TargeT.10 捕らわれの王女③
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「なっ……当主だって?!」
拓未は、思わず目を剥いた。
口にされたその名――金倉帷。
それは彼の上司、リンケージ所長である太刀房原二から、何度も耳にした忌まわしい名だった。
(……金倉組をここまで肥大化させ、超能力犯罪を陰で操ってきた元凶の男……)
以前に原二が、そう評した人物。
その根源が、目の前で不気味な笑みを浮かべている。
背筋を撫でる寒気。目の前の男が放つ圧は、ただそこに存在しているだけで空気を凍り付かせる。
(これは……どうしたもんかねぇ……)
正直なところ、今の自分では到底勝てる相手ではない。
しかも目の前には捕らわれたままの桃髪の少女。そして自分の腕には羽交い締めにしたままの黒髪の童顔少女――未綴語が居る。
(語ちゃんは今直ぐにでも飛び出しそうだし、この子がリリアと呼んでいたあの子も、眠っているから自力で隙を突いてもらうのは不可能だ……)
詰み。どうあがいても戦闘になれば全てが瓦解する。
そう理解した拓未は、脳裏を必死に回転させ、穏便に済ませる手立てを探し始めた。
「それじゃ、金倉さんよ……ひとつ交渉といかないか?」
意を決して声をかける。
その声音は落ち着いているように聞こえるが、背中に流れる汗は抑えがたかった。
「ほう? この私に交渉を持ちかけるとは。……それは君の独断かね?」
金倉は目を細め、ゆったりと顎を撫でる。その仕草は老獪な獣が餌を品定めするかのようで、見る者の心をざわつかせる不気味さがあった。
「ああ、そうだ。……正直に言おう。俺じゃあんたに勝てそうにない。だから交換条件を出して、少しでもお互いの不利益を減らしたいって話だ」
「ふむ……」
金倉はわずかに口角を吊り上げて、鋭い眼差しで拓未を射抜いた。
その瞳に映るのは、目の前の青年の意志を秤にかける冷徹な支配者の視線だ。
「面白い。……話くらいは聞いてやってもいい。それで、この私にどのような交渉を?」
「端的に言えば、この場ではあんたを見逃す。その代わり――その女の子を解放してやってほしい。……なんなら、人質は俺が代わってやってもいい」
そう告げる拓未の声に迷いはない。
自らを犠牲にする覚悟。保護対象を優先する決意。それが今の彼に残された望みであり、唯一の交渉カードである。
「――ほう? 見逃す、か」
対して。金倉の口から漏れた言葉が、暗い笑みとともに空気を歪ませる。
「まるで私が、君達に捕らわれる未来があるような言い草じゃないか。その根拠を聞かせてもらえるかな?」
彼の声音には、挑発とも嘲弄ともつかぬ響きがあった。
だが、拓未も僅かに唇を吊り上げて対抗する。
「……あんたも知っているだろう?」
そして、暗に切り札の存在を匂わせる。
「あらゆる超能力を打ち消す最強の能力者……その子が今、すぐ近くまで来ている」
名を出さずとも分かる。それはリーナのことだ。
彼女が居れば、どんな能力者だろうと関係ない。全てを無効化した上で、一方的にこちらの力を押し通すことができる。例えそれが金倉組の親玉であろうと。
「……ああ、彼女か」
金倉の瞳が一瞬だけ愉悦に細められた。
その声音にはわずかな肯定と、しかし尚、余裕の色が宿っている。
「確かに彼女は我々にとっての脅威だ。君が交渉の場に持ち出すのも理解できる。だが――」
緩やかに首を振る。
その笑みは、なおも不気味さが増すばかり。
「――だがね、真鍋君。彼女が我々にとっての脅威であったとして、それが『私』にとって脅威となるかどうかは――まだ分からないよ」
「……それは、どういう意味だ」
拓未の眉間に皺が刻まれた。答えを促す声が、かすかに震えている。
「さて……」
金倉は拓未の反応を受けて、唇の端をさらに吊り上げる。そして芝居がかった仕草で両腕を広げてみせた。
「――それは彼女が来てからのお楽しみとしようじゃないか」
そう告げる言葉は、拓未の交渉が失敗したことを意味していた。要するにリリアを助ける手立てが一つ減ったということだ。
まさか、まるで一顧だにされず断られるとは思ってもみなかった。拓未は唖然としたまま、言葉を失って立ち尽くす。
(――こいつ、まさか! リーナちゃんに勝つ方法を……既に持っているってことか?)
脅しを交えた提案が一切通用しない。それは虚勢でも ブラフでもなく、確かな自信の裏打ちがあるのだろう。
金倉は、微笑みを崩すことなく、側にあった事務椅子へと腰を掛ける。その所作すら悠然として、敵地であることを忘れさせるほどの余裕を漂わせていた。
「……それで?」
次の瞬間、彼は空気を払うように片手を伸ばした。すると何もない虚空から、唐突にティーカップが現れる。まるで舞台の奇術師が懐から鳩を取り出すかのような、異様な自然さで。
カップには芳香を漂わせるコーヒーが満たされていた。金倉はそれを唇へ運び、一口、音も立てずに啜る。立ち上る香りが漂い、狭い室内にすっと混じった。
そうして、淡々とした声音をその空気に乗せる。
「――交渉は、もう終わりかな?」
まるで、これ以上は退屈だと言わんばかりに、彼は拓未から視線を外した。代わりに手にしたカップを軽く傾け、香気を楽しむ。あくまで自分の時間を優先する仕草に、挑発の意図が透けて見える。
その時だった。
コツ、コツ、と。
慌ただしく重なる足音が、部屋の外から近づいてきた。複数の靴音が通路の床を叩き、重なり合って響く。
「どうやら……時間切れのようだね」
金倉が静かに呟き、微笑みをさらに深めた。
「君の仲間が、もうすぐここへ辿り着く。そうなれば、私との“殺し合い”は避けられないよ……?」
「だ……ダメだ、頼む」
拓未は声を荒げる。
「どうすれば、その子を解放してくれる?」
「ふむ……」
金倉はコーヒーを一口飲み干し、カップを指先で弄んだ。そして何か思いついたかのように静かに息を落とす。
「では、こういうのはどうだろう。
君が抑えつけている、その少女を。今この場で、君自身の手で殺すんだ」
「……………………は?」
拓未の思考が一瞬、空白で満ちた。
理解が追いつかない。耳に届いた言葉の意味を咀嚼するのに、長い時間が必要だった。
そして視線を僅かに下ろしたその先で、語が蒼白な顔をこちらに向けていた。怯えと決意が入り混じった目。
「ま、真鍋さん……」
「――いや、いやいや。大丈夫だよ、語ちゃん」
必死に声を震わせ、否定する。
「俺は君を傷付けたりなんかしない!」
「……はい、分かっています」
小さく頷く語。震えた肩からはすっかり力が失われて、もう飛び出す気配もなく。拓未は羽交い締めにした腕をそっと離して、今度はゆっくりと彼女の頭に手を置いた。
「ごめんな、俺が頼りないから。君を不安にさせてしまった……」
「そんな、ことは。でも……私はリリアが助かるなら、真鍋さんに殺されても、恨んだりしませんよ?」
「な、何を言ってるんだ! そんなことが許されるはずないだろうっ! 大丈夫だ。今から俺の仲間が来る。そうすれば、君の友達は必ず助けられる……!」
必死な叫び。しかしその声には、自分自身を奮い立たせる空虚さが混じっていた。
現実は絶望的だ。仮にリーナが到着し、金倉の能力を打ち消せたとしても――彼の手元には未だ人質がある。武器を隠し持っているとすれば、最早、超能力など関係なくリリアの命を奪うには十分だ。
金倉はゆっくりと、ティーカップを指先から離した。
「やれやれ……命の選択は、どうやら君には重すぎたようだね、真鍋君」
その言葉とともに、カップが床へと落ちる。
だが、割れる音はしなかった。衝突の直前に、まるで空間そのものに吸い込まれるように、跡形もなく消え失せたのだ。
丁度その時、部屋の前まで駆け寄る複数の足音が響き渡る。振り返ると――通路に姿を現したのは、リーナ、ミミア、セイチェ。そして拓未が見慣れない黒髪のモデルのような美少女。
「拓未くんっ! じ、状況は!?」
「リーナちゃん……それにミミアと、セイチェさんまで……」
拓未はその姿を目にして、僅かに胸の重石が軽くなるのを覚えた。あるいは、この三人と力を合わせれば、あの怪物を出し抜きリリアを救い出すことができるかもしれない――。
一方、語は黒髪の少女へと歩み寄り、躊躇なくその細い腕に抱きついた。ぎゅっとしがみつくその仕草は、戦いの喧騒の只中に置かれた小さな静寂のようだった。
「――園香っ! ごめんなさい、私のせいで……リリアが……」
声は震え、言葉は途切れる。胸のうちからこみ上げる焦燥と罪の意識が、少女の言葉を突き動かしていた。
すると黒髪の少女は優しく、しかし確かな力で語を包み込む。瞳の奥には短く安堵の光が差し、表情は柔らかくほぐれた。
「語ちゃん……まずはあなたが無事で良かったわ。後のことは私が何とかするから。“処罰“はまた今度ね」
「え……?」
“処罰“いう語に、語の顔が青ざめる。
「し、処罰……?!」
「当たり前じゃない。勝手な行動をした上に、ミミアと知り合いだったことまで隠していたみたいだし……」
言葉の端々に含まれる苛立ちを、語は視線を泳がせながら弁解する。
「それは、その……なんとなく言い出せなくて」
「…………そう。まぁ、いいわ。詳しい話は落ち着いてからね」
園香の口調には冗談とも本気ともつかない余韻が残った。語があわあわと口ごもり、頬を赤らめながらも僅かに微笑む。無事に会えたという事実だけが、今は何よりも大きかった。
そんな二人の隣――ピンクのツインテールを後ろに靡かせて、
「すまぬのじゃ!」
と一声。ミミアが彼女らを横切って部屋へと飛び込んだ。その後ろにはセイチェが控えている。二人の目に浮かぶ涙は、ただの感傷ではない。長い旅路の果てに見つけた『姉』への再会の喜びと、取り戻すべきものへの決意が混じっていた。
「リリアお姉様! 我じゃ、我が助けに来たのじゃ!」
「リリア様! ようやくお会いできました……今、私たちがお助けいたしますので……」
その声は震えながらも強く響く。
二人は一歩、二歩と踏み出し、眠りこけるリリアと――彼女を捉えている金倉を同時に見据えた。
視線は鋭く、相手の強さを確かめるだけの余裕はない。しかし直感が告げていた。あの男が只者ではないことを。
「語よ、また会えて嬉しいのじゃ。しかし、今はお姉様を助けることが先決ゆえ、友を横切る我を許しておくれ……」
「だ、大丈夫だよ、ミミア! 私も会えて嬉しい……けど、ごめんね、お姉さんを守ってあげられなくて……」
「うむ、心配せずとも良いのじゃ。お姉様は我が助けてみせるのじゃ!」
互いに短く交わされる言葉に、戦場が一瞬だけ温かみを取り戻す。だが、それは刹那に過ぎなかった。背後では別の動きが始まっている。
拓未が短く状況を説明したようで、リーナが頷き、彼から銃を受け取る。その表情は引き締まり、リンケージの切り札たる責務がその瞳に灯っていた。
「じ、状況は、把握しましたっ! ……金倉さん、抵抗は無駄です。あ、あなたがどのような能力者かは存じませんが、わ、私があなたの能力を消しますので」
言い切る口調に少しの震えはあれど、覚悟が滲む。
だが金倉は眉一つ動かさず、さらりと応じる。
「ふむ、君がリンケージの切り札という訳か……存外、脆そうな女性じゃないか。誤って骨を砕いてしまいそうだ」
その嗜虐的な含み笑いは、周囲の空気を鈍く締めつけた。
彼は敢えて人質から一歩離れて、余裕を見せつけるように肩をすくめた。リーナの構えた銃が、その後を追う。
「ど、どういうおつもりですか?」
「ん? ああ、別に私としては偶然ここに立ち寄っただけだからね。そこにリンケージの主戦力である真鍋君が居ると知り、是非とも会ってみたいと思って待っていたんだ。君まで一緒に居てくれたのは、運がいいよ」
言葉は軽く、表情は涼やか。だが含意は冷たい。
あの一文の裏には、計算された残酷さと徹底した目的意識が透ける。初めから彼の狙いは明確であった。リンケージの核たる者たちを、徹底的に潰すこと――。
そのことが、ここにいる者たちの心をひとつの影で染め上げる。目の前に立つ男は、ただの犯罪者ではない。策略と権力を以て、周囲を圧し潰す圧倒的な存在だ。
だが、同時に彼の傍若無人さは、ここに集った小さな連帯をより強く機能させる触媒ともなる。彼らは互いを見遣り、短い呼吸の間に立て直しを始める──まだ誰も、諦めはしていなかった。
(俺が必ず、みんなを守ってみせるっ!)
拓未が決意を改めるまでに、そう時間はかからなかった。




