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Error Code. 異界


 * * * * * *


 

 セイチェは歯を食いしばっていた。

 空間そのものを捻じ曲げて呑み込もうとする【歪曲】の圧力を、己の空間魔法でどうにか押し留めている。額からは玉のようら汗が落ち、膝は震えていた。それでも彼女は一歩も退かない。


「……っ、ここで退けば……皆様が……!」


 彼女が全霊で支えるその前方を、ミミアの影が縦横に駆け抜ける。

 小柄な身体に収まりきらぬほどの魔力をまとい、まるで獣のように飛びかかり、拳を繰り出す。その一撃一撃は竜の鱗をも簡単に砕く威力を孕んでいた。だが――


「【結界】」


 淡く煌めく膜が、ミミアの拳をことごとく阻む。目の前の敵――金倉(かねくら)(とばり)は眉一つ動かさず受け止め続けた。拳がめり込むたびに空気が爆ぜる。しかし、触れた途端に力は霧散し、結界は破れない。


退()け、ミミアっ……!」


 後方から、拓未(たくみ)の炎熱が飛来する。彼の能力で増幅された火球は、轟音とともに結界を包み込み、空気を焦がした。だが、それすらも結界は呑み込み、揺るぎもしない。金倉(かねくら)が退屈そうにため息を落とす。

 だが、これは拓未(たくみ)の狙い通り。爆炎の中を切り裂いて、煙を利用した目眩し。一気に距離を詰め、そして――伸ばした掌が結界に触れる。


「……ッ!」


 刹那、結界がきしんだ。

 触れた部分から急速に強度が削られていく。発動させたのは【エネルギスト】――エネルギーの強弱を操るその能力で、結界そのものを浸食していく。


「今だッ!」


 拓未(たくみ)の叫びに応じ、ミミアが拳を振り抜いた。

 轟音とともに、結界が砕け散る。透明な破片が光となって宙に散り、道が拓かれた。


「いけっ! ミミアぁぁあ!」


「合点なのじゃァァア!」


 雄叫びを上げ、ミミアが全身全霊の拳を叩き込む。

 拳は金倉(かねくら)の顔面を捕らえ――ぐにゃりと歪ませた。打ち付ければ頭蓋骨を粉砕するだろう一撃。

 だが、


「なっ……なんじゃこれは?!」


 ミミアは目を見開く。

 手応えがない。拳は空を切り、捉えたはずの相手の顔は、淡く霞んで溶けていく。霧のように姿が崩壊し――


「……後ろ……ッ!」


 拓未(たくみ)の叫びで振り返った先。

 全員の血の気が引いた。

 そこには、事務椅子に悠然と腰を下ろし、足を組んでこちらを観察する金倉(かねくら)の姿。最初と変わらず、余裕に満ちた笑みを浮かべていた。


「ど、どういうことだ?!」


 拓未(たくみ)が息を呑む。

 その目に浮かぶのは悔しさと怒り。震える声で吐き捨てる。


「て、テメェ……今の今まで、ずっとそこに座ってやがったのかッ!」


「な、なんじゃと……」


 ミミアが絶句する。

 金倉(かねくら)は、愉快そうに肩を揺らした。


「ご名答」


 薄笑いを浮かべ、ゆっくりと手を組む。


「君たちが必死に叩いていたのは、私の【幻影】の力で作り出した影だよ。私は最初からここで見学させてもらった。……中々、見応えのあるショーだったじゃないか」


 その言葉は、皆の胸を凍りつかせるに十分だった。

 短期決戦のつもりで挑んだミミアの魔力が、目に見えて萎んでいくのが分かる。呼吸は荒く。彼女の纏う光はなお強く輝いていたが、その輝きの芯には、確かに翳りが差し始めている。

 拓未(たくみ)はまだ諦めてはいなかった。だが、その視線の奥に、撤退という選択肢がちらつく。

 彼の意識は戦場の隅――血に濡れたリーナの姿へと向かっていた。

 応急処置は施された。だが、腕が再び生えるような奇跡が起きるはずもなく。ただの止血と鎮痛、そして体力の維持が限界。園香(そのか)(かたる)が必死に魔法を併せて、どうにか命の灯を保たせている。顔色は、さっきよりも幾分か穏やかになっていた。けれど、だからこそ――目覚めた際にどれほどのショックを受けることか。


「リーナちゃん……」


 拓未(たくみ)が息を漏らす。

 戦場の只中で、そんな感傷を抱いている余裕などないと分かっている。それでも、仲間の無残な姿を前に、心が鈍ってしまう。

 ――その時だった。


「くっ……ミ、ミミア……お嬢様……」


 苦悶の声。

 セイチェが何かに押し潰されるように片膝をついた。張り詰めた表情、噛み締めた唇から血が滲む。


「セイチェ!」


 ミミアが駆け寄る。

 だが、その手が届くより早く、閃光が空を裂いた。

 金倉(かねくら)の放った光線が、真っ直ぐにミミアの脇腹を撃ち抜いたのだ。彼女の身体が――宙を舞う。


「お、お嬢様……ッ!」


 セイチェはよろめきながらも立ち上がろうとした。

 だが、彼女は【歪曲】を封じるための魔法を維持している。手を止めれば即座に空間が崩壊する。そんな状態では、足を踏み出すことも、目を向けることさえままならなかった。


(こんな……こんなはずでは……! なぜ、なぜ私は、こんなにも弱いのですか!)


 唯一、己が武技として体現した空間魔法でさえ、この場では金倉(かねくら)に劣る事実。

 脳裏に蘇るのは、幼い頃の記憶――叱責の声、冷たい目、背中越しに囁かれる蔑みの言葉。

 “落ちこぼれ”、“出来損ない”――その呼び名が、今も耳の奥にこびり付いて離れない。


(私は……私は、ミミアお嬢様や、リリア様をお守りするためにここに居るのですっ! 動け……動きなさい……!)


 血管が悲鳴を上げ、脳が命令を叩きつける。

 だが腕は上がらず、脚は鉛のように重い。

 魔力の底が見えかけ、視界の端から色が褪せていく。世界がゆっくりと遠のいていくようだった。


(リリア様……リリア様……私は、私はどうすれば……どうすればよろしいのでしょう……?)


 その祈りのような声が、音になることはない。

 彼女は薄れゆく意識の中で、ただ静かに眠る第一王女を見つめた。

 その瞳が、もう一度だけ自分を見てくれることを願って――。

 


 * * *

 


『――この先、何があってもミミアを守ってあげてね』


 それは婚礼の儀の夜。

 星々が滲む空の下、森林の里では祝福の歌と笛の音が響いていた。森に生きる民たちが松明を掲げ、輪を描いて踊る。その光が葉の影に反射して、夜を金と翠の粒で染め上げていた。

 セイチェはその日、ミミアと共にこの場へと赴き、リリアの晴れ姿を祝福していた。

 そして夜の宴が開催されて暫く、ミミアが誤ってお酒をガブ飲みしてしまい、眠りこけてしまう。


『お、お嬢様……』


『あらあら、ミミアったら。仕方ないわね。そっとしておきましょう?』


『も、申し訳ございません、リリア様』


『いいのよ、それよりもセイチェ。少し、二人で話せるかしら?』


『はい……?』

 

 誘いの声。喧噪から少し離れた丘の上に移動する。

 風が草を撫で、夜の香りが流れる静かな場所に、リリアとセイチェの二人だけが立っていた。

 新婦用に作られた若葉色のドレスが、月の光を受けて淡く光を返している。リリアはその衣を押さえながら、丘の下の宴を眺めて微笑んだ。

 そうして開口一番に、先の言葉を風に乗せる。

 彼女の“妹を守って欲しい“という願いに、セイチェが戸惑う。

 

『――それは、どういう意味でしょう?』


 問い返すセイチェに、リリアが柔らかく笑みを浮かべながら夜空へと視線を上げた。


『――あの子はね。ミミアは、私たちの希望よ』


 柔らかな声だった。

 その言葉に宿る温度が、夜気を和らげていくように感じた。


『まだ幼いけれど、その信念と、他者を想う心は確かなもの。だからこそ、あなたに支えてほしいの』


 セイチェは胸の奥が熱くなるのを感じながらも、躊躇いが勝って口を開く。


『それは……勿論です。ですが、私ごときにそのような大任が務まるでしょうか?』


 不安げな声。

 リリアは少しだけ目を細めて微笑むと、そっと彼女の頬に手を添えた。


『セイチェは、私が知るどんな人よりも努力家で、ずっと頑張ってきたのを知っているわ。だからこそ――あなたにしかお願いできないの』


『……しかし、努力をしていても、結果が伴わなければ意味など』


『結果? 結果なら出ているじゃない。私が、アルトリネアを束ねるコルペリオン家が第一王女――リリア・コルペリオンが、あなたの献身と努力を認めているの』


 それは屁理屈だ。

 リリアの瞳が、まっすぐにセイチェを映す。その光は真夜中の湖面のように穏やかで、しかし逃げ場を与えてはくれなかった。


『大丈夫よ、セイチェ。あなたになら任せられると、私が信じている。だからこそ、お願いしているの』


『……はい。必ず、お守りします』


 どこか弱々しいその誓いに、リリアがふっと笑う。


『あなたは昔っから、誰よりも努力しているのに、悩みが絶えぬままで。よく私に泣きついていたわね』


『そ、そのようなお話を、今なさらずともッ!』


『ふふっ……でも、あなたがミミアの側に居てくれるから、私は安心して嫁ぐことができた。だから、セイチェ……ありがとう』


『り、リリア……様ッ……』


 セイチェはいつの間にか、視界が滲んでいることに気付いた。慌ててその目を拭き取り誤魔化そうとするが、しかし溢れ出したものを止めることは難しい。

 そのままリリアに抱き止められて、暫く胸を借りることにした。


『こうしていると、本当に昔に戻ったみたいね』


『はい……いつも、いつも、私を慰めて、守ってくれて、叱ってくれて、そして信じてくれて……こちらこそ、ありがとうございました……』


 精一杯の感謝を込めて、言葉を絞り出した。

 いつだってセイチェがその歩みを止めずにいられたのは、努力するための切っ掛けをくれたミミアと――。

 そして努力を続けるためにずっと支え、応援してくれたリリアの存在があったから。彼女が、裏でセイチェの悪評を取り払い、守ってくれていたことには薄々気付いていた。


『…………本当に、本当に。ありがとうございました!』


 気のせいだろうか。

 頬を伝う涙の感触が、一つ増えた気がする。

 森を包む優しい魔力が、大気に混じって宙を漂い――やがて夜空に向かって淡く光を帯びて、登り行く。

 セイチェはこの日、リリアに託された使命を胸に刻み、そこに勝手ながら誓いを付け加えた。


(――私が。私が、ミミアお嬢様と、そしてリリア様をお守りいたします。この命に代えてでも!)



 * * *



 だから――。


「こんなところで、お二人を死なせる訳にはッ!」


 叫びは掠れ、喉の奥が砕けそうになりながらも──セイチェは必死に踏みとどまった。

 魔力は既に細い糸のようにしか残っていない。それでも、腕一本、命の一滴を削ってでも、この場を保とうとする意志だけは折れなかった。

 金倉(かねくら)が腕時計の文字盤を軽く覗き込み、興味なさげに唇の端を吊り上げる。時間にでも追われているような素振り。だが、その目には冷酷な余裕が宿っていた。


「ふむ、そろそろ次の予定が入っているのでね。終わりにしようか」


 言葉が、低く滑り落ちる。

 指先が一度かすかに鳴り、そこから嘲るような拍子が続いた。


「よく頑張ったね。それでは最後にご褒美の時間だ。

 この――【倍増】の力でね」


 パチン、と小さな音が鳴ると、空間の揺らぎがふたたび増幅した。先ほどまでセイチェが必死に押さえ込んでいた歪みが、その総数を倍にする。

 金倉(かねくら)の能力は、言葉どおりに残酷なものであった。触れるもの、為すこと、すべてを瞬時に倍にする術。それが加わった途端、綱渡りのような均衡が容易く崩れ去る。


「そんなっ……!」


 セイチェの瞳が暗く翳る。彼女の顔からは、もはや言葉にならない絶望が零れ出ていた。膨張する歪みは胸の内を押し広げ、彼女の魔力の輪郭を蝕んでいった。


「仕上げだ……」

 

 金倉(かねくら)は椅子から立ち上がると、その冷たい掌をあざ笑うように振った。

 三つ――正確に狙いを定めて光線が放たれる。頭頂、胸、腹部へと縦に並ぶ鋭い閃光。突き刺すような熱を伴った光が、セイチェに向かって直進する。


「セイチェさん!」


 伸ばされた手。叫びと同時に、拓未(たくみ)が割って入る。

 彼が間一髪で光線を受け止めるが、光はその勢いを落とすことなく。彼の持つ超能力で減弱されているはずだが、拮抗させるので精一杯だった。とても攻勢には転じられない。足が地に固められ、体の芯が硬直していくのが分かる。


「くそっ……抑え切れねぇ……!」


 拓未(たくみ)の呻くような声。

 セイチェの内側では、魔力の燃え殻が音を立てるように崩れていった。限界の瞬間が迫る。彼女の顔に、ほんの数秒前まで浮かんでいた決然の色が薄れていく。


(どうすれば……どうすれば……!)


 答えが見えない。視界は血の匂いと焦燥で揺れる。

 その時、園香(そのか)が回復の手を止めて、拓未(たくみ)と並んで前に出た。その手に“形のない剣“を構えながら。


「あれは、私たちに勝てる相手じゃない! 逃げるわよ!」


「逃げる、たって、どこに?! あれが素直に逃してくれるとでも?」


「分からないけど、やるしかないわ! 私が隙を作るからっ!」


 言葉に従うように、園香(そのか)は両手で魔力を編み上げ、冷たい光を帯びた刃を前に押し出した。

 しかし空間はすでに濃厚に歪みを見せており、刃の進路そのものがねじ曲げられていく。ゆえに突進は不可。剣が空を切り、魔力の波は無益に溶けていった。


「無駄か……」

 

 園香(そのか)の額に小さな汗がにじんだ。彼女の瞳は一瞬だけ鋭く光り、だがそれは勝利へ向かう余裕と呼べるものではなかった。

 

「こんなものっ!」


 叫び声とともに、園香(そのか)は渦巻く重圧に抗おうと身をひねった。だが、次の瞬間――足元に潜んでいた歪みが、まるで獲物を捕らえる罠のように急速に収束を始める。空間そのものが手を伸ばし、肉体を掴み、押し潰そうとする。

 圧倒的な吸引力を前に、園香(そのか)は剣を床に突き立てるしかなかった。金属を引っ掻くような響きが床を伝い、彼女の膝がわずかに沈む。


園香(そのか)!」


 背後から(かたる)の悲鳴。だが、園香(そのか)は歯を食いしばり、声を張った。


「だ、大丈夫よ、(かたる)ちゃん……あなたはそのまま、治療を続けて!」


 強がりの声は微かに震えていた。目に見えぬ鎖で縫い付けられたかのように、体が動かない。周囲に一つ、また一つ……黒い泡のように空間の歪みが生まれ、じりじりとその数を増していく。


「さ、させませんっ……!」


 セイチェの声が割り込む。彼女が歯を食いしばり、空間制御の魔力を園香(そのか)の周囲へと走らせる。その瞬間、渦巻く歪みが押し返され、かろうじて園香(そのか)が飲み込まれるのを防いだ。

 だが、その代償は大きい。


「ミミアッ!」


 続けて放たれた拓未(たくみ)の叫び。

 その視線の先、光線に打たれ昏倒しているミミアの周りに、複数の歪みが人食い花のように咲き始めていた。


「……………………ッ!」


 セイチェの喉が――ひゅ、と詰まった。

 声が出ない。

 もう制御の方向を変える余力もない。

 焦りが意識を切り裂き、思考が崩れ落ちる。


(ぁ……)


 脳裏をよぎったのは“死”の文字だけ。

 膨張する【歪曲】の圧力は、空間そのものを噛み砕くように渦巻き、視界の節々がぐにゃりと歪む。隣にいるはずの者の輪郭さえ曖昧になり、全身の骨が砕かれる未来が鮮明に浮かんだ。

 魂すら逃がさぬ闇の力が、この場の全てを覆いつくそうとしていた。


(――――――――――。)

 

 もう、いいだろう……。

 こんなものに最初から勝てるはずがなかった……諦めてしまえば、楽になれる。

 そんな声が心の底に染み出してくる。

 だが、同時に別の声が胸の奥底から響いた。


(せめて、せめてお嬢様だけでも――!)


 セイチェは本能のままに駆け出した。

 もはや足の震えも、恐怖も、痛みも感じない。ミミアの元へと飛び込んで、その小さな身体を覆い被す。

 途中、右脚が歪みに触れたらしい。雑巾を絞るような“ぐちぐちッ”という音とともに、血と肉の感覚がちぎれ飛ぶ。――けれども、構わない。少しでも主の傷が浅くなることを願って。


「お嬢様、私が、お嬢様を……」


 声は震えて掠れ、もう涙か血か分からない液体が頬を伝う。こんなことをしても無意味だと分かっている。

 だが、それでも。少しでも何かを成したと信じたくて。少しでも希望を残したくて。あの日、リリアに誓った想いに、少しでも答えたくて……。


 ――ミミアを包み込むように、セイチェは小さく丸まった。


 小さな部屋の中、遠く霞んで見える空気の向こうに、僅かな光の粒が揺れている気がした。

 あの日の森にあった魔力の輝きのように――一瞬だけ、胸の奥に過ぎる幻の光。

 セイチェが縋るように、微かに開かれた視線を上げる。きっと死後の世界からのお迎えが来たのだろうと。見えぬ天の遣いへと手を伸ばそうとした。


 

 

 すると、その時――。



「――ッ!」


 

 リリアと、目が合った。

 闇の渦の奥で、かすかな光が芽吹くように瞬いた彼女の瞳と――ほんの僅かに開かれた口から、確かに声が紡がれた。


『逃げて』


 それは命令ではなく、祈りのような響きだった。

 慈愛に満ちた声音が、セイチェの心の奥に突き刺さる。

 切なる願い。その言葉を――受け取ってしまう。


(そんなこと、私には……! リリア様を置いて、できる訳がッ!)


 しかし、もうリリアは答えなかった。

 その瞳も、口も、指先も、髪の先すらも――再び眠りについた彼女からは、何一つ伝わるものがない。ただ“想い”だけが残り、セイチェの胸を焼くように反芻する。


(そんなの、できない……できないです、リリア様ッ!)


 迷い、戸惑い、停滞する。

 ついに、歪みがその肌を舐めた。

 世界が悲鳴を上げる。床が裂け、空気が慄き、光が引き攣る。どこかで怒号か、悲鳴か、あるいは泣き声か。何か響いている気がするが、それでもセイチェの耳には、もはや何も届かない。

 ただ、主の体温だけが腕の中にあった。


 


 ――ぎゅ、と。



 

 その時。

 セイチェの手を掴むものがあった。

 薄く目を開くと、気を失ったままのミミアが、何かを求めるようにして彼女の手を握っていた。

 震える指先が、確かに『生』を訴えかけている。


(ミミアお嬢様……)


 その一瞬で、迷いは霧のように消えた。

 セイチェは覚悟を決める。



 

 ――己の使命を思い出す。



 

 己がここに在る理由。生かされた意味。

 それは、主を守ること。

 ただ、それだけ。


 


 ――心を殺せ。


 


 心を殺せば、迷うことなど何もない。

 あの日、リリアが残した言葉が、今も魂の奥で脈打っている。



 

『――この先、何があってもミミアを守ってあげてね』


 

 

 その言葉に頷いた己を思い出す。

 ならば、迷う余地などなかった。



 

 

「展開せよ――」



 

 

 低く、静かな声。

 それはまるで祈りの詠唱のようでもあり、覚悟の鐘の音のようでもあった。

 彼女の家に伝わる秘術。血と誓いを胸に抱いて、魂に刻まれた古代の魔法陣を呼び覚ます。それは長い月日をかけて少しずつ魔法陣に溜め込んだ魔力の奔流。

 流れ込む魔力が彼女の身体を焼き、骨の髄まで光に染める。痛みの代わりに、心は澄んでいく。


 ――刹那!


 セイチェを中心に、黄金と蒼の光が幾重にも重なり、巨大な魔法陣が展開された。その輝きは、世界の法則すら書き換えるほどの力を孕んでいた。

 空間を絶対的に支配し、世界を別つ境界線を断ち切るための――最上位級の魔法。己という存在を固定し、拡張し、分解し、移送する。その全てを同時並行しながら、遥か彼方までの空間を省略する黄金の魔術式。

 この瞬間だけは、彼女の魔法が金倉(かねくら)の超能力を圧倒した。


「ほう。なんだい、これは……?」


 押し返された金倉(かねくら)が、初めて愉悦以外の色を浮かべる。驚きと、ほんのわずかな警戒。

 しかし、セイチェは彼の言葉など聞いていなかった。唇が震え、頬を伝う涙が一粒、魔法陣の中心へと落ちて光の粒に変わる。

 そして、最後の言葉を紡いだ。


 


「《異界渡り――アルティア・ゲート》」


 


 光が爆ぜた。

 世界が反転する。

 現実が捻じれ、空間が裏返り、全ての音が消える。

 そして、煌めきが六つの影を世界から掬い上げた。




 ――この日。



 

 六人の男女が、地球から姿を消した。

 悪魔のような男と、捕らわれの姫をその場に残して。




 

ここまでお読みいただきました皆様、誠にありがとうございます。

書き溜めていたストックはここまで。現在、第三章の執筆中です。


しかしながら、投稿開始時……タイミング悪くも仕事の役職が変わりまして、思ったより書き進められておりません。そのため、ここから先は更新頻度が下がってしまうかと存じます。


※最低でも週1話、時間を作れれば週2〜3話ほど投稿できたらと存じます。


※ブックマーク、評価等を入れてくださった方。本当に、ほんとーに、ありがとうございますっ! 完結目指しての励みになります。今後ともよろしくお願いいたします⭐︎


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