10話 氷点下 ①
* * * * * *
まずいまずいまずい……
やばいやばいやばいやばいやばい……
私の焦りは絶頂。
つい先刻のこと、リリアが悪い男に捕まってしまった。いや、この言い方は少し語弊がある。ナンパされたとかそういう話ではなく、自ら犯罪に巻き込まれてしまったのだ。
ナイフを握る男――役力を確認したところ名を“中村和佐“という。彼がリリアを半ば抱え込むようにしながら、じりじりと後退っていく。その視線は赤いヒーロースーツの男――真鍋拓未に釘付けだ。
「……落ち着け! ここには子どもたちもいる。彼女を放せ!」
真鍋さんが声を張るが、中村の耳にはまるで届いていない。興奮で血走った瞳をぎらつかせ、ナイフの刃をリリアの喉元に押し付けている。
「ははっ……いいねぇ、その格好。まるで本物のヒーロー様じゃねぇか! だがな、正義なんざ現実じゃ無力だ!」
「やめろ……その子を巻き込むな!」
必死に制止する声の横で、リリアはきらきらした瞳を輝かせていた。
「すごいです! まるで本物の舞台みたい! 私、悪役に捕まる役なんですね!」
――違う。全っ然、違う。
だがリリアは何の疑いも持たず、まるで役者のように従順に歩を進める。その無垢さが、かえって周囲の血の気を引かせた。
真鍋さんが一歩踏み出すと、中村はナイフを突き出し、狂気じみた笑みを浮かべる。
「近寄るんじゃねぇ! ……ははっ、どうやらお迎えが来てくれたようだ。あばよ、政府の犬!」
「……何だと? お前はこの場所に何をしに来たんだ!」
「決まってんだろ。ここで待ってりゃ、奴が迎えに来てくれる。俺はもう逃げ切ったんだよ!」
「奴……?」
真鍋さんの疑問が空を裂いた、その瞬間だった。中村の余裕を体現するかのように、状況が一変する。
「――あばよ!」
中村が残した一言の後。
彼と、彼が抱えたままのリリアの輪郭が、じわりと揺らぐ。赤、青、黄――世界の色彩が、まるで砂粒のように剥がれ落ちていく。
「な、なんだ……!」
次の瞬間。
二人の姿は、完全にこの世界から掻き消えた。
「は……?」
残されたのは、ざわめきと悲鳴だけ。
私の頭は真っ白になり、目の前で起こったことを理解できずに立ち尽くす。
だが、ただ一人。ヒーローの仮面を被った真鍋さんが、息を呑んで低く呟いた。
「まさか……透明化の能力者が、この近くに潜んでいたのか!」
赤い仮面の奥から、彼の焦燥が透けて見える。
周囲を見渡す彼の目が鋭く走るが、どれだけ探そうとも――この雑踏の中、透明化した相手を見つけられるはずもない。
「くそっ……!」
低く、悔しそうに吐き捨てる声。
そして彼は、私に向き直ると――その大柄な身体を折り曲げて深く頭を下げた。
「すまない、俺のミスだ! 君の友達が攫われてしまった!」
唐突な謝罪。けれど私の頭は、それどころではなかった。
胸がひゅっと締め付けられる。今すぐ――そう、今すぐにでも知らせなければ。
「と、とにかく、園香に……!」
まだ何も状況を整理できていない頭だが、リリアが連れ去られたことだけははっきりと理解している。そして、それを一刻も早く園香に知らせねばと、脳内で警笛が鳴っている。
ポケットからスマホを取り出して、指先が震えるのを抑えて、なんとか通話アプリを開き、登録された名前をタップする。電話は直ぐに繋がった。
『あー、語ちゃん? どうしたのよ、急に』
「そ、園香、リリアさんが!」
『……はい、なに? 周りが騒がしいから、よく聞こえないわ。リリアがどうかしたの?』
「り、リリアさんが……リリアさんが攫わ――」
――ぷつん。
耳に残ったのは、無情な通話の途切れる音。
慌ててスマホを確認すれば、黒い画面がこちらを映し返している。電源ボタンを押しても、反応はない。
「あ、終わった……」
昨夜、充電を忘れていたことが脳裏に蘇る。
こんな時に限って。いや、よりによって。
私の両手は、役に立たない板切れを抱えたまま、小刻みに震えていた。これでは園香に状況を知らせることができない……。
「どうした。俺のスマホ、使うか?」
真鍋さんがそう言って、心配そうにスマホを差し出してくる。だが、私は首を横に振った。
――そうだ、私は園香の番号を暗記していない。登録してあるスマホが沈黙した今となっては、どうしようもない。
「……本当に、すまない。俺のせいで」
再び謝罪の言葉。
その声音に罪悪感が滲んでいるのは分かる。けれど、胸に渦巻く焦りはそれ以上に私を突き動かしていた。
一拍置いて、真鍋さんはスマホを耳に当て、どこに通話を繋げる。そして低く鋭い声で告げた。
「――所長、今すぐに応援を頼めますか?」
それだけで空気が変わる。ヒーローの仮面をかぶった男は、もうただの冗談めかした人ではない。
彼は状況を淡々と報告し、迅速に指示を仰ぐ。そうして現実の『力ある側』の人間として動いていく。
……でも。
その横顔を見つめるうちに、胸の奥がざわめいた。
私は無意識に一歩退き、握った拳に力を込める。
(私が……何とかしないと)
声にならない心の叫びが喉にせり上がる。
あんな、よく分からない人に――大切な友達を任せられるはずがない!
反射的に体が動いた。真鍋さんの目を盗んで、その場から飛び出す。
走りながら、心の奥にあるスイッチを押すように意識を傾ける。
(【魔法使い】――ON!)
胸の奥に熱が灯り、全身に波紋のように広がっていく。
今の私なら、リリアが魔力を発してさえいれば、ある程度の距離まで感じ取れるはず。
(リリアさん……お願い……!)
限界まで己の魔力を集中させる。
糸のような感覚を四方に伸ばし、街路に、建物に、人の流れの隙間に這わせていく。
――けれど。
(……ダメ……見つからない……!)
奥歯を噛む。まだ練習はほんのわずか。役力を得た時に流れ込んできた“知識”はあっても、それを自在に使いこなすには程遠い。
焦りが喉を詰まらせる。胸の鼓動が早鐘のように響く。
それでも――私は立ち止まらなかった。
(考えろ……他に手は……まだ、あるはず……!)
必死に混乱を押しとどめ、次の一手を探そうと頭を巡らせる。何かないか、何かないか……?
私はそこで、一月ほど前に園香の部屋で聞いた言葉を思い出した。
彼女が、あの時ふと漏らした台詞。
『全魔力を解放して、そこに念を込めれば――たぶん、この国の半分くらいなら届くと思うわ。念に乗せた私の言葉が』
そうだ。園香は、確かにそう言っていた。
魔力に言葉を乗せる技……私の魔力量と拙いコントロールでは、せいぜい数十メートルが関の山かもしれない。
けれど、それでも――やるなら今しかない。
だって、こうしている間にもリリアはどんどん遠ざかっているのだから。
私は深く息を吸い、先ほどまでと同じように魔力を周囲に張り巡らせた。
その糸に、自分の意志と声を乗せるイメージを描く。
伝えるのは、ただ一つの言葉。
――リリアへの警告だ。
胸の奥から念じる。
(リリアさん、聞いて! その人たちはショーの演者じゃなくて、本当に悪い人たちなの! すぐに振り切って逃げて!)
祈るように目を閉じ、歯を噛みしめる。
果たして、この声は届くだろうか。
……すると。
『――か、語さん? それは……誠ですか?』
耳に、直接響く声。
確かに、リリアからの返答だった。
胸の奥が一気に熱くなる。私はほっと息を漏らしながらも、まだ油断できないと、更に念を込める。
(本当だよ! すぐに逃げて! ……振り切れそう?)
『――それが……私は攻撃用の魔法を習得しておりませんので、どうにも振り切れそうにないです! 手足を縛られておりますし。ど、どうしましょう……?』
「……え」
絶望にも似た声に、思わず言葉が漏れる。
だがすぐに意識を立て直し、必死に念を飛ばす。
(わ、分かった……! リリアさん、そのまま魔力を出し続けてください! すぐに辿り着くから!)
震える指先を握りしめる。
私の全身を駆け巡るのは、不安でも恐怖でもない――強い決意だった。
(絶対に……絶対に助けに行くから!)
* * *
魔力を追い、辿り着いたのは遊園地の片隅――ひっそりと閉ざされた建物だった。入口に掲げられた看板には、青白い氷の絵とともに大きく文字が踊る。
『アイスワールド・−30℃の世界』
その名の通り、館内を氷点下三十度まで冷やし込み、来場者が極寒を体験できるというアトラクションらしい。
もっとも、今は赤い札がかけられ「休止中」の文字が添えられているが。
(今は稼働していないはず……だけど)
胸の奥が不穏にざわめく。
リリアから発せられる微かな魔力の流れは、建物の裏手へと続いていた。
忍足で回り込み、様子を窺う。
そこにはスタッフ専用と書かれた扉があった。
(誰も……いない?)
そう思った矢先。
――ギィィ……。
誰の姿も見えないのに、扉が勝手に開いた。
そして、ゆっくりと音を立てて閉じていく。
(間違いない……ここに入った!)
心臓が一気に跳ね上がる。
敵は姿こそ見えないが、確かに中へと侵入した。
私は大きく息を呑み、足音を殺して扉へと近づいた。
掌を添え、耳を押し当てる。……けれど、内側からは何の物音も聞こえない。
リリアの魔力も、さらに遠ざかっているようだった。
(……今しかない!)
意を決し、そっとノブを押し下げる。
扉はきしみながらわずかに開き、冷たい空気が頬を撫でた。
中は薄暗く、狭い通用口の廊下が奥へと続いている。
両脇には用途の分からない機械が並び、床には清掃道具が無造作に転がっていた。
人の気配はない。けれど、ここに足を踏み入れれば――もう後戻りはできない。
私は唇を噛み、震える足を前へと押し出した。
一歩、また一歩。
暗がりの中へ、静かに、恐る恐る進んでいく。
ほんの数分が、何時間にも感じる中。
廊下の奥。蛍光灯の明かりが洩れる一枚の扉。
そこから微かな声と物音が伝わってくる。私は息を殺し、耳をぴたりと当てた。
「中村、この女、なんで連れて来たんだ?」
「いや、人質にしようと思って……そのままの流れで、なんとなく……」
「お前はバカか! どうすんだよ、こんなところで放置してたら、俺らのことを政府の連中に話されるかもしれねーし!」
「いやぁ、その。やっぱりアレじゃないですか?」
「……まぁ、だな。殺るしかねーか」
――あ、うん。やばい。
絶賛やばい。
悠長にしている暇は一秒もない。今すぐにでもリリアを保護しなければ、彼女の命が本当に危ない。
その時、頭に直接声が響いた。
『か、語さ〜ん。すぐ側に、居ます? 私、なんか、殺されそうです〜』
……いや、何を呑気に。
私はリリアの緩すぎる念を受け取りながら、飛び出しそうになる身体をどうにか抑え込む。
彼女は分かっているはずだ。私がすぐ隣にいることを。私の魔力の波を感じているはずだから。
(リリアさん、今から突入します。中の状況を教えてください!)
『か、語さん、お一人で? 園香さんはお待ちにならないのですか?』
(……事情があって、園香とは連絡が取れないので)
『……え』
そこで、ようやく彼女の余裕の正体が見えた。
――そうか。彼女は最初から、園香がすぐに来てくれると思っていたのだ。敵なんて数秒もしないうちに片付けてくれると信じ切っていた。だから慌てることもなく、何とも余裕たっぷりに身構えていたのだ。
だが現実は違う。ここにいるのは、頼りになるどころか半人前の私ひとり。
『…………か、語さんお一人では無理です! 逃げてください!』
リリアの念は、先ほどまでの呑気さが嘘のように強く、切迫していた。必死に私を逃がそうとしているのだろう。恐怖と焦り、そして優しさが織り混ざった、乱れた魔力の波長を感じる。
『ごめんなさい、私が捕まってしまったばかりに。
こんな私のために色々と良くしてくださった語さんを、危険に晒したくないのです。どうか、お逃げください!』
色々と私に対して失礼な気がしなくもないが、能力を隠しているのは私だ。それも仕方のないこと。
彼女の怯える声を聞いた瞬間、私の胸にはそれ以上に強く、“守りたい”という感情が満ちていた。
(大丈夫です、リリアさん。私に任せてください)
彼女を安心させるために、落ち着いた声を送る。
息を詰め、突入の一歩を踏み出そうとした――その時。
扉の向こうから、再び声が洩れてきた。
「……待て。何か嫌な気配がする」
「なんだ、お前の能力か?」
……はっと息を呑む。
【危険予知】――中村という男を見た際に確認できたその能力は、文字通りの代物。
もし彼が、私の存在を“危険”として感知していたなら。
よりにもよって、この突入しようとした瞬間に――気付かれてしまったのでは?
そう思い至った時には、もう遅かった。
ガンッ!
勢いよく開け放たれた扉。
真正面に立っていた私は、その衝撃をまともに受け、情けない声をあげて吹き飛ばされた。
「うぎっ……!」
背中を床に打ち付け、鈍痛が全身を走る。
冷たさがじわりと服越しに伝わってきて、視界が揺れる。必死に顔を上げたその先には――二人の男。
「おいおい……」
鋭い目つきで私を見下ろしながら、ひとりが唇を歪める。続いて隣のもうひとりが、ナイフを片手に面倒そうに呟いた。
「殺る相手が二人に増えちまったじゃねーか」
ぞわり、と背筋を悪寒が走った。
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