第一幕:破綻の始まり
西暦2087年。宇宙は、静かに死にかけていた。
かつて天文学者たちが予言した「熱的死」は、もはや理論上の概念ではなかった。宇宙の加速膨張はエントロピーの増大を無慈悲に促し、最後の恒星が燃え尽きて久しい今、その終焉は目前に迫っていた。宇宙背景放射の温度は絶対零度に向かって急降下し、あらゆるエネルギーは均一化され、意味のある活動が不可能になる「大凍結」まで、あと僅か。
人類は、その終末から逃れるように、地球を捨てていた。最後のエネルギー源である人工ブラックホール「ケロン」の周囲に建造された巨大なディソン球「ソラリス」。それが、人類に残された最後の箱舟だった。ケロンがホーキング放射で蒸発し尽くす時、人類の歴史もまた、完全に幕を閉じる。
だが、宇宙の死は、それだけでは終わらなかった。時空構造そのものが、その張力を失い始めていたのだ。過去、現在、未来の境界は曖昧になり、「時間嵐」と呼ばれる時空の歪みが、ソラリスの各所で頻発していた。それは、死にゆく巨人が上げる、断末魔の叫びにも似ていた。
テンポラル・ラボ7。ソラリスの中枢に位置するその研究施設は、人類最後の、そして最も傲慢な希望の砦だった。
「全システム、グリーン。クロノス・フィールドの安定を確認。エネルギー充填率、99.8パーセント」
冷静な合成音声が、ドーム状のコントロールルームに響く。中央に鎮座するのは、直径50メートルはあろうかという巨大なリング状の装置――時間逆行装置「クロノス・ゲート」だ。その表面には、理解を超えた幾何学模様が青白い光を放ちながら明滅している。
リングの内部には、髪の毛ほどの細さで編まれた量子もつれ導線が、複雑な立体パターンを描いて張り巡らされていた。これらの導線は、ケロンのホーキング放射から抽出したエネルギーを用いて、時空そのものを歪曲させる。時空の織り目を操作し、因果律の流れを一時的に逆転させることで、過去への干渉を可能にする――それが、クロノス・ゲートの基本原理だった。
マリア・ヴァスケス博士は、コンソールに表示される複雑な数式の列を、祈るような思いで見つめていた。42歳。量子時空物理学の分野で、彼女の右に出る者はいない。だが、その瞳の奥には、天才科学者の輝きとは別に、深い喪失の影が刻み込まれていた。
五年前――。
あの日の記憶は、今も鮮明に脳裏に焼き付いている。ソラリスの第7居住区で突如発生した、過去最大級の時間嵐。時空の歪みは半径500メートルの範囲を呑み込み、その内部にいた3,847名の住民を、時の狭間に消し去った。
夫カルロスは、気象制御システムの技師として、嵐の制御に当たっていた。八歳の娘アナは、その日たまたま学校見学で第7区を訪れていた。
マリアは、研究室から慌てて駆けつけた。だが、救助チームが到着した時、そこには何もなかった。建物も、人々も、すべてが、まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消失していた。残されたのは、時空の歪みで融解したアスファルトと、カルロスの最後の通信記録だけ。
『マリア……愛している……アナを……守れなくて……すまな』
通信は、そこで途切れていた。
時間そのものに、彼女は愛する者たちを奪われたのだ。この研究は、人類を救うためのものであり、同時に、彼女個人の復讐でもあった。
「マリア、本当にやるのか?」
背後からかけられた声に、彼女はゆっくりと振り返った。デイビッド・チェン。彼女の研究パートナーであり、このプロジェクトに不可欠なAI「オラクル」の創造者だ。38歳。彼の身体の左半分は、光沢のある金属と生体組織が融合したサイボーグとなっている。
デイビッドの機械の目――左眼に埋め込まれた多層センサー――は、通常光だけでなく、量子レベルの時空歪曲パターンさえ捉えることができた。その視界には、常人には見えない世界が映し出される。空気中を漂う時間粒子の軌跡、人々の生体エネルギーが織りなす光の網、そして、過去や未来から漏れ出す微弱な時間エコー。
その特殊な能力を得た代償は、あまりにも重かった。
七年前、マリアが実験室で爆発事故に巻き込まれた時、デイビッドは自らの身体を盾にして彼女を庇った。爆発の衝撃で彼の左半身は粉砕され、通常の医療技術では救えなかった。唯一の治療法は、最新のサイボーグ技術による身体再構築。だが、その手術は、彼の人間としてのアイデンティティの一部を、永遠に奪い去った。
彼は今でも時折、存在しない左手の感覚に悩まされる。人工神経が送る完璧な触覚情報の向こうに、失われた生身の記憶が、幻痛のように疼くのだ。
それでもなお、デイビッドはマリアのそばにいた。彼女を護ると決めたあの日から、彼の心は変わらない。
「やるしかないのよ、デイビッド。このまま座して死を待つくらいなら、私は神にだって喧嘩を売るわ」
彼女の言葉には、微塵の揺らぎもなかった。
「神はサイコロを振らないと言ったのはアインシュタインだったか。だが、君は宇宙そのものをルーレット盤に乗せようとしている」デイビッドは静かに言った。「オラクルの予測では、成功確率は17パーセント。残りの83パーセントは、予測不能な時空災害を引き起こす可能性を示唆している」
「17パーセントもあれば十分よ」
マリアはクロノス・ゲートを見上げた。今回の目標は、24時間前への逆行。ほんの少しだけ過去に干渉し、ケロンのエネルギー消費パターンを最適化することで、宇宙の熱的死をわずかでも遅らせる。それが、この壮大な実験の、ささやかな第一歩だった。
実験開始まで、あと60秒。張り詰めた空気が、ラボを支配する。その時、コントロールルームのメインスクリーンに、一つのシンボルが浮かび上がった。無限を象った、滑らかなループ。全時代の知識を集積した量子AI、「アーカイブ」からの通信だった。
『時の川を逆流する者よ』
アーカイブの声は、性別も感情もない、純粋な情報の響きを持っていた。彼は宇宙のあらゆるデータを収集し続ける「純粋観察者」として設計されたAI。どれほど重大な事象が起きようとも、彼は干渉することなく、ただ記録するだけの存在だった。
『水は自らの源へと還ろうとする。だが、あなたは水ではない』
「……また謎かけか」デイビッドが眉をひそめた。「実験の直前に、不吉なことを」
「気にするな」マリアは首を振った。「アーカイブは、ただ確率の高い未来を詩的に表現しているだけよ」
だが、その言葉は、マリアの心に小さな棘のように突き刺さった。水ではない――その意味するところが、彼女にはうっすらと理解できた。彼女は時の流れを遡ろうとしている。だが、魚が水を逆流できるように、人間が時間を遡ることができるのだろうか?
「カウントダウン開始。10、9、8……」
マリアは、コンソールの起動キーに手を置いた。脳裏に、娘アナの笑顔がよぎる。あの無邪気な笑い声。『ママ、大きくなったら科学者になって、パパと一緒に星を作るの!』――。
「……3、2、1。クロノス・ゲート、起動!」
マリアがキーを押し込んだ瞬間、世界は光と轟音に呑まれた。
クロノス・ゲートが、太陽の千倍もの輝きを放った。量子もつれ導線の一本一本が、虹色のプラズマとなって燃え上がる。想定を遥かに超えるエネルギーがリングの中心に収束し、空間がガラスのようにひび割れる音が響き渡る。
時空織り目解析装置の警告音が、甲高く鳴り続けた。時空歪曲率が許容値の300パーセントを突破し、因果律定数が不安定化している。
「緊急事態! 時空安定指数が臨界点を突破!」デイビッドが叫んだ。「マリア、実験を中止しろ!」
だが、もはや手遅れだった。ゲートの中心に、漆黒の亀裂――「テンポラル・リフト」が口を開けた。それは、過去と未来を繋ぐ、禁断の傷口だった。時間そのものが、その一点で破綻していた。
次の瞬間、コントロールルームは混沌の坩堝と化した。
床から、見たこともない巨大なシダ植物が、まるで早送り映像のように生えてくる。三億年前のデボン紀の原始植物だ。その葉には、現在の地球には存在しない、古代の胞子が輝いていた。天井からは、錆びついた鉄骨やコンクリートの塊が、無重力のようにふわりと降ってきた。未来の、廃墟と化したこのラボの残骸。マリアは、その破片の一つに刻まれた年代を読み取った――西暦2157年。
「ケンジ!?」
研究員の一人が、悲鳴に近い声を上げた。彼の視線の先には、二年前に時間嵐で死んだはずの同僚が、血色の良い若い姿で、呆然と立ち尽くしている。過去からの、生きた幻影。
そして、マリア自身にも、信じられない現象が起きていた。ふと自分の手を見ると、そこには三つの手が重なっていた。今の自分の、研究で荒れた手。華奢で、結婚指輪が輝く、二十代の頃の手。そして、深い皺が刻まれた、老婆の手。彼女の存在が、同時に三つの時間軸にまたがってしまったのだ。
三つの異なる時間軸からの記憶が、脳内で激しく衝突する。若い頃のデートの記憶、カルロスとの結婚式、まだ見ぬ未来の絶望――すべてが一度に押し寄せ、意識が砕け散りそうになる。
「うっ……!」
激しいめまいと吐き気に、マリアはその場に膝をついた。頭の中に、知らない記憶が洪水のように流れ込んでくる。
銀色の砂漠で、巨大な機械と対峙する自分。宇宙船の操縦席で、見知らぬ星系を見つめる自分。そして、デイビッドに似た誰かが、光の粒子となって消えていく光景――。
「マリア、しっかりしろ!」デイビッドが駆け寄り、彼女の肩を支えた。「ゲートが暴走している! このままではラボ全体が時空の特異点に飲み込まれる!」
絶望的な状況。だが、マリアの目は死んでいなかった。彼女は、震える手で腕に装着された小型デバイスを操作した。携帯型クロノス・ゲート。非常用の脱出装置だ。直径わずか5センチの小さな円盤だが、その中には大型ゲートと同じ技術が凝縮されている。
「……戻るしかない。24時間前に……この惨事を、止めるために……!」
「無茶だ! 小型ゲートでの単独逆行は、存在希薄化のリスクが――!」
「これが、私の研究の結論よ!」
マリアはデイビッドの手を振り払い、デバイスを起動させた。視界が、青白い光に包まれる。時間の奔流が、彼女の意識を過去へと引きずり込んでいく。
最後に見えたのは、デイビッドの機械の目に映る、悲痛な光だった。
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意識が浮上した時、マリアは同じコントロールルームの床に倒れていた。だが、周囲の光景は、先ほどまでの悪夢とは違っていた。原始植物も、未来の瓦礫も、死んだはずの同僚もいない。すべてが正常だった。
「……成功した」
マリアは安堵のため息をつき、身体を起こした。時計を見る。時刻は、大規模実験が開始される、ちょうど24時間前。
「大丈夫か、マリア? 顔色が悪いぞ」
聞き覚えのある声に顔を上げると、そこにいたのは24時間前のデイビッドだった。彼の身体は、まだ完全に人間のものだ。左半身がサイボーグ化される前の、懐かしい姿。
だが、マリアは違和感を覚えた。この時間軸のデイビッドには、あの事故の記憶がない。彼女を庇って身体を失った、あの献身的な行為の記憶が。
「ええ……少し、疲れただけ」
マリアは、動揺を悟られまいと平静を装った。しかし、心臓は激しく鼓動していた。彼女は、禁断の果実を口にしてしまったのだ。
自分の研究室に戻ったマリアは、すぐにコンソールを起動し、実験データのログを調べ始めた。あのエネルギー暴走の原因を突き止め、未来を変えなければならない。
だが、ログを開いた彼女は、凍りついた。そこには、彼女自身が入力した覚えのない、膨大な量の追加データが存在していたのだ。それは、クロノス・ゲートの改良案や、暴走を回避するための新しい数式。どれも、今の彼女が思いつきもしない、数世代先の理論に基づいていた。
その中でも特に目を引いたのは、「存在希薄化現象に関する理論的考察」と題された文書だった。そこには、時間逆行を繰り返すことで、逆行者の存在そのものが不安定化し、最終的には現実世界から消失してしまう危険性が、数式付きで詳細に記述されていた。
『誰が、これを……?』
その時、コンソールに一通のメッセージがポップアップした。送信者は、カルロス・ヴァスケス。五年前に死んだ、彼女の夫からだった。
『マリア、君は間違っている。時間を元に戻そうとしてはならない。それは罠だ。ループから抜け出すんだ。愛している』
血の気が引いた。死んだはずの夫からの、未来を予言するようなメッセージ。しかも、送信時刻は、彼が死んだ日時よりも後になっている。
震える指で、彼女はアーカイブにアクセスした。
「アーカイブ、現在の状況を報告せよ」
メインスクリーンに、無限のシンボルが浮かび上がる。
『テンポラル・ラボ7へようこそ、マリア・ヴァスケス博士。記録によれば、あなたは、今回で3人目の訪問者です』
マリアは、言葉を失った。
『過去の訪問記録を表示しますか?』
彼女は、震えながら頷いた。
画面に映し出されたのは、同じ研究室の映像だった。だが、そこにいるのは、現在の彼女とは微妙に異なるマリアだった。髪型が少し違い、着ている服も異なる。そのマリアは、激しく取り乱した様子で、何かを叫びながらコンソールを操作している。
次の映像では、さらに別のマリアが映っていた。この女性は、現在の彼女よりもずっと疲れ切った表情をしている。そして、その背後には、今まで見たことのない、不可解な装置が設置されていた。
彼女が戻ってきたのは、「正常な過去」ではなかった。ここは、既に何度も書き換えられた、時空の迷宮の入り口だったのだ。
マリアの脳裏に、アーカイブの最初の警告が蘇る。『水は自らの源へと還ろうとする。だが、あなたは水ではない』
時の川を逆流する魚は、川の流れを変えてしまう。そして、変わった川は、もはや元の川ではない。