1話 目覚め
* * *
少女は、ゆっくりと目を開けた。
山で倒れているのを発見してから、丸一日だ。
障子越し。朝の光が、揺れる風鈴の影とともに、薄く畳の目を照らしている。ひんやりとした空気が、まだ温もりの残る室内に流れ込み、静かな音を連れてきた。
ふとんの上でまどろむ少女――リリアは、うっすらと開いた瞼の奥に光を映し、しばらくのあいだ虚空を見つめていた。何かを探すような目だった。けれどやがて焦点が合い、真っすぐにこちらを見つめてくる。
……目覚めた。
私――未綴語は無意識に息を呑み、傍らに膝をついていた渡代さんと、部屋の隅に控えていた宗弥さんと視線を交わした。誰もが、小さく頷く。
生きていた。命を、繋ぎ止めた。
それだけで、胸の奥にふわりと温かいものが広がった。
喜びを噛み締める中、リリアが口をそっと開く。
「――ミリュ=セリィタ・フォルン=……?」
だがその声は、私たちの知るどんな言語とも異なっていた。甲高くもなく、柔らかくもない。けれど、どこか響きのある不思議な抑揚と発音の連なり。
「……え? この子、なんて言ってるの?」
渡代さんが小声でつぶやき、宗弥さんが肩をすくめて見せる。
「さっぱりわからんね。英語なら多少分かるんだが……」
無理もない。彼らはまだ、リリアが“異世界の住民”であることを知らないのだから。おそらくは異国の人間くらいに思っているだろうが、言葉が通じない以上は察することすら不可能だ。
宗弥さんがふぅと溜息をついて立ち上がり、そっと彼女の額に人差し指をあてた。その手つきはどこか神聖で、私にはかつて渡代さんが“呪い”を刻んできた時と似て見えた。
「……っと、これでどうかな?」
淡い光が、空気を伝って指先へと流れ込む。
リリアが一瞬、身を強ばらせたものの、やがて心地良さそうに目を閉じる。そして、すうっと息を吐いたかと思うと、再び口を開いた。
「……なるほど。これは言語習得用の魔法か何かですね。ありがとうございます」
――日本語。
先ほどまで“異音”のようにしか聞こえなかった少女の声が、今ははっきりと意味を持って届いてくる。宗弥さんがどうやら、魔法で何か細工をしたらしい。
彼女の目が私たちを一人ひとり確認するように見て、静かに言葉を紡ぐ。
「初めまして、皆様方。私はリリア……。
リリア・コルペリオンと申します。つかぬことをお伺いいたしますが、皆様方はもしや、私の命の恩人なのでしょうか?」
その所作には気品があった。和室の布団の上という不慣れな環境にあっても、彼女は礼節をもって振る舞っていた。さすがは王女。まぁ、異世界にも和室があるのなら話は別だが……。
宗弥さんが、穏やかな笑みを浮かべながら膝をつき、軽く頷く。
「これはご丁寧に。俺は渡代宗弥。ご想像通りに、ここにいるみんなで、君を救った」
その言葉を受け、リリアは深々と頭を下げた。
その背筋の通った礼に、私は思わず身を正す。
彼女は王女だというのに、物腰柔らかく、丁寧で、誠実で、身分にとらわれる人間ではないのだと、自然と伝わってきた。
「それは……なんと言うべきか。本当に、ありがとうございます。このお礼は、必ず……」
畳に額がつくほど、頭を深く垂れる姿に、思わず胸が締めつけられる。
宗弥さんがひとつ咳払いをして、声を整える。
「まずは安心していい。今はもう、命の危機はない」
「……はい」
リリアは小さく返事をし、目元をぬぐう。
私は、その清らかな涙に視線を注いだ。
助けられてよかった。そう思う一方で、私はまだ彼女の名前に宿る“物語”の意味を知らない。何か不穏な気配に身体が縮こまる。
なぜ彼女が異世界から来たのか。なぜ、あの山中で血を流して倒れていたのか。分からないことばかりだ。
宗弥さんが、それを問いかける。
「それで君は、どうしてあんなところで命を落としかけていたんだい?」
その質問に、リリアはほんの一瞬だけ瞳を伏せた。
それは、自分が背負ってきた過去の重みを噛みしめるような仕草だった――。
「まず最初に。念のために確認いたしますが、ここは“アルトリネア”とは異なる世界と考えてよろしいのでしょうか?」
リリアが、言葉を慎重に選ぶようにして、静かに問いかけた。
えっ、と私は一瞬戸惑う。今さらその質問?
けれど……そうか。彼女がこの世界に来たのは、ほんの少し前のことなのかもしれない。あるいは意図してやってきたわけではないのかも。改めて“ここ”がどこなのかを確かめようとしているのは、きっとそうした事情があるに違いない。
「なるほど! これは驚いた……お嬢さん、アルトリネアの住民なのかい?」
宗弥さんが目を見開き、驚いたように身を乗り出す。けれどその口調は、妙に納得しているようでもあった。
私はというと――別の理由で驚いていた。
宗弥さんが、リリアの住む世界――アルトリネアを“知っている”らしいことに。
横を見ると、渡代さんが、少しむっとしたように眉をひそめていた。わかりやすく言うと、自分の知らない話で盛り上がっている友達の輪に入れない時のような、ちょっと不機嫌な顔だ。いや、渡代さんに限ってそんな経験はないか。正反対の理由で、私も友達がいなかったからそんな経験はないけれど……。
「宗弥様は、アルトリネアをご存知なのですか?」
リリアが一歩踏み込むようにして問いかける。その声には、希望がにじんでいた。少しでも何か、この世界と自分を繋ぐ手がかりを探しているのだ。
「いや、俺自身は、アルトリネアについて詳しくは知らない。ただ、俺の爺さんがよく話してたんだ。ずっと昔のことさ」
「おじいさま……ですか?」
「ああ。もうずいぶん前に、天国に行っちまったけどな」
「そう……ですか……」
リリアが、ほんの少し残念そうに目を伏せる。
けれどすぐに表情を切り替え、背筋を正すようにして語り始めた。
「率直に申しますと、私はこの世界の人間ではありません。今し方申し上げました通り、ここではない別の世界――“アルトリネア”という場所から参りました」
「異世界……」
ぽつりと呟いたのは、ようやく口を開いた渡代さんだった。信じられないといった様子でリリアを見つめていたが、宗弥さんが真面目な顔で頷いているのを見て、しぶしぶ納得したのか、小さくひとつ息を吐いていた。
「私は……何と申しますか、不幸な事故により、誤ってこの世界に来てしまったのです」
リリアの声音は穏やかだったが、言葉の端々から、何か隠しているような気配がにじんでいた。
……でも、あれは“事故”なんかじゃない。彼女の胸には、あのとき、明確に刃が突き立てられていた。あれは――誰かに、殺されかけた痕跡だ。
「あなたね、胸を貫かれながら、それを“事故”だなんて。よく言えたものね」
ピシャリと声を上げたのは、渡代さんだった。凛とした声に、一瞬場の空気が張り詰める。
「あまり下手な嘘はつかないでちょうだい。私もうっかり“事故”を起こしてしまうわよ?」
「……え?」
リリアがきょとんと目を丸くする。だが、それは演技ではない。彼女は本気で、この場の人間全てに対して警戒していなかったのだろう。棘のある言葉を浴びて、やや表情が強張っていた。
そして、渡代さんは今日も絶好調だった。黙っているのに耐えられず、しびれを切らして脅迫に出た。実に彼女らしい。
「おいおい、園香。起きたばかりの彼女に、その言い方はちょっと酷じゃないか?」
宗弥さんが、宥めるように渡代さんの肩に手を置く。
「うっさい。こういうのは、さっさと吐かないと、話が進まないの」
「で、でもなぁ……」
「なに、私に文句あるの?」
ピリッとした空気が部屋に走る。
私は少しだけ息を潜め、状況の成り行きを見守っていた――。
リリアは、しばし沈黙していた。
また風が吹く。障子越しに枝葉の影が畳の上で揺れる。
リリアの顔には、目覚めたばかりとは思えぬほどの確かな意志が宿っていた。そして静かに息を整え、言葉を選ぶようにして、ゆっくりと語り始める。何か決意を改めたらしい。
「改めて申し上げます。私は……アルトリネア王国、コルペリオン王家の第一王女――リリア・コルペリオンと申します」
渡代さんと、宗弥さん、二人が息を飲んだ音が聞こえる。
先に名乗ってはいたが、その“意味”が違った。異世界の「王女」として、はっきりと宣言したのは、これが初めてだった。
「……私は、王都に生まれ育ちましたが、東方のセリアルネという森へと嫁ぎ、そこを治めるエルフの長――トゥレイヤという者の妻となりました」
エルフ、という言葉が出た瞬間、渡代さんが小さく目を見開いた。だが、遮ることはせず、じっと話を聞いている。
「王家の血を継ぐ者として、私は王位継承の列に名を連ねておりましたが……兄――ティリム・コルペリオンが父王の崩御を機に、玉座を力で奪いました。即位の布告と同時に、他の王位継承権を持つ者たちは次々に粛清され……そして、その刃は、妹のミミアにまで及びました」
その名に、私は強く反応する。
――ミミア。
私が出会い、おにぎりを渡し、短剣を託されたあの少女。無邪気で、優しくて、時折ものすごく傍若無人で……だけど、心の底から大切だと感じた子。初めての友達。
「私は……セリアルネの地で、妹の逃亡を知らせる密書を受け取りました。父王は、彼女に王の証である“短剣“を託し……“異界渡り”の術で、アルトリネアを離れるよう手配していたようです。……知らせを受けたとき、ようやく彼女が無事だと知りました」
その声音は、わずかに震えていた。
安心と悔しさが混ざった、複雑な感情の混じった震え。
「……ですが、それを喜ぶ間もなく、今度はセリアルネが侵攻の対象となりました。王家に連なる私の存在は、兄にとって邪魔でしかなかったのでしょう。
森を守るため、夫トゥレイヤは異界への“門”を開き……妹のミミアを連れ戻そうと言いました。ミミアに秘められた力こそ、新王ティリムに対抗する術だと考えてのことです」
言葉が途切れた。
その瞬間、リリアはわずかに目を伏せ、胸元に手を置く。指先が、布越しに傷跡をなぞるように、そっと滑る。
「……そうして、“門“が開いた時です。
いまだに信じられないのですが、夫トゥレイヤの――実弟であるロイエルという者が、彼を裏切ったのです」
小さな手が、ぎゅっと握られる。
「私は咄嗟に夫を庇いました……結果は皆様の知っての通り、胸に深い傷を負いました。また、その衝撃で制御を失った“門“が暴走してしまい、裏切り者であるロイエルと共に、この地へと落ちてしまったのです」
言葉にならない哀しみが、そこにはあった。「裏切り者」と言葉にする際に見せた表情が、全てを物語っていた。
「私は光に呑まれた瞬間には意識を失い……気がつけば、この場所におりました」
そこまで語った彼女は、一度、小さく深呼吸をして、改めて私たちに向き直る。
「皆様方には、何の義理もないことは重々承知しております。ですが、私は、今なおこの世界のどこかにいるであろう妹を……ミミアを探し、無事を確かめたいのです」
静かに、額を畳に近づける。
彼女の頭が、深く、深く……下げられた。
「どうか、お願い申し上げます。この命を救ってくださった皆様に、さらに頼みを重ねるのは無礼と存じております。ですが……私は一人では、何もできません。
――どうか、妹ミミアの捜索に、ご協力いただけませんか?」
私は言葉を失ったまま、しばらく彼女の背を見つめていた。その小さな背中を見ていると、断るという選択肢がなくなっていく。
この世界に来て、彼女が最初に語った願い。それは、戦でも復讐でもなく、ただ“家族を想う”ことだった。その誠実さが、胸を打った。
私は、渡代さんを見て、同じようにお願いする。私も一人では何もできないから。
「あの……渡代さん!
私……リリアさんを、助けてあげたいです……」
「……無理ね」
一蹴――きっぱりとしたその言葉に、私は思わず息を呑んだ。静かな畳の間に、再び沈黙が降りる。
風が庭の葉を揺らし、また一つ、風鈴の音を響かせた。その音がやけに緊張感を煽る。
「えっと……渡代さん、どうしても、ですか?」
「…………」
次は無言ときた。
リリアは額を畳につけたまま微動だにしない。その背中には強い覚悟と、けれども微かな震えがにじんでいるように見える。
私はそっと視線を上げ、隣に座る渡代さんの表情を窺った。相変わらず不機嫌な顔をしているが、単に話が気に入らないというわけではないのだろう。きっと彼女なりの理由があるはずだった。
――だが、このままではリリアが可哀想だ。
どうにか彼女を助けたいという思いが胸に広がって、居ても立ってもいられなくなった。自分の体質や能力を知られるわけにはいかないから、あくまで私の個人的な気持ちとして伝えるしかない。
「あの……渡代さん。なんとか、なりませんか? 私、リリアさんを助けてあげたいです。きっと彼女の妹さんも、いま、どこかで不安に震えているんじゃないかな……って。だから、お願いします。力を貸していただけませんか?」
私が必死に頭を下げると、渡代さんは眉をひそめて、じろりと鋭い視線を私に向けてきた。
「語ちゃん。あなたねぇ、ずいぶん簡単に言ってくれるじゃない。妹を探すって、どれだけ大変か分かっているの?」
「それは……」
彼女の言うことはもっともだ。
異世界から来た少女の妹を探すなんて、雲を掴むような話だ。ましてや、私自身が抱える秘密もあり、どこまで関われるかも分からない。
でも、リリアの願いがあまりにも純粋だったから。そして妹であるミミアもまた、姉に会いたいと思っているはずだから。この二人の姉妹が抱え込んだ悲しい物語に、どうしても目を逸らすことができなかった。
「分かっています……分かっているつもりです。でも、だからこそ、力になりたいんです」
私の言葉を聞きながら、渡代さんはしばらくじっと私を睨みつけていた。……が、やがて呆れたように肩をすくめる。
「はぁ……」
溜息。その後に続く言葉は、どこか苦笑に似た響きを帯びていた。
「子分の言葉を聞くのも、たまには主として必要なことね。分かったわよ、語ちゃんがそこまで言うなら……」
そう言いながら、彼女は宗弥さんへと視線を向けた。宗弥さんは困ったように頬をかき、曖昧に微笑んでいる。
「園香、本当に君は素直じゃないな」
「うっさい。クソ親父、あんたも協力しなさいよね」
渡代さんがぷいと顔を背け、そう吐き捨てる。けれどその瞳には、少しだけ柔らかな光が宿っていた。つまり、彼女なりの「了承」なのだ。
ふと見ると、畳の上で深々と頭を下げていたリリアの肩が、小さく震えていた。感情を抑えるように、ぐっと握りしめられた拳が見える。
「ありがとうございます……!」
か細く消え入りそうな声で、リリアはそう呟いた。喜びと安堵が込められた一言だった。そこに王女としての顔はなく、ただの一人の姉としての顔があった。
私はそっと息を吐き、肩の力を抜く。これからの道がどうなるのかは、まだ全く分からないけれど。彼女のために、できる限りのことをしたい――その思いだけは、はっきりと胸に刻まれていた。




