。お義父様から頭を下げられて私が肩代わりしていた実務を、貴方は何一つご存じないのでしょうね」
私が指を鳴らすと、控えていた執事が震える手で分厚い書類の束を持ってきた。
それを、クラウディオの足元へ放り出す。
バサリと散らばった羊皮紙のすべてに、クラウディオの放蕩の記録と、私の決済印が並んでいた。
「王宮で失笑を買ったのだって、ご自身の勉強不足と浅慮が原因でしょう。王太子殿下が呆れていらしたのは、貴方の発言の軽薄さであって、私のせいではありません」
「だ、黙れ! 女のくせに生意気な! そんな口を利いて、婚約を破棄されたらどうなるか――」
「ええ、ですから破棄していただきに参りました」
私はポケットから、すでに子爵家の印を押した婚約解消届を取り出し、クラウディオの胸元へ突き刺すように押し当てた。
「ちょうど今朝、伯爵閣下から承諾のサインをいただいたところです。『息子の増長と甘えを正せなかった我が家の恥だ、今まで本当にすまなかった』と、閣下は泣いて謝罪されましたよ」
「父上が……? 嘘だ、嘘だろ!? 俺は伯爵家の跡取りだぞ!」
「いいえ。今日この時をもって、貴方はただの『無能で不機嫌を撒き散らすだけの穀潰し』です。これからは誰もお世辞を言ってくれませんし、誰も機嫌を取ってくれません。どうぞご自身で、美味しいお菓子でも召し上がって機嫌を直してくださいまし」
私は優雅にカーテシーを執った。
その背後で、クラウディオが膝から崩れ落ち、「ま、待て、エレオノーラ、悪かった、冗談だろ……!?」とすがりつこうと手を伸ばしてくる。
だが、その手は駆けつけた屋敷の衛兵たちによって、あっさりと押さえ込まれた。
「連れて行きなさい。みっともない」
廊下に現れた伯爵閣下の冷徹な声が響き、クラウディオは引きずられていく。
静かになったサロンで、私は使用人の淹れ直してくれた温かい紅茶を一口含んだ。
「ああ、美味しい」
他人の機嫌なんて、知ったことではない。
自分のご機嫌は、極上の紅茶と、晴れやかな自由があれば、いくらでも自分で取れるのだから。




