6話 甘い関係
* * *
「なに盛り上がってるのよ」
しばらくすれば、部屋着をまとった渡代さんが戻ってくる。どことなく、仲間はずれにされて不満そうにする少女の顔にも見える。渡代さんは意外と寂しがりなのかもしれない。
「あ、いえ、リリアさんが、向こうの世界では目玉焼きに果物のジャムをつけて食べるっていうから、少し驚きまして……」
「そ、そんなに驚くようなことなのですか?」
「素直に気持ち悪いわ、リリア……」
「そ、そんなぁ……」
渡代さんの蔑むような目に、リリアが撃沈する。まぁ、私も同意見だ。目玉焼き論争は友人間でしばしば勃発するトークであると聞くが、この答えが返ってきた例は、おそらく他にないだろう。
リリアは悔しそうに目を伏せていた。味覚が根本的に違うのだろうか。こちらの世界の料理も美味しそうに頬張っていたが……。
渡代さんが徐に溜息を吐く。
「卵を使ったスイーツが食べたいなら……仕方ないわね。私が作ってあげるから……」
彼女はそれだけ言うと、面倒そうにエプロンを着用して台所に立った。突然の提案に私は驚くが、リリアが目を輝かせているので、そっとしておく。
「園香さんは、お菓子作りもされるのですね! 素晴らしいです!」
「……はぁ。良かったら、一緒にやる?」
「よ、よろしいのですか? 私、一度も調理器具を触ったことがございませんが……」
「……でしょうね。ま、せっかくだから本格的なお菓子作ってみましょ」
渡代さんはそう言って、冷蔵庫から卵と牛乳、バターを取り出した。キッチンカウンターの上には、小麦粉と砂糖も並んでいく。
「シュークリーム、作るわよ」
「しゅー……くりぃむ……? なんと神秘的な名でしょうか!」
リリアが身を乗り出す。渡代さんは苦笑しながら鍋に牛乳と水、バターを入れて中火にかけた。
「まずはシュー生地ね。これは私なりにアレンジした、シュークリームを簡単に作るためのレシピよ。語ちゃんも興味あったら、メモに残しておくことね。
おっとっと……リリア、沸騰したら火を止めて――」
「は、はい!」
その指示の通り、リリアが火を止める。渡代さんはそのまま彼女に木べらを持たせて、必要量を計りとった薄力粉を熱い鍋の中へと投入する。
「はい、すぐに混ぜる!」
「えっ……わっ……こ、これでよろしいのでしょうか!」
「力を入れて、しっかりと混ぜて。中火で三十秒よ」
渡代さんの真剣な声に、リリアも思わず背筋を伸ばす。
「これはまるで……魔法薬の練成のようです……っ!」
「いや、違うから。普通に料理だから」
冷静なツッコミを入れながら、再度火を止めた鍋に溶き卵を少しずつ加える。
リリアは黙々と木べらを回し続け、やがて生地は滑らかになっていった。
「よし。絞り袋に入れて、こんな感じで絞るの」
渡代さんが一つ見本を見せると、リリアはおそるおそるクッキングシートの上に円形の渦を描いていく。
「むむ……まるで……風属性の魔法陣のような……」
「リリア、魔法から離れなさい」
ふたりのやりとりに、私は苦笑いを浮かべて見守っていた。
しばらくすると、オーブンが二百度に達し、シュー生地が中へと送られる。私も少しだけ手伝わせてもらった。
「さて、ここからは……絶対にオーブンの扉を開けちゃダメよ?」
「なぜです?」
「シュー生地はね、途中で扉を開けるとしぼむの。……気圧が変化して中の蒸気が逃げるから、ふくらまなくなるのよ」
「なるほど……奥深いですね」
そうなのか、知らなかった。いや、まずスイーツ作りなんてしたことすらないが。
私が関心しているうちに、二人はカスタードクリーム作りへと移っていた。卵黄と砂糖を混ぜ、粉を加えてなめらかになるまで丁寧に泡立てる。そこにバニラを香らせた温かい牛乳を少しずつ加え――。
「これも……匂いだけで幸せになりますね……」
「後半、焦がさないようにね、火加減見てて」
絶えず混ぜるリリアの額に、うっすらと汗が滲んでいた。私はそっとハンカチを差し出す。
「ありがとう……語さん」
やがて、つややかに輝くクリームが鍋の中に完成する。冷やし、泡立てた生クリームと混ぜ合わせれば――いよいよ、最終工程。
「ねえ、リリア」
「はい?」
「……あなた、やっぱり魔法とか戦いより、こっちのほうが向いてるんじゃない?」
渡代さんの不意な一言に、リリアが瞬きをした。
「……それはつまり、王族より料理人の方が……?」
「違うわよ……いや、まあ……うん……そういう感じよ。
あなたに争いごとは似合わない」
「そう……ですね。実は私も、そう思います!」
ふたりが揃って笑う中、香ばしい香りがオーブンから漏れ出していた。私はミトンを手に、慎重に取り出してみる。シュー生地は見事に膨らんでいた。
穴を開けてクリームを流し込むのではなく、簡単に済むようにナイフで上部を切り取る。そこにリリアが慎重にクリームを詰めていく。最後に切り取った上部を乗せて粉糖をふり、ミントを一枚そっと添えて。
――初めての共同作業は、完璧だった。
「……ふふ、これは、魔法より素敵な奇跡ですね」
リリアの呟きに、渡代さんが小さく笑う。
「うまく言ったつもり? でも、今回は認めてあげる」
シュークリームの甘い香りが、私たちのの空気を柔らかく包み込んでいた。気付けば紅茶の香りもそこに加わり、いよいよ実食。
リリアが一口。私たちはそれを静かに見守った。
「ん!! ……お、美味しいです! なんです、これは! こんなに素敵なスイーツが、まだこの世界に眠っていたのですね!」
「そう……良かったわ」
淡白に答えている渡代さんだが、その表情は明らかに緩んでいた。リリアが美味しそうにシュークリームを頬張るたびに、得意気な顔で口角を上げているのが分かる。
(二人とも、可愛いなぁ……)
眼福。目の保養。
二人の様子だけでもうお腹いっぱいだ。
私は紅茶を啜りながら、深く息を落とした。
「なによ、溜息?」
「いえ、今のはそういうのではなくて。なんだか、落ち着くなぁ……って、思いまして」
「ふーん、ま、いいけど」
やっぱり渡代さんは、まだ少し怖いけれど。でも、出会った当初よりも遥かに親しみやすいと感じている。だから一つ、気になることがある。
渡代さんは、私のこと、どう思っているのだろうか。宗弥さんの前では“子分“って言っていたけれど、「友達になろう」とも言われたことがある。
今の私は、彼女にとっての何? 私は、彼女を友達だと思ってもいいの? 確かめたい。確かめて、これからの渡代さんとの関係を決めておきたい。――私は意を決して、
「あの……渡代さん」
「ん? あ、おかわり? ……仕方ないわね、私の分を一つ上げるわよ」
「い、いえ、そうではなくて。
あの……渡代さんは……」
「なに? はっきり喋りなさい。シュークリームで窒息死したくなければね」
何、恐ろしいことをさらりと言っているのだこのサディストは。私は首をぶんぶん振ってから続ける。彼女のペースに呑まれると覚悟が揺らいでしまう。
「あの、ですね。渡代さんは、私と、その……その、と、とも、ともだ……友達なんで、しょうか?」
――言った。言ってやった。
もしかしたらこの質問は彼女の逆鱗に触れる可能性もある。だが、今この場ではっきりさせておきたかった。彼女は私の味方なのか。私は彼女の味方でいていいのか。
本来は、私自身が感じたままに動ければ問題ないだろう。けれども、私ははっきりとした言葉が欲しかった。私がこれから歩む物語の中で、彼女の位置をはっきりと定めておきたかったのだ。
彼女の口から発せられる、次の言葉に期待する。祈りを込める。私は彼女と……渡代さんと――。
「……今さら変なことを聞くのね。
こんな恥ずかしいこと、一度しか言わないから、良く聞いておくのよ」
「は、はい……」
「あのね、語ちゃん。本来こういうことは、自然と、成り行きで済むことなの。だけど、あなたは言葉にしてほしいのよね。根暗で、コミュ障で、友達ひとりもまともに作れないから」
「…………」
「わかったわよ。仕方ないわね。
語ちゃん……」
「……ぅぅ」
「語ちゃん、あなたは、私の……
――“友達“よ。
それも、たぶん、他の人よりも少し特別な」
その瞬間、胸の奥で何かがぽんと弾けたような感覚があった。あたたかくて、穏やかで、シュークリームよりもずっと深く、甘く、心を満たしてくれる言葉。
「……友達、ですか……」
呟くように繰り返す私の声は、かすかに震えていた。
目の奥が熱くなる。涙腺が、ふわりと緩む。こぼれてしまわないよう、ぐっと唇を噛みしめたけれど、たぶんもう遅かった。
「……ありがとう、ございます……わた、渡代さん……」
手元の紅茶カップが揺れる。持っていた手が小刻みに震えているのがわかる。
でも、不思議と恥ずかしくなかった。泣き顔を見せることに、もう抵抗はなかった。
「はあ……もう。ほんとに、そういうとこ、ずるいわよね、語ちゃんって」
渡代さんは、呆れたように溜息をついた。でもその頬は、ほんのりと赤い。視線を合わせようとはせず、わざとらしく紅茶を口に運んでごまかしている。
(……ああ、やっぱり)
彼女も、恥ずかしいのだ。
それを隠すために、わざと意地悪な口調をしたり、強がった態度を取っているだけで――。
きっと、先ほどの言葉は、私と同じくらい、彼女にも勇気が要るものだったのだ。
「ふふ……ふたりとも、本当に仲がよろしいのですね!」
ぽん、と割り込むように、リリアの声が弾んだ。
その大きな瞳はまっすぐに私たちを見つめていて、そこには心からの憧れと喜びが混じっていた。
「私も……お二人の友達でしょうか?」
「リリアまで……はいはい、友達よ友達。そして子分でもあるんだから、私のためにきびきびと働きなさいよね」
渡代さんが手をひらひらと振りながら適当に答える。リリアがその動きに合わせてくすくすと笑っている。
私も、さっきまで涙ぐんでいたのが嘘のように、口角が上がるのを自分でも感じた。
「はぁ、なんだか調子狂うわね……ま、いっか。
じゃあ、こうなったらついでに――特別サービスしてあげるわ、語ちゃん」
「えっ……?」
何が始まるのだろうと戸惑う私に、渡代さんはわずかに顔を背けたまま、肩を竦めた。
「仕方ないから、呼び名も許可してあげるわよ。
……今度からは、渡代じゃなくて――」
一拍の沈黙ののち、彼女はこちらをちらりと見て、わざとぶっきらぼうに告げる。
「――園香って、呼びなさい。
友達でしょ? だったら、そう呼んでいい権利くらいはあげる。あと、敬語もやめて。正直気持ち悪い」
それは、照れ隠しという名の優しさだった。
私の胸の奥が、またじんわりと温かくなる。なんだか刺さる言葉もあった気がしたが。
「はい……! ありがとうございます、わた……園香さん……いえ、そ、園香」
その名前を呼んだ瞬間、彼女の肩がぴくりと震える。
「……ちょっと今、“さん”をつけるか迷ったでしょ」
「い、いや、あの、つい癖で……!」
「まったく……はぁ……」
ぶつぶつ文句を言いながらも、その表情はどこか満足げだ。最近はこういう渡代さんの何気ない動作がすごく可愛いく見える。
そんな可愛くて、勇敢で、そして時々意地悪な渡代さんを――いや、園香を、私はいつのまにか好きになっていた。
だから、今、決めたことがある。
(私の大事なお友達……園香を怖がらせた、あの金髪の女。
あの人は、私の、私たちの“敵“。
だから、私があの人を、この手で必ず――)




