8話 馬車馬
* * * * * *
ゴールデンウィークが明けて、久方ぶりの大学。
いつもなら、眠気を引きずる足取りで、ただ淡々と坂を登っていく朝のはずだった。
けれど今日の私は違った。胸の奥に、小さな火が灯っている。その理由は単純だ。
――大学に行けば、友達がいる。
これまで独りで過ごし、言葉を交わすことすら億劫だった私の毎日。けれど、これからは違う。そこに園香がいる。たとえ彼女が大学では“完璧な優等生”を装っているとしても、私にとっては紛れもなく、初めてできた“学友“なのだ。
そう思うだけで、少しだけ心が温かくなっていた。
「なにボーっとしてるの。行くわよ」
「へ?」
思考の余韻を吹き飛ばしたのは、背中に落ちた軽い衝撃。
バスを降り、講義棟へと続く坂道の前で、ぽんと私の背を叩いたのは――今しがた心の中で思い描いていたその人、渡代園香であった。
「そ、園香。良いの?」
「良いって、何が?」
「だって大学では、優しくて気さくな“美人大学生”を演じているのに……私なんかと一緒にいて、いいの?」
そう。彼女は大学では本性を隠し、誰にでも分け隔てなく微笑む、才色兼備の“高嶺の花”。
そんな彼女が私なんかと一緒に歩けば、その完璧な像に陰りを落としてしまうかもしれない――そう思って、私は内心、学内で言葉を交わせる機会は少ないと覚悟していた。けれど――、
「嬉しい。園香から話しかけてくれるなんて」
自然と口をついて出た本音に、園香はわずかに目を見開き、次いで顔を赤らめた。
「……くっ、可愛いわね、語ちゃん」
揶揄い半分の言葉なのだろう。けれど、私の胸の奥まで真っ直ぐ届いてしまう。熱が頬に広がる。
だがその直後、園香の表情は一転して鋭さを増した。
「――でもね、語ちゃん。あの日の約束は、まだ続いているから」
「あの日の……約束?」
「ええ。初めて話した日のこと。覚えているかしら?」
ぞくり、と背筋に冷たい汗が滲む。
彼女の声音に含まれる重みを、私は知っている。
「あの日、私は言ったわよね。他の人に余計なことを話したら――あなたを“火炙り”にするって。ちゃんと覚えてるわよね?」
私は、こくこくと必死に頷いた。
まるで、すでに身体の半分ほどを火にくべられたかのような錯覚を覚えながら。
(あれ……これって本当に友達、なんだよね?)
一瞬、そんな迷いが脳裏を掠める。けれど、彼女がこうして私に声をかけ、隣に立ってくれているという事実が――不思議とその疑念を吹き飛ばしてくれた。
「ほら、遅れるわよ。一限目の先生は遅刻に厳しいんだから。そろそろ出席確認が始まるわ」
「は、はいっ!」
そうして私たちは並んで坂を登る。
新緑に包まれたキャンパスの道は、これまでよりも少しだけ鮮やかに見えていた。
* * *
久々の講義だからかあまり集中は保たず、ノートに意味のない落書きを増やしながら過ごし。気付けば太陽が真上に上がる頃、ようやく長い講義が終わり、昼休みのざわめきが室内を包み込む。
園香は私に一度だけ目配せをすると、迷いなく自分の“いつものグループ”へと歩み寄った。女子学生たちの中心に立つその姿は、やはり堂々としていて、誰もが自然と彼女に視線を集めているように見える。
何やら二言三言、短く交わす声が耳に届いた。彼女が微笑んだ瞬間、周囲の空気がふっと和らぎ、笑い声が漏れる。やっぱり、学内での園香は私の知る“彼女”とは少し違う。完璧で、誰からも愛される理想像。
けれどその彼女が――今度は私に向き直り、軽やかな足取りで戻ってきた。
「私、今日は語ちゃんと一緒にご飯を食べるって言ってきたから。一緒に食堂に行きましょう」
「え、そんなこと言って大丈夫なの?」
思わず戸惑う。
彼女は大学では“高嶺の花”。そんな彼女が私と一緒にいるところを見られたら、どう思われるのだろう。陰口を言われてしまうのではないか。胸の奥に小さな不安が芽生えた。
けれど、園香はあっさりと肩をすくめた。
「なんで友達と食べるのに、誰かの許可をもらわないといけないのよ。ほら、さっさと立ちなさい。早く行くわよ」
「は、はい……」
その強さに、少し救われる。
ちらりと園香の友人たちの方を盗み見れば、不思議そうにこちらを眺めていた。だが、想像していたような冷たい視線ではなかった。どこか柔らかく、静かな好奇心を帯びた眼差しで。ほんのわずかに胸が軽くなる。
「園香、何て言ったの?」
「いちいち、何でも気にするんだから、語ちゃんは……。
出身が一緒で、たまたま里帰りの日に会って仲良くなった。だから今日は語ちゃんとお昼の約束をしているって、言ったのよ。あなたも話を合わせなさいよね」
「……そっか。園香はすごいね……私が悩んでいたことを、そんなに簡単に解決してくれて」
「悩むって、何を?」
「その……大学では、あまり園香と話せないだろうなぁって思ってて」
「なにそれ? そんなに私と話したかったの?」
「え、あ、その……うん」
「……語ちゃん、あなた女誑しの素質があるわね」
呆れたように吐き捨てる言葉。けれど、彼女の頬は赤く染まっていた。
なぜか分からないけれど、最近、こうして照れる彼女を見る機会が増えた気がする。普段は強気で、周囲を圧倒する彼女が――ふとした瞬間に見せる、本当の姿。
私はその表情を大切にしたいと思い、自然と彼女の袖をそっと摘んで隣に並んでいた。
「ありがとう、園香。私と友達になってくれて」
「うっさい。あんまり調子に乗ってると、あなたが私の部屋で涎を垂らしながら寝ていた時の写真をばら撒くから」
「ん? ……え? な、なんでそんな写真が」
「そんなの決まっているでしょう? いざという時にあなたを馬車馬のように働かせるためよ」
「ひ、酷い……」
ああ、やっぱり。
やっぱり園香は園香なのだ。意地悪で、周到で、そして――それでも本心ではとても優しい。照れ屋で、誰より勇敢で、私やリリアの前でだけ少し素直になる。
そんな彼女は『勇者』という大仰な言葉よりも、ただの“可愛い女の子”として見た方が、ずっとしっくり来る。
もっと知りたい。彼女のことを。
彼女を守る力になりたい。案外、私には馬車馬の役がお似合いなのかもしれない。だとすればその役を喜んで……とまではいかないが、なるべく引き受けてもいい。
「精一杯、頑張るね、園香」
「あ、うん。今の録音しておいたから」
「酷いっ!」
彼女は本当に、少しだけ意地悪で――けれど、だからこそ、こうも魅力的に映るのだろう。
* * *
食堂の隅。昼下がりのざわめきから少しだけ隔てられた二人席。
窓際から差し込む淡い光に照らされながら、私はいつもの『だしラーメン』に箸を伸ばしていた。湯気に乗って漂う香りが、心の奥まで染み渡る。こんな場所で、園香と肩を並べている――その事実が、まだ信じられない。
「昨日、リリアが言っていた転移可能地点になりそうな場所――というか魔力の濃い場所ね」
不意に、園香がスマートフォンを差し出してきた。
画面には地図アプリといくつもの赤いピン。彼女の白い指先が一つひとつを示していくたび、胸の奥が小さく鳴った。
「心当たりのある地点をいくつかマーキングしておいたから」
「すごい……この近くにも、あるんだね」
「近くって言っても、何駅か挟んでだけれどね。私は講義がない日とか、土日を使ってこの辺りを巡るつもりだけれど。語ちゃんはどうする?」
「へ? もちろん、一緒にいきますよ?」
迷いなんて、最初からなかった。
むしろ彼女をひとりで行かせる方が、よほど怖い。
「そう。でも良いの? 私と一緒にいたら、この前の金髪の女みたいな連中に、また追われるかもしれないわよ!」
ラーメンの湯気越しに、彼女の鋭い瞳が私を射抜いた。
それは気遣いと、警告の眼差し。
だが、私の返事は決まっていた。
「大丈夫です、私も行きます!」
きっぱりと告げると、園香は僅かに目を細め、そしてふっと微笑む。
「やけに張り切っているわね。ま、やれるだけのことはやるって、リリアに約束したものね」
箸を置き、スマホを覗き込みながら二人で予定を詰めていく。
この日はここを調査して、その次の休みにはあちらへ――。
まるで旅行の計画を練っているかのようで、胸が高鳴った。
(こんな風に予定を合わせて……園香と一緒に歩けるなんて)
気づけば頬が緩んでいたらしい。園香が怪訝な顔をして私を覗き込む。
「語ちゃん、なんでそんなニヤニヤしているの? あなた、気持ち悪いわよ」
「え、その、そんなことは。ただ、なんだかプチ旅行みたいな感じで、楽しいなって」
「真面目な話なんだけれどね。ま、楽しみながらの方が気も楽か。何かあった時は優秀な盾も側にいることだし」
「それって……私のことじゃないよね?」
「さぁ? それはどうでしょう。まぁ、なぜとは言わないけれど、服の下に鉄板を仕込んでおくことをオススメするわ」
「疲れたら、おんぶしてもらえますか?」
「嫌よ、重たいじゃない」
そんな軽口の応酬。
食堂の喧噪の中で、私たちは互いの目を見つめて、思わず小さく笑い合った。
ほんのひととき。けれどその時間は、静かな幸福に包まれていた。
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