TargeT.8 有給休暇
* * * * * *
同日、リンケージ事務所。
朝のざわめきがまだ残るフロアの一室。窓際で、サングラスをかけた男が深々と溜息を吐いた。出勤して間もないというのに、すでに疲れ果てたような声音。
――真鍋拓未。
その姿はまるで、仕事を前に憂鬱に押し潰されるサラリーマン……いや、彼の場合はただの“拗ねた男”にしか見えない。
「ど、どうしました、拓未くん?」
気まずそうに声をかけたのは同僚のリーナだ。おずおずとデスクにコーヒーを置き、彼を気遣う。
拓未はカップを手に取り、ぐいと口を湿らせると、再び深いため息をひとつ。
「いやね、リーナちゃん。この前、セイチェさんをデートに誘ったんだけどさ……“ミミアの側を離れられないから無理”って断られたんだよ」
唐突な告白に、リーナは思わず言葉を詰まらせた。
「そ、それは……本人の前で言うことでは……」
視線の端で、部屋の対角に立つ人物に気付く。金色の髪を垂らし、背筋を真っ直ぐに伸ばす一人のメイド――セイチェだ。表情ひとつ変えずに控えているが、きっと耳はぴくりとこちらの会話を拾っているに違いない。
それでも拓未はお構いなしだった。
「……ま、まぁ、セイチェさんはミミアのお付きなんですから、デートは難しいのでは?」
リーナが恐る恐る口にすると、拓未はすぐさま反論を繰り出す。
「なんで? ミミアだけが魔力を打ち消すために、リーナちゃんの側にいればいいじゃないか。そうすれば、セイチェさんは俺と出かけられる。
ミミアがリーナちゃんから離れられないのは仕方ないけど、セイチェさんならいつだって俺とデートできるはずだろ」
不満を隠さずにまくしたてる拓未。その言葉自体は筋が通っている。だがリーナには、セイチェの真意が分かっていた。
――要するに“口実”だ。ミミアを理由にしてでも、拓未と二人きりにならないようにしているのだろう。
リーナが返答を迷っていると、その空気を破るようにして、唐突に元気溢れる澄んだ声が響いた。
「リーナよ! 我もカフェオレが飲みたいのじゃ!」
部屋の一角で携帯型ゲーム機を握ったまま、ミミアが無邪気に叫ぶ。まるで、退屈な雰囲気を吹き飛ばす風のように。
リーナが慌てて返事をしようとしたが――その前に、セイチェがすっと前に出た。
「お嬢様、そうしたことは私にお任せください。リーナ様のお手を煩わせてばかりでは……」
「ふむ、それもそうじゃの。
ではセイチェよ、カフェオレを頼むのじゃ」
「承知いたしました」
丁寧に一礼して、静やかに淹れに向かうセイチェ。その動作は一分の隙もなく、まさに『完璧な侍女』の姿そのものだった。
そんな彼女の後ろ姿を眺めながら、拓未がサングラスの奥で目を細め、リーナへとひそひそ声で問う。
「……なぁ、リーナちゃん。二人との生活、うまくやれてる?」
「え、と。そうですね。わ、私が……家事をする機会が、ぐっと減りました。……ぜ、全部、セイチェさんが……」
リーナは小さな声で答えながら、ほんの少し肩を落とす。家事に手を出す余地すら与えられないのだ。もはや自室の主導権がセイチェに握られている。
「さすがだよな、セイチェさん。家庭的で唆るぜ……」
拓未は呟きながらも、視線は窓の外へと逃がしていた。その頬にわずかな熱を浮かべながら。
「……ところで、ミミアはどう過ごしてる?」
「そ、その……へ、部屋で。ゲ、ゲームを少々……」
リーナが視線を逸らしながら答える。
その内容に拓未は一瞬言葉を詰まらせ、次いで乾いた笑みを浮かべた。
「……お、おう。そうか」
微妙な間が落ちた。
朝の光が窓を透かし、机に差し込む。室内には、ただミミアのゲームに熱中する小さな声だけが響いていた。
* * *
「――お前たち、不味いことになったぞ」
低く響く声が、事務所の空気を一変させた。
扉を押し開けて現れたのは所長、すなわち彼らの上司である太刀房原二。眼鏡の奥で光る瞳は鋭く、普段以上に威厳を帯びている。
「事件ですか、所長!」
誰よりも早く立ち上がったのは拓未だ。机に手をつき、待ち望んだ獲物を前にした犬のように身を乗り出す。
だが、その期待はあっさりと裏切られた。
「今期の有給消化率だが……我々の部署が最下位だ」
「――へ?」
「よって、本日は強制的に、有給消化のために休みとする。金倉組の件については別班に引き継がれている。続報が入り次第、追って知らせる」
宣告のように淡々と告げる原二の言葉。
唐突に降ってきたのは、戦場でもなく緊急招集でもなく――ただの『強制有給休暇』だった。
拓未は思わず固まる。せっかく眠気を振り払い出勤したというのに、今から帰れとは……この肩透かし感に、呆れを通り越して言葉を失った。
「そ、その……所長!」
おずおずと手を挙げたのはリーナ。声には焦りが混じり、視線は所在なげに揺れている。
「わ、私が以前、調査を依頼した“写真の少女”……あの件の足取り、どうなりましたか?」
それは温泉街近くの山中で彼女が遭遇した二人の謎の少女。その姿を辛うじてカメラに収め、事務所へ報告したのだ。リーナは調査班に回されることを期待していた。
だが所長の答えは冷ややかだった。
「リーナ君が遭遇した能力者二人も気になる案件だが、今は金倉組と脱獄囚の追跡が最優先だ。――そちらの件に関しては、今しばらくかかるとだけ伝えておこう」
「そ、そう……です、よね……」
肩を落とすリーナ。少女たちを取り逃がしたという失敗を、早く取り戻したい一心だったが。それもまだ先のことらしい。
そんな空気を吹き飛ばすかのように、ミミアがカフェオレを飲み干してから立ち上がった。
「ではリーナよ! 早く家に帰ってゲームの続きじゃ! 今日こそは、我が完勝してやるのじゃ!」
高らかに笑う王女様。使命も憂慮もどこへやら、頭の中はすっかり勝負事でいっぱいの様子。
「……は、はい……」
リーナは苦笑いを浮かべながら、胸の内で密かに嘆息する。――この異世界の王女は、勇者探しをすっかり忘れてしまったのだろうか。
そんな空気の中で、今度は拓未がパチンと指を鳴らした。その仕草に視線が集まると、彼は胸を張り、大げさに宣言する。
「待て待て、ミミア。せっかく皆で休みなんだぜ? こんな珍しいことはない。なら、一緒にどこか遊びに行くのが吉だろ」
「ふむ、一理あるのじゃ。して、拓未はどこに行きたいと申す?」
「――そりゃ勿論、遊園地だろ」
拓未の声に迷いはなく、妙に力強い。
一方で「遊園地」という単語に、ミミアは小首を傾げる。
「ゆう……えんち?」
その純粋な眼差しに、拓未は敢えて説明を省き、唆るように笑んだ。
「大人も子供も楽しめるところさ。行けば分かる。きっと気に入るぜ」
「ほう……そこに美味い食べ物はあるのじゃな?」
「そりゃあもちろん! 少し割高だが、この際気にしない。俺が奢ってやるよ」
「ほほう?」
ミミアの口元が緩み、瞳が悪戯に細まる。遊園地とは娯楽施設ではなく、どうやら『美食の館』だと勘違いしているらしい。すでに脳内は食べ物でいっぱいだ。
「ふむふむ……よし、分かったのじゃ。セイチェ、それにリーナよ! 我は遊園地に行くのじゃ!」
「はい、お嬢様! 英断でございます!」
セイチェが即座に応じ、忠誠心のこもった声を響かせる。
一方でリーナは――小さく顔を引きつらせた。
「え……その……え……い、嫌です。そんな人の多いところ……わ、私には、む、無理です……」
彼女の声は蚊の鳴くように小さかったが、確かな拒絶の色を帯びていた。
だが、その様子を見たミミアの顔が、にやりと歪んだ。
「なんじゃ、リーナ。我の頼みを断る気なのか?」
「ひっ……!」
ぞわり、と空気が変わった。王女としての気高さではなく、まるで玉座から臣下を睨みつける“魔王“のような威圧感。
背筋を走る寒気に、リーナの頬から血の気が引いていく。
「そ、そんなつもりでは! た、ただ私は、人の多い場所が苦手で……!」
「ふーむ……なるほどなぁ」
ミミアの声音が低く沈む。まるで処刑宣告を待つような間。リーナはがくがくと震え、今にも泣きそうな顔をしていた。
その肩に、セイチェがそっと手を置く。
「リーナ様……」
「セ、セイチェさん……」
「どうか……お嬢様とご一緒して差し上げてください。リーナ様がいてくださらないと、お嬢様の自由が保障されませんので」
セイチェの声は、忠義と心配が入り混じった響き。そのままトドメを刺すように続ける。
「お嬢様の給仕を行う手前、リーナ様に代わってお食事の用意、洗濯、清掃は全てこの私――セイチェが遂行しております。この意味が、お分かりでしょうか?」
リーナは一瞬だけ目を丸くする。そして察する。ここでミミアの希望を叶えないならば、セイチェが家事をやめてしまう。つまりは、リーナの自堕落生活に終止符がうたれるということ。――それは何としてでも阻止せねばならない。
「い……」
「い?」
「い……いき……」
「いき?」
「行きます! ぜひ、行かせてください!」
ついに屈したリーナから、懇願に近い言葉が出る。
隣で拓未が苦笑いを浮かべた。
「リーナちゃん、君って奴は……」
呆れ声。拓未の反応に、冷静になったリーナが顔を真っ赤にしながら、その場で膝を抱えて丸まってしまった。
ミミアが再び口元を歪めて、更に追い討ちをかける。
「よし、決まりじゃな。リーナも一緒に行く。これは命令じゃ」
威圧と脅迫。リーナに逃げ場など残されてはいない。
彼女は顔を上げることすらせず、短く答えた。
「……わ、分かりました……」
「はーっはっは! 良いぞリーナ! よくぞ我の期待に応えた! これで楽しい遊園地の始まりじゃ!」
悪魔の所業と言わざるを得ない。
まぁ、何にしても目論見通りに遊園地に行くことになった一同。拓未が口笛を吹きながら、サムズアップをする。
「よし、決まったな! じゃあさっそく行こうぜ!」
「……なんで、こんなことに……」
リーナの小さな嘆きは、誰にも拾われることなく、喧噪の中に飲み込まれていったのだった。
そして一同、退室。
残された原二が彼等が出た扉を見つめて、小さな溜息を吐く。
「この事務所も随分と騒がしくなったもんだ……」




