6話 ラーメンは『だし』が命
* * *
「はい、どうぞ。だしラーメン一つね」
「あ、ありがとう……ございます」
学食のおばちゃんから、注文していた料理を受け取りトレーに乗せる。近くに設置してある胡椒を少しふりかけて、それから箸とレンゲを一つずつ取れば準備は完璧だ。
あとは空いている席を適当に見つけて、心行くまでこの『だしラーメン』を堪能するのみ。
私、未綴語は絶賛お昼ご飯の時間である。
幸運なことに、お気に入りの窓際の席が空いていたので、そちらに腰を下ろす。
ふぅ、と一息ついてから「いただきます」と小さく呟く。まずはスープを一口。
(美味しい! 今日も生きていてよかった)
安い幸せである。
だが、誰に何と言われようと、私はここの『だしラーメン』が大好きだ。
以前、調理工程を覗き見たところ、学食メニューの中にある『きつねうどん』と同じお鍋からスープを取っていたのを確認した。
つまり、このラーメンはきつねうどんの麺を中華麺に変更しただけの料理である。その証拠として器の中にはこれでもかと存在を主張する『おあげ』さんが鎮座していた。
(この出汁の旨みが麺に絡む感じが、やっぱり良いんだよね)
私は一人で満足げに頷きながら箸を進めた。
その時にふと思いつく。
(待って。色々と心配していたけど、【巻き込まれ体質】の機能をOFFにすれば解決するんじゃ……)
そう思って、私は先刻同様に頭の中で念じた。それはもう切実に、何度も、何度も。
だが、答えは“沈黙“。要するに不可能ということだろう。それはそうだ。あの女神フラダリは、私の物語を面白くしたいのだろうから、そのために必要な役力までOFFにできるわけがない。
先ほどまでの安い幸福はどこへやら。私は落胆しながら、続きの麺を啜った。
* * *
チケは己の死を悟った。
目の前の少女にはどう足掻いても勝てっこない。
(まさか『厄災』の正体が、こんな人間の――しかも女の子だなんて。聞いてないよ……)
レーダーの反応が振り切っている。あまりに膨大な魔力を前にして装置の性能が耐えきれていないせいだ。
こんな魔力の塊を内包した少女が、自分を見下ろしている。その事実に息を呑むことすら忘れる。
(わたし、ここで死ぬのかな……なんとか、見逃してくれたりは……)
相手は姿形こそ人間であるが、はたして見た目をそのまま信じてよいものか。チケの目には化け物として映っていた。対話という選択肢はすでにない。
少女――園香は相変わらずの笑みを顔に貼り付けたまま。チケに人差し指を向けた。
「《バインド》……」
それだけ呟くと、チケを中心に光の輪が三つ現れる。かと思えば次の瞬間にはそれらが縮み、チケの体を縛り上げた。
「ぅえ゙、ぅぅあ゙……」
絞まる、絞まる。光の輪が肺を押し潰して、中の空気を全て絞りとる。あともう少しで肋骨が砕ける寸前まで縮み、ようやく止まった。
「はい、息を吸って〜」
今度は輪が広がる。
チケは声にならない叫びを上げ、身体が勝手に空気を求めて肺を膨らませた。嗚咽と涙が止まらない。冷や汗が全身を覆う。
「はい、吐いて〜」
また絞まる。まだ新鮮な酸素を体内に取り込みきれないうち、無理矢理すべての空気を奪われた。
チケの心臓が爆発しそうなくらいに拍動を続ける。なんとか残りの酸素を体に行き渡らせるために懸命に血を巡らせているのだ。
――これ、死ぬやつだ。
激しい頭痛に伴い意識が朦朧としはじめる。
チケの全身から力が抜けた。もがくためのエネルギーが残されていないため、無意識に命を諦めはじめたのだ。
「また、吸って〜」
そこにまたしても希望をぶら下げられる。園香の声に合わせて光の輪が広がったのだ。
何も考えずとも、身体が勝手に空気を取り込みはじめた。荒く不規律な呼吸で命を繋ぎ止めて、口の中に滲み出た血の味にようやく気付いた。
「こんなものでいいかしら。
そろそろ私のことを探りに来た理由でも聞かせてもらおうかしら」
園香がゆったりとした足取りで階段を降りてくる。地面にうつ伏せになって倒れ込むチケは、その足を視界の隅に確認した。
「ま゙、ま゙っで……わ、わたし、話があるの」
かろうじて絞り出した声は、震えていた。唇がうまく動かない。舌が痺れて、自分の言葉すら聞き取れないほどだった。
「……た、たすけて、じゃない。そ、そうじゃなくて……そ、そう。交渉、そう! 交渉を……させて、ください……!」
息を吸うたびに肋骨が痛んだ。肺の奥に熱いものが渦巻く。けれど、それでも――話さなければ、本当に終わってしまう。
「わ、わたしは……あなたの敵じゃない! あの、世界を救うために来たの。名前はチケ・シュタール。た、たぶん、きっと……あなたの敵じゃない……」
園香の足が止まる。チケの目の前、あと数歩で踏み潰されそうな距離にそのつま先があった。
「ね、お願い……魔力レーダーを使ったのは、装置の動作を確認するためで。
わたし、あなたの正体とか知らないし、あなたのこと、探るためとかじゃ、ないんです。なんでこんなすごい魔力を持ってるのかも分からない。でも……」
視界が滲む。言葉にしようとするたび、心が折れそうになる。けれどチケは、ぐしゃぐしゃの顔のまま、必死に続けた。
「でも、話せば……わたし、分かり合えるって、信じたいの!」
園香は無言のまま、チケを見下ろしていた。
冷ややかな視線。けれど、その眼差しにはほんの僅かに――何かの変化があったようにも見えた。
チケは続ける。もう、これで最後かもしれないと思いながら。
「あなたは、わたしをすぐには殺さなかった……
少なくとも理由なく誰かを殺す人じゃ、ない」
賭けだ。園香をある程度の良心をもつ人間として扱うことで、慈悲を乞うための賭け。彼女はまだこの時間軸において『厄災』ではないはずだから。
これで園香の正体が純粋な悪魔そのものであれば、チケはこの後に容赦なく殺されることだろう。
「色々頭を働かせているところ悪いけれど。
私の座右の銘は『疑わしきは罰せよ』なのよ」
「ぞんな゙ぁ゙〜」
彼女は悪魔であった。
もう涙を我慢することはできない。
チケは今度こそ己の死を悟った。もうどうにでもなれと地面に突っ伏して、ぎゅっと目を閉じる。
だが、次に感じた感覚は痛みや苦しみではなく、彼女を包む温かな蜜の香りであった。
顔を上げると、先ほどまで庭を舞っていた蒼いアゲハ蝶が集まり、彼女の周りに淡く優しいベールのような光を創り出していた。
「これ以上は見過ごせない。
蝶の魔術師――シャンカイが、これより君を護る礎となろう」
蝶の一匹が光に包まれたかと思うと、やがて青年の姿に変わる。茶色の長髪を後ろでまとめて、蒼いローブを身に纏った不思議な男だ。
名をシャンカイという。
彼は園香の前に立ちはだかり、少しだけ後ろを振り返りチケに優しい笑みを見せた。
「大丈夫、ボクが君を死なせないよ」
チケの心臓が爆発しそうなくらいに鼓動を打つ。
「す……」
「……す?」
「す、す……」
「?」
「好きぃ」
恋に落ちた瞬間であった。
シャンカイはその表情を苦笑いに変えて「困ったなぁ」と呟く。
「ここにはお気に入りの『だしラーメン』を食べにきただけなんだが。前も後ろも、妙なことになってしまった……」
災難な男である。




