好きだと言えなかった私が、彼の結婚式の日に選んだ嘘
アルヴィン様は、いつも私の少し前を歩いていた。
子どもの頃から、ずっとそうだった。
転びそうになれば手を伸ばし、道に迷えば立ち止まり、振り返ってくれる。
でも決して、私の隣には並ばない。
その距離が、彼と私の身分差なのだと、幼いながらに理解していた。
私はリィナ。
平民の家に生まれ、魔道具師を志していた。
けれど両親を事故で亡くし、行き場を失った私を引き取ったのが、名門貴族であるアルヴィン様の家だった。
「困ったことがあれば、遠慮なく言いなさい」
そう言ってくれた彼は、私より三つ年上で、すでに“貴族の跡取り”として教育を受けていた。
優しくて、聡明で、誰に対しても公平。
――そして、私にだけは少しだけ、甘かった。
それが特別だと気づいたのは、いつ頃だっただろう。
勉強につまずいたとき、夜遅くまで付き合ってくれたこと。
魔道具の失敗で泣いた夜、黙って温かい飲み物を差し出してくれたこと。
「君は、よく頑張っている」
そう静かに言われるたび、胸の奥が熱くなった。
けれど、その感情に名前をつける勇気はなかった。
だって彼は貴族で、私は平民。
彼にはいつか、家同士で決められた婚約者が現れる。
それは、この国では当たり前の未来だった。
「妹みたいなものだから」
アルヴィン様がそう言って笑うたび、私はその言葉にしがみついた。
それは、拒絶ではない。
でも、許可でもなかった。
だから私は、自分に嘘をついた。
この気持ちは、家族への感謝。
尊敬。
依存。
そう言い聞かせて、「恋」という言葉を心の奥に押し込めた。
成長するにつれて、彼はますます遠い存在になっていった。
社交界に出るようになり、貴族の令嬢たちに囲まれる姿を見るたび、胸が締めつけられる。
それでも私は、笑顔で彼を見送った。
平民の私が、貴族の未来を縛るわけにはいかない。
それが“正しい”と、信じていたから。
――そんな私のもとに、ある日、一通の知らせが届いた。
アルヴィン様の、結婚が決まったという。
公爵家の令嬢。
血筋も魔力も申し分なく、王都でも評判の女性だと聞いた。
頭の中が真っ白になり、息が詰まる。
それでも不思議と、涙は出なかった。
「やっぱりね」
小さく呟いたその言葉は、諦めなのか、納得なのか、自分でもわからなかった。
言えなかった想い。
選ばなかった未来。
私はずっと、正しい選択をしてきたはずだった。
それなのにこの胸の痛みは、
どうしてこんなにも、消えてくれないのだろう。
――まだこのときの私は知らなかった。
この恋が、
「嘘」を選ぶことで、ようやく終わり、
そして始まることを。
◇
アルヴィン様の結婚が決まった――その知らせは、噂という形で、静かに私の耳に届いた。
使用人たちのひそひそとした声。
「いよいよらしいわよ」
「お相手は公爵家のご令嬢ですって」
聞き間違いだと思いたかった。
でも、皆が同じ名前を口にするのを聞いて、逃げ場はなくなった。
私はその日、仕事場である工房にこもったまま、誰とも話さなかった。
魔道具の部品を手に取っても、集中できず、何度も同じ工程をやり直す。
頭の中で、ただ一つの言葉だけが繰り返されていた。
――結婚。
この国で、貴族が結婚する理由は一つだ。
家と家を結ぶため。
血と魔力を守るため。
恋や感情は、その次か、あるいは最初から考慮されない。
「わかっていたはずなのに……」
独りごちた声は、工房の壁に吸い込まれて消えた。
数日後、正式な招待状が届いた。
厚手の紙に、王都の紋章。
アルヴィン様の名前と、結婚式の日取り。
それを見た瞬間、胸がきゅっと縮んだ。
招待状を寄越したということは、
彼は私を“家族同然の存在”として扱っているのだろう。
祝福してほしい。
当たり前のように、そう思っているのだ。
「……行かない、という選択もある」
そう呟いてみる。
招待を断り、王都から離れた町へ移ればいい。
仕事なら、どこにでもある。
彼の幸せを、遠くから祈ることもできる。
それが一番、穏やかな結末のはずだった。
けれど、どうしても心がそれを許さなかった。
逃げたままでは、きっと私は、
この恋を一生引きずって生きる。
「ちゃんと、終わらせないと……」
祝福するためじゃない。
諦めるためでもない。
自分自身に、区切りをつけるために。
私は、結婚式に出席することを決めた。
準備を進める中で、
私はある言葉を、何度も心の中で繰り返した。
結婚式の日、彼にかける言葉。
祝福の言葉。
そして、嘘。
「おめでとうございます」
「幸せになってください」
その先に続く、
一番大切で、一番残酷な嘘。
――あなたのことを、恋だなんて思ったことはありません。
それを口にできるようになるまで、
私は何度も鏡の前で笑顔を練習した。
大丈夫。
私は、ずっと正しい選択をしてきた。
今回も、そうするだけ。
そう言い聞かせながら、
私は王都行きの馬車に乗り込んだ。
その先で待っているのが、
祝福なのか、終わりなのか――
そのときの私は、まだ知らなかった。
◇
王都の大聖堂は、朝から祝福の光に満ちていた。
白い石造りの壁に反射する陽光。
高く掲げられた旗と花飾り。
鐘の音が、街全体を包み込むように鳴り響いている。
その中心に、私は立っていた。
場違いだとは思わなかった。
平民である私も、正式な招待を受けた“客人”なのだから。
けれど、胸の奥に沈んだ重さだけは、どうしても誤魔化せなかった。
大聖堂の扉が開き、人々がざわめく。
純白の衣に身を包んだ花嫁が、ゆっくりと歩みを進める。
その隣で、アルヴィン様が微笑んでいた。
――ああ。
その表情を見た瞬間、私ははっきりと理解してしまった。
彼は、幸せなのだ。
少なくとも、この場に立つ彼は、
貴族として、跡取りとして、
“正しい選択”をした顔をしていた。
胸が、きしむように痛んだ。
視線を逸らそうとしても、どうしても目が離れない。
いつもより整えられた髪。
凛とした立ち姿。
誓いの言葉を口にする声。
それらすべてが、
私の知らない彼であり、
それでも、間違いなく私の好きだった人だった。
式が終わり、祝福の拍手が響く。
私はようやく息を吐いた。
終わった。
そう思ったのに。
「リィナ」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、アルヴィン様が立っていた。
式の緊張を解いたのか、少し柔らいだ表情で。
「来てくれて、ありがとう」
その一言で、胸の奥が大きく揺れる。
――今だ。
私は、何度も練習した笑顔を浮かべた。
「ご結婚、おめでとうございます」
声が震えないよう、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「あなたの幸せを、心から願っています」
それは本心だった。
嘘ではない。
でも、その先に続けた言葉は――
「ずっと、あなたのこと……
兄のように思っていました」
その瞬間、
私の中で何かが、音を立てて崩れた。
アルヴィン様は、何も言わなかった。
ただ一瞬だけ、
とても小さく、目を見開いた気がした。
けれどすぐに、穏やかな微笑みに戻る。
「そうか」
短く、それだけ。
それでいい。
それで終わり。
私は深く一礼し、彼から距離を取った。
背中を向けた瞬間、
視界が滲んだ。
泣いてはいけない。
ここで泣く資格なんて、私にはない。
嘘をついたのは、私自身なのだから。
そう思いながら歩き出した私の耳に、
再び鐘の音が響いた。
祝福の音色。
それがまるで、
私の恋に弔鐘を打ち鳴らしているように聞こえた。
――私はまだ知らなかった。
あの嘘が、
彼の心に、どれほど深く突き刺さったのかを。
◇
夜の大聖堂は、昼間とはまるで別の顔をしていた。
祝福の喧騒が去り、
残されたのは、静けさと淡い灯りだけ。
私は回廊の柱にもたれ、
深く息を吐いた。
これで終わり。
ちゃんと嘘もついた。
もう、彼に近づく理由はない。
そう思っていたのに――
「リィナ」
背後から呼ばれ、
心臓が跳ねた。
振り返ると、
そこにいたのはアルヴィン様だった。
式の衣装のまま。
けれど昼間のような完璧な微笑はなく、
どこか疲れた、静かな表情をしている。
「少し、話せるか」
断る理由は、いくらでもあった。
でも、身体は勝手に頷いていた。
人気のない回廊の奥。
私たちは、一定の距離を保ったまま立ち止まる。
沈黙が、重く落ちた。
「さっきの言葉だが」
アルヴィン様が、先に口を開いた。
「――あれは、嘘だな」
心臓が、音を立てて凍りついた。
「な、何を……」
「君が俺を、兄のように思っていた、という話だ」
淡々とした声。
責める調子でも、怒りでもない。
だからこそ、逃げ場がなかった。
「……そんなこと、ありません」
そう言いかけて、
言葉が続かなくなる。
アルヴィン様は、私を真っ直ぐに見ていた。
昔から変わらない、
嘘を許さない視線で。
「君は、嘘をつくとき、少しだけ目を伏せる」
小さく息を吐き、
彼は続ける。
「昔からだ。
俺に内緒で怪我をしたときも、
魔道具の失敗を隠したときも」
そんな細かいことまで、覚えているなんて。
「……それに」
一瞬、言葉を選ぶように視線を落とし、
彼は静かに言った。
「兄に向ける目じゃなかった」
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
「どうして……今さら、そんなことを言うんですか」
声が、かすれる。
「今日は、あなたの結婚式です。
私は、祝福したんです。
それでいいじゃないですか」
必死にそう言い切る私に、
アルヴィン様は首を横に振った。
「よくない」
低く、はっきりと。
「君が、そんな顔をしてまでつく嘘を、
俺は受け取れない」
その言葉に、
積み上げてきたものが、音を立てて崩れた。
「……じゃあ、どうすればよかったんですか」
気づけば、涙が溢れていた。
「平民の私が、
名門貴族のあなたに、
好きだなんて言って、何になるんですか」
「重荷になるだけです。
困らせるだけです」
「だから、言わなかった。
ずっと……言えなかった」
初めて、口に出した本音。
アルヴィン様は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……それは、俺も同じだ」
顔を上げると、
彼は自嘲するように微笑んでいた。
「跡取りとして育てられ、
家の期待を背負い、
正しい選択をすることだけを求められてきた」
「君を想うことは、
そのどれにも当てはまらなかった」
「だから、気づかないふりをした。
妹だと、言い聞かせた」
「……臆病だった」
その言葉が、胸に深く刺さる。
「でも」
彼は一歩、こちらに近づいた。
「君が嘘をついた瞬間、
それだけは、どうしても耐えられなかった」
「君の想いを、
なかったことにされるのは……」
言葉は、そこで途切れた。
夜の回廊に、静寂が落ちる。
私たちはただ、
互いの本心を知ってしまったまま、立ち尽くしていた。
――もう、後戻りはできない。
そう、はっきりと分かっていた。
◇
沈黙を破ったのは、私だった。
「……それでも」
震える声で、必死に言葉を探す。
「あなたは、結婚したんです。
今日、この場所で、
別の女性と誓いを交わした」
それは事実だ。
どれだけ想いがあっても、
覆してはいけない現実。
「私は、その邪魔をするつもりはありません」
自分に言い聞かせるように続ける。
「だから……今さら、
こんな話をする必要なんて……」
「ある」
アルヴィン様は、即座に言った。
迷いのない声だった。
「俺にとっては、ある」
彼は一度、視線を伏せ、
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「確かに、式は終えた。
だが、それは“終わり”じゃない」
胸が、ざわつく。
「今日の結婚は、
家と家の約束だ」
「互いに、
役割と責任を果たすためのもの」
冷静な説明。
貴族として、誠実な言葉。
「だが」
彼は顔を上げ、
真っ直ぐに私を見た。
「誰かを欺いて、
誰かの想いを踏みにじってまで、
俺は未来を選ばない」
「君の気持ちを知ったまま、
何もなかった顔で生きていくことは……
俺にはできない」
その言葉に、
胸の奥が熱くなった。
「……ずるいです」
思わず、そう漏れた。
「そんなふうに言われたら、
諦めきれなくなるじゃないですか」
涙が、頬を伝う。
「私は、
あなたの足を引っ張りたくなかった」
「あなたの未来を、
平民の私が汚す権利なんてないと、
ずっと思っていました」
「だから、
好きだって言わなかった」
初めて、はっきりと口にする。
「……好きでした」
胸が張り裂けそうになる。
「ずっと、ずっと……
あなたが好きでした」
声を殺して泣く私の前で、
アルヴィン様は静かに息を吐いた。
そして、一歩近づく。
「それは、俺の台詞だ」
低く、優しい声。
「君は、俺の未来を汚す存在なんかじゃない」
「選ばなかったのは、
君じゃない」
「俺だ」
その言葉に、
時間が止まったような気がした。
「臆病だった俺が、
“選ばない”という選択をし続けただけだ」
「だが、もう――」
彼は、そこで言葉を切り、
まっすぐに告げた。
「もう一度、選び直したい」
胸が、大きく脈打つ。
それが、
どれほど重い言葉なのか、
私にも分かっていた。
だからこそ、
簡単に答えてはいけない。
けれど。
「……私も」
涙を拭い、顔を上げる。
「嘘のまま終わらせるのは、
嫌です」
それが、
私の出した答えだった。
夜の大聖堂に、
二人分の呼吸音だけが残る。
私たちは今、
“選ばなかった未来”の前に立っている。
その先へ進む覚悟が、
あるかどうかを試されながら。
◇
結婚式から、しばらくの時間が流れた。
王都の喧騒は少し落ち着き、
季節は、ゆっくりと次へ向かっていた。
私は以前と変わらず、
魔道具工房で働いている。
ただ一つ違うのは、
心の奥にあった重さが、
嘘のように消えていたことだった。
あの日、私は嘘をやめた。
それだけで、
世界の見え方が、少し変わった気がした。
「リィナ」
工房の扉が叩かれ、
聞き慣れた声がする。
振り返ると、
そこに立っていたのはアルヴィンだった。
式の日とは違う、
いつもの簡素な服装。
けれど、その表情は、
どこか晴れやかだった。
「待たせてしまって、すまない」
そう言って、彼は一歩近づく。
「立場も、責任も、
簡単に捨てられるものじゃない」
「でも、
逃げたまま生きることも、
もうできなかった」
彼の言葉は、
誠実で、慎重で、
それでも、はっきりとしていた。
「すぐに答えを出せとは言わない」
「君が、
嘘をつかずにいられる場所を、
俺は選びたい」
その言葉に、
胸の奥が静かに温かくなる。
私は、ゆっくりと息を吸った。
「……私も」
「ずっと、
誰かに合わせて生きるのが正しいと、
そう思っていました」
「でも、
嘘をつき続けるほうが、
よほど残酷だと知りました」
視線を上げ、
彼を見る。
「今度は、
ちゃんと自分の言葉で話したい」
「逃げないで、
選びたい」
アルヴィンは、
少し驚いたように目を瞬かせたあと、
静かに微笑んだ。
「それでこそ、
俺の知っているリィナだ」
差し出された手。
迷いは、もうなかった。
私はその手を取る。
それは、
身分でも、義務でもない。
ただ、
互いに嘘をつかないと決めた、
小さな約束だった。
工房の外で、
風が花を揺らす。
私は思う。
好きだと言えなかった過去も、
嘘をついたあの日も、
きっと、無駄じゃなかった。
だって今、
私はちゃんと、自分の気持ちを知っている。
――好きだ。
もう、嘘じゃない。
この恋は、
結婚式の日に終わった。
そして同時に、
本当の意味で、
始まったのだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
このお話は、「好きだと言えなかった恋」に区切りをつける瞬間を書きたい、という思いから生まれました。
異世界恋愛ではありますが、
派手なざまぁや奇跡ではなく、
嘘をついてしまった気持ちと、
それでも本当を選び直す勇気を大切にしています。
身分や立場の違い、
言葉にしなかった想い。
どちらも、誰にでも覚えのあるものだと思います。
少しでも共感していただけたり、
読み終えたあとに、
静かな余韻が残っていれば嬉しいです。
よろしければ、評価やブックマークで応援していただけると励みになります。
また次の物語で、お会いできたら幸いです。




