16話 捕らわれの王女②
* * *
アイスワールド館内。
気温は八十度を超えているだろう。サウナに居るような熱気が淀み、視界を揺らめかせる。汗が皮膚に張り付き、呼吸のたびに胸の奥まで焼けつくようだった。
その熱の渦の中で、床に転がり呻く少年へと、私はゆっくりと歩を進めた。
「あなたは園香の弟だから……本当は、殺すかどうか少し迷ったの。けれど、あなたの存在なんて忘れた方が、園香のためだよね」
焦げつく喉で必死に言葉を絞り出そうとする少年――彰人。だが声にならない。途切れ途切れの呻きが、湿った空気に掻き消されるばかり。
私は容赦なく彼の胸元を踏みつけ、肺を押し潰すように呼吸を妨げた。
「どう? こんなモブキャラにやられる気分は」
「ぁ……ぁ……ぅ……」
「そう、最悪な気分だよね。分かるよ」
「ぅぁ……く……っ!」
「うんうん、早く楽になりたいよね。大丈夫。今、その望みを叶えてあげるから」
短剣を握り直す。残る魔力はわずか。けれど首筋を狙って振り下ろせば一撃くらいは保つはず。それで終わりだ。
そう、それで――終幕。
「じゃあね」
刃が閃き、空気を裂く。
だが、その瞬間――
バンッ!
乾いた破裂音が轟き、刃の側面に強い衝撃が走る。
途端に短剣が弾かれ、握り手に鈍い痺れが生じた。
「――待て! 待て待て待て! 待つんだ!」
野太い声。視線を上げると、出入り口に立つヒーロースーツ姿の男が、こちらに銃を構えていた。
(……あれは、さっき外にいたヒーロースーツの人。確か――真鍋拓未さん)
私は痛む手を押さえながら、弾かれた短剣を拾い上げる。
「なんで……邪魔するんですか?」
睨みつけると、彼は覆面を脱ぎ去り、素顔を露わにした。そうして必死に声を張り上げる。
「なぜって……そりゃダメだろ! どんな悪人だろうと、そんなに簡単に人を殺めちゃいけない! そういうのは君みたいな女の子の役目じゃない……! 大人が、然るべき手順を踏んで、その罪を裁くんだ!」
その言葉は熱を帯び、妙に胸に刺さった。
私は無意識に短剣を見つめる。柄を握る手が、僅かに震えているのが分かった。
(……確かに。今ここで園香の弟を殺したところで、正当防衛にはならない。私は人殺しになりたいわけじゃない。ここは――真鍋さんに任せるべきなのかも)
心に迷いが生じる。
怒りで我を忘れていた、と表現するのが適切か。冷静に判断していたつもりであったが、よく考えてれば彰人にも更生の余地を与えた方が良いのではないだろうか。
それで、いつか更生した彼を、園香と宗弥さんが迎える。そういう物語の方が、きっと私も納得できるはず。
(納得、できるかな――?)
この一瞬の躊躇いが、仇となる。
「ぐぅっぬ……ッ!」
勢いのある力強い呻き声。
刹那、彰人の身体がずぶずぶと床に沈み込み、半身が地中に埋まり始めた。
「なっ……逃げるつもり!?」
透過の力で床を透かして、地中に逃げようとしている。
私は慌てて距離を詰め、刃を振り下ろした。だが魔力は空っぽ。残るはただの紅い鉄の刃のみ。
その切っ先は届かず、彼の全身は床下へと沈み込み、完全に姿を消してしまった。
「――くっ、逃げられたッ!」
私は息を荒げ、空しく床を見つめた。
「くそっ……どうなってやがる。彼の力は透明化じゃなかったのか?」
真鍋さんが駆け寄ってくる。その問いに、私は冷ややかに答えてやる。
「あいつは透明人間なんかじゃないです。透過するのは光だけじゃなく、あらゆる物体――物質そのものを透過する力。だから地面を透過して、ずっと下へと逃げていったんです」
「な、なんだって……そんな強力な能力が……」
彼は信じられないというように顔をしかめた。
だが、すぐに思案する顔になる。
「待てよ。でも、下に逃げたところで何がある? 地下なんてただの基礎部分だろう」
「分からない。でも――逃げ道を用意してきたんだと思います。ここには最初から逃げるつもりで来たらしいし、何か仕掛けがあるのかも」
「……なるほど。地下通路か」
真鍋さんが低く唸る。
「先の事件でも、同じような抜け道が使われていたことがある。もしそうならば、追うのは難しいかもしれない」
「そんな……どうしてですか……?」
私の問いに、真鍋さんは唇を引き結び、ゆっくりと首を振った。
「おそらくだが……あいつが逃げた地下通路は、入り組んだ迷宮のような造りにしてあるはずだ。それに、現状では地上のどこに出入り口があるかも定かじゃない」
それは確かに、その通りだ。
私は無言で頷きつつも、胸の奥に渦巻く不満を押し殺す。――彼が邪魔をしなければ、あの場で彰人を仕留められたかもしれないのに。
だが、今さら口にしたところでどうにもならない。
「……分かり、ました」
そう答えた途端、全身の力が抜けてしまった。足元からどっと疲れがせり上がり、その場にへたり込んでしまう。
「ちょ、君、大丈夫か! どこか怪我を――?」
慌てた様子で真鍋さんが近寄り、肩に手を置いてくる。
「だ、大丈夫です……少し、疲れただけで」
かろうじてそう答えると、彼は安堵したように息を吐き、しかしすぐに眉を寄せた。
「そうか、それならいいんだが。
……すまない、俺のヘマのせいで」
「いえ。そもそも、リリアが本物のヒーローショーと勘違いして、あの男に捕まったのが始まりですから」
「いや……俺がもっと早くに奴を確保していれば、こんなことにはならなかった。――いや、そんなことよりも」
彼が真剣な眼差しを向けてきた。
「連れ去られた君の友達は? 無事なのか?」
「あっ……!」
完全にリリアのことを後回しにしてしまっていた。
真鍋さんの言葉で彼女の存在を思い出し、胸が締め付けられる。彰人との戦いで気を張り詰めすぎ、すっかり意識の外に追いやっていた。だが、何より優先すべきはリリアの救出だ。
私は重い身体を支えながら、出入り口の方を指差した。
「あっちです……リリアを、早く助けてあげないと」
指差してから、頭に一つ懸念が過ぎる。
彼女が捉えられている部屋には、中村の遺体が横たわっているはずだ。それをどう誤魔化したものか。仲間割れでも起こしたと説明すればいいだろうか。それが通らなくとも、あの男がリリアを犯して殺そうとしていたのは紛れもない事実だ。正当防衛だと主張できるはず。
まぁ……いい。
少なくとも、真鍋さんは悪人ではない。どうとでも取り繕える気がする。
私は彼の肩に身を預け、共に出口へと歩みを進めた。
熱気の渦巻くこの場を抜けた先に、まだ救い出さねばならない少女が待っている――その思いだけが、今の私の身体を動かす力になっていた。
* * *
「君、名前は?」
「えと……未綴、語です」
「へぇ、珍しい名前だな。語ちゃん……か。
俺は真鍋拓未。まぁ、警察の端くれみたいな者だ。よろしくな!」
「はい……」
いきなりの名前呼びにやや眉を顰めつつ。
そんな短い自己紹介を挟みながら、通路を早足で進む。
そうして私たちは、ついにリリアが捕らえられている部屋の前まで辿り着いた。
だが――次の瞬間には、扉の隙間から漏れ出す気配に思わず足が竦む。
それは冷気でも熱気でもない。ただ、言葉にし難い“重圧”だった。目には映らぬ影が幾重にも折り重なり、こちらの存在を押し潰そうとしているかのような。背筋を氷の刃でなぞられるような。まさしく“得体の知れぬもの”の気配が、この一帯を覆い尽くしていた。
(さっきまでこんな違和感、なかったのに。なに……これは……?)
恐る恐る扉に近付くが――
「……少し待つんだ」
隣を歩く真鍋さんが低く言い、私の前に一歩踏み出した。彼もまた警戒を強めたようだ。その背中は実に頼もしいが、胸の奥に渦巻く不安が収まることはない。
(リリア……? 聞こえる? 中にいるんでしょう? 返事して……)
リリアの無事を確かめようと、彼女に向けて念を飛ばす。それくらいの魔力であれば、この僅かな時間に辛うじて回復した。――が、返ってくるものはなかった。
沈黙。それが恐怖を煽り、喉を締め上げる。
「リリア!」
私は衝動のままに、真鍋さんを横切って、扉を押し開いた。
そして、そこにあった光景に呼吸が凍りつく。氷の刃で肺を貫かれたかのような圧迫感が身体の自由を奪い、思わず立ち尽くしてしまった。
「え……?」
椅子に縛られ、項垂れるリリア。意識はなく、首は糸の切れた人形のようにぐったりと揺れていた。
床には血痕が残っているが、中村の遺体は見当たらない。代わりにリリアの背後――彼女の髪を弄ぶように掬い上げ、不敵な笑みを浮かべる壮年の男が一人。
「おや、こんにちは。可憐なお嬢さんの登場だ。……その様子では、渡代君は負けてしまったのかな?」
低く響く声。挑発めいた挨拶。不気味な男が、薄ら笑いで私を見据えていた。
思わず短剣を構え直し、喉を震わせる。
「――あ、あなたは誰ですか!」
威嚇を込めて踏み出すが、男は動じない。むしろ愉快そうに拍手をし、私を値踏みするように目を細めた。
「いいね、合格だ。一見すれば無垢な少女……だが、その目の奥にある狂気めいた執念に、友を想うがための行動力。そして――渡代君を下した実力。いやぁ、実に面白い」
「何を言ってるのか分かりませんけど、今直ぐにリリアから離れて!」
「ん? あぁ、安心してくれたまえ」
男は桃色の髪を弄んだまま、軽く肩を竦めた。
「君の大切な友達には、少し眠ってもらっただけだ。決して、傷はつけていないよ」
「触るなっ!」
リリアが穢される――そう感じて、咄嗟に飛びかかろうとした。だがその瞬間、背後から強い腕に抱き止められる。真鍋さんだ。
「やめろ! 近づくな! あいつは危険すぎる!」
必死な声。
彼に羽交い締めにされ、今度は物理的に身動きが取れなくなる。それを振り解けないくらいに、私の身体は疲弊していた。
悔しさに歯を食いしばる。
(リリア……直ぐに助けてあげるから……)
少し頭を冷やして、改めてリリアの様子を見る。彼女の胸が僅かに動いており、呼吸しているのが分かった。どうやら男の言葉は本当らしい。彼女は眠っているだけのように見えた。
(今は少しでも情報を手に入れる!)
私は震える瞳で彼を見据え、目に力を込めてその役力を読み取った。
そして――心臓が跳ねるのを感じる。
――――――――――――――
金倉 帷
【ラスボス】80rp
:全能力と運命力に大きなプラス補正
※主人公陣営側に対しては更にプラス補正
【悪役】40rp
:悪事を働く際に、運命力にプラス補正
※【正義】を司る者に対しては更にプラス補正
【カリスマ】30rp
:周囲のものを導き魅力する力を持つ。
※組織の構成力と支配力にプラス補正
【殺戮者】30rp
:他者の命を葬ることに対して能力値にプラス補正
【超能力・パワーシフト】100rp
:超能力に分類される力の所有権を自在に操る。
※接触時間や強度に応じて成功率が変動する。
※ストック(上限なし)
【???】??rp
:パワーシフト効果により多数の能力をストック
※本来、この個体自身の役力ではないため参照不可
――――――――――――――
――あ。これは、ダメなやつだ。
一瞬にして悟った。今の自分では到底勝てない。
真鍋さんも、それとなく察しているのだろう。だからこそ必死に私を止めてくれたのだ。
(この人は……誰かの物語における――ラスボス!)
いや、正確に言えば【超能力】を扱う舞台、その領域における“ラスボス”。つまり、未だ私の腕を強く掴むこの真鍋拓未さん――【主人公】にとっての、最終的な敵なのではないだろうか?
そう考えれば、彼がここまで強い警戒を示している理由にも頷けた。
「あんた、一体何者だ。ここで何をしている……」
真鍋さんが低く問いかける。
男――金倉はわずかに首を傾げ、笑みを深めて答えた。
「……ああ、君のことはよく知っているよ。私の部下たちを次々と追い詰めてくれたそうじゃないか。確か――名前は真鍋拓未君といったかな?」
「へぇ……部下、ね。じゃあ、あんたは金倉組の幹部以上の存在ってわけか」
「ふふ……まあ、そうだろうね」
そう言って金倉はリリアの髪から手を放し、貴族紳士のように片手を胸に当て、ゆるやかに一礼した。
その仕草には、不気味なほどの優雅さと威圧感が同居していた。
「改めて名乗ろう」
低く響く声が、重苦しい空気をさらに濃くする。
「私は――金倉帷。
金倉組六代目が当主。
この国の血を啜り、骨を喰らい、全てをこの手に収める者。そして――君たちリンケージにとっては、最悪の敵だろうね」




