ふわっち配信をすることは、私にとってちょうどいいボランティアだ。
ふわっち配信を終えて、家に帰る途中、
これはボランティアに近いのかもしれない、と思った。
世間でよく言われる、
「応援しています」
「推しのためなら」
「この人を支えたい」
そういう綺麗な言葉とは、たぶん別物のやつだ。
かつての私は、推し活という名の下で、
金と感情と時間を差し出していた。
いや、差し出していたつもりで、
実際には搾取される側に自分から並んでいただけかもしれない。
払った金額が多いほど、
苦しかった期間が長いほど、
「私は特別だ」と思いたくなる。
その特別感を失うくらいなら、
自分が壊れていることには目をつぶった。
――ずいぶん、都合のいい“応援”だ。
今日のふわっちは、まるで違った。
私は主役じゃない。
救世主でもない。
いなくても回る場所に、
決められた時間だけ、ただ居ただけだ。
未来を背負わない。
人生を預からない。
相手の機嫌に、責任を持たない。
それなのに、疲れたけど、後味がいい。
たぶんこれは、
「誰かの物語に巻き込まれた」体験ではなく、
「同じ時間に存在した」だけの体験だからだ。
推し活は、
「あなたがいないとダメだ」と言われる麻薬だった。
ふわっちは、
「別に、いなくても大丈夫」という健全さがある。
与えすぎない。
期待しすぎない。
感謝も、見返りも、なくていい。
それでも、人と関わったという実感だけは残る。
もしボランティアに条件があるとしたら、
それは
自分が壊れないこと
ただそれだけだと思う。
そういう意味で、
ふわっち配信をすることは、
今の私にとって、ちょうどいいボランティアだ。




