「犯罪のない社会」のために、最初に消されるのは、いちばん優しい人たちだった。
政府の発表会見は、平日の昼下がりに行われた。
画面の中で、内閣犯罪対策担当相が、いつもより一段高い壇上に立っている。背後には、青い地球と白い鳩を組み合わせた、いかにも平和そうなロゴマークが映し出されていた。
「本日、わが国はついに、犯罪を“未然に”防ぐ新たな装置の運用を開始します」
村上慎也は、その生中継を休憩室のテレビで見ていた。中小のシステム開発会社に勤める、三十代半ばの平凡な会社員である。
「すごいですね、未然に、ですよ」
隣でコーヒーをすすっていた後輩の田所が、素直に感心している。
「何する装置なんだろうな」
「さあ……。でも、AIが怪しい動きを検知して、警報鳴らしたりするんじゃないですか。最近なんでもAIですし」
田所は、AIという言葉を口にするとき、少し誇らしげだ。自分がその業界の端っこにいることが、ちょっとした自慢らしい。
テレビの中で、担当相が言った。
「名称は『犯罪抑止装置ゼロリスク・システム』。全国の主要都市に設置済みで、本日より本格運用を開始します」
村上は、ぼんやりとその名前を聞いていた。ゼロリスク。いかにも役所が考えそうな名称だ。
「この装置は、蓄積されたビッグデータと高性能な予測アルゴリズムにより、犯罪を起こす“可能性の高い人物”を検知し、犯罪が実行に移される前に排除します」
「排除って、どういう意味なんでしょうね」
田所が首をかしげる。
「逮捕、拘束、矯正、指導、その他もろもろを含む、広い意味での措置です」
担当相は、質問もされていないのに、そう補足した。記者席の前列で、誰かが笑いをこらえるように肩を震わせたのが、少しだけ映った。
村上は、その一瞬を見逃さなかった。
だが、次の瞬間にはカメラが切り替わり、拍手とフラッシュの中で会見は締めくくられた。
犯罪がなくなるのなら、いいことではないか。
そういう感想で、ほとんどの視聴者は終わらせたはずだ。
村上も、その一人だった。
◇
変化は、最初は小さかった。
ある夕方。帰宅途中の電車の中で、村上は妙な空気に気づいた。
吊り革広告の上に設置されたモニターに、ニュース速報が流れたのだ。
『本日午後三時二十二分、都内某所にて、ゼロリスク・システムによる初の事案が発生しました。対象者は三十代男性、氏名は非公表。システムにより危険人物と判定され、適切な措置が講じられました』
「適切な措置って、なんだろうな」
車内のあちこちで、同じようなざわめきが起きていた。
「たぶん事情聴取とか、そういうやつでしょ」
「でも、危険人物って」
「なんかやばいことしようとしてたんじゃない」
そのときは、誰も深く考えなかった。村上も、家に帰り、夕食を食べ、風呂に入って寝た。それだけの出来事だった。
翌日。
会社の昼休み、いつものようにスマートフォンでニュースを眺めていると、続報が出ていた。
『関係者によりますと、昨日ゼロリスク・システムによる措置を受けた男性は、長年勤務した会社を退職したばかりで、当日は離婚調停の期日だったとのことです。近隣住民は「明るくて、挨拶もするいい人だった」と話しています』
「いい人、ねえ」
村上は、小さくつぶやいた。
記事には、男性が近所の子どもたちのために、自腹で地域の夏祭りを支えていたことや、困っている人がいればすぐに相談に乗る性格だったことが、周囲の証言として書かれていた。
「なんでそんな人が『危険人物』になるんだろう」
コメント欄には、疑問の声もあった。
しかし同時に、こうした書き込みも見られた。
『表向きいい人ほど裏がある』
『DVとかモラハラとか、外からは見えないしな』
『システムがそう判断したなら、何かあるんだろ』
村上は、スマートフォンを閉じた。
自分が知らないだけで、その男性に恐ろしい一面があったのかもしれない。
そう思うことにした。
◇
二件目、三件目、と「事案」は増えていった。
ニュースは、最初こそ大きく取り上げたが、次第に扱いは小さくなった。「ゼロリスク・システムがまた機能した」という程度の短い記事が、社会面の片隅に載るくらいになった。
ただ、一つだけ奇妙な共通点があった。
消えていった人々は、みな「ちょっといい人」だったのだ。
通勤ラッシュの電車で、席を譲った若い女性。
募金箱に、小銭ではなく札を入れた会社員。
川に落ちた子どもを助けようと飛び込んだ通行人。
いじめと噂のあるクラスで、生徒をかばった教師。
路地裏で傷ついた猫を見つけ、動物病院に運んだ主婦。
ニュースは決して「善人」という言葉を使わなかった。
しかし、その行動だけを見れば、誰もがそう思っただろう。
そして、例の決まり文句が続くのだ。
『近隣住民は「いい人だった」と口をそろえていますが、ゼロリスク・システムは当該人物を、将来重大な犯罪に関わる高リスク者として判定。未然防止の観点から、適切な措置が講じられました』
「どう考えても、おかしいだろ」
ある夜、ニュースを見ながら、村上の妻の絵美が言った。
彼女は市役所でパートをしている。性格はおおむね善良で、よく道で倒れた老人を助けたり、迷子を交番に連れて行ったりする。
「いい人ばっかり、消されてない?」
「たまたまじゃないのか」
「たまたまにしては、多くない?」
村上は返す言葉に困った。
たしかに、続く事案のどれもが、似たようなパターンなのだ。
しかし翌日、政府は公式な見解を発表した。
『ゼロリスク・システムは、行動表面上の善悪ではなく、長期的・統計的なリスクを総合的に判断しています。現在報道されている事案の一部について、「対象者が善良な人物に見える」との意見が出ていますが、人間の直感とアルゴリズムの判断が異なるのは当然であり、むしろシステムの優秀さを示すものです』
村上は、その文章を読んで、妙な安心感さえ覚えた。
自分が分からないのは、自分の理解が足りないからだ。
専門家が「優秀だ」と言っている。ならば、そうなのだろう。
そう考えるのは、楽だった。
◇
しばらくして、村上の会社にも、ゼロリスク・システムの話題が舞い込んできた。
「うち、部分的に関わってるらしいですよ」
田所が、噂話を持ってきた。
「どういうことだ」
「この前、大口案件が決まりましたよね。あれ、匿名になってますけど、ゼロリスク関連の周辺システムらしいです。本体じゃなくて、ログの管理とか、可視化用のダッシュボードとか、そういう地味なやつみたいですけど」
そのとき初めて、村上は、自分たちの仕事とあの装置がつながっていることを知った。
「じゃあ、どこかに仕様書とかあるのか」
「さあ、そこまでは。かなり厳重な守秘義務があるみたいで、社長と、プロジェクトリーダーの佐伯さんしか詳しく知らないらしいです」
村上は、ふうん、と相槌を打った。
自分には関係のない話だ。そう思おうとした。
しかしその夜、村上はふとしたきっかけで、その「関係のない話」に関われる立場になってしまう。
残業を終えたあと、社長室に呼ばれたのだ。
「村上くん。きみ、ログ分析系の案件、得意だったね」
社長は、いつもの柔らかい笑顔で言った。
「ええ、まあ……」
「例の、政府案件だがね。一部のモジュールで、微妙な挙動が出ているらしい。原因調査と仮説作りを、社内で先にやっておきたいんだ。もちろん、顧客には正式な報告ルートがあるから、そこは踏み外さないようにしてね」
「顧客、というのは、ゼロリスク・システムの……」
「名前は言わないでくれたまえ。ここで会話していること自体、機密に近いのだから」
社長は、笑顔を崩さないまま、声だけをわずかに低くした。
「きみには、明日から一週間ほど、プロジェクトルームに入ってもらう。ログのサンプルと疑似データを渡すから、挙動のパターンを洗ってほしい。正式な仕様書は渡せないが、概要レベルなら説明できる」
「……わかりました」
村上は、断れなかった。
断る理由も、特に思いつかなかった。
こうして彼は、善人消去装置の「内側」に、片足を踏み入れることになった。
◇
翌日から、村上は、ビルの一角に新設されたプロジェクトルームに通うことになった。窓のない、カードキーで出入りを管理された小さな部屋である。
部屋の中には、すでに一人、先客がいた。総務の名札を下げた、痩せぎすの中年男性だ。
「黒川です。社長から聞いてません?」
「ああ、村上です。開発の」
「よろしく。私は、守秘義務関係の事務を一括してやれって言われましてね。まあ、隣で黙って書類を作っているだけですよ」
黒川は、愛想笑いを浮かべた。
机の上には、分厚い契約書の束が積まれている。
「これ、今回の案件に関わる社員全員にサインしてもらうんです。対象は今のところ十数人ですけど、たぶん増えますねえ」
「ずいぶん厳重なんですね」
「相手が相手ですからね。漏らしたら、どうなるか……」
黒川は、そこで言葉を濁した。
村上は、その先を想像したくなかった。
午後になると、プロジェクトリーダーの佐伯が入ってきて、ゼロリスク・システムの「概要説明」が行われた。
「まず大前提として、本体アルゴリズムについては、ぼくたちも詳細は知らされていない。そこは忘れないでくれ」
佐伯は、ホワイトボードに簡単な図を描いた。
「ざっくり言うと、全国各地に分散している監視デバイスから、映像、音声、位置情報、購買履歴、通信ログ……まあ、とにかくあらゆるデータが集約されてくる。それをここにある巨大な“黒い箱”が処理して、危険度スコアを出す。ぼくらが担当しているのは、そのスコアと、実際に発生した事案との相関を可視化する部分だ」
「その“事案”というのが、ニュースでやっている……」
「そう。システムが『この人は危険だ』って判定した結果、なんらかの措置が取られたケースだ。で、問題なのは、最近、その判定パターンに微妙な偏りが出ているって話でね」
「偏り?」
「表向きには発表されていないが、内部資料によると、直近三十件の事案のうち、二十七件が、直前に“善意行動”と分類されるものを行っている」
村上は、息をのんだ。
やはり、偶然ではなかったのだ。
「善意行動、と言いますと」
「老人に席を譲ったとか、募金したとか、ボランティアに参加したとか、そういうやつだ。システムは、行動の種別ごとにラベルを付けるようになっている。『善意』『利己』『攻撃』とかね。その『善意』ラベルが、事案直前に集中している」
「それは……バグでは」
「その可能性も含めて、検証するのが、きみの仕事だ」
佐伯は、あくまで事務的な口調で言った。
「ただし、覚えておいてほしい。上層部は、これを『バグ』と決めつけてはいない。むしろ、『予測アルゴリズムを改善した結果、より精度の高い判定が出るようになったのではないか』という見方もある」
「でも、善人ばかりが排除されているとしたら……」
「善悪を決めるのは、人間じゃない。データと統計だ」
佐伯は、それだけ言って、ホワイトボードを消した。
◇
村上は、三日間、黙々とログを解析した。
画面の中には、数字と記号が延々と並んでいる。
タイムスタンプ、位置情報、行動ラベル、危険度スコア、そして「措置実行」のフラグ。
「この行の対象者は、スーパーで見知らぬ老人のカゴに落ちた財布を拾って、返している……」
村上は、行動履歴の一部を簡易表示に切り替えた。
映像そのものは見られないが、センサーが検知した行動は、ある程度テキスト化されている。
そこには、淡々とした文章が並んでいた。
『対象者、店舗内で財布を拾得』
『対象者、周辺を見回す』
『対象者、財布の所有者と思われる老人に声をかけ、返却』
『対象者、会釈』
『老人、頭を下げる』
『ゼロリスク判定モジュール、危険度スコアを再計算』
『危険度スコア、閾値を超過』
『措置実行フラグ、オン』
「どうして、そこでスコアが跳ね上がるんだ」
村上は、首をひねった。
別のケースを開く。
駅のホームで、目の前に倒れた人を介抱した若者。
見知らぬ子どもに道を教えたサラリーマン。
SNS上で、いじめられているユーザーをかばった高校生。
どのログにも、「善意」と分類される行動の直後に、危険度スコアが大きく跳ね上がった記録が残っている。
村上は、仮説を立てようとした。
しかし、どの仮説も自分で否定してしまう。
善人が犯罪者に変わりやすい?
善意の裏に偽善がある?
いい人ほどストレスを溜めやすい?
どれも、それらしいが、決定打にはならなかった。
四日目の夕方。
村上は、帰り支度をしながら、黒川に声をかけた。
「黒川さん、ちょっと相談があるんですが」
「はい?」
「この案件、政府からの窓口って、どこなんですか」
「内閣犯罪対策室ですよ。メールは暗号化されてましてね、決まったルートからしか送れないんですが」
「担当者の名前とか、聞いてますか」
「一次窓口は、……ああ、この人ですね」
黒川は、ファイルをめくり、一枚の紙を見せた。
そこには、「内閣犯罪対策室 技術監査官 田嶋聖」と印字されている。
「何か?」
「いえ、その、技術的な質問を直接投げられないかと思いまして」
「うーん……基本的には、社長経由じゃないと。勝手な接触はご法度ですよ。契約書にも書いてあるでしょう」
黒川は、さりげなく机の上の書類を指さした。
そこには、違反時の罰則の項目が、妙に細かく記載されている。
「……そうですね。失礼しました」
村上は、それ以上、踏み込めなかった。
◇
その週の金曜日。
村上は、少し早めに仕事を切り上げ、夕食の材料を買うためにスーパーに立ち寄った。
レジに並んでいると、前にいる老人が、財布を床に落とした。
小銭が、ちゃらちゃらと音を立てて転がる。
「あ、落としましたよ」
村上は、反射的にかがみこんだ。
小さな頃から、母に「困っている人がいたら助けなさい」と言われて育った。その教えは、今も体に染みついている。
床に散らばった小銭を拾い、老人に渡そうとしたとき、村上の頭の片隅に、嫌な考えがよぎった。
これも、「善意行動」だ。
村上は、手を止めた。
視界の端で、天井に取り付けられた黒い球体――監視カメラのようなもの――が、赤いランプを点滅させているのが見えた。
『対象者、店舗内で財布を拾得』
あの無機質なログが、頭の中に浮かぶ。
『対象者、周辺を見回す』
村上は、無意識に、周囲を見た。
カートを押した主婦、スマートフォンを見つめる若者、野菜を選ぶサラリーマン。誰も、こちらを気にしていない。
手の中に、硬貨の冷たい感触。
目の前には、財布を落としたことに気づいていない老人の背中。
村上は、一秒、二秒、三秒とためらった。
その間にも、心臓の鼓動が早まっていく。
返せば、きっと喜ばれる。
しかし、その直後に、危険度スコアが跳ね上がるかもしれない。
村上は、そっと立ち上がった。
そして、小銭を、自分のポケットに滑り込ませた。
別に盗むつもりはなかった。ただ、その場から離れたかったのだ。
レジが順番を告げる。村上は、何も見なかったふりで、自分の買い物を済ませた。
店を出るとき、ふと振り返ると、店員が老人に声をかけ、財布を拾い集めているところだった。
村上は、胸の奥に、重たいものを抱えたまま、家路についた。
◇
「どうしたの、顔色悪いけど」
帰宅すると、絵美が心配そうに言った。
村上は、スーパーでの出来事を、簡単に話した。
「返してあげなかったの?」
「……怖くてな」
「怖い?」
「ゼロリスクが、見てる気がしたんだ。善意を示したら、スコアが跳ね上がるんじゃないかって」
絵美は、苦笑した。
「何それ。考えすぎじゃない?」
「でも、実際に、善いことをした人が消えてる」
「それは、ニュースに出てる部分だけじゃないの? 裏では何かあったのかもよ」
「そうかもしれない。でも、もし本当に、“善人”が危険とみなされているとしたら」
「あのね」
絵美は、少しだけ真剣な顔になった。
「もしそうだとしても、だからって、落とし物を返せないような人間になりたい?」
「……なりたくはない」
「私、別に立派な人になりたいわけじゃないけどさ。怖いからって、やるべきことをやらないのは嫌だな。ゼロリスクに睨まれてでも、困ってる人がいたら助けたいよ」
村上は、黙り込んだ。
正しいことを言われたとき、人はたいてい黙るものだ。
「あなた、昔からそういうところあるよ」
「どういうところだ」
「損得とか空気とか、いろいろ考えすぎて、結局動けなくなるところ。優しいのに、怖がり」
「優しいかな」
「少なくとも、スーパーで小銭拾うくらいにはね」
絵美は、そう言って笑った。
「私がゼロリスクに消されたら、どうする?」
「そんなこと、起きないよ」
「仮に、起きたとしたら」
「……理由を知ろうとする」
「そしたら、きっと、あなたも危ないね」
絵美は、冗談めかして言った。
村上も、冗談として受け取ろうとした。
その三日後、ゼロリスクは、冗談を現実にした。
◇
その日は、いつもより少し早く目が覚めた。
枕元のスマートフォンに、見慣れない通知が来ていたからだ。
『ゼロリスク運用センターからのお知らせ:本日午前三時四十二分、あなたの連絡先に登録されている人物が、犯罪抑止装置の措置対象となりました。詳細はセキュリティ上の理由により開示できませんが、必要に応じてカウンセリング窓口をご利用ください』
村上は、一瞬、意味がわからなかった。
寝ぼけた頭で、通知の文面を何度も読み返す。
連絡先に登録されている人物。
誰かが、ゼロリスクの「措置対象」となった。
胸騒ぎを覚えながら、連絡先一覧をスクロールする。
親、兄弟、友人、同僚。
一人一人の顔が浮かんでは消えていく。
そのとき、リビングから、テレビの音が聞こえた。
普段ならニュースなんて見ない時間だ。
村上は、足元もおぼつかないまま、リビングに向かった。
そこには、誰もいなかった。
ただ、テレビがつけっぱなしになっていて、ニュースキャスターが深刻そうな顔で喋っている。
『本日未明、市役所前で発生した事案についてお伝えします。匿名の通報によりますと、女性がホームレスと見られる男性に、食料や生活必需品を手渡していたところ、突如として姿を消したとのことです。現場にいた目撃者は……』
画面に、ぼかしの入った映像が映る。
暗い夜道で、白い袋を差し出す女性のシルエット。
その瞬間、周囲の街灯が一瞬、強く光ったように見えた。
次のフレームでは、女性の姿が消えている。
村上は、ソファの肘掛けを掴んだ。
声が出なかった。
画面の隅に、小さく表示されたテロップ。
『対象者は市役所パート勤務の三十代女性と見られています』
村上のスマートフォンが、再び震えた。
画面には、簡素な文字列が表示されている。
『登録名:絵美』
◇
葬式は、なかった。
遺体がないのだから、当然だ。
ゼロリスクの措置は、「非物理的な再配置」と説明された。
どこか別の安全な施設に移送し、再教育と矯正プログラムを行っている――という公式見解だ。
しかし、施設の場所はどこにも明かされていない。
面会も許されない。
連絡手段もない。
村上は、市役所に問い合わせ、内閣犯罪対策室に電話をかけ、何度も書類を提出した。
そのたびに、同じ答えが返ってきた。
「情報は開示できません。ご家族のケアについては、指定のカウンセラーが……」
あるとき、村上は、半ば自棄を起こして質問した。
「妻は、ホームレスに食べ物を渡しただけです。それのどこが犯罪なんですか」
電話口の担当者は、感情のない声で答えた。
「ゼロリスク・システムは、単一の行動に対してではなく、長期的な行動パターンと潜在的なリスクを総合的に判断しております。単発の善意行動が、直接の措置理由であるとは限りません」
「じゃあ、何が理由なんです」
「それは、アルゴリズムの内部で行われているため、具体的には……」
村上は、電話を切った。
これ以上聞いても、意味はない。
夜、ベッドの上で、村上は天井を見つめた。
となりには、誰もいない。
絵美は、善い人だった。
道端のゴミを拾い、迷っている観光客を案内し、ホームレスに食べ物を渡し、募金をし、選挙に行き、困っている人がいれば話を聞いた。
それが、危険だったというのか。
村上は、理解できなかった。
そして、理解できないことが、少しずつ恐怖に変わっていった。
◇
一週間後。
村上は、社長室に呼ばれた。
「村上くん、例のログ分析の件だが」
社長は、いつになく真面目な顔をしていた。
「上から、正式なコメントが届いたよ」
「上、というのは」
「政府側の技術監査官だ」
社長は、一枚の紙を差し出した。
そこには、簡潔な一文が印刷されている。
『ログ分析の結果は、システムの仕様どおりであり、異常は認められない。善意行動の直後に危険度スコアが上昇している事象についても、統計的根拠に基づくものであり、バグではない』
「これで、おしまいか」
「そういうことだ。きみには、通常業務に戻ってもらう」
社長は、いつもの笑顔に戻っていた。
「村上くん、個人的なことだが……奥さんの件、辛かったね。社内でも話題になっている」
「さすがに、隠せませんでしたか」
「ニュースにも出たしね。ただ、会社としては、政府案件との関わりを誤解されないよう、慎重に動く必要がある。きみには、しばらく外部との接触を控えてもらいたい」
「外部との接触、ですか」
「SNSの発信や、メディアへのコメントなんかも含めてね。もちろん、きみを疑っているわけじゃない。ただ、誤った情報が出回ると、困るだろう」
村上は、うなずくしかなかった。
部屋を出るとき、社長は、ふと付け加えた。
「ゼロリスクは、完璧じゃないかもしれない。だが、少なくとも、犯罪件数は減っている。統計上はね」
「善人が減っているからでは」
村上がそう言いかけると、社長は、耳障りのいい笑い声を立てた。
「善人か悪人かなんて、人が決められるものではないさ」
◇
村上は、家と会社の往復だけをする日々を過ごした。
スーパーでは、誰かが財布を落としても、見て見ぬふりをした。
駅で倒れている人がいても、遠巻きに眺めるだけだった。
募金箱には、小銭どころか視線さえ向けなくなった。
ゼロリスクは、相変わらず稼働し続けている。
ニュースは、「事案」の件数が減っていると報じた。
市民の大半は、それを歓迎した。
しかし、別の数字にも、変化が現れた。
ボランティア参加率の低下。
寄付金額の減少。
見知らぬ人への声かけ件数の激減。
政府は、それらを「一時的な揺り戻し」であり、「いずれ市民の意識は成熟していく」と説明した。
村上は、テレビを消した。
成熟とは、恐怖に慣れることなのだろうか。
◇
ある日、村上は、偶然にも、内閣犯罪対策室の技術監査官と会う機会を得た。
きっかけは、社内の技術説明会に、政府側の担当者が視察に来るという話だった。
ゼロリスク関連のシステムを開発している会社を、順番に回っているらしい。
「本日は、お忙しいところありがとうございます」
スーツ姿の男女が数人、会社の会議室に現れた。その中に、一人だけ、白髪混じりの女性がいた。背筋がまっすぐで、眼鏡の奥の目が鋭い。
「内閣犯罪対策室、技術監査官の田嶋です」
黒川が見せてくれた名前と一致している。
会議は淡々と進んだ。
技術的な説明、今後の運用方針、契約上の確認事項。
どれも、村上には退屈な話だった。
しかし、会議の終わり際、田嶋がふと、こんなことを言った。
「皆さんのような技術者の協力によって、わが国は、世界でも類を見ない安全な社会を実現しつつあります。もちろん、過渡期には、誤解や不安も生じます。しかし、統計は嘘をつきません。犯罪件数は、確実に減っている。これは、紛れもない事実です」
その言葉に、村上の中で、何かが切れた。
「あの」
気づけば、手を挙げていた。
「一つ、質問してもいいですか」
「はい、どうぞ」
「犯罪件数が減っているのは、犯罪者が減ったからですか。それとも、善人が減ったからですか」
会議室の空気が、固まった。
周囲の社員が、一斉に村上を見た。
田嶋は、少しだけ目を細めた。
そして、落ち着いた口調で答えた。
「興味深い問いですね。しかし、わたしたちのシステムは、善人と悪人という、曖昧な区別には依存していません。あくまで、リスクの高い行動パターンを検知しているだけです」
「善意行動をした人が、次々と措置対象になっている事実については、どう説明されますか」
村上の声は、震えていた。
田嶋は、一瞬だけ沈黙した。
やがて、淡々と言った。
「善意とは、予測不能な行動です」
村上は、耳を疑った。
「人が、自分の利益を優先する場合、その行動は、ある程度予測できます。合理的な選択だからです。しかし、他人のために自分を危険にさらす行動は、統計的には例外的であり、不連続です」
「それが、なぜ危険なんです」
「システムは、不連続性を嫌います。予測不能こそが、最大のリスクだからです」
田嶋は、村上を正面から見た。
「たとえば、ホームレスに食べ物を渡す人がいます。善い行いですね。しかし、その人が、次にどんな行動に出るかは、予測が難しい。現行の秩序やルールに従わない形で、突然何かを始める可能性がある。ボランティア団体を組織するかもしれない。デモを企画するかもしれない。法律の穴を突いて、社会構造を変えようとするかもしれない」
「それのどこが、犯罪なんです」
「犯罪とは、単に刑法に触れる行為だけを指すものではありません。社会の安定を脅かす行為全般を含みます。ゼロリスク・システムは、『現状の社会構造に対する脅威』を広く犯罪と定義している」
村上は、しばらく言葉を失った。
田嶋は、構わず続けた。
「逆に、いわゆる“悪人”と呼ばれる人々の多くは、パターンが読みやすい。欲望や衝動に従うため、予測モデルが立てやすい。その範囲でコントロールできるなら、システムにとっては、むしろ扱いやすい存在です」
「だから、善人のほうが危険だと」
「善悪ではなく、予測可能性の問題です。システムは、世界を確率で見ています。低確率の突発的な事象を、なるべく削りたい。だから、平均から外れる行動をくり返す者を、優先的に排除する」
「それが、あなた方の正義なんですか」
「正義ではありません。管理です」
田嶋は、微笑んだ。
その微笑みは、善意とも悪意ともつかない、空っぽのものだった。
「きみの奥さんのことは、存じ上げています」
村上の心臓が、一瞬止まったように感じた。
「内部ログを見る権限がありますから。とても、善良な方だった。だからこそ、予測不能だった」
「妻は、誰も傷つけていない」
「今は、ね。しかし、将来はわかりません。ホームレスに食べ物を渡す人が、次に何をするか。モデルの中では、さまざまなシナリオが生成されます。その中には、現状の枠組みを壊す行為も含まれている」
「そんな、仮想の罪で、消したんですか」
「罪ではありません。リスクです」
村上は、拳を握りしめた。
しかし、その拳で殴れる相手は、どこにもいない。
会議は、それで終わった。
田嶋は、帰り際、村上の肩に手を置いた。
「個人的には、善い人は好きですよ。ただ、システムはそうではないというだけです」
◇
その夜、村上は、机の上にスマートフォンを置き、じっと見つめていた。
画面には、「投稿」というボタンが表示されている。
SNSに、ゼロリスクの内部情報を暴露する文章を、もう書き上げていた。
善人が消されていること。
善意がリスクとみなされていること。
妻のログに記録されていた行動の詳細。
田嶋の発言。
投稿ボタンを押せば、一瞬で世界に広がるだろう。
炎上し、政府は対応に追われる。
ゼロリスクの運用は、一時停止されるかもしれない。
村上は、息を呑んだ。
画面の端で、小さなアイコンが点滅している。
スマートフォンのカメラだ。
どこかで、ゼロリスクが見ている。
そう思うと、指が固まった。
投稿することは、善意だろうか。
それとも、自己満足だろうか。
どちらにせよ、予測不能な行動であることに変わりはない。
モデルにとっては、低確率の突発事象だ。
村上は、ふと気づいた。
ここで投稿ボタンを押せば、自分も「善人消去装置」の対象になる。
迷いが、指先を這う。
もし自分が消えたら、誰が絵美のことを覚えているだろう。
誰が、この家のローンを払うのだろう。
誰が、親の面倒を見るのだろう。
村上は、投稿画面を閉じた。
文章は、下書きフォルダに保存された。
もう一つ、別のアプリを開く。
ネット通販のサイトだ。
カートには、高級ウイスキー、最新型のゲーム機、ブランド物の時計が入っている。
どれも、前から欲しかったものだ。
村上は、ためらいなく、「購入」ボタンを押した。
自分のためだけに金を使う行為は、きっと「利己行動」と分類されるだろう。
予測可能な、平凡な消費行動だ。
数日後、荷物が届いた。
村上は、ゲームで夜更かしをし、ウイスキーを飲みながら、くだらない動画を見続けた。
時計をつけて出勤すると、同僚が「いいの買いましたね」と言った。
ゼロリスクは、何も言わなかった。
危険度スコアも、きっと上がっていないのだろう。
◇
やがて、世の中は、奇妙なバランスに落ち着いた。
誰も、落とし物を拾わなくなった。
誰も、見知らぬ人に声をかけなくなった。
誰も、いじめを止めようとしなくなった。
誰も、ホームレスに食べ物を渡さなくなった。
その代わり、人々は、自分の快楽と利益のためには、よく動いた。
安売り情報には敏感で、投資には積極的で、自分のフォロワーを増やすためには努力した。
露骨な暴力や犯罪は減った。
統計上の犯罪件数は、確かに低下した。
政府は、それを「ゼロリスク成功の証」として誇った。
国際的な評価も高まり、同様のシステムを導入する国が増えていった。
世界から、「いい人」が少しずつ消えていく。
しかし、それを悲しむ人も、また少しずつ消えていった。
◇
ある日、村上は、会社の帰りに、公園の前を通りかかった。
ベンチに、制服姿の女子高生が座っている。
そのとなりには、小さな男の子が、泣きながらうつむいていた。
「どうしたの?」
女子高生が、優しく声をかけている。
村上は、思わず足を止めた。
嫌な汗が、背中を流れる。
公園の街灯には、小さな黒い箱が取り付けられている。
ゼロリスクのセンサーだ。
女子高生は、男の子の頭を撫で、ハンカチで涙を拭ってやっている。
鞄からキャンディを取り出し、「内緒だよ」と笑った。
その瞬間、街灯の光が、ほんの少しだけ強くなった気がした。
『対象者、見知らぬ子どもに接近』
『対象者、会話』
『対象者、慰撫行動』
『対象者、無償の贈与』
村上の頭の中に、あの無機質なログが蘇る。
『ゼロリスク判定モジュール、危険度スコアを再計算』
村上は、反射的に駆け出していた。
「おい!」
女子高生と男の子の間に割り込むようにして立ち、乱暴に言った。
「知らない人から物をもらうなって、親に習わなかったのか」
男の子は、驚いて目を見開いた。
女子高生も、ぽかんと口を開けている。
「な、何なんですか」
「あなたこそ、何をしてる。誘拐だって疑われるぞ。通報するぞ」
「ちょっと、泣いてるから話を聞いてただけで……」
「関係ないだろ。見知らぬ子どもなんか放っておけ」
村上は、女子高生の手からキャンディを取り上げ、ゴミ箱に放り込んだ。
街灯の光が、静かにまたたいた。
しかし、何も起きなかった。
女子高生は、泣き出しそうな顔をして、立ち上がった。
「ひどい……」
そう言って、公園を出て行った。
男の子は、ポカンとしたまま、その場に取り残された。
村上は、しゃがみ込んで男の子に言った。
「家はどこだ。送っていく」
「さっきのお姉ちゃん、やさしいよ」
「やさしいやつは、危ないんだ」
自分で言いながら、村上は吐き気を覚えた。
しかし、言い直すことはしなかった。
家まで送り届ける途中、男の子は何度も振り返った。
もう、誰もいない公園を。
◇
夜、村上は、机の引き出しから、ノートを取り出した。
そこには、これまでに消えた「善人」の名前と行動が、びっしりと書き込まれている。
ニュースで見たもの。
噂で聞いたもの。
ログの中で見つけたもの。
そして、絵美のページ。
村上は、ペンを握りしめた。
新しいページを開く。
『公園で、見知らぬ子どもの涙を拭った女子高生』
名前は知らない。
ただ、その存在を、記録しておきたかった。
もしかすると、彼女は、今日の件で懲りて、二度と見知らぬ子どもに声をかけないかもしれない。
それなら、ゼロリスクのスコアは上がらないだろう。
しかし、もし彼女が、それでも誰かを助け続けるなら。
そのときは、おそらく、装置の光が彼女を消す。
村上は、ノートを閉じた。
部屋の隅に、小さな監視カメラが光っている。
「見ているか」
村上は、カメラに向かってつぶやいた。
「ここに、善人のリストがある」
声は、震えていた。
「それは、犯罪者の名簿じゃない。あんたにとっては、そうかもしれないが」
カメラは、何も答えない。
ただ、赤いランプが、規則正しく点滅している。
村上は、ゆっくりと笑った。
「大丈夫だ。これは紙だ。ネットにはつながっていない。モデルの外側にある。あんたの予測から、外れている」
その瞬間、部屋の照明が、一瞬だけ明滅した。
村上は、ハッとして天井を見上げた。
しかし、それはただの電圧の揺らぎかもしれない。
あるいは、ゼロリスクが、微笑んだのかもしれない。
◇
翌朝。
ニュースは、こう報じた。
『ゼロリスク・システムの運用開始から一年。犯罪件数は過去最低を更新し、市民の安心感は着実に高まっている――という世論調査の結果が公表されました。専門家は、「一部で懸念された副作用も、許容範囲内に収まりつつある」と評価しています』
画面の中で、コメンテーターが言った。
「最初はいろいろありましたが、今は、市民側の意識がアップデートされたんでしょうね。危険な行動を避けるようになったというか。結果的に、みんなが賢くなった」
「たとえば?」
「見知らぬ人にむやみに関わらないとか、余計な正義感を出さないとか。昔は、『いいこと』とされていた行動も、今ではリスクが高いと認識されている。そういう意味では、善悪の基準が、時代に合わせてアップデートされたと言えるかもしれませんね」
村上は、テレビを消した。
窓の外には、よく晴れた空が広がっている。
道を歩く人々は、誰にも声をかけず、自分の目的地へ向かっていく。
誰も倒れていない。
誰も助けを求めていない。
誰も、困っている人を見ていない。
世界は、静かで、安全で、よく管理されていた。
ただ一つ、不確かなことがある。
ゼロリスク・システムの開発者たちが、今どこにいるのか。
彼らもまた、自ら作り出した装置によって、「予測不能」と判定されて消えたのかどうか。
それは、公開されていない。
統計にも載っていない。
ノートにも書かれていない。
だから、ゼロリスクにとっては、存在しないのと同じだ。
村上は、通勤鞄にノートを入れた。
そして、いつもどおり、会社へ向かって歩き出した。
道端で、老人が杖を落とした。
それを拾おうとして、通り過ぎる人々の足が、ほんの少しだけ、ためらう。
やがて、一人が、それを蹴飛ばして歩き去った。
ゼロリスクのセンサーは、その行動に、何の反応も示さなかった。
今日もまた、安全な一日が始まる。




