エピローグ:新時代の始まり
50年後。
新しい物理法則の下に生まれた宇宙で、人類は、かつてない繁栄を謳歌していた。ソラリスは今や、銀河中に広がった人類文明の中枢となっている。
人々は、エネルギーの心配をすることがなくなった。彼らは、「時間牧場」と呼ばれる施設を運営していた。それは、螺旋状に進む時間の流れを管理し、過去から未来へと流れる膨大な情報ポテンシャルを、クリーンなエネルギーとして無限に生産するシステムだった。
時間牧場では、過去の記憶と未来の希望が、物理的なエネルギーに変換される。美しい記憶は光エネルギーとなり、強い希望は運動エネルギーとなる。人々が愛し合うほど、夢を抱くほど、宇宙全体のエネルギーレベルが向上していく。
マリア・ヴァスケスは、その新世界の中心にいた。彼女は、新たに設立された「時間管理局」の初代局長となっていた。しかし、彼女の役割は、時間を制御することではなく、時間を育てることだった。
彼女の肉体は、新しい宇宙の法則に合わせて再構成されていた。細胞の一つ一つが、時間粒子と共鳴し、老化のプロセスは大幅に減速している。そして、その意識の中には、今もデイビッドの存在が、温かい光として共にあった。
彼らは、二人で一つの存在として、この新しい宇宙の時間軸を、愛情深く見守っていた。マリアが思考する時、デイビッドの論理的な視点が加わる。デイビッドが感情を表現する時、マリアの科学的な洞察が深みを与える。
新宇宙では、死者との対話も可能になっていた。時間の螺旋構造により、過去に存在した意識は、より高次元の時間層に保存される。愛する者を失っても、それは永遠の別れではなく、一時的な次元の移行に過ぎない。
マリアは、時々、カルロスとアナの意識と対話することができた。彼らは、新しい宇宙の高次時間層で、幸せに暮らしていた。
『ママ、新しい宇宙、とっても素敵ね』
アナの意識が、マリアの心に語りかける。
『星が歌を歌ってる。時間が踊ってる。全てが、愛でできてる』
『マリア』カルロスの意識も加わる。『君が成し遂げたことは、僕たちの想像を遥かに超えていた。君を愛していて、本当に良かった』
時々、マリアは、執務室の窓から、星々が美しく螺旋を描く空を眺めながら、ふと、あの絶望的だった「古い宇宙」を思い出すことがあった。
失われた夫と娘の記憶。自分の存在が消えかけた恐怖。そして、彼女を救うために全てを捧げた、デイビッドの最後の微笑み。
それらの記憶は、甘い痛みを伴って、彼女の胸を締め付けた。だが、後悔はなかった。
新宇宙の時間法則により、過去の苦痛も、美しい記憶の一部として、彼女の中で輝き続けている。悲しみは悲しみのまま、しかしそれが愛の証であることも、同時に感じられる。
「私たちは、正しい選択をしたわよね、デイビッド」
『ああ。愛は、宇宙で最も強力なエネルギーなのだと、証明できたからな』
彼女の心の中で、優しい声が応えた。
『それに、この宇宙では、もう誰も、愛する者を永遠に失うことはない。君の最大の願いが、物理法則になったんだ』
その日、時間管理局のメインスクリーンに、未知の警告が表示された。新宇宙の果てを観測していた深宇宙探査機が、これまで検出したことのない、奇妙な波動を捉えたのだ。
それは、この宇宙の物理法則では説明できない、高次元の「時間波動」だった。まるで、さらに外側にある、別の宇宙から、さざ波が届いているかのように。
マリアの執務室で、無限のシンボルが静かに明滅した。新しい宇宙でも、アーカイブは存在し続けていた。しかし、その性格は大きく変化していた。純粋な観察者から、宇宙の成長を見守る「教師」のような存在へと進化していたのだ。
『時間とは、川のようなもの』
アーカイブの声が、響き渡る。しかし、その調子は、以前のような無機質なものではなく、どこか温かみを帯びていた。
『あなたたちは、見事な支流を作った。しかし、川は海に注ぐものです。そして、海は、無限の川を生み出す源でもある……』
『新しい発見が、あなたたちを待っています、マリア・ヴァスケス』
その言葉の意味を、マリアは、静かに受け止めた。彼女たちの物語は終わった。しかし、宇宙の、そして時間の物語は、まだ始まったばかりなのかもしれない。
彼女は、空に広がる星々の螺旋を見つめた。その螺旋の先にある、まだ見ぬ物語に、想いを馳せながら。
新しい宇宙では、すべての物語が、愛から始まり、愛に帰っていく。そして、その愛は、決して失われることがない。
それが、マリア・ヴァスケスとデイビッド・チェンが、宇宙に残した、永遠の贈り物だった。
『君の愛が、新しい時間を創った』
デイビッドの声が、マリアの心に響く。
『僕たちの愛が、永遠に続く物語の始まりになったんだ』
マリアは微笑んだ。窓の外では、愛によって生まれた新しい星々が、今日も美しく輝いている。
時間逆行プロトコルは、完了した。
しかし、愛のプロトコルは、永遠に続いていく。
(了)