2話 街へ
* * *
しばしの静寂の後 、宗弥さんが手を叩く。
「……ま、話がまとまったところで。詳しい話は一旦あと。俺もなるべくの協力はしたいけれど、昨日もサボったばかりだしね。今日のところは仕事に行ってくるよ」
彼はそう言って場の空気を切り替えた。
「ところで。ずっと布団の上じゃ、身体もこわばるしな。せっかくだ、街を少し案内してやるのも悪くないんじゃないか?」
軽やかに肩をすくめながら、私と渡代さんのほうを見やる。リリアの視線もすぐにそちらへ向けられた。
「……案内、とは?」
「この世界――いや、この町のことだよ。お嬢さんも見たことのないものが多いだろうしな。少し歩くだけでも、いい気分転換になるさ」
その言葉に、リリアは目を瞬き、次第に顔を綻ばせていった。
「……もし、よろしければ、是非。私、この世界のことを……もっと知りたいです」
控えめだけれど、心からの願いがにじむような口調だった。彼女の表情はどこか子どものように素直で、まるで遠足を前にした少女のようでもあった。
……うん、いいかもしれない。
私も気持ちを整理したかったし、何より、リリアが少しでも笑顔でいてくれるなら――。
「わたしも、賛成です。ゆっくり歩きながらでも話はできますし」
そう言うと、リリアが嬉しそうにこちらを向いた。その瞳の奥に、ほんのかすかに涙の名残が揺れていて、でも今はちゃんと希望の色が灯っている。
ただし、問題はひとり。
「……なんで私の方を見るのよ。行かないわよ、暑いし」
渡代さんが布団の傍で腕を組み、うんざりした顔をしていた。きっと心の中では「何で私が」って十回ぐらい唱えてる。だが、そんな顔をしていても――
「はいはい、わかったわよ。行けば良いんでしょ、行けば……」
結局、いつも通り、渋々ながらもついてきてくれる。
少しずつ彼女が分かってきた気がした。
* * *
その日の昼頃。
私とリリア、そして渡代さんの三人は、川沿いの街を歩いていた。
日差しは優しく、けれどほんのり汗ばむくらいの陽気だった。まだまだ夜は冷える季節だと言うのに、真昼になると途端に暑くなるものだから、服装に困る時期だ。
まず向かったのは、古い町並みに佇む土産屋さん。和紙細工や手拭い、地元の民芸品が並ぶ中、リリアは一つひとつを真剣に眺め、まるで発掘品のように物珍しそうに品物を手にとっていた。
特に興味を持っていたのは、金魚の絵が描かれた小さな風鈴だ。チリンチリン、と息を吹きかけて音を鳴らしている。
「これは……風で音色を奏でる楽器……ですか? 魔法ではなく?」
「うーん。魔法じゃないけど、鳴るとなんか、気持ちが涼しくなるっていうか……そんな感じです」
「……不思議。でも、素敵ですね」
そう言って、手のひらに乗せた風鈴の音を、静かに耳に当てるようにして聴いていた。その姿があまりに微笑ましくて、私だけでなく、見れば渡代さんも顔を緩ませていた。
「あなたの世界には、こうした工芸品はないのかしら?」
「ええ、そうですね……ガラス細工はございますが、どれも貴族用の食器や花瓶、燭台、そうした高価なものに使われております。風を感じるためのもの、という発想はございませんでした」
「変なの。ガラスくらい、素材としては珍しくないでしょ?」
「どうでしょう。私自身はそこまで詳しく存じませんが、アルトリネアは自然豊かな土地が多いので、木製の家財や道具が主に使われておりますね。ガラスをわざわざ加工して売る職人こそ、珍しいかと……」
「ふ〜ん。やっぱり変なの」
渡代さんはそれで納得したのか、一人で先に店を出てしまった。リリアが不安げにそちらを見つめながら、私に問う。
「私……何か、気に障るようなことを申しましたか?」
「んーん、そういうのじゃないと思いますよ。たぶん、知りたいことを知れて、満足しただけです」
「ふふっ……なんだか可愛らしいお方ですね」
「それは……はい……私も最近は、そう思います」
まぁ、可愛いの前に、怖いが百回くらい付くが。
それは兎も角。リリアが物欲しげに風鈴を見つめていたので、私はついレジに並んで、気づけばそれを購入してしまっていた。
リリアの“可愛い“も、ある意味では恐ろしいものである。嬉しそうに私からのプレゼントを抱えているのを見ると、つい、他のものも与えたくなる。もしや危険な旅に同行してしまったかもしれない。……私は覚悟を改めた。
* * *
それから、川沿いの石畳を歩き、小さな茶屋でお団子を買って腰を下ろした。流れる水音と、空を渡る風。それに混じって、みたらし団子のあまじょっぱい香りが鼻腔をくすぐる。
「……ん、おいしい! おいしいです……っ! こ、これは、なんと言う神の糧なのでしょうか?」
リリアが一口食べて目を見開いた後、幸福そうに微笑む。なんだか聞いたことがある台詞だ。ミミアに初めて会った時のことを思い出す。流石は姉妹と言ったところか。
その顔を見て、つられて私たちも笑ってしまった。
「お団子って言うんですよ」
「おだんご……優しい甘みと、この独特の食感が癖になりそうです!」
異世界の王女が串を片手に団子を頬張る様子は、全世界でもここでしか見れないだろう。小動物のように小さな口をもぐもぐと動かす様子が、やはり可愛いらしい。
「ほんと、これと抹茶さえあれば戦争は起きないかもね」
渡代さんが、冗談か本気か変わらない呟きを投入する。いや、この顔は本気か……?
三人の笑い声が、川のせせらぎに乗って、静かな街に溶けていった。
「――ところで」
渡代さんがふいに口を開いた。その声は団子を味わう雰囲気とは少し違っていて、リリアも私も自然と姿勢を正す。
「言いにくいことかもしれないけれど。あなた、身内だと思ってた奴に刺されたんでしょ?」
……唐突な切り口に、私は目を瞬いた。リリアの手がわずかに止まったのが視界の端に映る。
「しかも、そいつも一緒にこの世界に飛ばされたんだとしたら、あんまり目立つと不味いんじゃないかしら?」
冷静な口調で、まっすぐに本質を突いてくる。ほんと、この人、こういうところだけ妙にズバズバと……。
私は、背中にひやりと冷たいものが走るのを感じた。
――“そいつ”を、私はすでにこの手で殺してしまった。
ロイエル――リリアの義弟にして、エルフの反逆者。リリアの命を奪おうとした張本人。
彼は、“門”の暴走に巻き込まれてこの世界に転移した後、私の眼前に現れ、そして私の短剣に討たれた。
そのときは、何も考えていなかった。ただ、リリアを守らなくてはという衝動に駆られて――身体が勝手に動いた。
けれど今、こうして他人の口から一人の人間……いやエルフの存在について語られると、改めて“そいつ“の命を奪ってしまったのだと気付かされる。要するに“人殺しの現実”を突きつけられて、何とも言えない感情が喉の奥に詰まってきていた。
……私は、人を、殺したんだ。
恐る恐る、リリアの方を見た。
彼女は落ち着いた声で、静かに応えた。
「そうですね……彼は、もともと兄――私の夫を殺すために動いていた者でした。ですから、私を執拗に狙う理由はないように思いますが……」
事実として語られるその口ぶりは、淡々としているようで、しかしどこかで覚悟を滲ませていた。
「ですが……確かに、ご指摘の通りです。仮に彼が近くに潜んでいるのだとすれば、警戒すべきかと存じます」
「まぁ、あなたも相当に目立つ人間だけれど、相手はエルフ。目立つと言う意味合いでは向こうの方が上手だし、人里に早々降りても来れないわね」
渡代さんは、お団子の串をくるくると指先で回しながら、面倒くさそうに続けた。
「けど、それすら構わずにあなたを襲おうとするなら……って思うと、ちょっと嫌ね」
「はい……それについては、もう一つ気がかりな点がございます」
「ん? 何よ」
「実は――」
リリアは、ふと川の流れに視線を落とし、それから私たちを順に見て、言葉を継いだ。
「妹のミミアと行動を共にしていた側仕え――セイチェという者が、“異界渡り”の術を有しておりまして」
「異界渡り……?」
「世界を跨いで移動する、禁術に近い転移の技術です。その者の存在を知っていれば、ロイエルが再度あちらの世界に転移するため、彼女達を狙う可能性がございます」
「ふーん……つまり、ロイエルって奴がその側仕えを捕まえて、またアルトリネアに帰って悪さするかもってことね。私と彼と、どちらが妹さん達を先に見つけるか。競争かぁ……」
渡代さんが、重い予感を含ませるように言った。彼女の目が少し鋭くなっている。
そのやり取りを、私はただ黙って聞いていた。だって、そこにある“脅威”はもう、存在しない。
私が……殺したのだから。
彼女らが必死に未来を憂いて、策を講じようとしている中、私だけがその“真実”を知っているという、この妙なズレが――どうしようもなく、居心地悪い。
でも、それを言うつもりはなかった。
今、口にしたところで誰も救われないし、それどころか、渡代さんにバレたら、私の“体質”まで勘ぐられるかもしれない。余計なトラブルを招くだけだ。
だから、私は黙っていた。そして、お団子に集中するふりをして、口を動かした。
――まぁ、いっか。
警戒する分には、悪いことじゃないし。
もちもちした甘さが、喉を通っていく。
このひとときが、ほんの少しだけでも平穏であれば、それでいい気がした。
* * *
団子を食べ終えた後、私たちは再び街の散策を楽しんでいた。
川床を囲む街並みはゆったりとした時間が流れ、草花の香りと、時折混じる硫黄の匂いの中で足を進める。先程までの緊張を少しだけ忘れ、ただのんびりとした散歩を楽しんでいた。
「……あの、もしよろしければ、温泉というものを体験してみたいのですが」
ふいに、リリアが控えめに提案する。湯煙を見つめるその瞳が期待に満ちていた。
「あら、いいんじゃないかしら。ここは温泉街で有名な土地だし、すぐそこにも共同浴場があるわよ」
意外なことに、渡代さんがあっさりと賛成した。私は少し驚きつつも、その提案に乗ることにした。まぁ、有名と言うほど栄えてはいないが……。
そんなことよりも、リリアにはお風呂上がりの醍醐味も教えてあげなければならない。
「お風呂上がりのコーヒー牛乳が最高なんですよ」
「コーヒー牛乳! あ、でも、私はもう、お腹がいっぱいですので……またの機械に……」
「え?」
「……え?」
そうか。王女様は食が細いのか。そうか。
……さて。浴場に向かうとするか。
そこは伝統的な木造の建物で、暖簾をくぐるとすぐに温泉独特の硫黄の香りが鼻をくすぐった。
タオルはレンタル。脱衣所に入って三人並び、さっそく衣服を脱ぐ。スタイルの良い二人と並ぶと気恥ずかしいが、ここは我慢だ。
湯浴み用の薄手のタオルを手にして浴場へ向かう。リリアは扉を前に目を輝かせながら、一つ一つの動作を私の真似をしながら行っていた。
「すごい……これが、温泉……!」
木製の扉を開けた瞬間、もわっと湯気が私たちを包んだ。湯気を透かして見える湯船の水面は穏やかで、熱々の湯が私たちを誘うように揺れている。
「まずはシャワーからよ。汗をしっかりと流して、身体を清めてから温に浸かるの」
何故か、たくましく腕を組みながら説明する渡代さん。その後ろでリリアがこくこくと頷く。
「なるほど! ところでシャワーとは、なんでしょう?」
「え……?」
渡代さんが顔を引き攣らせる。異世界にシャワーがないことが意外らしい。いったいどんな世界を想像してのことだろうか。
「リリア……あなた、もしかして普段は身体を……」
「なっ……あ、洗っております! 濡れタオルと、小さな浴槽ですが、そちらで!」
「そ、そう……良かったわ」
本気で、安心したように息を吐く渡代さん。そんな彼女に向けて、リリアが不満気に頬を膨らませていた。
「全く……いくら何でも、失礼ですよ! 命の恩人とはいえ、これは許せませんっ!」
「ごめんってば、リリア。許して」
「もうっ、園香さんのバカッ!」
可愛らしく拳をパタパタとぶつけるリリアを、渡代さんは黙って受け入れていた。
それからようやくシャワーを浴びて、いざお湯の前に身をかがめる。それだけでも十分に心休まる温かみを感じるが、本番はここからだ。
ゆっくりと足を浸けた瞬間、身体がじんわりと解されていくのを感じる。
「わぁ……!」
リリアは感嘆の声を上げて、そろりと身体を沈めていく。肌を伝う温かい感触に驚いたように目を丸くしていた。
「これが、この世界の文化なのですね……!
とても、素敵です。身も心も温まるというか、この全てが癒しの泉なのですね……」
「分かっているじゃない。これが私たちの世界の誇り、温泉よ! しっかりと覚えていなさい!」
渡代さんはそう言いながらも、温泉に入った瞬間、すっかり身体の力を抜いて気持ちよさそうに目を閉じた。
「でも、本当に気持ちがいいです。肌に優しいこの熱さ……心がほっとします」
リリアもゆっくりと目を閉じて、口元に微笑みを浮かべる。その穏やかな表情を見ていると、私の胸にもじんわりと温かいものが広がった。
「ご、ごくらく……」
「語ちゃん、それは年寄り臭いわよ」
「え」
酷い。何故、私にだけ当たりが強いのか。
リリアがくすくす笑っていたので、恥ずかしくなってつい顔半分を湯に隠してしまう。それを見たリリアが、ますます可笑しそうに目を細めていた。
「まぁ、でも語さんの言う通り。疲れがとれますね、これは……」
「そうでしょう? 日本の温泉は世界一よ。きっと、リリアの世界でも流行るわ」
「ふふっ、本当に……持ち帰りたいくらいです」
渡代さんが軽口を叩き、リリアが真面目に返す。そのやり取りが何だかおかしくて、私はふっと吹き出してしまった。湯面が盛大に泡を吹く。
「ぶへっ」
「……語ちゃん、下品よ、あなた」
「あっ……す、すみません、わざとでは……」
「まったく、気が抜けるわね」
渡代さんが苦笑しながらお湯を手で軽くすくい、顔にかける。その動作もどこか美しく見えた。
リリアも真似をして、えいっと声をあげながら顔にかける。それから表情を切り替えて、
「私、この世界に来て……正直なところ、先程まではすごく不安を感じておりました。でも、今は少し、安心しています。こうしていると、まるでずっとここに居てもいい気がしてきますね」
リリアの静かな言葉に、私と渡代さんは同時に顔を見合わせる。
「まあ、ゆっくりするといいわ。慌てても仕方ないんだから」
渡代さんは少し照れ臭そうに言いながら、リリアの肩に手をそっと置いた。
「はい。ありがとうございます」
リリアが嬉しそうに微笑む。その温かな表情に包まれて、私たちはしばらくの間、温泉の穏やかな時間を楽しんだ。




