2話 勇者召喚
* * * * * *
炭火のような匂いに混じり、油を焦がした匂い――そして、血の匂いが濃密に辺りを満たしていた。
この匂いを、知っている。
これは『死』の匂いだ。
人も、獣も、草木さえも――“生”あるものすべてが無慈悲に焼かれ、絶えていく時の残滓。
兄である魔王ティリムに追われ、王都から逃げ延びた先。匿ってくれた地方貴族の街が焼かれた――あの日と、同じ匂いだった。
ミミアは直感的にそれを理解し、飛び上がるようにして目を覚ました。
「こ、ここは……どういうことじゃ! リリアお姉様は、いったい……」
目の前に広がるのは焼け野原。いや、野原ではない。
焼けて朽ちた木々の残骸があちらこちらに転がり、クレーターのような破壊痕が点在している。これは森が焼き尽くされた……この世界では、ありふれた“戦場の跡”だ。
「我はいったい……なぜ、こちらの世界にいるのじゃ」
ミミアの呟きが示す“こちらの世界”とは、すなわち――彼女の故郷、アルトリネアのこと。
しかも荘厳な街並みや豊かな緑の中ではなく、戦火の中心。悪夢のような光景の真っただ中である。
「そ、そうか……さてはセイチェが、我らを逃すために魔法を使ったのじゃな」
直前の記憶が蘇る。
リリアを捕らえた悪魔の如き強さを持つ男に、手も足も出ず、最後には脇腹を撃ち抜かれた感触。
はっとして脇腹に手を当てるも、そこに傷跡はなく、痛みも感じなかった。
(ふむ……どうやら彼奴の攻撃で、纏っていた魔力の層を撃ち剥がされ、魔力切れで意識を失うたようじゃな)
身体を貫かれたと錯覚するほどの衝撃――だがそれは、防御に使った魔力が砕かれた反動だったのだろう。どうやら、肉体そのものには損傷はないようだ。
「さて、と」
ミミアは立ち上がり、周囲の状況を確認しようとした。
そのとき、背後に気配を感じ、反射的に振り返る。
「――何者じゃ!」
「――っと、と。待て待て、ミミア。俺だよ」
「ッ……た、拓未じゃったか。すまぬ」
ミミアが攻撃しかけた手を止める。
拓未はふぅと息を吐き、疲れを滲ませた声で言った。
「ようやく見つけた。これで三人目だ」
「三人目?」
ミミアが首を傾げると、拓未は重苦しい表情を浮かべた。
「ああ。どうやら俺たちは、この世界にバラバラに転移したらしい」
「バラバラ……じゃと?」
「ああ。今はリーナちゃんと、怒り心頭で口を利いてくれない嬢ちゃん、そしてミミア……これで三人目だ。
残りはセイチェさんと、語ちゃんがまだ見つかってない」
ミミアが小さく息を呑む。
「待て、待つのじゃ。リリアお姉様は……お姉様は、どうなったのじゃ」
「あ? ――いや、そうか。お前は気絶してたから見てないよな」
拓未は目を逸らし、罰が悪そうに口を尖らせた。その仕草を見て、ミミアは嫌な予感を覚える。
そして――その予感は、的中した。
「捕らわれていたお前の姉さんだけどな。残念ながら一緒に逃げることはできず、今どうなってるのか……俺たちにも分からん」
「そ、そんな……いや、じゃが……」
セイチェがその決断を下したのか?
ミミアはほんの一瞬、己の側仕えを疑った。
だがすぐに、その決断を迫らせた自分の不甲斐なさを呪い、唇を噛む。
(そうか……セイチェよ……すまぬ。我は其方に、このような決断を委ねてしもうたのか……)
咄嗟のこと、魔力の制御もままならない状態での“異界渡り“だ。特定の者を指定して発動するのではなく、魔法陣の範囲内で効果をもたらす魔法。リリアに魔法をかけたくば、金倉を範囲外に追いやらなければならない。だが、それができる程の余裕はなかった。
きっと、苦しい判断だったに違いない。それでも最後に、主である自分を選び、守ってくれた――そのおかげで、今の“生”がある。
(すまぬのじゃ……すまぬのじゃ……)
自然と、頬を伝う雫。
拓未がそれに気づき、見ないふりをして背を向ける。
ミミアは、その背中にわずかに身を預けた。
(我は、またしても……負けてしもうたのじゃ。
またしても、逃げてしもうたのじゃ。
我は、我は弱い。弱いゆえに、何も守れたことがないのじゃ……)
敗北者。
それが、己の人生に与えられた役割――そうに違いないと、思わず拳を握りしめる。
これは遊びでも、鍛錬でもない。本気の戦争。本気の奪い合い。本気の勝負。そのすべてにおいて、ミミアは一度として“本物の勝利”を掴んだことがなかった。
(もっと、もっと強くなりたいのじゃ……お父様。
我は、どうすれば良いのじゃ……)
脳裏に浮かぶのは、父の姿。
何者をも力でねじ伏せ、しかし義に厚く、歴代で最も偉大な王と謳われた男――その背中。
(お父様は……どうして我に、短剣を授けたのじゃ……どうして……)
その問いに答える声は、どこにもなかった。
ミミアは、涙が枯れるまで自問を繰り返した。
* * *
しばらく戦場跡を進むと、ようやくまだ焼けていない森が見えてくる。
焦げた風の中に、かすかに木々の息づかいを感じて――ミミアは思わず駆け出した。
「リーナ……リーナは、どこじゃ……」
ただ、生きていてほしかった。
もうこれ以上、仲間の死を見たくない。
その一心で木々の間を抜け――そして、見つけた。
「リーナ!」
しかし、足が止まる。
地面に横たわるリーナは、苦しそうな寝息を立てていた。額には大粒の汗……頭の下には衣服で作った簡易的な枕。短くなった腕には包帯が巻かれている。治癒魔法で止血は済んでいるはずだが、誰かが丁寧に応急処置を施したのだろう。
「………………」
言葉が出ない。
そんなミミアの頭に、拓未がぽん、と手を置いた。
「ミミア、お前のせいじゃない。俺たち全員で挑んだ結果だ。お前だけが痛みを背負うな」
「……………………うむ」
「それでいい」
また泣き出しそうな顔をしていたミミアだが、拓未の言葉に、ぐっと唇を噛みしめて頷く。
その時、リーナの側の木陰から、黒髪の少女が姿を現した。
「遅かったじゃない」
「すまない、園香ちゃん」
「……それ、気持ち悪いからやめて。呼ぶなら苗字にして」
「そ、そうか。わかった、渡代の嬢ちゃん」
「妙な呼び方もやめて」
「お、おう……」
拓未が渋々呼び方を変えると、少女――渡代園香が溜息まじりに会話を続ける。
「それで、語ちゃんと、あのメイドはまだ見つかりそうにないの?」
「ああ、さっぱりだ。セイチェさんがいないと、俺たちは元の世界に戻ることすらできない。
語ちゃんも一人だと心配だ……何としても二人を探し出さないとな」
拓未がそう思案していると、ミミアが俯きながらも言葉を紡ぐ。
「すまぬが、一つだけ我から告げねばならぬことがあるのじゃ」
「あなたは……確かミミアって言ったわね。どうしたのよ?」
「うむ……実は、セイチェの“異界渡り”の術なのじゃが――一度使うと、次の使用までに数ヶ月は魔力を溜め続けねば発動できぬのじゃ。
まして今回は、六人を対象とした無理な転移。次に発動できるのは……半年後か、一年後かもしれぬ」
その言葉に、場の空気が凍りついた。
園香が険しい顔になり、ミミアの側まで歩み寄る。
「……私の魔力をあげても、どうにもならない?」
「うむ。あの術は、ある程度の月日をかけてゆっくりと魔法陣に魔力を注ぎ込み、発動させる大魔法。そう設計されてある以上、外部から余剰な魔力を授かったとしても、発動用の魔力としては使用できぬのじゃ」
ミミアが首を振ると、園香はますます眉間に皺を寄せた。
「そう……それじゃ、他の術者はいないの?」
「ほ、他かの……居ないこともないのじゃが、急がねばならぬ理由があるのか?」
「――当たり前じゃない! リリアが待っているんだからっ!」
園香が怒りに任せて声を張る。
その言葉の意味を一瞬理解できず、ミミアは呆然とした。
「…………お、お姉様が?」
「そうよ。あなたの家族が、向こうの世界で私たちの助けを待っているはず。だから、こんなところに長居している場合じゃない」
「そ、それは、どういうことなのじゃ?」
ミミアが困惑していると、拓未が助け舟を出すように補足する。
「ミミア……お前の姉さんだが、どうやら渡代の嬢ちゃん曰く、まだ生きているらしい。
あの男――金倉の気まぐれなのか、何か生かされている理由があるのか、さっぱりだが……」
「なっ……! いや、しかし、なぜそのようなことが分かるのじゃ?」
「そこの嬢ちゃ……渡代さんが、リリアさんに魔法で加護を与えていたらしい。その加護の繋がりがまだ存在している――だから、生きているのは間違いないそうだ」
「ま、まことか!」
思わず目を見開き、園香へとしがみつくミミア。希望と困惑が入り混じるその瞳は、ルビーとエメラルドの光を宿して輝いた。
「お、お姉様は、まだ、生きておるのか!」
「そうよ。いつまで生かされているかは分からないけれどね。だから、私たちは一刻も早く助けに戻らなきゃいけない……」
園香の言い分はもっともだ。
だが、現状に潜む絶望が、それだけではないとミミアは理解していた。
「わ、分かったのじゃ。しかし、セイチェが術を使えないとなると……エドリアス家の当主、ベギアンに頼むしかあるまい」
「へぇ……それじゃ、さっさとそいつのところに案内してくれる?」
「そ、それは……無理なのじゃ。ベギアンはおそらく、我の兄であり、魔王である――ティリムに捕らえられておる。奴を倒さねば、ベギアンに会うことは不可能じゃ……」
それは、魔王を撃ち破るということ。
今のミミアには、玉座に君臨する兄を地に引き摺り落とす未来が想像できなかった。
だが、園香がその不安を一蹴してみせる。
「それがどうして無理になるのよ。どのみちリリアを助けるためには、その方法しかないんでしょ? だったら、やるしかないじゃない」
「そ、そんな簡単なことではないのじゃ……兄上は、その実力の底が見えぬお方なのじゃ……! もしや、あの金倉という男よりも、強いやもしれぬ」
「はぁ? あの男も抹殺しようって話してるのに、その男より少し強いかもしれない奴にビビってどうするのよ。どっちも火炙りにして、地獄を見せてやるんだから……」
力強く宣言する園香。
その言葉に、ミミアははっと息を呑んだ。
(そ、そうじゃ……その通りじゃ、何を弱気になっておる、ミミア・コルペリオン! 我は、我は魔王になるのじゃぞ!)
幼き日の誓いが脳裏に蘇る。
こんなところで怯えていては、父に顔向けできない。
一度や二度の敗北で、挫けてたまるものか。
そこに希望がある限り、そこに大義がある限り、己の命ある限り――全てを賭して貫かねばならぬ。
「……わ、分かったのじゃ! 我も戦う……戦って、兄上を討ち、我が手で魔王の座を取り戻す!」
熱を帯びた決意表明。
しかし、園香が冷めた目で応じる。
「はぁ? 魔王を討ち取るのは勇者の役目よ。つまり私。ちびっ子は大人しく絵本でも読んでなさいよ」
「なっ、ち、ちびっ子じゃと?! 言わせておけば、この鬼ダルマめ!」
「へぇ、私が鬼みたいな“可愛いもの”に見えているのね?
もっと恐ろしい存在であることを、あなたの身体に刻みつけてあげようかしら?」
そんな応酬が始まったところで、拓未が慌てて割って入る。
「待て待て、何を喧嘩してんだよ……とりあえず今後の方針が決まったんだから、それでいいだろ」
「と、止めるでない、拓未よ!」
「ちびっ子は事実だろ。止めるよ、お前が殺されたら困るし」
「な、なんじゃと……」
ミミアがショックを受けて固まり、園香が満足げに微笑む。
「それで、今後の方針だが――俺から改めてまとめさせてもらうぜ?」
そう言って拓未が三本の指を立て、ニヤリと笑う。
「ひとつ、セイチェさんと語ちゃんを見つけて合流すること。
ふたつ、魔王ティリムを打ち取り、彼に捕らわれたベギアンという人物を奪還。
みっつ、地球に帰って金倉をぶっ飛ばす。――それでリリアさんを取り戻して、ハッピーエンドだ!」
口に出せば簡単。
だが、その実、恐ろしく無謀な挑戦である。
それでも――この場に、否定する者は一人もいなかった。
「や、やってやるのじゃ……我が、この世界を取り戻し、リリアお姉様を必ず救う……!」
ミミアの再誓に、拓未が力強く頷く。
だが、ふと何かを思い出したように、園香へと振り向いた。
「……ところで渡代さん。あんた、さっき自分のことを“勇者”って言ったか?」
「ん? 言ったけど、それがどうかした?」
「…………マ、マジか。そうか。そうなのか」
拓未は、乾いた笑みを浮かべた。
その横で、ミミアが目を見開いたかと思えば、がっくりとうなだれる。
「う、嘘じゃ……嫌なのじゃ……まさかこんな形で、ずっと探しておった勇者に出会うなんて……我は、我は絶対に認めんのじゃ……」
そういえば――ミミアは地球で、勇者の協力を求めて彼女を探していたのだった。その話の中では勇者の名を『綿次郎』と呼んでいたが、なるほど『渡代』の間違いであったらしい。
拓未は今さらながらその事実を思い出し、数奇な巡り合わせに天を仰ぐ。
「……ダメだ、こいつら……」




