23話 『物語』と出会う時
* * *
「そろそろ、私がよく熊を蹴っていた場所なんだけれど」
物騒すぎる前置きに、思わず言葉を失う。
だが、そこに至る獣道がふっと開けると、確かに何かが違っていた。鬱蒼と茂っていた木々の隙間から、柔らかな光がこぼれ落ちている。丸く平らに広がった空間。まるで森がこの場所を匿うかのように、静かで、それでいて命の気配に満ちていた。
「変わらないわね、あの頃と」
風が優しく梢を揺らし、木漏れ日が地面にきらきらと影を落とす。すぐ近くには小川でも流れているのだろうか、水を含んだ湿った空気が頬に触れる。苔むした岩や倒木が点在し、草花は自由に芽吹き、そこかしこに小さな妖精が隠れていそうな雰囲気を醸し出していた。
木々の背が高く、まるで森そのものが私たちを取り囲むようにして佇んでいる。その奥に続く獣道はさらに薄暗く、まるで“帰れない領域”へと誘うような、不思議な吸引力を持っていた。
渡代さんは先の呟きのあとから、懐かしみに浸っているのか何も話さなくなる。ただ周囲に鋭い視線を向けていた。
「どうですか、渡代さん。何か気づいたことは、ありますか?」
沈黙に耐えきれず問う私。
無言のままで彼女が、わずかに眉を寄せた。地面に手を当て、木の葉を一枚拾い上げる。そして、低く、厳しい声で言った。
「……近くで、魔法が使われた形跡があるわ」
「え? ま、魔法ですか?」
鼓動が跳ね上がるのを感じた。まだ“魔法”という言葉に現実感を持てずにいる私には、それがどれほど危機なのか分からない。ただ、彼女の表情がすべてを物語っていた。
「語ちゃん、私の後ろにしっかり着いてきて。もし、身の危険を感じても、絶対に逃げないこと。逃げたら守れないから。……いい?」
「み、みの、きけん……?」
言葉を噛みそうになる。だが、その問いに対する彼女の無言が、逆にすべてを肯定していた。渡代さんの視線の先――そこには、何かがある。
私は喉の奥に張りついた唾を無理やり飲み込み、彼女の背に隠れるようにして歩を進めた。まるで、目に見えない何かに誘われるように、森の奥へと。
* * *
そして、私たちは出会った。
――桃色の髪を持つ少女。
その体は冷たく、地面に倒れ込んでいた。服は裂け、胸元には深々と突き刺さった刃物。血は既に乾きかけ、肌は青ざめていた。けれど、彼女のまぶたはうっすらと震えていた。かろうじて、生きている。
「渡代さん……どうですか? なんとか、なりそうですか?」
祈るような気持ちだった。奇跡でも、偶然でもいい。この命が今ここで失われるなんて、あまりにも残酷だ。
何か魔法での治療を試みているのだろう。渡代さんの手元が淡い光に包まれている。だが、
「……こうも傷が深いと、私じゃなんとも」
「そんな……!」
言葉が宙をさまよう。
私には、彼女の名前が見えている。リリア・コルペリオン――あのミミアの姉であり、この世界に迷い込んできたもう一人の異世界の王女、と思われる人物。
彼女がこんな姿でここにいる理由は分からない。でも、私はこの人を救いたい。ミミアのために――いや、もう、そんな理由すら要らない。ただ目の前で消えゆく命に祈りを向けた。
「この短剣……ただの武器じゃないわね。魔力を帯びている。刺した相手に“呪い”を刻みつける類のものよ」
「の、呪い……って、それなら渡代さんの得意分野なんじゃ……!」
「……こんな時にふざけているの?」
「え、いえ、本気で……」
その睨みに、言葉を飲み込んだ。真剣だったのに。でも、きっと今の私は軽率に見えたのだろう。それほどまでに、彼女の状態は深刻なのだ。
……渡代さんは、呪いが得意というわけではなかったのか。私は現実逃避にも似た思考をかき消して、もう一度渡代さんを見つめる。彼女でも対処できないなら、一体どうすればいいだろう。
「……はぁ、仕方ないわね。一つだけ、可能性に賭けてみるか」
溜息混じりの呟きに、私は飛びつくように問いかけた。
「なんですか、可能性って……!」
「……クソ親父よ。語ちゃんも会ったでしょ? 私の父親」
「え……お父さん、ですか?」
「ええ。あんなのに借りを作るのは本当に嫌だけど、今は背に腹は代えられないわ。だけど、スマホが……圏外ね」
スマホを天に掲げる渡代さん。こめかみがわずかに震えていた。彼女がこれほど露骨に嫌悪を見せるのは、私以外の人間だと珍しい。だけど今は――
「……お願いします。渡代さん、この子を、助けてあげたいんです」
私は彼女の袖を握った。強く、離さないように。彼女が小さく目を見開き、そしてほんの少しだけ、微笑んだ気がした。
「嫌に必死ね。でも、私だって……目の前で死なれたら気分が悪いのよ。あのクソ親父に頼るのは癪だけど、仕方ないわね」
そう言って、すっと立ち上がる。そして、ふいにこちらを向いたその顔は、いつものどこか楽しげな色を取り戻していた。
「語ちゃん、いい? これは重大なミッションよ」
「へ……?」
「脅すわけじゃないけど、おそらくこの近くには――彼女を刺した“何者か”が、まだ潜んでるはず。そんな中で私がこの場を離れたら……あなたも、彼女も、殺されるかもしれない」
ゾクリ、と背筋に氷を滑らせたような冷気が走る。
なぜ今の今まで、思い付かなかったのだろう。これは、ただの“事故”ではない。明らかな殺意。ここはもう、非日常の只中なのだ。
彼女の言葉通り、この事態を招いた“何者か“が近くにいるかもしれない。リリアを殺そうとした犯人……今、そこの茂みに、木陰に、斜面の下に、潜んでいてもおかしくはないのだ。
怖い。
怖い怖い怖い――でも。
「……私、行きます」
震えた声が近くで聞こえた。
それが自分から発せられたものであると、あとから気づく。私は確かに言ったのだ。行く、と。
「察しがいいわね。その通りよ。私がこの場を離れるわけにはいかない。だから語ちゃんが、役場の方にいるはずの……あのクソ親父を探してきて」
「分かり、ました! 私が行きます!」
「全力で走って。途中で誰かに襲われたら――叫びなさい。私が、必ず駆けつけるから」
私は頷いた。何も考えずに。考える時間をつくったら、恐怖に飲み込まれてしまうから。
「うん。……いい子ね。じゃあ、行きなさい!」
パチン、と手を鳴らす音が、背を押した。
私は、走り出した。風を切り、木々をすり抜け、来た道を一心不乱に駆け戻る。最後に一瞬だけ後ろに目をやると、渡代さんがリリアに手を当てて、懸命に魔法を行使していた。命を繋ぎ止めているのだろう。
(渡代さんも、本気だ……)
彼女の覚悟を知る。
だから私は、もう振り向かずに走った。
森の吐息が耳元で囁く。間に合わない、手遅れだ、逃げろ。そんな声をすべて振り切って、ただひとつの願いを胸に走る。
どうか――どうか、間に合って。
その命が、まだここにあるうちに。
私は只管に足を動かした。枝葉が肌を傷付けようとも構わない。蜘蛛の巣だって怖くない。
(今の私には、渡代さんの『加護』がある。だから大丈夫、できるはず!)
私のこれまでの人生で、こんなに速く駆けたことはない。山中であるというのに、バイクで木々の間を突っ切るような感覚。森に住み慣れた動物だって、ここまで無茶な走り方はしないだろう。
だが、これなら間に合うかもしれない。不確かだが、希望があった。渡代さんの父親――その人物とは、ほんの少し言葉を交わしただけ。だから私には、彼がどんな人間で、どんな力を持っているのか、正確なところは分からない。
けれども、あの渡代さんが、あれほど苦々しい顔を浮かべながらも“頼る”と言ったのだ。つまり、それだけの実力と、特異性を持った存在であることは疑いようがなかった。
だから――きっと大丈夫。
彼さえ、呼ぶことができれば。リリアを救える。
「……行かなきゃ」
その想いが、私の背を押す。鼓動が速まる。呼吸が熱を持ち、身体は風を裂くように森を駆けた。落ち葉を踏みしめ、木の根を飛び越え、枝葉を避けながらただ一心に走る。だけど、その希望を断ち切るかのように、突然、
――ズンッ!!
「ひゃ……ッ!?」
身体が弾け飛んだ。
横から、何か巨大な力が私を襲った。受け身すら取れず、土の上に転がる。
痛い。
頭が、肩が、脇腹が――全部が、軋むように痛い。
「……ぇ……?」
思わず声が漏れる。
これはおかしい。先ほど、数メートルの高さから落ちた時には、あんなに派手に転がったのに、傷一つ負わなかったのだ。渡代さんの“加護”のおかげで……。
なのに、今は明らかに“痛み”がある。
(……加護を、貫いた?)
私は震える手で自分の肩に触れる。じんわりと熱い感触――見ると、そこには赤く腫れ上がった痕。明らかに、外部からの衝撃によるものだ。そして、さらに視線を向けた先。
「……なに、あれ……」
そこには、まるで生き物のようにくねる、太くて黒ずんだ“木の根”があった。
ありえない。
ただの植物のはずなのに、それが自分の意思を持っているかのように、地面からもがきながら鎌首をもたげていた。
(動いてる……)
私はごくりと息を呑んだ。
動物じゃない。虫でもない。確かに、あれは“木”だ。けれどそれが、明らかに私を狙って襲ってきたのだ。
渡代さんの言葉が、脳裏を過ぎる。彼女は確かこう言っていた。近くで魔法が使われた形跡がある、と。
(つまり、これは……魔法……?)
私はすぐさま、内なる力に指令を与えた。
【魔法使い】の役力を“ON”に切り替える。意識を集中し、周囲の魔力の流れを読み取る。
感じる。
明確に――感じる。
あの木の根は、魔力を帯びている。澱んだ、黒い、濁りきった魔力。それが木の命に触れ、暴走させている。
自然現象ではない。これは明確な“殺意”を込めた魔法。今、私は何者かに命を刈り取られようとしている。
――こ、殺される……嫌だ、嫌だ!
自分が殺される時の痛みを想像して、思考は引き返せないところまで落ちていく。だが、その根の背後から、ゆらりとひとつの影が前に出てきたことで、意識がそちらに向いた。
「……」
私の喉が、自然と閉じた。
一瞬にして空気が変わる。肌が粟立つ。呼吸すら忘れる。なのに心臓だけは、うるさいほど音を立てて動き続ける。
「⋆⟬⟦ʓ∬ヲァ=レク⋆⋆⋬⋆……*ヌェ♯」
なんだ、何か言葉のようなもの発している。
私はその声を聞いて、ようやく目の前の影がヒトであることを認識した。
蔦のような緑の髪。切れ長の瞳。細身の体躯。そして何より――人間離れした、長い耳。いや、これはヒトではなく――
(エルフ……!?)
そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
物語の中にしか存在しないはずの種族。その象徴を、いま現実として、私は見ている。
そして視線が交わった瞬間、彼の名と“役力”が、私の視界に浮かび上がった。
――――――――――――――
ロイエル・セリアルネ
【簒奪者】10rp
:己の位より上位の者へ攻撃する際に補正
【弟】-5rp
:弟としての行動にマイナス補正
【悪役】10rp
:悪事を働く際に、運命力にプラス補正
【魔法使い】16rp
:魔法の構築と行使する能力が向上
【王族殺し】0rp
:獲得予定(獲得まで残り【01:02:56】)
――――――――――――――
(なに……これ……)
理解した。
この男は、敵だ。
ミミアの姉、リリアを殺そうとした――いや、既に殺しかけている、その“犯人”だ。
そして今、私にも――その“手”が迫っている。
私はゆっくりと立ち上がり、一歩、後ずさった。
視界の真ん中で、木の根がまた蠢く。周囲の樹木もまた、ざわざわと鳴り出した。まるで、森そのものがこの男の意思で動き出しているかのように。
(走らなきゃ……! いや、違っ……渡代さん、渡代さんを、呼ばなきゃ!)
だけど――足が、動かない。声が出ない。
本能が告げていた。この男はただの脅威ではない。体が竦み上がって思い通りに動かせない。まるで自分の身体じゃないみたいだ。
(渡代さん……渡代さん……助け――)
ふと、渡代さんを最後に見た時の光景が浮かぶ。あの彼女が、祈るようにしてリリアの治療を続けていた。本気で助けたいと思っている顔だった。
今、ここで彼女を呼べば、約束通りに彼女は駆けつけてくれるだろう。簡単だ。ただ叫べばいい。全力で大声を上げれば、あの超人的な彼女のことだから、距離が離れてようとも聞きとってくれるだろう。
だが、そうすると治療を中断することになるので、リリアは助からない。今、なんとか命を繋ぎ止めている状況なのだから。
(渡代さんの想いを、努力を、私を信じてくれた心を、裏切る……?)
それが死ぬよりも怖いことか、と問われれば、きっと答えは『否』。だが、それが最善手かと問われれば、やはりこれも『否』。私の中にすでに答えはある。
渡代さんが私に向けた言葉を、私は、私自身に告げる。
(…………逃げたら……守れない!)
目の前の『物語』と出会ってしまった。
それは、痛みと恐怖と、血に塗られた運命の序章。
そして今、この瞬間が、この『物語』を捻じ曲げるための分岐点だ。
(……動かなきゃ)
唇を噛み締めた。
震える足に、再び力を込める。
こんな私に、守りたいものができた。だったら、怖くても立ち向かうしかない。負けられない。負けたくない。
(動け、動け!)
動きは拙く、手の震えがおさまらない。
逃げたい。逃げて楽になりたい。
だが、私は戦うことを選択した。
――腰のカバンから、布に包んだ“短剣“を。
――その刃が紅く光る。
――あ。
……手の震えが、消えた。




