3話 正体不明
* * *
翌朝、また渡代さんの家を訪ねる。
ゴールデンウィークも四日目を迎えていた。
玄関を開けると、漂ってくるお茶の良い香りに鼻をくすぐられた。
「おはようございます、語さん」
部屋の中では、リリアがすでに座布団に正座し、小さな湯呑みを両手で包み込むように持ちながら穏やかに微笑んでいた。
「あ、おはようございます」
自然と私も笑顔を返し、近くの座布団に腰を下ろす。心地よい朝日が障子越しに柔らかく差し込み、静かな朝の空気を温めていた。
「さて」
軽く咳払いをしながら、渡代さんが正面に座り直す。
「改まって、今日はどうするんですか、渡代さん?」
私が尋ねると、彼女はじろりと視線を私に向ける。
「どうするも何も、リリアの妹探しは手がかりゼロ。だからその前に、本来の私たちの目的を果たすのよ」
本来の目的――その言葉に私はハッとする。
「え、それって……角の生えた何者かの正体を探るっていう、あれですか?」
渡代さんは呆れたように肩をすくめる。
「当たり前じゃない。そのためにわざわざここまで帰ってきたんだから」
その口調は当然のように毅然としていたけれど、私は少し戸惑ってしまう。リリアが来たことで、目的が切り替わり、正直に言えば完全に忘れていたのだ。私たちがここへ来た最初の目的を。
そうだ、私たちはそもそも、渡代さんが昔遊んでいたという『角と尻尾の生えた人間』を探しにきたのだ。
「え、でもその間、リリアさんはどうするんですか?」
私が問いかけると、渡代さんは少し眉を寄せ、難しい顔をする。
「お留守番よ。例のロイエルって男が彷徨いてたら危険じゃない」
その名前に、私は僅かに身を硬くした。ロイエルという脅威がすでに存在しないことを、彼女たちに言うわけにはいかない。
リリアはゆっくりとうなずき、静かな微笑みを浮かべて言った。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。私も無闇に動いて皆さんにご迷惑をかけるわけには参りませんし……。どうぞ、お気をつけて」
「いい子ね。大人しく待ってて」
渡代さんは素っ気なく答えながらも、その目には微かな優しさが灯っていた。
「何かあったらすぐに知らせなさい。家の電話で、私のスマホに繋げればいいだけだから。昨日教えた通りにね」
彼女が念を押すように告げた。リリアに万が一のことがないように、十分な注意を促しているのだ。
「はい、ありがとうございます。園香さん、語さん……くれぐれもお気をつけて」
その言葉を受け、私と渡代さんは立ち上がる。目的地はあの角の生えた何者かが発見されたという場所――街外れの森だ。
玄関を出て振り返ると、リリアが静かに手を振っていた。その姿が妙に心に引っかかり、私は一瞬だけ足を止める。
「早く行くわよ、語ちゃん」
渡代さんの声に促され、私は再び歩き始めた。
見えない未来への一歩を踏み出すように、静かな朝の中を進んでいった。
* * *
私たちが森の入り口に着くと、真っ黒な塗装の車が一台、不自然に停められていた。窓ガラスまで完全に遮光されており、まるで不穏な影がその車体にまとわりついているかのようだった。
「なんですかね、これ」
私が思わず渡代さんに問いかけると、彼女は冷静に目を細め、車を一瞥する。
「さぁ……観光客の車じゃないことは確かね」
その声は鋭く警戒を含んでいた。だが、それ以上深く考えないように彼女は足早に車の横を通り過ぎる。
私もすぐに彼女の後に続いた。妙な胸騒ぎが私を包み込む。窓が遮光されている以上、車内の様子は全く分からず、逆に中からじっとこちらを見つめられているような気がして不気味だった。心なしか背中がざわざわとした。
「待ってください、渡代さん」
私が小声で呼び止めると、彼女は僅かに苛立ったようにこちらを見返す。
「……早くなさい」
「はい!」
慌てて彼女の隣へと並び、肩を揃えて歩き始めた。
森の中へ踏み込むと、昨日と変わらぬ静けさに包まれていたが、どこが重苦しい空気が漂っていた。見た目は何ひとつ変わらないはずなのに、なにか違和感がある。
「……なんでしょう、この感じ。空気が重いというか」
「分からないけど、気のせいじゃないわね」
渡代さんは周囲を鋭い視線で見回した。彼女の視線が警戒と共に鋭さを増しているのを感じ、私も自然と体が緊張する。
さらに数分ほど進んだその時だった。急に背後から枯れ枝を踏むような音が響き、私ははっと振り返った。
そこには一人、黒いスーツ姿の――背の小さな女性が立っていた。淡い金髪の三つ編みおさげを二つ揺らし、少し垂れた目で私たちの隅々を観察している。ねっとりとした視線そのものを肌で感じ取ることができる。
「誰……?」
渡代さんが厳しい声で問いただすと、その女性は静かに口を開く。
「あ……す、すみません急に!
わ、わたしは! 政府の関係者です! あなた方に、注意を……その、こ、ここは、我々の調査地域に指定されてますので、その……できれば立ち去ってもらいたいんですけど」
金髪の女性はどこか萎縮しながらというか、妙にオドオドしながら視線を彷徨わせている。一言で言えば、怪しすぎる。明る様な挙動不審は寧ろ演技にも見えてしまうくらいだが、この慌てようはおそらく本物だろう。
「あなたたち、こ、ここ、ここで何をしているんですか?
……あ! ま、迷子なら、出口までお連れします!」
手を叩いて、何か一人で納得する女性。笑顔で私たちを案内すると言い出した。
渡代さんがこちらを一瞥してから、私を制するようにして前にでる。視線で訴えていた――「語ちゃんは黙っていなさい」と。
「あの。私たち、迷子ではなく、ただの散歩です。この近くに住んでいる者で、ここはただの森でしょう? だから、散歩。何か変かしら?」
渡代さんが素知らぬふりで答えると、女性は小さく唇を歪めた。
「散歩……ですか。お、お近くに住んでいるのに、役所からのお知らとか、は……確認していないんですか?」
「お知らせ?」
「は、はい! ニュースでも、やってます! ここで国の指定する重要な文化遺産が発見されまして、せ、正式に調査を行うために、辺り一帯を閉鎖するんですっ!」
女性が声高らかにそう告げる。だから出ていけ、という意味なのは、最後まで聞かずとも理解できた。
それと、文化遺産というのは例の『鬼らしき存在の頭蓋骨』のことだろうか。それを“文化遺産“と称していいのはかは微妙なところだが、確かに、いつだったかニュースで見た。
渡代さんはそれを、『鬼』ではなく、自分が昔遊んだことのある『竜士族』という別の存在である可能性を疑っているわけだが。なんとも話がややこしい。
「……まったく、面倒くさいことになりそうね」
渡代さんが小さく呟く。彼女の言葉に、私はただ頷くことしかできなかった。
いや、というよりも――私は目の前の女性に言いようの無い恐怖を抱いており、頷くくらいしか身体を動かせないでいた。なぜなら、
(こ、この人……なんで……!
なんで……役力が、読めないの?)
そうだ。この女性の正体を知るために、先ほどから何度か役力を確認しようと意識を集中させていた。なのに、何故か私の力の一つ――相手の役力を覗き見る力が、彼女には働かない。何か別の力に弾かれたかのように、意識を集中しても文字が浮かび上がることはなかった。
(なに……この人……)
脳裏に走った恐怖の声は、喉の奥で凍りついたまま声には出なかった。私の中の何かが警鐘を鳴らしていた。人ではない“何か”を見るような、そんな異質な感覚。心臓の鼓動は耳元にまで響くほど高鳴り、背筋を冷たい汗が伝い落ちていく。
視線の先のその女性は、無垢とも無関心ともつかぬ表情で私たちを見据えている。その瞳は笑っていない。けれど、決して敵意を剥き出しにしているわけでもなかった。ただ、何もかもが“異様”なのだ。
「お知らせ……お知らせねぇ。あまりそう言った書類は見ないんです。親が管理しているから、私は別。知らなかったです」
渡代さんの声が、あくまでも落ち着いた調子で空気を割った。
女性は一瞬、口元を引き結ぶと、小さく瞬きをしながら、ぎこちなく頷いた。
「そ、そうですか。では、これより、ご、ご協力、お願いします。出口まで、案内しますので」
安堵とも取れる吐息を漏らすように言う彼女の声は、どこかで台本をなぞるような不自然さを伴っていた。
「ええ、直ぐに立ち去るわ……と言いたいところだけれど、実は落とし物をしてしまって。それを探している途中なんです。もう少しだけ待ってください」
渡代さんは、まだ粘るつもりだ。彼女の声音は淡々としている。嘘を吐き慣れた者の言葉だ。
だが、その一言が風の流れを変えた。
「……お、落とし物ですか?」
女性が眉間に深い皺を寄せる。眼差しが揺らぎ、疑念が色濃く滲み出る。そして、彼女は唐突に口を開いた。
「そ、それは、おか、おかしいですよ! わたしは、森に入ってから、ずっとあなた達を見てましたから」
空気が一瞬――凍りついた。
「……は?」
聞き返した渡代さんの声は低く抑えられていた。怒っている時のそれだ。私も何度か聞いたことがある声色。
しかし、目の前の女性はそんな声色の変化には気づかず、説明を続ける。
「だ、だから、ずっと、見てたので。あなたたち、二人を! 会話までは、聞こえなかったですけど、落とし物をした様子はなかった! です!」
最後の言葉には明らかに高揚した色が混じっていた。まるで追い詰めたとでも言わんばかりの自己主張。その声は、異様なまでに大きく響き、森の静寂を破った。
私は喉の奥に渇きを覚えながら、無意識に一歩後ずさった。その視線――あの粘つくような視線が、どこまでも私たちを追ってくる気がして、胸の奥が軋むように痛んでいた。
「……私たちを、付けていたということかしら?」
渡代さんが低く問う。彼女の声には鋭さがあり、普段の軽妙な調子は一切消えていた。
だが女性は、すぐに首を振った。
「ち、違います……そういうことには、答えられません」
言葉を濁しながらも、手はそっと後ろ腰へと伸びる。そして、その視線が変わった。柔らかなものから一転、鋭い刃のように私たちを射抜く眼差し。
「あなたたち……なぜ嘘をついたんですか? どうして、こんな場所に来たんですか? 明確に、答えてください」
詰問は棘のように鋭かった。鼓膜を通してではなく、胸を直接撃ち抜くような響き……圧迫感のある問い。空気がますます重くなるのを感じた。
「……」
渡代さんが、私のほうをちらりと見てから、肩を落としで小さくため息をついた。
「まいったわね……ストーカー気質の変質者に出会ったみたいよ」
そう前置きしてから、女性に向き直る。その呟きが相手に聞こえていないといいが。
「私たちはね、本当は……そのニュースになってた『角の生えた頭蓋骨』、それがまだあるんじゃないかと思って、宝探しのつもりで来たんです。ちょっとした冒険のつもりで」
嘘とも本当ともつかぬ、けれど核心には触れぬ巧妙な言い訳。だが、その説明に女性は納得しなかった。
彼女の目が細くなり、後ろに回していた右手がするりと前に現れる。
そして――そこには、黒く光る拳銃があった。
「っ……!」
私の息が詰まり、渡代さんが目を見開いて声を荒らげる。
艶消しの黒が、不気味に鈍く光を吸い込んでいた。無駄な装飾など一切ない、軍用か警察用のものだろうか。銃口が真っ直ぐにこちらを向き、まるで虚ろな目で睨みつけられているかのように感じられた。
女性の人差し指は引き金の外側に置かれたままだが、その震える手つきからは緊張が伝わる。彼女自身もまた、この状況に怯えているようにすら見えた。
金属が微かに擦れる音が響き、彼女が銃を構え直した。指がトリガーにかかる寸前、その瞳に宿る光が冷たく鋭くなったのを感じた。
脅しではない。これは本物だと直感する。おもちゃや偽物などではない。引き金一つで命を奪う――正真正銘の“凶器”だ。
心臓の鼓動が耳元で強烈に打ち鳴らされる。息が詰まる。私は、初めて銃口を向けられた現実に、ただ凍りついてしまった。
「ちょっと……!? 何を考えてるの! 一般人に銃を向けるなんて、正気なの!?」
渡代さんが狼狽しながらも、さらに前に出る。私を背中に回して庇ってくれる。
女性は再び首を横に振り、静かに言った。
「いいえ……あなたたちは“一般人”ではありませんよね?」
その言葉は、疑念と確信の合間にある。
冷ややかな声が続きを述べる。
「さきほど、わたしに何かしらの能力を行使した感覚がありました。ですので、あなたたちは少なくとも“こちら側”の人間であると判断しました」
……え?
……も、もしかして!
心当たりがある。つまり、これは私のせいかもしれない。彼女が何者かを確認するために役力を確認しようとしたのを、おそらく感じ取られたらしい。
こちら側――それが何を意味するのか。だが、その言葉にこめられた異様な重みは、まぎれもなく本物だった。




