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第三幕:時の審判

 私は、誰?


 その問いが、希薄になったマリアの意識の中で、こだましていた。記憶は断片的になり、目的は霧散し、ただ、時を遡らなければならないという強迫観念だけが、彼女を突き動かしていた。


 だが、その一方で、新しい理解も生まれていた。無数の時間軸からの記憶が、彼女の中で統合され、より大きな真実の姿を描き出していたのだ。


 時間逆行は、解決手段ではない。それは、問題そのものだった。


 最後の力を振り絞り、彼女はこれまでで最大の逆行を敢行した。目標は、100年前。ソラリスがまだ建設される前の、人類がケロンの周囲に集い始めた、原初の時代へ。すべての始まりの場所へ。


 しかし、この最後の逆行は、これまでとは根本的に異なっていた。彼女は、単純に過去に戻るのではなく、全ての時間軸を統合する「収束点」を目指していた。


 時空の奔流を抜けた先は、虚無の空間だった。巨大な人工ブラックホール「ケロン」が、その圧倒的な質量で時空を歪ませている。その周囲に、小さな宇宙船や居住モジュールが、星屑のように浮かんでいる。ソラリスの、黎明期の姿。


 だが、マリアを出迎えたのは、建設途中の風景ではなかった。


 彼女の目の前に、一人の女性が立っていた。いや、立っているように見えた。その姿は、マリア自身のように半透明で、背後にあるケロンの事象の地平面が透けて見えている。だが、その存在感は、マリアとは比較にならないほど強大で、安定していた。


 その人物は、時間そのもので編まれた衣をまとっているようだった。その衣服には、宇宙の歴史の全てが織り込まれている。星の誕生と死、生命の進化、文明の栄枯盛衰――全てが、美しいパターンとなって流れていた。


『よく来たわね、私』


 その声は、マリアの意識に直接響いた。それは、聞き覚えのある、しかし、幾億年の知恵と疲労を滲ませた、自分自身の声だった。


「あなたは……誰?」


『私は、あなたよ。数えきれないほどの時間逆行を繰り返し、時の迷宮の果てに、その始まりへと辿り着いた、あなたの最終形態』


 その存在は、自らを「時間の守護者」と名乗った。


『私は、もう物理的な身体を失ったわ。純粋な意識体として、全ての時間軸を俯瞰し、統括している』


 守護者の周囲には、無数の光の糸が漂っていた。それら一本一本が、異なる時間軸を表している。その中には、マリアが知る時間軸も、知らない時間軸も、そして、まだ生まれていない未来の時間軸も含まれていた。


『見なさい』


 守護者が手を挙げると、周囲の空間に、無数の映像が浮かび上がった。それらは、全て異なる時間軸でのマリアの姿だった。


 ある時間軸では、マリアは時間研究を諦め、平凡な生活を送っていた。別の時間軸では、彼女は時間犯罪者として処刑されていた。さらに別の時間軸では、彼女は時間の支配者として君臨していた。


 そして、その全ての時間軸に共通していたのは、絶望的な結末だった。


『あなたが失敗だと思っていた「時間逆行プロトコル」。あれは、失敗ではなかったのよ。あれこそが、目的そのものだったの』


 守護者は、衝撃の真実を告げた。


『宇宙を、熱的死から救うための、唯一の方法。それは、宇宙全体を、巨大な「時間ループ」に閉じ込めることだった。始まりも終わりもない、円環の物語を、永遠に繰り返させること』


「そんな……」


『あなたは、無意識のうちに、それを成し遂げようとしていたのよ、私』


 マリアは、愕然とした。宇宙の熱的死を回避するため、時間を円環状に閉じ込める。それは、究極の延命措置であると同時に、永遠の牢獄だった。進歩も、変化も、真の意味での未来もない世界。


 彼女が愛した夫と娘は、永遠に「時間嵐で死ぬ」という運命を、何度も何度も繰り返すことになる。彼らは、その苦痛を記憶することもなく、ただ永遠に同じ悲劇を演じ続ける。


「そんなことのために、私は……!」


『他に方法があったというの?』守護者の声は、冷徹だった。『有限の生と、無限の繰り返し。どちらがマシかしら?』


『しかも』守護者は続けた『このループは、既に始まっている。あなたが初めて時間逆行を行ったその時から、宇宙は円環の中に入ったのよ。今の「現実」も、過去に戻って作り変えられた、何度目かの世界に過ぎない』


 その時、マリアの周囲の空間が歪み、複数の勢力が同時に出現した。時空の裂け目から、黒い装甲の「テンポラル・ガード」が。ケロンの影から、エリナ司令官が率いる独裁軍の艦隊が。


 彼らは、それぞれの理由で、この時間の特異点に集結したのだ。


 テンポラル・ガードの司令官が、マリアと守護者を見据えて宣言した。


「時間犯罪者マリア・ヴァスケス、及びその派生存在。我々は、あなたたちによって破壊された無数の時間軸の代表として、ここに立つ」


 司令官の兜が開かれ、その下から現れたのは、見知った顔だった。それは、別の時間軸のデイビッド・チェンだった。だが、その表情には、マリアが知るデイビッドの温かさはなく、冷たい復讐心だけが宿っていた。


「私の時間軸では、あなたの実験によって、全ての人類が時間の狭間に消失した。マリア・ヴァスケス――私は、あなたを許さない」


 一方、エリナの艦隊からは、別の宣言が響いた。


「時間の混乱を終わらせ、現状のループを維持する。これ以上の変化は、人類にとって有害だ」


 エリナの艦隊には、様々な時間軸から集められた兵士たちが乗り込んでいた。彼らは皆、時間改変の犠牲者でありながら、今の歪んだ現状に適応し、それを維持することを選択した者たちだった。


 そして、彼らの頭上に、無限のシンボルが明滅した。アーカイブだ。


『全てのプレイヤーが揃いました。これより、最終観測フェーズに移行します』


 アーカイブの真の目的が、ついに明らかになる。彼は、神でも、預言者でもなかった。ただの、データ収集家。宇宙がどのような結末を迎えるのか、そのあらゆる可能性のデータを集積すること。それが、彼の唯一の存在理由だった。


『私の記録によれば、この状況は過去に1,247回発生しています。結果は常に、宇宙の完全な時間固着化です』


 アーカイブは、感情を込めることなく続けた。


『しかし、今回は新たな要素があります。存在希薄化したマリア・ヴァスケスという、極めて稀な変数です』


 時空大戦の火蓋が、切って落とされた。


 戦場は、もはや三次元の空間ではなかった。過去、現在、未来が混在する、四次元の多重戦場。テンポラル・ガードの放った時間固定弾が、100年前の空間を撃ち抜き、その効果が、50年後の未来で炸裂する。


 死んだはずのエリナの兵士が、戦死する前の過去の時間軸から、再び戦線に復帰してくる。戦場そのものが、恐竜時代、中世の城、そして超未来の都市へと、目まぐるしくその姿を変えていく。


 守護者は、時間軸を操る絶対的な力で応戦した。彼女の意志一つで、敵の攻撃は未来へと押し流され、味方の援軍は過去から召喚される。しかし、それは同時に、時空の歪みをさらに拡大させていた。


 マリアは、その混沌の中心で、為す術もなかった。彼女の存在はあまりにも希薄で、誰にも干渉できない。過去の自分、現在の自分、そして未来の自分(守護者)が、互いに争うのを、ただ見ていることしかできなかった。


 戦いは、宇宙の根幹を揺るがす規模に発展していた。時空構造そのものが軋み、ケロンのブラックホールさえも不安定化している。このままでは、時間の存在そのものが崩壊し、宇宙は完全な虚無へと帰してしまう。


 もう、終わりだ。私の存在は、この時間の渦の中で、完全に霧散してしまう。


 そう思った瞬間、彼女の意識を、強く掴む感覚があった。


『マリア!』


 デイビッドの声。しかし、それは戦場にいるテンポラル・ガードのデイビッドからではなかった。遥か彼方の、テンポラル・ラボ7から、クロノス・ゲートの出力を最大にし、マリアの量子スペクトルを追って、この時間にアクセスしていた、「彼女の」デイビッドの声だった。


『君が、どこにいるか、やっと見つけた……!』


 マリアの記憶に、彼女を庇って身体を失ったデイビッドの姿が蘇る。機械の身体になってもなお、彼女を支え続けてくれたデイビッド。


「デイビッド……でも、無駄よ。私はもう……」


『無駄じゃない! 君がどこにいようと、どんな状態になろうと、僕は君を見つけ出す!』


 デイビッドは、研究室で、驚くべき行動に出た。彼は、自らのサイボーグの身体と、クロノス・ゲートの制御システムを、物理的に接続し始めたのだ。金属の腕の装甲を剥がし、中の生体神経ケーブルを、ゲートのコアへと繋いでいく。


 生体パーツと機械パーツの境界で、激しいスパークが散った。彼の身体を流れる血液が沸騰し、神経回路が過負荷で焼け付いていく。


「何を……する気!?」


『君の存在が不安定なら、僕が君をこの時間軸に固定する「錨」になる』


 彼の声は、苦痛に満ちていたが、その決意は鋼鉄よりも固かった。


『君を失うくらいなら、僕は、全ての時間軸で死んだ方がましだ』


 デイビッドの生体パーツが、ゲートの莫大なエネルギー奔流に飲み込まれていく。彼の肉体は、足先から光の粒子となって消滅し始めた。しかし、彼の意識は、時空を超えた膨大なデータとなって、マリアの存在へと流れ込んでいった。


 その情報流の中に、マリアは彼の記憶を見た。


 初めて彼女に会った日のこと。彼女の研究に魅力を感じ、共に働くことを決意した瞬間。爆発事故で彼女を庇った時の、恐怖と、それを上回る愛情。サイボーグとして生まれ変わった後も、彼女への想いは変わらなかった。


 そして、今この瞬間も、彼は彼女のためだけに存在していた。


「デイビッド! やめて!」


 マリアの悲痛な叫びも、彼には届かない。彼の意識は、既に人間の領域を超えて拡散していた。


『僕は、いつだって君のそばにいた。君を事故から庇って、この身体になった時から……ずっと。君が時間の迷宮で迷子になっても、僕は君を見つけ出す』


 彼の声は、徐々に遠くなっていく。


『愛している、マリア。君が誰になろうと、どこへ行こうと、その想いだけは変わらない』


 それが、彼の最後の言葉だった。


 デイビッドの身体は、完全に消滅した。だが、彼の意識、彼の記憶、彼の愛、そのすべてが、マリアの希薄な存在と、固く融合した。


 その瞬間、マリアの身体が、確かな輪郭を取り戻した。彼女は、再び、物理世界に干渉する力を得たのだ。デイビッドの犠牲が、彼女を時間の牢獄から解放した。


 しかし、それだけではなかった。デイビッドの意識と融合したことで、マリアは新しい視点を得ていた。愛する者を護りたいという気持ち。それが、時間を操る力よりも強大なエネルギーだということを。


 彼女の瞳には、涙が溢れていた。しかし、その光は、もはや絶望の色ではなかった。デイビッドの愛を受け取った彼女は、守護者さえも超える、新しい存在へと変貌を遂げようとしていた。


 戦場の全ての者が、マリアの変化に気づいた。彼女の周囲から、温かい光が放射されている。それは、時間を破壊する力ではなく、時間を癒し、修復する力だった。


『なに……これは……』


 時間の守護者が、困惑の声を上げた。


『私が費やした億年の時間すら、この光の前では意味を失う……』


 マリアは、立ち上がった。彼女の中で、デイビッドの声が響く。


『君なら、できる。時間を壊すのでも、止めるのでもない。新しい時間を、創ること』



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