PAGE. 0.5 少女の決意
* * * * * *
これはまだ、アルトリネアの先王――ダームェラ・コルペリオンが壮健であった頃。
その夜、浮遊城コルペリアの空は、静かに星を抱いていた。厚い魔法障壁に護られた宮廷の天頂には、光の粒が宙に舞い、淡い天の川のように揺らめいている。
その星々の下、小さな足音がひとつ、またひとつ。
玉座の間を抜けた先にある、城の外縁――風のテラスと呼ばれる展望台に、幼い三人の影が集っていた。
「やほーいっ、来た来たーっ!」
駆けてきたのは、桃色の髪を三つ編みに結ったやんちゃな少女。白い絹のパジャマを風にはためかせながら、低い欄干に勢いよくよじ登る。
「ミ、ミミアお嬢様っ! あ、危ないですっ! 落ちたらど、どうなさるおつもりで……っ!」
慌てて追いついたのは金髪の侍女――セイチェ。
小走りで駆け寄るその姿は、見ようによっては姉と妹のようにも見えた。
「だいじょーぶじゃ、セイチェ。落ちても浮遊魔法でふわーって、こう……こうよ、こう!」
ぴょん、と両足を揃えて跳ねながら、ミミアは腕を大きく振り回す。
「ふ、ふわー、ではありませんっ! 万が一のことがあったら、ダームェラ陛下に申し開きが……それにミミアお嬢様はまだ浮遊魔法を習得なさってないではございませんかっ!」
「そうじゃったかの?」
首を傾げるミミア。
そんな彼女達のそばに、もう一つの影が近寄る。
「ふふっ、仲がいいのね、二人とも」
最後に現れたのは、淡い桃色の髪を持つ優しげな少女。
リリア――ミミアの姉にして、コルペリオン家の第二王女。透き通るような夜着の上に、薄いケープを羽織っている。
ミミアが欄干の上からぴょんと降りて、リリアの手を引いた。
「姉様、はやくっ! 星がいっぱいなのじゃ!」
「ええ、綺麗ね。まるで……星が笑っているみたい」
リリアの穏やかな声に、ミミアは首を傾げる。
「星が笑うの?」
「うん、そう。誰かが幸せだと、星がきらきら瞬くの。だから、今夜は誰かが嬉しい夢を見ているのかもね」
「そっか……それじゃ、あの星は我の夢じゃな!」
「ふふ、まだ寝ていないじゃない」
一番明るく輝く星を指さして、ミミアが得意げに胸を張る。そんな彼女を、リリアがそっと撫でた。
「どうしてミミアの夢なの?」
「うむ……今日は、セイチェが頑張ったから!
主として、我はうれしいのじゃ!」
「わ、私ですか!?」
急に話題を振られたセイチェが、顔を真っ赤にする。
「……ほら、いつもみたいに階段でこけなかったし、魔法の練習でもちゃんと雷が出たし! えっと、それに……それに……姉上の髪をとかすの、上手になったって!」
再び、ふふっと笑うリリア。
「そうね、上手だったわ。ありがとう、セイチェ」
「そ、そんな……光栄でございますっ……!」
ぶんぶんと手を振って慌てるセイチェの髪が、月明かりに照らされて揺れる。その姿を、ミミアは目を細めて見つめていた。
「セイチェは、えらい子。じゃから、将来は……我の一番の側近になってもらうのじゃ!」
「え、そ、それはその……ミミアお嬢様のお側にずっといられるということであれば、私は――」
「……ずっと? 結婚するってことかの?」
「違いますっ!!」
セイチェが即座に否定する。
そんな三人のやり取りに、星々もまた、ふわりと瞬いた気がした。
* * *
遠く、浮遊城の魔力炉の音が微かに響く。
世界が眠るその時――同じ髪色を持つ二人の少女は、大きなふかふかのベッドの上で、しばしの時間を“ただの姉妹“として過ごす。
「姉様、姉様! 見せたいものがあるのじゃ!」
突然、ミミアがむくりと起き上がった。リリアは驚きつつも微笑んで、掛け布を整える。
「こんな夜更けに? 今度は何を企んでるのかしら?」
「ふふーん、驚くでないぞ!」
ミミアはベッドの脇に隠していた大きな木箱を引きずり出した。蓋を開けると、そこには所狭しと“宝物”が詰まっていた。毛の抜けたぬいぐるみ、小さな石、折れた木剣の柄、何かの骨、装飾のはがれた髪飾り……。
リリアが見て思わず笑ってしまうほど、雑多で混沌とした世界が箱に詰まっていた。
「……ずいぶんと、にぎやかな箱ね」
「ふっふっふ、これぞ我の秘蔵“世界一の宝箱”なのじゃ!」
得意げに胸を張るミミア。
リリアはその中を覗き込み、ひとつひとつを手に取っては微笑んだ。
「……あら、この石、あの時の川遊びで拾ったやつね。セイチェが水に落ちて泣いてた日……」
「うむ! あの時、我が川の魔物を退治したのじゃ!」
「それ、ただの魚よ」
そんな軽口の応酬がひとしきり続いた後、ミミアが少し真剣な表情になる。
「でね、姉様。これが……一番の、宝物なのじゃ」
そう言って、箱の底からひとつの包みをそっと取り出した。柔らかな布で丁寧に巻かれているそれは、他の雑多な品とは明らかに扱いが異なっていた。
リリアが視線を注ぐと、ミミアがそっと包みをほどいて見せた。
――それは、小さな短剣だった。
皮細工の鞘に刻まれた古代語。柄には竜を象った意匠が絡み、月明かりを浴びた瞬間、その表面が淡く赤く光った。
「……! これ、まさか……!」
リリアが息を呑む。
「うむ。父様から、こっそり渡されたんじゃ。誰にも言っちゃダメって言われて……」
「そんな、お父様ったら、何を考えて。
ミミア、これが何か知っているの?」
「父様から聞いたのじゃ。『ヴェルニス・スケイル』……これは王の証じゃ」
驚愕と困惑の入り混じった声。
だがミミアは、それをどこか誇らしげに見つめていた。
「父様は言ってた。これを持つ者が、皆を導く。我がその立場になった時、これを使いなさいって。
……だから、我、決めたのじゃ。いつか、これを使って、皆を守るのじゃ」
その決意に、リリアは言葉を失った。
まだ幼いと思っていた妹が、こんなにも大きな責任を、自ら抱いている。それは重すぎる夢かもしれない。けれど、それを「重い」とも「辛い」とも言わず、瞳を輝かせて語るミミアの姿に、リリアは胸を打たれた。
「姉様……我は王様になれると思う?」
唐突に問うミミアに、リリアは少し驚いた顔を見せる。
「どうしてそんなこと、聞くの?」
「だって、ティリム兄様もセス兄様も強いし、レイネ姉様は頭がいいし……。それにリリア姉様は世界で一番綺麗じゃし……」
俯いたミミアの手を、リリアがそっと握る。
「でも、私は思うの。王様って、誰より強くなくてもいい。誰より賢くなくてもいい。美しさも要らない。
でもね、誰よりも“人の気持ち”を大切にできる人であってほしいの……」
「人の……気持ち?」
「うん。今日のミミアみたいに。セイチェのこと、ちゃんと見てて、頑張ったのを褒めてあげて。そういうことを忘れない王様になれたら、きっと、誰よりも立派よ」
ミミアは、しばらく黙ってから――照れくさそうに、笑った。
「……じゃあ、がんばる。姉様みたいに、やさしい王様に、なるのじゃ!」
その言葉に、リリアの瞳が柔らかく細まる。
月が雲に隠れる一瞬――ミミアがぽつりと続けた。
「それでね、姉様が困ってる時も……ちゃんと、守れるようになりたいのじゃ」
「ミミア……」
「我はどんな時も、ぜったい姉様のことを見捨てない。いっぱい魔法を覚えて、強くなって……それでいつか、あの空の上に行くのじゃ!」
「空の上?」
「うん。あの星たちのずっと先。いまは誰も行けないけど、未来の我が、必ず行く!」
リリアが瞬きを数回繰り返した後、くすりと笑う。
「じゃあ、そのときは……私と、それからセイチェも、連れていってね?」
「うんっ!」
* * *
やがて、時が経つ。
リリアがすっかり大人になり、ミミアも物事の道理を理解して、王女としてそれなりの淑やかさを育み始めた頃。
その日は、風が優しかった。
迷いの森の外縁。エルフの領地の中でも特に神聖な場所である“花園“。あらゆる色の花々が咲き乱れた、『ふたりの出会いの場所』でもある。
白銀の陽光が枝葉を透かし、揺れる光の粒が静かに降り注ぐ。鳥たちのさえずりは、どこか祝福の歌のようで、森そのものがふたりの門出を見守っているようだった。
「……姉様、綺麗なのじゃ……!」
ミミアは、目を丸くしたまま呟いた。
花畑の奥、緑のアーチの下――そこに、若葉色のドレスに身を包んだリリアが立っていた。エルフのしきたりに則った清廉な衣。肩には薄いレースのヴェールがかかり、腰には星草の花冠が編まれていた。
その隣で、凛と立つのはエルフの長、トゥレイヤ・セリアルネ。鳶色の髪を編み上げ、装飾を控えた正装に身を包み、リリアと同じように花冠を頂いている。彼の表情はどこか不器用だが、目だけは優しく、リリアを見つめていた。
「なんだか……夢みたいじゃ」
ぽつりと、ミミアが言った。
セイチェが隣で控え、そっとその手を握る。
「素敵ですね……お二人とも、とてもお似合いです……」
「うむ、そうじゃな。
……姉様、ほんとうに幸せそうなのじゃ……」
ミミアはそう言いながらも、胸の奥が少しだけ、きゅっとなるのを感じていた。
――これからは、前みたいにすぐ会えない。
――もう、夜中にこっそりベッドにもぐってお話ししたりできない。
「……姉様が、遠くに行ってしまう気がして……ちょっと、さみしいのじゃ……」
思わず漏らしたミミアの声に、セイチェが目を丸くする。しかしその時、リリアが静かにこちらに歩み寄ってきた。
「……ミミア」
ふわりと膝をつき、彼女がミミアの目線に合わせる。
その瞳は、優しく、まっすぐだった。
「ありがとうね。来てくれて、本当に嬉しい」
「……うん。姉様が笑ってると、我も……嬉しいのじゃ。でも、やっぱり……少しさみしい」
その呟きに、リリアはそっとミミアの頬を撫でた。
「ミミア。私はね、トゥレイヤ様と出会って……自分のことを、なんの肩書きも関係なく“ひとりの人間”として見てくれる誰かがいるって知ったの。そんな風に私を見てくれるのは、ミミア以外だと初めてね……」
「……姉様は、王女様じゃったから……?」
「ううん、それだけじゃない。たぶん、私は“誰かの幸せを守る”っていう生き方をしたかったんだと思うの。だから、みんなが私を『王族』として扱い、私もそれを無意識に受け入れていた……」
「……それが、嫌じゃった?」
「いいえ。私自身が選んだことですもの。嫌だなんてことはないわ。それでも時々思うの。なんの気兼ねもなく、明日の予定を一緒に決めて、一緒にお出かけできる人がいたらなって」
「それが、エルフじゃったのか……?」
「ふふっ、違うわよ。それがトゥレイヤ様だったの。そして、たまたまトゥレイヤ様がエルフだったのよ」
「むぅ、よく分からないのじゃ……」
リリアが「きっとそのうち分かるようになるわ」と言ってから、あえてミミアに背中を向ける。
「ミミア。会う回数が減っても、距離があっても……私の中でミミアは、世界で一番可愛い妹よ。だって、ミミアはいつも頑張って、誰かのことを大事にして、笑っていてくれたもの」
ミミアの瞳が潤み、ぐっと唇を噛む。
その表情は見なくとも伝わる。なぜならリリアも同じように涙を浮かべていたから。
「……我も、姉様のこと、ずっと大好きじゃ……」
妹から、姉に向けて。背中からの抱擁。
柔らかくて、あたたかくて、少しだけ切ない――けれど、確かに繋がっている想い。二人の鼓動が重なり、花の香りが優しく彼女達を包む。
やがて、ミミアは顔を上げて、ふっと涙を拭って笑った。
「……我、祝辞を言うのじゃ!」
「ふふっ、ありがとう。じゃあ、聞かせて。私はトゥレイヤ様の隣で、あなたの立派な祝辞を聞かせてもらうわね」
結局、振り向くことはせずに花嫁の席まで戻るリリア。
ミミアは深呼吸をして、胸を張り、前に出た。それが今、姉に渡せる最高のプレゼントだと思ったから。
「姉様、トゥレイヤ殿。今日という日が、未来に続くたくさんの幸せの始まりになりますように。
もしも、どこかで困ったことがあったら――その時は、……我がぜったいのぜったいに、助けに行くのじゃ! 姉様達を守り、その生涯を導く祝福の王となるのじゃ!」
その宣言に、リリアが微笑み、トゥレイヤも口元を緩めた。彼女が初めて、王位継承の意思を公の場で告げた瞬間だった。
「……その時は、僕もミミア殿に頼ってしまうかもしれないな」
「ふふん、いいのじゃぞ。姉様の夫じゃから、特別に!」
花々が風にそよぎ、星のような花弁が舞う。
それは、祝福の雨のように――三人の上に、静かに降り注いでいた。
会場が拍手に包まれる。
だが、木陰で一人、表情を動かさない男がいた。
ティリム・コルペリオン――彼は遠くの席からミミアを見やる。その口元には珍しく笑みが浮かんでいた。その笑みが、どこか影を孕んでいることに――誰もまだ、気づいいなかった。




