5話 内緒話
* * *
この日の朝は、思いのほか静かだった。
渡代家の前に広がる細道には、昨夜の雨の名残がまだあり、瓦屋根からはぽたりと水滴が滴り落ちては、苔むした石畳に小さな音を立てていた。空はうっすらと霞みがかり、まるで名残惜しさを静かに映しているようだった。
私は、少し重たいキャリーケースを傍に置いて、縁側でスニーカーの紐をきゅっと結び直す。
ふと顔を上げると、玄関先に立つ渡代さんが、スマホをいじりながらも、時おりリリアの方を気にするように目をやっていた。
彼女の計らいでベージュの帽子を被ったリリアは、まだ慣れないサンダルにぎこちなく足を入れながら、名残惜しそうに振り返る。
「……この世界での旅立ちは、馬ではないのですね……」
リリアの呟きに、私は思わず小さく笑ってしまう。
「うん、馬じゃなくて、車とか、電車だよ。あとは飛行機とか? たぶん、乗ったらびっくりすると思う」
「それもまた……良き経験となりましょう」
そう言って微笑んだリリアの横顔は、まだどこか儚げだった。服の下には深い傷跡の残る胸があり、園香が用意したストールがそっと隠すような動作を見せる。
「行くわよ……」
渡代さんの一言で私達は立ち上がり、歩み始めた。
* * *
静かな山里の中に建つ駅。
リリアに切符の買い方を教えている途中。
その場に似つかわしくない、荒々しい男の声が背後から響いた。
「おい、ちょっと待て! 園香ァァ!!」
私がぎょっとして振り返ると、舗装されていない坂道を、白シャツ姿の中年男性が走り下りてくる姿が見えた。髪は乱れ、肩には書類鞄、足元はまさかの革靴。
渡代さんは瞬時に顔をしかめ、溜息をついた。
「来たか……クソ親父」
男――渡代宗弥は、ぜいぜいと肩で息をしながらも、真っ直ぐに娘を見据えた。
「お前、俺に何も言わずに帰るつもりか!? いきなり姿を消して、こっちがどんだけ心配したと思ってる! 園香ぁああ!!」
彼の声は確かに怒気を孕んでいたが、その奥には明らかな動揺と、不器用な愛情が滲んでいた。
だが、渡代さんはその言葉に一片の同情も見せず、きっぱりと――それでいて苛立ちを押し殺した声で言い放つ。
「なに仕事サボってんの、このクソ親父。まさか税金で有給取って“娘のストーカー”してんじゃないでしょうね?」
その一撃に、宗弥さんはたじろいだ。だが、すぐに言葉を重ねる。
「ち、違う! 違うぞ、絶対に! 俺は仕事にそこまで不誠実じゃない! ただ、娘の方が大事なだけなんだ!」
「はぁ? キモッ……
とっとと仕事に戻りなさい。職場に通報するわよ」
「……そ、それだけは勘弁してくれ……」
宗弥さんは苦しげに呻いたまま立ち尽くす。一方の園香は涼しい顔で踵を返し、私とリリアの方へと向き直った。
「じゃ、行こっか。時間ないし」
「う、うん……」
圧倒されつつも頷いた。リリアはどこか恐縮したように宗弥さんを見つめ、そっと一礼をしてから後ろを向く。そして私達は改札を通った。
後ろで、男の叫び声が遠くに滲んでいく。哀れ也、宗弥さん……。
「それはあんまりだぞぉぉぉ、園香ぁああ!!」
「うっさい!」
ぴしゃりと一蹴された叫びは、流れる雲の中に飲まれて消えていった。
* * *
そして私達は朝早い電車へと乗り込んだ。
がらんとした車内。天井から吊られた広告、列を成すシート、車窓に流れる街の風景。静かに走る電車の床がごとごとと荒々しく振動している。
初めての光景に、リリアは目を見張っていた。すべてが珍しいのだろう。
「……これは……“動く倉庫”ですね!」
驚きと畏怖が入り混じった声で、そう呟いた。
私は思わず笑いそうになるのをこらえながら訊いた。
「動く倉庫って……まぁ、そう見えるよね。これが“電車”だよ。都市と都市を繋ぐ、乗り物」
「こんなに速い移動手段が……魔力も、呪符も使っていない……これは、どのような術式を用いているのですか……?」
車窓の向こうを興味津々に見つめるリリアの瞳は、まるで小さな子供のようだった。
渡代さんが隣で、涼しい顔をして言った。
「魔力じゃなくて、電力。私達の文明は電気を基にして形作られたの。科学よ、科学……」
「電……力……? なるほど、エレクトのようなものですね」
リリアはそう言いながら、指先からパチパチと青白い稲妻を放つ。
「こんな場所で魔法を使わないの、バカ!」
渡代さんはそんなリリアの額を容赦なく叩いた。リリアが「はわ……」と小さく肩をすくめる。
車内の時間が、少しだけ和やかに揺れた。
* * *
私たちは都会のど真ん中にそびえるタワーマンションの一室へとたどり着いた。
駅からはなんと、豪華にもタクシー移動。長旅の疲れを気遣ってのことだろうが、私はその快適さに感動しつつ、同時に「え、そんなに普通にタクシー使うの?」という庶民的な驚きを抑えきれなかった。
しかし、本当の驚きはそこからだった。
到着した先は高層マンション。まるでホテルのスイートルームをそのまま家庭用に転用したかのような贅沢な空間。部屋の扉が開いた瞬間、私の視界には天井まで続く一枚ガラスの窓、革張りの重厚なソファ、足音を柔らかく吸収する高級な絨毯が映り込んでいた。
そして何より――このフロア、全部が渡代さんの部屋らしい。
「ちょっと待って……これ、マンションの一室じゃなくて、ワンフロアってことですか?」
私が呆然と呟いた時、横からリリアがぽつりと声を漏らした。
「ここは……園香さんの給仕を勤める方々の寝床でしょうか……?」
その言葉に、私は言葉を失い、隣で聞いていた渡代さんはピクリと眉を動かした。
「……わ、私の部屋よ。あんた一体なんなの、バカにしているわけ?」
「へ? あ……いえいえ、そういうわけではございません。失礼いたしました!」
リリアが慌てて頭を下げるも、その姿はどこか天然で、まるで悪びれていない。その余裕が、ある意味で本物の“格”を感じさせた。お嬢様の上をいく存在――王女様の価値観がいまだに掴めない。
「ほんと、やってらんないわね……」
渡代さんは諦めたように小さく溜息をつき、革の鞄をどさりとソファの傍に落とした。
「語ちゃん、リリア。私は部屋で少し着替えるから、あなたたちは適当にソファにでも座ってくつろいでいて」
「は、はいっ」
私は思わず姿勢を正し、指定された革張りのソファへそっと腰を下ろす。肌触りは驚くほど滑らかで、沈み込みも上品だった。リリアもその隣に、慎ましやかに腰かける。
渡代さんが寝室へと姿を消したのを確認して、私はしばらく沈黙していた。けれど、言わなければ――と決めていたことがある。
「あの……リリアさん」
私がそっと声をかけると、リリアはすぐにこちらに視線を向けた。正面から真剣な眼差しを向けられて、少し気圧されそうになったが、私は勇気を振り絞って続けた。
「実は、リリアさんに黙っていたことがあります」
「……? それは、もしや園香さんには言いにくいことですか?」
彼女が一度、渡代さんが消えた先の扉をちらりと見遣ってから、問いかけるように首を傾けた。
「あの……そうです。今から言うことは、できれば渡代さんには内緒で……」
私の真剣な声に、リリアは小さく頷いた。そして胸の前で両手を組むと、誓うような表情で言った。
「……何かご事情があるようですね。承知いたしました。決して、他言いたしません」
その誠実な言葉に私は少しだけ安心して、意を決して打ち明けた。
「あの、ですね。リリアさん。私、実は……ミミアと会ったことがあります。その、友達になりました!」
一拍おいて、リリアの瞳が大きく見開かれた。
「……え?! え、うそ、え……あの子を――ミミアをご存知なのですか? え、いつ、いつ、あの子に会ったんですか?」
信じられないといった様子で、リリアは座ったまま身を乗り出してきた。その声色には、驚きと――確かな希望のような光が宿っていた。
私は頷きながら、なるべくわかりやすく、けれども渡代さんに聞こえないように、声を潜めて語った。
「最初に会ったのは……少し前のことです。
大学の帰り道に、お腹をすかせてコンビニでうずくまっている女の子がいて、それがミミアでした。まさか本当に異世界の王女様だったなんて、あのときは想像もつかなくて」
言いながら、自分の掌を見つめた。あのとき、ミミアにそっとおにぎりを差し出した時のことを、今でもはっきり思い出せる。
「それから……少し経って、また会う機会がありました。ミミアに仕えているっていうメイドの人が現れて、夜の公園に呼び出されまして……」
「……というと、もしやセイチェが? あの、金の髪を持つ側仕えのことでございますか?」
「うん……そう! セイチェさん!
彼女からの伝言を聞いて、私は夜の公園へと向かいました」
私が夢中になって語る間、リリアは食い入るようにこちらを見つめ、何度もうなずいていた。
「……では、ミミアは無事だったのですね……っ」
その声は、震えていた。安心と嬉しさがないまぜになった、押し殺した嗚咽のような響き。
「うん。あのときは……リリアさんのことまで聞くことはできなかったけれど。私には、故郷と家族を想う強い心を感じることができました。きっと、リリアさんのことを知れば、泣いて喜ぶんじゃないかと」
私の言葉に、リリアはそっと目を伏せた。肩を震わせながら、けれど涙を見せることはなかった。
「……会いたい……」
それは、静かな祈りだった。けれど、部屋の中に確かに響くほどの熱を持っていた。
「私……リリアさんが助かったとき、すごく安心しました。ミミアはきっとそれ以上に喜ぶかと思います。だから、絶対にミミアを見つけましょう」
そう言うと、リリアはゆっくりと顔を上げた。潤んだ瞳に、真っ直ぐな光が宿っていた。
「……ありがとうございます、語さん。あなたがあの子と友達でいてくれて、心から嬉しいです」
その言葉に、胸が熱くなる。気づけば私は、ぎゅっと拳を握っていた。
「連絡先のひとつでもあれば、良かったんですけどね」
私も少し、泣きそうになるのを堪える。そのために冗談を挟んでみたが、リリアがくすりと笑ってくれたのでよかった。
もう、逃げない。これからは何があっても、ミミアやリリア、そして私自身の物語を、ちゃんと綴っていく。
――それが、私に与えられた“役”ならば。




