第二幕:時空の迷宮
マリアが過去に干渉するたびに、現在は、より深く歪んでいった。
最初の逆行で得た、謎の改良データをクロノス・ゲートに適用し、24時間後の実験に臨んだ。量子もつれ導線の配置を最適化し、エネルギー放出パターンを調整した結果、確かにあの破滅的な暴走は回避された。
しかし、その代償として、ソラリス全体を覆う、より静かで、しかし深刻な侵食が始まった。時間の法則が、根本から狂い始めたのだ。
最初に異変を感じたのは、居住区の人々だった。ある者は一夜にして20歳も老け、ある者は子どもの姿に戻った。時間の流れが、個人レベルで不均一になったのだ。建物は、建設されると同時に風化し、崩れ落ちていく。植物園では、花が咲くと同時に枯れ、再び花を咲かせるという、無意味な循環を繰り返していた。
もはや、時間の流れは、一直線の川ではなかった。あちこちに渦や淀みができ、過去と未来が混じり合う、澱んだ沼となっていた。
デイビッドの機械の目には、その異常がくっきりと映し出されていた。人々の周囲に、複数の時間軸の残像がゆらめいている。建物の壁には、過去と未来の姿が半透明で重なり合っている。時空そのものが、多層構造を露呈し始めていた。
「これではダメだ……もっと根本的な原因があるはず」
マリアは、さらなる逆行を決意する。今度は、一週間前へ。夫からのメッセージにあった「ループ」という言葉の意味を突き止めるために。
だが、二度目の逆行は、最初の逆行よりもはるかに困難だった。時空の歪みが蓄積されており、時間の流れを遡ることそのものが、激しい抵抗を受けるのだ。
逆行中、マリアは奇妙な体験をした。時間の奔流の中で、自分以外の「何か」に遭遇したのだ。それは、同じように時を遡っている、別の意識体だった。その存在は、彼女に向かって何かを叫んでいた。しかし、時間の騒音にかき消されて、その言葉は聞き取れなかった。
二度目の逆行から戻った世界は、もはや彼女が知るソラリスではなかった。
ディソン球の一部が、古代ローマの遺跡のような、大理石の柱とアーチに置き換わっている。空には、翼竜に似た、しかし金属質の皮膚を持つ生物が飛び交っていた。それらは実際の古代生物ではなく、時間の歪みが生み出した、過去と未来の情報が混合した「時間合成生物」だった。
時間の侵食は、人類の歴史だけでなく、地球の全史を無作為に混ぜ合わせてしまったのだ。
そして、最も恐ろしい変化が、彼女の周囲の人間たちに起きていた。
エリナ・ストーン司令官。かつてはソラリス防衛軍の理知的な指揮官だった彼女が、今や冷酷な軍事独裁者と化していた。しかし、マリアには分かっていた。これは本来のエリナではない。
時間軸の変化により、エリナの人生そのものが書き換えられていた。本来の時間軸では、彼女は家族を時間嵐で失った悲しみを乗り越え、人々を守る使命感に燃える指揮官だった。だが、この歪んだ時間軸では、家族を失った怒りと絶望が彼女を支配し、権力への執着へと変貌させてしまったのだ。
エリナは、クロノス・ゲートの技術を独占し、自らの権力維持のために、時間を都合よく改変している。反対者は、時間軸から「削除」され、支持者は、過去に遡って有利な立場に「配置」される。
「反逆者、マリア・ヴァスケスを拘束せよ!」
エリナの肖像画が掲げられた街中で、マリアは指名手配犯となっていた。時間犯罪の首謀者として。
研究室に逃げ込んだ彼女を待っていたのは、デイビッドだった。しかし、彼の機械の目は、マリアを見ても何の感情も映さない。
「誰だ、君は? ここは機密区画だ。出ていけ」
この時間軸のデイビッドは、マリアを知らなかった。彼女の逆行が、二人の出会いという歴史さえ、消し去ってしまったのだ。
だが、さらに残酷な現実が、マリアを待っていた。研究室の片隅で、一人の少女が遊んでいる。八歳くらいの、快活な少女。
「アナ……?」
マリアは、震える声で呼びかけた。時間嵐で死んだはずの、彼女の娘。
少女は顔を上げた。その顔は、間違いなくアナだった。しかし、その瞳には、母親を見つめる愛情ではなく、見知らぬ他人を見るような、冷たい光が宿っていた。
この世界では、アナは生きている。だが、マリアは彼女の母親ではなかった。別の女性――研究室の助手をしている若い女性――が、アナの母親として存在していたのだ。
時間改変の皮肉。愛する者を救おうとした結果、彼女自身が愛する者から切り離されてしまう。
「ママ、この人誰?」
アナが、見知らぬ母親に向かって尋ねた。その言葉は、マリアの心に深い傷を刻んだ。
その時、研究室の扉が爆破され、武装した兵士たちがなだれ込んできた。彼らの装備は、ソラリスの防衛軍のものではなかった。未来的なデザインの、滑らかな黒い装甲。その表面には、複雑な量子パターンが明滅している。彼らは、時空の裂け目から現れたのだ。
「ターゲット、時間犯罪者マリア・ヴァスケスを確認。これより、時間軸からの完全排除を実行する」
兵士の一人が構えたライフルの銃口が、青白い光を帯びる。未来の軍事勢力、「テンポラル・ガード」。彼らは、マリアのような時間改変者を排除し、時間の流れを「正常」に保つことを使命とする、時間難民たちの組織だった。
彼らもまた、別の時間軸で自分たちの現実を破壊された犠牲者だった。しかし、その怒りと憎悪は、時間改変そのものに向けられている。彼らにとって、マリアは憎むべき「時間テロリスト」でしかない。
「伏せろ!」
デイビッドが叫び、マリアを突き飛ばした。この時間軸の彼にマリアとの記憶はないが、機械の目が捉えた彼女の時間的不安定性から、彼女が重要な存在だと本能的に理解していた。
その瞬間、ライフルから光線が放たれ、彼が先ほどまで立っていた床の一点を直撃した。だが、爆発は起きない。ただ、その一点だけが、奇妙に揺らぎ、そして、完全に静止した。まるで、映画の一コマを切り取ったかのように、空気中の塵さえも、その場所では凍りついている。
「時間固定武器……!」
マリアは息を呑んだ。着弾した物体を、因果律の連鎖から切り離し、永遠に時間を停止させる、恐るべき兵器。それに撃たれた者は、思考することも、存在することもできない、永遠の虚無に閉じ込められる。
銃撃戦が始まった。テンポラル・ガードの攻撃は、空間だけでなく、時間をも歪める。弾丸は未来から過去へと螺旋を描いて飛び、壁に命中する前に、既に爆発している。デイビッドは、研究室の防衛システムを起動させ、時間障壁を展開して応戦した。
「君の周囲の時間が、不安定すぎる。君は、この時間軸の存在ではないな?」
戦闘の合間に、デイビッドがマリアに問いかけた。彼の機械の目には、マリアの存在が複数の時間軸にまたがって震えているのが見えていた。
「話は後!」
マリアは、携帯型クロノス・ゲートを起動した。目標は、5秒前。
世界が巻き戻る。テンポラル・ガードの兵士が、引き金を引く直前の姿勢に戻った。マリアは、その寸隙を突いて、彼の足元に実験器具を投げつけた。兵士が体勢を崩し、放たれた光線は天井を撃ち抜いた。
5秒の逆行を繰り返し、未来予知のように敵の攻撃を回避する。それが、彼女の唯一の戦術だった。だが、そのたびに、激しい頭痛と、魂が削り取られるような感覚が彼女を襲う。
存在が、薄れていく。
短時間の逆行を繰り返すたびに、マリアの身体は半透明になっていく。彼女は、物理世界から徐々に乖離し、時間の狭間の存在へと変化していた。
なんとかテンポラル・ガードを撃退したマリアは、さらに過去へと遡ることを決意した。すべての謎の根源を突き止めるために。三度目の逆行は、一ヶ月前。
だが、三度目の逆行は、地獄のような体験だった。時空の歪みが蓄積し、時間の奔流は嵐と化していた。その中で、マリアは数えきれない「自分自身」と遭遇した。過去の逆行で生まれた、他の時間軸のマリアたち。
彼女たちは皆、同じ目的を持ち、同じ絶望を抱いていた。そして、互いを敵と認識していた。なぜなら、同じ時間軸に複数の「同一人物」が存在することは、時間の構造を根本から破綻させるからだ。
時間の奔流の中で、壮絶な戦いが繰り広げられた。未来のマリアは、現在のマリアを「失敗作」と呼び、消去しようとした。過去のマリアは、現在のマリアを「異端者」と糾弾し、時間軸から追放しようとした。
その混沌の中で、マリアは一つの真実を理解した。彼女は、唯一の存在ではない。無数の時間軸で、無数のマリアが、同じ運命に苦しんでいるのだ。
なんとか過去に到着したマリアは、そこで決定的な証拠を発見した。ソラリスのメインコンピュータ、その最も古い記録データ。ディソン球が建設された、100年前の記録。その中に、一枚の設計図が、極秘資料として保管されていた。
それは、クロノス・ゲートの、原型とも言える装置の設計図だった。そして、その設計図の署名欄には、彼女自身のサインが、鮮やかに記されていた。
さらに恐ろしいことに、その設計図の日付は、マリアが生まれる50年も前のものだった。
『あなたは、水ではない』
アーカイブの最初の言葉が、脳裏に蘇る。時の川を逆流する者は、川そのものに影響を与えてしまう。そして、川に影響を与えた結果が、また新たな逆流を生む。
真実が、パズルのピースのように組み合わさり始めた。時間逆行は、これが初めてではない。これまでにも、数えきれないほど繰り返されてきたのだ。そして、そのたびに、マリア自身が、未来の知識を過去の自分に伝授していた。
彼女は、自らが作り出した、永遠に続く因果の輪の中に、閉じ込められていたのだ。
そして、最も衝撃的な事実が、アーカイブによって告げられた。
『宇宙の熱的死は、自然現象ではありません。それは、繰り返される時間逆行によって、時空の構造が「固着化」した結果です』
画面に表示されたデータは、マリアの理解を超えていた。宇宙のエントロピー増大は、本来であれば数兆年かけて進行するはずの、非常に緩やかなプロセスだった。
しかし、時間逆行によって生じる時空歪曲が、そのプロセスを異常に加速させていたのだ。過去への干渉は、未来のエネルギー状態を「先取り」してしまう。その結果、宇宙全体のエネルギーバランスが崩れ、熱的死が急激に進行するのだ。
宇宙は、死にかけているのではない。殺されかけているのだ。マリア自身の手によって。
その事実を知った瞬間から、マリアの「存在希薄化」は、急速に進行した。
四度目の逆行の後、彼女は鏡に映らなくなった。光学的には存在しているが、認識されない存在。
五度目。彼女の手は、コンソールのキーをすり抜けるようになった。物理的な干渉が、困難になっていく。質量を持ちながらも、物質との相互作用を失っていく。
六度目。記憶の混濁が始まった。娘のアナの顔が、時々、靄がかかったように思い出せなくなる。自分が誰で、何のために時間を遡っているのかさえ、曖昧になっていく。
そして、七度目の逆行を終えた時、彼女は、他者から完全に認識されなくなった。彼女は、まるで幽霊のように、自分が作り変えてしまった狂った世界を、誰にも気づかれずに彷徨うだけの存在となった。
ただ一人、デイビッド・チェンを除いては。
この時間軸のデイビッドは、マリアとの個人的な記憶を持たない。しかし、彼のサイボーグの目は、通常人が認識できない量子的な揺らぎを捉えることができる。彼の目には、マリアの姿が、半透明で、輪郭が絶えず揺らいでいる、時空のシミのように映っていた。
「そこにいるんだろう?」
誰もいないはずの研究室で、デイビッドが呟いた。
「君は、誰だ? なぜ、そんなに哀しい量子スペクトルを発しているんだ?」
マリアは、彼の目の前に立っていた。声を出そうとしても、空気が震えるだけだった。彼女の存在は、この世界の物理法則から、切り離されようとしていた。
それでも、デイビッドは彼女を見つめ続けた。機械の目の奥に、温かい光が宿っている。
「君が何者であろうと、君は一人じゃない。僕には、それだけは分かる」
彼女は、ただ、涙を流した。その涙さえ、頬を伝うことなく、光の粒子となって霧散していった。
その時、マリアの意識に、新たな記憶が流れ込んできた。それは、彼女自身のものではない記憶。別の時間軸のマリア、さらに別の時間軸のマリア、数えきれないマリアたちの記憶。
彼女たちは皆、同じ道を歩んでいた。愛する者を失い、時間を遡り、世界を壊し、存在を失っていく。しかし、その最後の瞬間に、一つの真実に到達していた。
時間は、戻すものではない。創るものだ。