19話 巻き込まれ体質
* * *
これが『物語』の導入であるならば、私はすぐにでも本を閉じて、見なかったふりをしてベッドに潜り込んでいたことだろう。だが、この現実を夢の中に置いてくることはできないらしい。
大学生になってから初めてのゴールデンウィーク。
その二日目のことだ。
渡代さんに誘われての里帰り。彼女の“ある目的“のために付き合わされて、一緒に入った山の中腹。そこで私たちを出迎えた恐ろしい光景は、大自然由来のものではなく、明らかに人為的なものであった。
隣に立つ渡代さんは、少しだけ遠い目をしてから、すぐに目の前の“それ“に目を向ける。
「……私ってさ、昔から、厄介ごとに巻き込まれやすいのよ」
淡々とそう呟いた彼女の声には、どこか呆れにも似た諦念が滲んでいた。
額に指を当て、木々から零れ落ちる蜜のような陽光に、その美しい瞳を細めながら。
彼女はただ前を見ていた。
その足元に――桃色の髪をした少女が、倒れていた。
草木に滴る血の色は、暖かな初夏の陽光の下にあって、妙に鮮やかに咲いている。その光景はどこか現実味を欠いていた。だが、否応なく私の鼻腔に届く鉄の匂いが、これが紛れもない現実だと突きつけてくる。
――赤い。
少女の胸元に深く突き刺さった刃。これは何かのナイフだろうか? あまりにも深々と肉に喰い込み、柄の根元さえほとんど見えないほどだった。
彼女の吐く息はひどく浅く、喉の奥で何かが擦れるような音がかすかに聞こえる。
――彼女の命が終わろうとしていた。
「そ、それ……なにか、刺さって……」
自分の口から出た声が、他人のもののように思えた。
喉が震えているのがわかる。まともに声が出せない。目の前の光景が信じられなくて、理解が追いつかなくて、けれども目を逸らすこともできなかった。
「ひっ……」
息絶えそうな少女の瞳が、こちらを見ていた。
その目は、哀しみにも、苦しみにも染まっていなかった。ただ――助けを求める子供のように、微かな希望を探すように、私を見ていた。だが、私は短く臆病な悲鳴を上げるだけ。
少女の指先が動いた。
血に濡れた掌が、私の方へと、ゆっくりと伸ばされてくる。それはとても弱く、風が吹いただけで崩れそうなほどだった。そして――そのまま、少女の手は空を切り、ぱたりと地に落ちた。その音が、胸の奥に杭のように突き刺さる。
「たっ……助けられますか?」
私は、ようやくの思いで言葉を絞り出した。自分でも情けなくなるほど、震えていた。震えているのは手だけじゃない。喉も、膝も、心も。
私の中にある『平凡』と『日常』が、血の色に染められながら全ての景色を変えていく。ここは私の“物語“じゃない。けれども引き返せないくらい深くまで、何かの“物語“に巻き込まれてしまったらしい。
渡代さんはしゃがみ込み、そんな私をちらりと見た後、無言で、少女の顔をじっと見つめた。
目の奥に宿るのは、冷静な観察の光。この光景が、彼女にとって『非日常』ではないことを、私はその目で悟った。
慣れている――そう、思った。
こんな場面に。
誰かの命が、指の間からこぼれていくような現場に。
「……ま、やれるだけのことは、やってみる」
小さく呟いて、渡代さんは少女の首筋に触れる。その所作にためらいはなかった。どこをどう押さえれば痛みが少ないか、どの程度の血の量なら命がもつか――それを知っている人間の手つきだった。
その横顔を見ながら、私はただ立ち尽くしていた。何かをしようとする意志もなく。何かができるとも思えず。私は、ただ震えていた。
(……いや、それは今までの私。これからの私は違う。
できることをやろう。なにか、渡代さんの手伝いくらいならできるはず……)
私は尻込みしそうになる身体をなんとか前に出し、渡代さんの隣に立つ。
少女の瞳に、かすかな命の灯が残っているうちに――何か手がかりを。私は目を凝らして、役力を覗き込む。そこに浮かび上がった文字列を見た瞬間、息が詰まり、喉がひりついた。
――――――――――――――
リリア・コルペリオン
【ヒロイン】15rp
:ヒロインとしての行動と運命にプラス補正
【慈愛】15rp
:他者を慈しむ心にプラス補正。
※攻撃的な行為や能力へのマイナス補正あり。
※他者から愛されるやすくなる補正あり。
【王女】15rp
:美しさと他者を惹きつける能力にプラス補正
【魔王】5rp
:魔力がそこそこ上昇
【救出フラグ】15rp
:何かしらのトラブルに巻き込まれやすくなる。
※主人公格の者から救出される運命力に補正あり。
――――――――――――――
魔王という役力に、コルペリオンの姓を持つ者。彼女は私の初めての友達――ミミア・コルペリオンの血縁者だ。ここまでの条件が揃っているなら、ほぼ間違いないだろう。
(うそ……こんなことって……)
多くの悲しみを背負ったミミアの顔が脳裏に浮かぶ。彼女が目の前の少女――リリアの死を知ったら、きっと悲しむに違いない。
(絶対に助けないと……)
助けたいという想いがより一層に強くなる。
私は今度こそ彼女の目をしっかりと見据えた。
* * *
時は少し遡る。
ゴールデンウィーク初日の朝。窓の外には、低く垂れ込めた雲。白と灰のまだら模様が空を覆い、まるで今日の私の気分を代弁しているかのようなどんよりとした天気だった。
駅の構内にはすでに人の波。休日の始まりとあって、改札前にはキャリーケースを引く人々が忙しなく行き交っている。私もその波の中に揉まれながら、待ち合わせ場所へと急いでいた。すでに息は切れ切れだ。
(間に合え、間に合え……)
なんとか滑り込んだホームの片隅、私の視界に、彼女――渡代さんの姿が入る。
彼女はやや不機嫌そうに腕を組み、私をじろりと睨んだ。その手元にはアンティーク風のキャリーケースが一つ。落ち着いたワインレッドの革張りで、所々に金色の装飾があしらわれている。おしゃれすぎて、むしろ浮いて見えるレベルだった。
「……遅い」
「ご、ごめんなさい……」
私は慌てて頭を下げつつ、手元のキャリーケースを引き寄せた。お父さんから貰い受けた、黒くてボロボロのそれは、傷だらけでキャスターの回転も微妙に悪い。周囲の視線を少し感じる。
「ちょっと。なにそれ」
「え?」
「ダサい」
即答だった。私はなにも言い返せず、唇を引き結ぶ。
「……お父さんのおさがりなんです」
「ふぅん。ま、いいけど」
渡代さんはため息交じりに目を逸らし、腕時計にちらりと目をやると、満足げに頷いた。
「そろそろ時間ね。行くわよ」
「え? あ、う、うん。……はい!」
言われるがまま、私は彼女のあとを追う。駅構内の通路を抜け、ホームへと向かうと、ちょうど電車が来たところだった。すでに人は多く、私たちも半ば押し込まれるように乗り込む。
ホームの人集りからして想像はできていたが、車内はすし詰め状態だった。ゴールデンウィーク初日。みんな一斉に移動するらしい。
(はぁ……)
重たいキャリーを支えに人波に揉まれながら、私はなんとか渡代さんの隣にポジションをとる。彼女は背筋を伸ばしたまま涼しい顔をしていた。
「……すごい混みようですね」
「当然でしょ。せっかくの長期休暇……みんな、逃げたくなるのよ、日常から」
彼女の言葉に、妙な実感がこもっていた。だから私は、そこに反論する気にもなれず、ただ黙っていた。
(私もできれば逃げたいんだけど……)
しばらくすると、渡代さんが唐突に私の腕を掴んだ。無理やり人混みをかき分けるようにして、電車の出口へと向かう。
「えっ、ちょ、ちょっと……!」
気づけば私は駅のホームに引きずり出され、乗り換えの案内に従って新幹線のホームへ移動させられていた。
そして――次の瞬間には、私たちは新幹線の座席に並んで座っていた。あっという間である。
「……あ、あれ? いつのまにか、新幹線?」
「なに寝ぼけてるのよ、あなた」
「す、すみません……」
小さな声で謝ると、渡代さんは肩をすくめ、外の景色に視線をやった。窓の向こうに広がるのは、ぼんやりと霞んだ山々と、どこか懐かしい風景。
その後はしばらく、たわいのない会話を交わしていた。案外、普通に受け答えできていることに私は安堵しつつ、早朝の疲れが響いたのか、だんだんと睡魔に引き込まれそうになっていく。うとうとと、意識が落ちかけたそのとき。
「――で、ここ最近のニュースは見ているかしら?」
「ニュース、ですか……?」
私は寝ぼけ眼を擦りながら聞き返した。
「ええ。とある田舎の裏手の山で、『鬼の遺骨』が見つかっただの騒いでいる、あれよ」
「あー、どこかで見た気がします」
思い出すのに少し時間がかかったが、確かにそのニュースは耳にしたことがあった。角の生えた異形の頭蓋骨――そんな見出しだった気がする。
「それが、どうかしました?」
「まだはっきりとは分からないけれど、その正体に心当たりがあるの。それを今回は突き止める」
彼女は真剣な顔をしてそう言った。車内の静けさの中で、その言葉は妙に重く感じられた。
「なるほど……。でも、それって……どうして私を?」
「え? だって、山を探して回らないとでしょ? 一人だと効率が悪いじゃない。でも、こんな面倒を頼める人なんていないし」
「はぁ……」
思わず溜め息がこぼれる。彼女の言い分は、一方的すぎた。
「語ちゃん、暇でしょ? それに、私の秘密を漏らさない……というか、漏らす相手がいない。だから、あなたに手伝ってもらうことにしたの!」
「いや、それ……誘いっていうより……」
脅迫……。
文句を言いかけて、結局飲み込んだ。彼女には、逆らっても無駄だと、私はもう知っていた。
その後も、いくつかの乗り換えを経て、ようやく目的の駅に降り立つ。そこは静かで、やや寂れた温泉街だった。山々に囲まれ、時間の流れがゆったりとしている。
「着いたわね。ここがわたしの故郷。私が生まれ育った街よ」
「え……」
その言葉を聞いた瞬間、私は目を見開いた。
この光景に――私自身も覚えがあったからだ。
「……ここ、私の故郷です」
思わずそう呟いた私の声に、渡代さんは眉をひそめた。
「……は?」
その場に、懐かしい香りの温かな風が吹き抜けた。




