1話 死者の森
* * * * * *
「――ぁ、ぁぁぁぁ……ぁぁぁァァ」
――誰かの、啜り泣く声が聞こえる。
それはまるで、夜明け前の霧の中に置き去りにされた鈴の音。震えるように細く、風にさらわれるたび、胸の奥に小さな棘を残していく。
遠くで水が流れている気配。湿った土の匂い。どこからともなく、花の香がひとひら漂って。
その声は、まるで世界そのものが泣いているかのようで――私は、夢と現のあわいに取り残されたまま、ゆっくりと瞼を開いた。
「あれ……私、どうなって……?」
直前の記憶は、遊園地の閉鎖されたアトラクション施設の中。その一室にて、魔王のような男と対峙していたもの。リリアを捕らえられ、園香たちと一緒に彼女を取り戻そうと挑み――そして完膚なきまでに敗北した。
“あの瞬間”――光に包まれた私は、もしや死んだのだろうか。ここは、死後の世界?
「…………痛い」
ありきたりな方法だが、頬を抓って確認してみる。
確かな痛みが、私に命の在処を教えてくれた。
「う、うそ…………」
つまり。目の前の光景はどうやら夢でも死後の世界でもないらしい。改めて視界をぐるりと一周させてから、思わず息を飲んだ。
そこは、テレビの中でしか見たことのないような世界だった。いや、こんなものはテレビでさえ見たことがない。
幹の太さが家屋ほどもある巨木が、何本も天へ向かってそびえ立つ。樹皮は蒼色の苔のようなものに覆われ、幾千もの蔦が垂れ下がっている。
淡い光を放つ羽虫が漂い、鮮やかな羽根を持つ鳥が枝の間をかすめて飛び去っていく。地面を見れば、見知らぬ形の小動物が、私を一瞥しては逃げ去った。
どこまでも深く、どこまでも神秘的な。
――この世のものとは思えない森の真ん中。
その中心で、金糸のような髪を地面に垂らし、顔を押さえながら震えている人影を見つける。セイチェさんだ。
「せ、セイチェ……さん?」
軽い呼びかけ。
けれど彼女は、私の声に気づいているのかどうかもわからない。うずくまり、肩を震わせながら、嗚咽をこぼし続けていた。
「ぁぁぁぁ……ぁぁ……ぁぁぁぅ……」
「セイチェさん……?」
「ぁァァア、ぁぁ、……ぁ……リリア様ぁぁ……」
「せ、セイチェさん!」
「ぁぁぁぁ……ぁぁぁ……ぅぁぁ……ゃぁぁ……」
悲しみが、言葉の形を失って零れ落ちている。誰も、今の彼女に触れてはいけない。そう思えるほどに繊細で、砕け散りそうな……ひび割れたガラス細工を連想させた。
……私は、声の掛け方が分からずに、伸ばしかけた腕を静かに下す。
セイチェさんのことを、私は深く知らない。
ミミアに仕えるメイドで、毅然とした態度が似合う女性。けれど、主に対してはどこか甘くて、その言葉には少し大袈裟なくらいに賛同してみせる――そんな人。
私の中で形成された“彼女の像”が、しかし目の前で泣きじゃくる女性と、どうしても重ならなかった。
(なんで、そんなに泣いているの……?)
ここまで彼女の感情を揺さぶるものは何なのか。
察するに、私がこうして生きているのは、セイチェさんが何かの魔法でこの場所まで転移させてくれたからだ。
そうでなければ、きっと私たちは――死んでいた。
だから、目論見が成功したならば安堵してもいいはずなのに。なぜ、泣いているのか。理解できなかった。
――必死に頭を巡らせる。
そのとき、ふと目の前に桃色の花びらが落ちてきた。
風に乗って舞い、淡い香りを残して、そっと地に触れる。次の瞬間、その花は黒く澱んだ未知の虫に呑み込まれた。
(…………………………ぇ、あ、れ……?)
記憶の糸が、ゆっくりと結び直されていく。
私たちは――金倉に挑み、圧倒的な力量差により容易く返り討ちにされた。“死”を、間際まで突きつけられたのだ。
そのとき私は、リーナさんの命を繋ぐため、必死に魔法の維持を続けていた。だからこそ、セイチェさんが大きな魔法陣を展開した瞬間――部屋の隅にいた私は、一番よくその全景を見ていた。
――思い出す。
彼女が光の陣を発動させたその時、その範囲の中に――リリアの姿がなかったことを。
(………………り、り、あ?)
当然だ。
リリアは金倉に捕らえられ、彼のすぐそばに寝かされていた。もし彼女を魔法の範囲に入れようとすれば、金倉まで巻き込んでしまう。
だから――セイチェさんは、他の者の命を救うために。
リリアを諦めたのだ。
「そんなっ、そんなこと――」
ようやく理解した。セイチェさんの涙の理由を。
私は、彼女と同じように膝を突き、両手で顔を覆った。
溢れ出す涙と、この胸の奥に渦巻く激情を、どうにか押し込めるために。
そして――。
ひとしきり泣いた私たちは、ふとお互いに目を合わせて、静かに頷き合った。
まずは生き残ること。それから力をつけて――。
「あの男を、私たちの手で――」
「はい。必ずや」
力強く見つめ返してくれたセイチェさんに、私は立ち上がって手を差し出した。
厳しい現実が待っているのは分かっている。それでも、悲しむだけの時間はもう終わりにしなければならない。
何故なら。
今更ながら、ようやく気づいたが――辺りには、どうも私たちしかいないのだ。
森の奥深く、風の音と虫の羽音しか響かない。他の者――園香たちの姿も、気配すら感じられなかった。何か、魔法の発動時に不具合でもあったのだろうか。転移中に逸れたと考えるのが妥当だ。
「セイチェさん、立てますか? みんなを探しに行かないと」
「皆様を……? そ、そうですね。不安定な状態での転移でしたから、散り散りに飛んでしまったようです」
やはり、そうだったか。
果たしてどれほどの距離が開いているのか不明だが、向こうも私たちを探してくれることだろう。一旦、周囲の状況だけでも確かめないと。
「行きましょう」
再び手を差し出す。しかし――。
「それが……未綴さま。大変申し訳ないのですが……」
「……?」
中々、手を握り返してくれない。
訝しんでいると、セイチェさんは恐る恐るといった様子で、メイド服のスカートを少したくし上げた。
しゃがみ込む彼女の周りには、白と黒の布地が花のように広がっている。その隙間から覗いた“片脚”を見た瞬間――私は息を呑んだ。
「――ッ!」
「……………………」
そうだ。そこには、“片脚“しかなかった。
本来並んであるはずの右脚が、根元から引きちぎられ、赤黒い血がまだ土に滲んでいた。
「………………申し訳、ございません」
「な、なんで――なんで謝るんですか!」
「……私が、あの男の力を抑え込めなかったがために。このような事態を招いてしまいました」
「そんなことないです! それを言えば、私がリリアさんを守れてさえいれば……!」
言葉を吐き出した瞬間、胸の奥が焼けるように痛んだ。
セイチェさんは悪くない。むしろ、私たちを逃してくれた恩人だ。
全ては私の慢心と、判断の遅れが招いたこと。あの時、園香の弟――彰人との戦いよりも、リリアの救出を優先していれば。
いや、もっと前だ。リリアが不用意に不審者に近づいたあの瞬間、私がすぐに引き戻していれば。
私が、もっと――。
――待て。待て待て。
そうじゃない。反省は後でもいい。
今は、早くセイチェさんの治療を……!
「と、とにかく! 治癒魔法をかけますから! 覚えたてですけど、なんとかしますっ!」
「未綴さま……ありがとう、ございます……」
セイチェさんは項垂れたまま、言われるがままに魔法を受け入れた。その顔には、まだ深い翳りが残っていたが――それは痛みのせいではないだろう。失ったものの大きさが、心の奥に根を下ろしているのだ。
私は残りの魔力をありったけ注ぎ込み、傷口を覆うように光を流し込んだ。
やがて、薄い皮膜が張り、血の流れが止まる。それでも、痛みが消えるわけではない。とてもじゃないが、長い距離を歩ける状態ではなかった。
「ここまでで、充分です。未綴さまも、少しお休みください」
「で、でも……」
「どちらにしても、脚が生えてくるようなことはございませんし。放っておいても、私どもは地球の方々より幾分か強い身体を持っております。痛みも次第に引いてくるかと」
「…………また、魔力が回復したら、魔法をかけますから。それまでは、ごめんなさい」
「はい。ありがとうございます」
セイチェさんが、ようやく不器用ながらも笑顔を見せた。私に気を遣っていることは明白だが、今はその笑顔に甘えることにする。
――さて。
そうすると、どうしたことか。
セイチェさんはこの状態では自力で歩くのも難しい。
私が背負って移動してもいいけれど、持久力には自信がない。この調子で見知らぬ世界を歩き回るなんて、どう考えても無謀だ。
「セイチェさん……ちなみに、ここってどこだか分かります?」
「そうでしたね、まだ説明しておりませんでした」
セイチェさんは一度、目を閉じた。
そして、何かを受け入れるように深呼吸してから、静かに言い放つ。
「ここは、私とミミアお嬢様の元いた世界――アルトリネア。そして恐らくは、王都より遥か東方に位置するセリアルネ地方の南端、『カカルテットの森』です。別名――《蒼き死者の森》」
「蒼き……死者の、森?」
私はその言葉を反芻しながら、周囲を見渡す。
木々の根元には、一面に青白い苔が蔓延っていた。
「はい。ご覧の通り、この蒼き苔が死した者の身体に寄生し、その神経と魔力回路を乗っ取り――死者を操るのです。セリアルネでもっとも忌まれ、敬遠されている森です」
「……………………」
「未綴さま?」
「あ、いえ……」
そうか。そうなのか。
つまりここは、異世界アルトリネアということで。しかも、現在地は最悪な場所――死者が動き出す森。なんというか、いきなり難易度が高過ぎやしないだろうか。
(初めて降り立った異界の地で、開幕からゾンビパニック……)
私は天を仰いだ。
どうか、変なものに遭遇しませんように。
心の中で神頼みをしていると、セイチェさんが木々の向こうを見つめ、眉を顰めた。
「日本には、“噂をすれば影がさす”という言葉がございましたね」
「は、はい……」
「どうやら、その言葉は本当らしいです」
フラグの回収がお早いことで。
ことわざとは、時に無情な現実となって降りかかるものだ。だからこそ人々の記憶に残り、現代まで受け継がれてきたのだろう。
――私は再び、天を仰いだ。
異世界アルトリネア。本日は晴天なり。
枝葉の隙間から覗く青空は、どこまでも澄んでいて。
その一方で――巨木の陰からゆっくりと覗く影たちは、皮膚に蒼い血管のような紋を浮かび上がらせ、目には一切の生気がなかった。
彼らの喉奥から、濁った呻き声が響く。
……なるほど、これが“死者”というやつだ。
「セイチェさん、あれがもしかして、その死者なんですかね?」
「あれ、ではございません。あれら、ですよ」
――どうでもいいッ!
なぜか異世界のメイドさんに日本語を訂正されたが、今は本当にどうでもいい。さしずめ、セイチェさんも現実逃避したいのだろうが。
しかし、現実の厳しさから逃れることはできない。
よし、もう認めよう。認めるしかない。
私たちは、どうやら――多数のゾンビに囲まれている。
「……これって、弱点とかあります?」
「首を落とせば倒せます」
それは弱点とは言わない。
私は地面に視線を走らせ、すぐそばに転がる紅い刃――ヴェルニス・スケイルを見つけた。
手に取ると、刃がわずかに熱を帯びる。
息を整え、セイチェさんの前に立つ。
「戦うおつもりですか?」
「この数を、セイチェさんを背負ったまま振り切れる気がしませんから」
「……私など、置いていけばよろしいのです」
「馬鹿なこと言わないでください。ミミアに怒られちゃいますよ!」
「………………そう、ですね。お嬢様に叱られてしまいます。ならば、私も微力ながら、お力添えさせていただきます」
そう言ってセイチェさんは、屈んだまま魔力を展開し始めた。淡い光が彼女の掌に集い、空気が震える。
「それでは、後方の敵は私が。未綴さまは、近くに迫ってきた敵の排除をお任せしてもよろしいですか?」
「分かりました。セイチェさんには、指一本触れさせませんっ!」
そう宣言して、私は紅い刃を構えた。
空気が冷たく震える。
森に満ちた死の匂いを切り裂くように、最初の一歩を踏み出す――。




