TargeT.3 廃トンネルで
* * *
拓未が山の麓に辿り着いたとき――そこに広がっていたのは、すでに“事が終わった後”の静けさだった。
警戒線の外側に設けられた臨時の指揮所では、無線が飛び交い、隊員たちが慌ただしく走り回っていた。その光景を遠巻きに眺めながら、拓未は小さく舌打ちをこぼす。
「やれやれ、到着が完全に後手になったか……」
空は薄墨を溶かした藍をまとい、山の稜線がじわりと夜に沈み始めていた。生温い風が岩肌を擦り、木立の奥から一声、カラスの乾いた鳴きが返ってくる。
すでに状況は収束しつつある。だが、それは同時に――完全な“敗北”を意味していた。
あらかじめ刑務所側へ通達を入れていたとはいえ、敵の動きは想定を遥かに超えていた。
脱獄阻止のために別の施設へ護送予定だった幹部の男は、まるでそのタイミングを予知していたかのように、外側からの襲撃と地下からの“増援”によって解放されてしまったのだ。
そう――敵は、幹部の秘密裏な脱獄など、最初から狙っていなかった。
改めて。組織名は『金倉組』という。
彼らは外部からの正面突破と、地下に掘られた隠しルートによる内部からの連携で、刑務所を挟撃したのである。
その狙いはただ一つ――最大限の混乱。
現地からの報告によれば、既に確認された死者は二十一名。負傷者はその倍を超えた。
さらに事態を悪化させたのは、彼らが幹部だけでなく、刑務所に収監されていた全犯罪者を一斉に解放して逃走させたことだった。
囚人たちは山中、市街地、さらには工事現場の地下道を通じて、四方八方へと散っていったという。
まさしく“囮の嵐”だった。
脱獄に必要な一人を逃すために、何十人もの囚人を囮としてばらまく。そして組織の要人は『透明化』の能力を使って逃げる。もはや誰がどこへ向かったかなど見当もつかない。
リンケージは急遽、警察と合同で広範な捜索網を展開し、山中と周辺の市街地にまで警戒線を張り巡らせていた。
無論のこと、第一に守るべきは市民の安全である。いかに混乱が広がろうと、一般人への被害を最小限に抑えることが最優先だった。
「やっと山に着いたはいいが、闇雲に探しても意味ないよな、これ……」
ぽつりと零した独り言は、誰にも届かず山の風に呑まれていった。自嘲混じりの口調だった。
今、彼が任されているのは、“すでに失敗した作戦”の後始末だ。目的は、逃げた幹部の再逮捕ではなく、その痕跡を追い、少しでも多くの情報を得ること。残念ながらリーナがこの場に居ないのでは、誰も透明化の能力を破ることはできないからだ。実質、幹部の再逮捕は不可。
調査過程で、ついでに他の囚人達を捕らることができたらラッキー、程度のお粗末な対応。だが、それも仕方のないことだ。それほどまでに、敵は周到だった。
(あの所長が、ここまでしてやられるとはね……)
拓未は、思わず脳裏に浮かんだ男の顔に、軽く肩をすくめた。
鬼のように恐れられる男――所長、太刀房原二。その彼が現場で指揮を執っていたにもかかわらず、この有様。
(いや、敵が何枚か上手だったってことか。まさか……穴を掘っての脱獄と聞いたあとに、大規模な襲撃なんて。誰が予想できる?)
してやられたのは拓未自身も。尋問を行った青年の言葉を信じて、秘密裏の脱獄計画であると思い込んでしまった。いや、あるいは青年も事の詳細を聞かされていなかったのだろう。
地面の下に潜みながら、何週間も、あるいはそれ以上の歳月をかけて準備された計画。魔法でも科学でもない、超能力――それも『掘削』という極めて地味で目立たない能力によって構築された脱出路。
それを、現代日本の刑務所が防ぎきれるはずもない。
拓未はポケットからスマートフォン取り出し、時刻を確認する。十八時前――もう夜と言っても差し支えないだろう。
薄闇の中、枯れ草を踏みしめる音だけが妙に耳を擽る。
この先に広がるのは、廃線となったトンネル群――すでに数十年前に閉鎖され、地図にも記されていない“抜け道”だ。他の隊員からの情報では、山の外側から囲い込むように調査を進めているため、まだこの場所は誰も足を踏み入れていない。
もし、敵や、その幹部が今も潜んでいるとすれば――おそらく、その奥。
だが、それを確かめるには、自らその闇の中へと踏み込まねばならない。それもまた、“超能力者”という名の異形と戦う者の宿命だった。
* * *
標高の高い山の中腹、風通しの悪い廃トンネル。地元では心霊スポットとして一部の界隈に知られているそうだが、余程の物好きでない限りはここを訪れる者はいないだらう。――その奥から、かすかな灯りが漏れていた。
どうも、人の気配がある。その正体が物好きな輩なのか、拓未の求めるターゲットなのかは分からないが。
彼は足音をあえて消さず、コツコツとリズムを刻みながら進んでいった。こういうとき、隠れて近づくのは却って警戒を煽る。だから、あえて堂々と入っていくのが正解だ。
ただし、照明は使わない。使っているのは己の視力のみ。サングラスを外すことすらせず、しかし拓未の視界はこの暗がりの隅々を捉えていた。
やがて、彼の視界に入ってきたのは、膝を抱えて座る少女と、それに寄り添う金髪の女性。
服装は――西洋のお貴族様のような服装と、そしてクラシックなメイド服。趣味がぶっ飛んでやがる、と内心で独りごちる。どうやら物好きな輩の中でも、更に想像を超えた人種のようだ。
拓未が、彼女らの注目を集めるために、口笛をひとつ。
「なんだお嬢さん方、こんなところで夜を明かそうってか? 訳ありみたいだなぁ」
その瞬間、金髪の方――メイド姿の女が、風のような速さで立ち上がる。どうやら警戒心を軽くする思惑は外してしまったらしいと、拓未は軽く肩をすくめた。
(に、しても。どうも場慣れしているというか、只者じゃないな、このメイドさん……)
ただの演技派メイドという訳ではなさそうだ。少なくとも、趣味のコスプレでこのような格好をしている――という線は消しても良さそうだ。
「……名を名乗りなさい。あなた、何者ですか?」
声のトーン、重心の低さ、間合いの取り方。これは……殺し合いを知っている連中のそれだ。拓未は思わず後退りしそうになるが――だからこそ、笑って返す。ここで強気を崩してはいけない。
「俺か? 俺は真鍋拓未、男、三十六歳。そして彼女募集中だ。絶賛、その候補となる女が目の前にいて、テンションが上がりまくっているところだ」
当然、即座に反応が返ってくる。具体的には鋭い視線。
同時に――もう一人の方、ピンク髪の少女が、すっと前に出てきた。その顔には、ただの警戒とは違う、何か別の読みが宿っている気がする。
「真鍋……拓未……
この世界の人間の名じゃな。我らに何の用じゃ?」
“この世界の人間”という妙な言い回しに、拓未は思わず眉を顰める。とりあえず、もう少し情報を引き出す必要があるだろうと、会話を続けてみる。
「ん? そっちは名乗り無しか。やれやれ、まずは挨拶ってもんだろ?
まぁ、いい。こんな場所で妙なお姫様とメイドさんに出会うなんて、男としては話しかけないわけにはいかんのよ」
拓未は正直者ではないが、無駄な嘘はつかない主義だ。これは本心からくる言葉だった。興味本意と、彼女らを心配しての言葉……。
だが、そんなものは彼女らに通じない。メイドの女が益々表情を険しくして、拓未に問う。
「あなたはどうしてここに? 何か、人を探しているようにも見えましたが。まさか、私たちのこと?」
直球。
サングラス越しでも伝わるその鋭さに、思わず笑みが漏れる。……一つ、情報を引き出せた。
「へぇ、おたくら、誰かに追われてるのか。
……まあ、そんなところに俺みたいな奴が現れたんじゃ、追手に見えるわなぁ」
視界の中心で、空気が揺れるのを感じる。その瞬間に、緊張の質が変わった。何か、目に見えない特殊な力が、メイドの女の手に集まっている感覚。
けれど、ピンク髪の彼女が、手を挙げてそれを静止させた。
「待て、セイチェ。まだ敵と決まったわけではない」
理性的で、観察眼もある。状況判断の速さも申し分ない。拓未は素直に目を見張る。
「お、話のわかるお姫様だ。さすが、目が利く」
そして、ほんの少しだけ――真面目なトーンに変えた。
「ま、冗談はここまでにしとく。俺は確かに、ちょっとした組織に属してる。おたくらみたいな『異質な存在』を追う仕事をしてるってわけさ。
だが、生憎と今回のターゲットは別でねぇ。たまたまそのターゲットがここいらに逃げたんで、探してたのよ」
もちろん嘘は言ってない。
ただ、全部を話してないだけだ。途中で明らかにターゲットではないことを確認してから、彼女らに接触した。だが、そんな事をわざわざ打ち明ける必要はない。
「んー、だから正直、おたくらを今すぐどうこうしようってわけじゃない。情報交換……ってことで、どうだい?」
ここまでくれば、互いのカードはある程度見えてきた。
あとはメイドを制した幼い少女の反応が、今後を左右するだろう。
彼女は少しだけ考える素振りを見せてから、一つ頷く。
「よかろう。我らも必要以上の敵を作るつもりはないゆえな。ただし、余計な詮索をするならば、命の保証はせぬ」
ピンク色のツインテールがわずかに揺れる。
第一関門クリア。脅しは当然。でも、それが“理性的な脅し”であることが肝心だ。向こうも、情報が不足している中で下手な手を打てないということだろう。
拓未は彼女の言葉に満足し、両手を広げて戯けてみせる。
「こえーなあ。でも、そういうの……嫌いじゃない」
少し空気が緩んだところで、ちゃぶ台をひっくり返すように、もう一発かましておく。
「ところで、彼女募集中ってのはマジだ、絶対に幸せにしてみせる。どうだ?」
空気が凍る。
いや――当然のごとくブチ切れられた。
「だ、誰が、そなたのような軽率な男を娶るものか!」
ピンク髪の少女が口元を引き攣らせながらそう答えた。
だが、すぐに切り返す。
「おいおい、“娶る“ってのは、男が女を妻に迎えるときの言葉だ。それに俺はロリは専門外だ。
俺はな、そこの金髪メイドさんに言ってんの。男はみんな、金髪メイドさんが大好きなんだぜ?」
その瞬間、二人の顔が揃って固まった。
そして、メイドの方――セイチェと呼ばれた女が、耳まで真っ赤にして反応を爆発させた。
「わ、わたひ、でふか……?」
破壊力満点の反応に、それを引き出した本人である拓未が、思わず息を呑む。これは――あまりにも可愛すぎるだろう、と。
けど、次の瞬間、主であろうピンク髪の少女が更に前に出てくる。
「よさぬか、真鍋とやら!
セイチェはこの年になっても男を知らぬ清い存在なのじゃ! あまり揶揄うでない!」
「……え? そうなの!
あー、その。それは、悪かったよ。ちょっと軽口が過ぎた。悪意はなかった、謝る」
「……お嬢様のご命令がなければ、今すぐ地に埋めておりました……」
セイチェが膝をついたまま、そんな物騒なことを呟いた。だが、彼女が本気で攻めてきたとして、自分に敵うはずはないが――と拓未は思考を過らせる。
場を収めようと、主の少女が改めて話しかけてくる。
「……さて、それで真鍋とやら。
我らは、そなたの言うターゲットらしき人物は見かけておらぬ。それ以上に、何の情報がほしいのじゃ?」
拓未は肩をすくめて、その場に腰を落ち着けた。
「あー、それはいい。そっちは期待してなかったしな。俺が言った『情報』ってのは、ちょっと言い過ぎたわ。……俺が知りたいのはな、おたくらが今、命の危機にさらされてるかどうか――それだけだ」
「……?」
少女が首を傾げる。
まぁ、そうなるよな――と拓未。
「……なぜ、そんなことを聞く?」
少女の問いに、少しだけ視線を外す。
この質問だけは、ちゃんと答えておきたい。拓未の信念に関わる部分だから。
「俺はな……正義の味方になりたくて、今の仕事をやってるんだ」
拓未が徐に、そして、恥ずかし気に話す。
だが、その目はどこまでも本気の光を宿しており、しょとメイドを真っ直ぐに捉えていた。こういう場面で、ごまかすようなことはしない。
「現実ってのは、まぁ、理屈じゃ割り切れないことだらけだ。でもな、女二人が身を寄せ合って、こんなジメジメしたトンネルで寒さに震えてるのを見たら……俺としては、放っておけねぇんだよ」
灯りが揺れる。二人の視線が、少しだけ変わった。
「……口先ばかりの軽い男と思っておったが」
凛とした声が、静かに届く。
「どうやら、その中身は……ほんの少しだけ、信用に値するやもしれぬの」
「ほんの少しだけ、ってのが辛辣だけどな。まぁ、悪くない評価だ」
今はそれでいい。ただ、ほんの少しだけ信じてくれる心を持ってくれたなら、全力で護るために動いてやれる。
拓未は決意を固めて――そして、ラスト一言。本気で、そして優しさを込めて放つ。
「どうだ、二人とも。よかったら俺に、保護されてみないか?」
……。
……………………。
「じゃが断る!!!」
少女の威勢のいい言葉が、トンネル内にこだました。




