22話 勇者の子分
* * *
――ゴキブリ退治の翌朝。
ゴールデンウィーク2日目。
目覚ましのけたたましい音に、私は重たいまぶたをこじ開けた。夢と現実の境界が曖昧なまま、枕元のスマホに手を伸ばす。時間は――七時半。普段なら絶対に二度寝している時間だ。けれど、今日は違う。やるべきことがある。いや、行くべき場所がある。
簡単に身支度を整えて、一階のダイニングへ。台所からは、味噌汁の香りが漂ってくる。母が振り返り、「珍しく早起きじゃない」と笑う。
私はトーストと卵、味噌汁の朝食をもぐもぐと頬張りながら、両親に向かって口を開いた。
「今日、友達と遊んでくるね」
「気をつけて行ってらっしゃい。良かったわ、あなたに友達がいたみたいで」
「……うん」
母の問いに、私は曖昧に笑ってうなずいた。約束――そう。正確には“命令に近い約束”だけど。
父はノートパソコンも睨めっこしながら、にこやかに手を振って送り出してくれる。思わず、こんな平和な朝がずっと続けばいいのに、と思った。
だが、私の足は再び向かう。
あの威圧感満載の屋敷、渡代さんの家へ。
昨日の道のりを思いだしながら、なんとか迷わずにたどり着く。門構えからして、まるで異世界への入り口だ。何度見ても気圧されてしまう。インターホンを押す指先がためらいで止まる。その時だった。
扉がいきなり開き――無精髭に、筋肉質な体躯が目の前に現れる。黒髪に、どこか紫のニュアンスを含んだ瞳。若々しさと渋みの入り混じった風貌の男性が、何やら急いでいる様子で出てきたのだ。
「おっとっと、すまない。
あー、もしかして、園香の友達か?」
「え? ……あ、はいっ。初めまして、未綴語です!」
「あー、うんうん。俺は園香の父親をやってるもんだ。あいつと仲良くしてくれて、ありがとな」
屈託のない笑顔で、彼は軽く手を振ってから、ちらりと腕時計を確認して表情を変える。
「やっべぇ、もう時間だ。未綴さん、こんな家でよかったら、ゆっくりしていってくれな!」
そう言って、慌ただしく駆け出していった。
私は、ぽかんとその背中を見送っていた。が、数秒後、角を曲がったはずの彼がまたひょっこり顔を出して戻ってくる。
「園香のやつ、あんなんだからな。友達も作れねーで心配してたんだ。……これからも、仲良くしてやってくれ」
「え……?」
「じゃ、頼んだぞ」
今度こそ、彼は本当に去っていった。
私はその場に立ち尽くしたまま、少し首を傾げる。
(あの渡代さんが……?)
大学では誰もが一目置く存在で、あれだけ堂々としていて、周囲には常に人がいるのに。そんな彼女が友達を作れない、だなんて。
もしかして、家ではあの“ドS”な本性を隠していないのだろうか? であれば、あの父親の言葉も、妙に納得がいく。
「……違う! そんなことより時間!」
スマホで時間を確認すると、表示は【9:02】。――まずい。あの人は、こういうところだけは秒単位で詰めてくる。私はあわててインターホンに指を伸ばした。
ピンポーン、という軽快な音が屋敷内に響く。しばらくして玄関の足音が近づいてきたかと思えば、勢いよく扉が開く。現れたのは、もちろん渡代さんだ。彼女は開口一番に強い口調で言う。
「……あの男に会った?」
「へ?」
「チッ」
露骨な舌打ち。私は思わず身を引く。渡代さんの言う“あの男”とは、彼女の父親のことだろう。どうやら彼女は、私と父親が顔を合わせたことが気に入らなかったらしい。
「まぁ、いいわ。すぐ山に向かうから。少し待ってて。準備する」
「は、はい」
彼女は一度奥へ引っ込み、まるで軍人のような素早さで戻ってきた。そして何事もなかったかのように外へ出て、鍵をかける。どうやら遅刻については責められずに済むようだ。
「あの、渡代さん。私、虫除けとか持ってないんですけど、途中でコンビニに――」
「は? 要らないわよ、そんなもの」
「で、でも……昨日、蚊がいるって――」
話を途中で遮るように、彼女は振り返りもせずに歩き出す。
「今日は虫の心配をしなくていい。後で説明するから」
どうにも腑に落ちない。でも、あとで説明してくれるというのなら……私は不安を抱えながら、彼女の背中を追いかけた。
* * *
その後、私たちは温泉街を抜け、観光パンフレットでもよく見かけるロープウェイの施設前にたどり着いた。
爽やかな青空と、鳥のさえずり。それから、山肌をなでるように吹き抜けていく新緑の風。景色としては申し分ない。だが――
「げっ……草が茂ってる」
そう呻くように渡代さんが呟いたのは、施設の横から突きつけるように続く――草ぼうぼうの脇道を見つけたからだった。
私は一瞬、目の前のロープウェイが壊れているのかと勘違いした。が、違った。彼女の目線は、明らかに“そちら”を指している。舗装もされていない、観光ルートでもない、ほとんど獣道のようなそこから……まさか山に入るつもりなのだろうか。
「え、ここですか?」
「なに? 文句あるの? 前に立たせるわよ?」
「い、いえいえ、後ろに着いて行きます……!」
咄嗟に後ろに下がる私。渡代さんの睨みは冗談では済まされない圧を持っていた。
そろりと背後につく。そして彼女に続いてその道に足を踏み入れる。草の匂いが鼻を突き、ところどころ虫の羽音が耳に入った。
「……ところで、やっぱり、虫がいそうなんですけど」
「あぁ、そうだったわね。語ちゃん、こっちに来て」
「え……?」
「何よ? 嫌なの?」
その声音に逆らえるわけもなく、私は言われるがまま、よろよろと前へ出る。彼女はすでにこちらに近づいてきていて、私との距離はゼロに等しかった。
なんだろう。石鹸のような、柑橘系のような、甘くて爽やかな心地よい香り。すでに汗臭い私との差はいったいどこから……というか目が大きくて、すごく綺麗だ。
「――いや、ち、近過ぎる……!」
「動かないで! 集中してるんだから!」
ぴたり、と額同士が合わさる。まるで熱を測っている時のように。その瞬間――私の体に、なにかが流れ込んできた。触れ合った額の奥で、微かに鈴の音がしたような気がする。それはきっと、心のどこかが震えた証なのだろう。
温かく、膨大で、目に見えない奔流が全身を巡る。水のようでもあり、風のようでもあり、心臓の鼓動に合わせてその“何か”が染み込んでいく。
呼吸が浅くなる。思考が曇って、皮膚の裏側がじりじりと痺れてくるような、不思議な感覚。背筋を這うようなぞわりとした刺激が、やがて甘い痺れに変わっていく。
「……! な、なに、これ!」
「まだ動かないの」
「で、でも、なんか、むず痒い!」
「動いたら殺す」
「………………」
あ、はい。
私はもう、無言になるしかなかった。完全に動きを静止させる。今この状態でゴキブリが顔面に着地しても、動かない自信がある。渡代さんの視線のほうが圧倒的に怖いからだ。
しばらくして、渡代さんがようやく額を離した。彼女の髪がふわりと揺れ、柑橘系の香りがすっと遠のいていく。
「よし、こんなもんかな」
満足げに頷き、腕を組む。
私はまだ体に残る余韻にくらくらしながら、恐る恐る聞いてみた。
「……えっと、いまのは……?」
「私の『加護』よ。語ちゃんには、以前私が『目』を植え付けことがあるけれど、もうそれは必要ないから。今後は私に守られていなさい。それがあれば、虫も近づけないし、ちょっとした身体強化も入ってるわ」
「え……そ、そういえば……!」
私はその場で軽く跳ねてみた――つもりだった。が、跳ねた先で世界がぐるりと回る。
「ぎゃぶっ!」
思ったよりも跳躍してしまい、木の枝に頭をぶつけた。しかも派手に。ゴツン、という音が脳髄まで響く。
「ぐべぇ……」
そしてそのまま地面に背中から激突。体中に衝撃が走る。もう……帰りたい。
「おお……語ちゃん、あなた天才よ。私の『加護』を得てもなお、隠しきれない運動神経の無さ……」
「……た、楽しんでいただけたなら、良かったです」
情けない声しか出なかった。
だが、不思議と体は痛くない。いや、まったくの無傷というわけではない。鈍い衝撃の名残は確かにあるのに、それに釣り合うはずの痣も、擦り傷さえも、どこにも見当たらないのだ。
「これ……すごいです、渡代さん」
そう呟くと、彼女は涼しい顔で片手をひらひらと振りながら、振り返ることもなく前へと歩みを進める。
「そりゃどうも。ほら、さっさと行くわよ」
その背中を目で追いながら、私は心の内に芽生えた二つの感情を噛みしめていた。ひとつは、ふわりと浮かぶような喜び。もうひとつは、ぞくりと背筋を撫でるような畏れ。あの無造作な仕草の裏に、どれほどの力が秘められているのだろうと、想像するだけで息が詰まりそうになる。
同時に面白くてたまらない。私の体は今、信じられないほど軽い。まるで重力を一時的に失ったかのように、地面との繋がりが希薄になったような感覚。弱々しい体力しか持ち合わせていなかった私が、今やあの渡代さんの後ろを、息も切らさず歩いているのだ。
「すごいなぁ……へへ、すごいなぁ……」
思わず口元が緩み、独り言のように呟いていた。が、すぐさまその甘い時間は打ち砕かれる。
「語ちゃん、黙ってないと吊るすわよ」
「……はい……」
返事をしながら、私は心の中で大きく沈んだ。自分でも分かる。テンションが底なし沼に墜ちていく感覚。
だが、足は止まらない。むしろ身体は軽快に動く。沈んだ心とは裏腹に、私の体は踊るように前へ進むのだった。
山道は想像以上に険しく、細い獣道のような傾斜が続いている。だが、いくら歩いても足取りは重くない。これが勇者の『加護』、これが渡代園香の力なのだ。
(私、いまはどういう状態なんだろう……)
何か、自分の能力を確認する術は……。
途中、廃車が一台、蔦に呑まれたまま打ち捨てられていた。その窓ガラスにふと目が留まり、私は反射する自分の姿に問いかけるように意識を集中させる。
――役力、表示。
視界の奥に、まるでホログラムのように情報が浮かび上がった。
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未綴語
【剽窃】10→15rp
:触れることで相手の役力をランダムに奪う能力
※接触時間や強度に応じて奪う役力は変化。
【模倣者】10rp
:触れることで相手の姿形をコピーできる能力
※接触時間や強度に応じて成功率が変動。
※ストック1(コピー保存数は1人分)
【巻き込まれ体質】20rp
:様々な物語に巻き込まれやすくなる体質
【加護・勇者の子分】3rp → 5rp
:勇者の力の一部を借りることができる。
※剽窃の効果により、
勇者の想定を超えて力が付与された状態
【料理家】1rp
:料理の腕前がわずかに上昇
【勉強家】1rp
:記憶力と応用力に僅かな補正あり
【モブキャラ】6rp
:物語の端っこの方に存在を許される
【魔法使い】2rp(OFF)
:魔法の構築と行使する能力が向上
【ドジっ娘】2rp(OFF)
:あらゆる行動に不注意・不器用さの補正
【ラッキースケベ】3rp(OFF)
:スケベな場面への遭遇率が大きく向上
【アルトリネアの女王候補】- rp
:『ヴェルニス・スケイル』所持者
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ヴェルニス(右翼の鱗の一部)
【竜王】100rp(鱗のみのため無効)
:神をも喰らう竜に与えられし称号
【固有魔法・空間断裂】100rp(右翼)
:魔力を糧に、空間そのものを断裂する力
※加工済みの鱗でもその力を引き出すことが可能
※注意:いずれも竜王の効果により強奪不可
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情報の羅列を見つめながら、私はふと、ひとつの能力名に注目した。それは当然、【加護・勇者の子分】というものだ。
……子分ってなんですか、渡代さん。
思わず口を開きそうになったその言葉は、喉の奥でそっと飲み込んだ。なんとなく、それを今ここで言葉にしてしまったら、取り返しのつかない屈辱が待っている気がしてたからだ。




