PAGE.2 異界渡り
* * * * * *
かつての魔王ダームェラが使用していた応接室は、まるでその男の内面を映すかのように質素なものであった。整えられた石の床に、簡素な椅子と机。壁には一枚の絵すらなく、重厚なカーテンさえも存在しない。そこには贅を誇る意志も、権力を見せびらかす誇示もなかった。
しかし今、その部屋は変わり果てていた。
金箔の施された柱。天井には虚飾に満ちた装飾が吊り下げられ、左右の壁には赤黒い絨毯が垂れ、まるで血と影を象徴するかのように部屋を覆っていた。応接室は、魔王ティリム・コルペリオンのもとにあり、その空間そのものが彼の支配と嗜虐の趣味を雄弁に語っていた。
「入れっ!」
べギアン・エドリアスは、その部屋へと引きずられるように連れて来られた。両腕を左右から兵に掴まれ、痩せた身体は否応なく前へと運ばれる。
整うことさえ許されず伸びっぱなしの髭、深く刻まれた眉間の皺。年齢の割には若く美しいと謳われていた爽やかな顔立ちも、今や汚れに塗れている。面影があるとすれば、金糸のようなその髪くらいだろうか。
「……」
正面のソファに深く腰を下ろすティリムを見て、何かを押し殺すように黙り込むべギアン。
彼はかつて、先王ダームェラの側近として仕え、政務を取り仕切る宰相の地位にあった。しかし今やその座は、謎多き男メイザル・ターリーによって奪われ、べギアンの名は反逆者の烙印と共に牢の記録に刻まれていた。
そして何より、彼の罪は娘――セイチェが、第三王女ミミアの逃亡に手を貸したことにある。
「――エドリアス侯」
低く、どこか嗤うような声音。
その声の主、ティリム・コルペリオンは退屈そうに足を組んでいる。黒曜のような衣をまとい、紅玉の装飾を施した王冠を頭に戴くその姿は、王というよりも物語で聞く『魔王』そのものであった。右の手には細工の施された杯があり、左手は顎に添えられたまま、じっとべギアンを観察している。
「そなたの妻……名は、ミーチェと言ったか」
ぴくり、とべギアンの眉が動く。ティリムの言葉が続く。
「――あれの命が惜しくば、余の命に従うことだ」
その一言で、すべてを悟った。べギアンは、なぜこの場に呼ばれたのか、とうに見当はついていた。娘と共に逃げた第三王女を追うには、自身の一族に伝わる秘術――『異界渡り』が不可欠なのだ。
「なんと、卑怯な……貴方様に誇りというものはないのですか……」
ティリムの脅迫を前にしても、べギアンは即答しなかった。家族を、妻を何よりも大事にしている彼にとって、選択は地獄だった。命を守るために誇りを捨てるか。誇りを守るために、愛する者を差し出すか。どちらにしても妻、あるいは娘の死が待っている。
「どうした、エドリアス侯? 何を迷っておる。……ああ、さては余の言葉が信じられぬか?」
その声には、もはや威厳というよりも獣の威嚇のような鋭さがあった。
「――あれを、見せてやれ」
ティリムの合図で、近衛の一人が前に進み、手にした布のような物を机の上へと広げた。白く、滑らかで、美しい。獣の皮に似ていたが、どこか違和感があった。
「……これは……?」
べギアンの声はかすれた。答えはすぐに与えられなかった。だが、目がそれをとらえたとき、息を呑む。
――その皮には、二つ並んだ黒い斑点があった。
記憶の奥深くに焼き付いた、馴染みある形。眠る夜に指でなぞった、あの柔らかな背中。
「違う……そんなはず……」
言葉にならない叫びが喉をせり上がる。理性が拒み、理解が追いつかない。額に冷や汗が流れ、呼吸が乱れ、口から胃の内容が逆流する。
嘔吐――魔王の面前で、地に膝をつき、すべてを吐き出した。
その様子を見て、ティリムがようやく表情を変える。彼は満足そうに笑っていた。
「安心しろ。あの女はまだ無事だ。城の回復術師が丁寧に癒してやった。……傷を跡形もなく、な」
それが何を意味するか、誰よりもべギアンが理解する。
――すなわち、再び同じ苦しみを与えることができる、ということだ。
べギアンは、己の誇りも信念もすべて捨てて、地に額を擦りつけた。痩せた体をこれでもかと折り曲げて、身を震わせ、声を漏らす。
「どうか、どうかお助けください、ティリム・コルペリオン魔王陛下……。私の命でも、この魂に刻まれし『異界渡り』の秘術でも……そのすべてを、貴方様に捧げます。ですから……妻を……どうか、妻だけは……」
沈黙が降りた。
やがて、ティリムはゆっくりと立ち上がると、べギアンの背後へと歩み寄り、低く囁いた。
「いいだろう。そなたの忠誠を信じてみることにする。余は寛大であるゆえ、あの女と城の一室で過ごすことを許そう」
そして、忘れてはならぬとばかりに、最後に言い添えた。
「ただし――もし、裏切るようなことがあれば。そなたも、あの女も、兵どもの『拷問教材』として……一生を使い潰してやるからな」
それは宣告だった。
次に命令に背けば、地獄の扉が永遠に開かれるぞ、という悪魔の契約そのもの。
べギアンはただ力無く頷くしかできなかった。彼は優しすぎるゆえ、自身が傷つけてられるより、妻が傷つけられたという事実に、理性を追いつかせる事ができなくなっていた。
「あの女を解放してやれ」
「は!」
ティリムが再び指示を出すと、近衛はすぐにその場を後にした。この魔王は知っているのだ、べギアンという男の性質を。だからこそ彼自身に拷問を施すのでなく、妻に代わりを務めてもらった。決して殺すことはせず、苦しみを与えることで、べギアンが『妻を守る』という選択肢を選ぶように。
「さて、異界に送り込む者を選定するとしようか」
ティリムはくつくつと笑いながら、光を失ったべギアンを背に、部屋を出た。
残されたべギアンは声にならない叫びを、床にぶつける。その口からは血が滲み出ていた。
* * *
アルトリネア東方、セリアルネ地方――。
それは、地図上では確かに存在しているはずの場所。だが、初めて足を踏み入れる者には、まるで夢のように現実感を欠いた場所でもある。空は高く、雲の流れすらゆるやかで、風の音には人の言葉に似た囁きが混じる。
大地を穿つように聳え立つのは、樹齢数千年を超える大樹たち。幹は十人がかりで抱えてもなお余り、枝葉は天空に向かって螺旋を描きながら広がっていた。その葉先には、金と翡翠の光が同時に宿っているかのような、神聖な光沢が揺れている。
ここは、“迷いの森”と呼ばれる領域。
一度足を踏み入れれば、この地を知らぬ者は誰しもが方向を見失う。魔力そのものが森に染み込み、生きているかのように訪問者を試し、拒む。だが、この地に生きる者たちは例外だった。
森の奥深く、ひときわ巨大な霊樹の幹をくり抜いた内部に、それはあった。他のどの建築物よりも自然に溶け込み、かつ荘厳な気配を纏った居館――それこそが、森を統べるエルフの長『トゥレイヤ・セリアルネ』の居城であった。石も金属も用いず、ただ木と魔力と風の調和によって築かれた空間は、まるで神の祠のような神聖さを湛えていた。
「……これは、厄介だね」
長椅子に浅く腰かけたトゥレイヤが、小さな溜息を落とした。光の差し込む天窓の下、手元には斥候たちから届けられた報告の巻紙。文面に記された言葉の数々が、彼の美貌をわずかに翳らせていた。
「報告には、なんと……?」
傍らに佇むのは、桃色の髪を持つ若き王女――リリア・コルペリオン。
その瞳には藍色のアメジストのような光が宿り、憂いを帯びた光がこぼれている。かつては王都の花と称えられた美しき姫君。その面影は森の静けさの中でもなお、ひときわ際立っていた。
「トゥレイヤ様……兄は、いったい……」
問いかけは小さく震えていた。
トゥレイヤは、ゆっくりと彼女の方に顔を向け、淡く微笑する。
「……どうやら、君の兄上は、この世界の調和を許してくれるような御仁ではないようだよ」
リリアは、言葉をなくしたように俯いた。
「報せによれば、魔王ティリム・コルペリオンがあの“白獅子“に、この地を統べる権利を与えたという。セリアルネを……我々が守ってきたこの地まるごと」
トゥレイヤの声には、怒りよりも冷たい諦観があった。
一方でリリアは、拳を握りしめる。
「……兄上、らしいですね。あの方は、その力を支配のために使う人。正しさも、情も、まるで……見えていない」
「“白獅子“ヴォルニク・エリュドール……聞くところによれば、苛烈な戦術と冷徹な決断力を持った男だ。相手に容赦はしない」
「……エリュドール侯が来るのですか、この地に……?」
リリアは震える声で問うた。かつて、王都で幾度かすれ違ったことのある男。厳つい顔と、その内に宿す業火のような威圧感。左目のあたりにある鱗のようなアザが特徴的な彼は、軍人としては完璧だが、対話という言葉の似合わぬ男。
「ふふ……心配性だなあ、リリアは」
トゥレイヤはそっと彼女の手を取り、優しく微笑んだ。
「僕がいる。森がある。エルフたちが目覚めれば、どんな外敵であっても、このセリアルネに足を踏み入れることは許さない」
それは事実だった。
彼らエルフ族は、大地に眠る膨大な魔力と調和する術を知っている。過去、あの『竜王ヴェルニス』すらも撃退したという神話に語られる存在。彼らが真に力を振るえば、戦局は一変するだろう。
だが――。
「……それでも、やはり不安なのです。トゥレイヤ様が、森が、皆が……傷ついてしまうのではないかと」
リリアの声は震え、目には涙の気配が滲んでいた。
「戦わなければ、誰も守れない。でも、戦えば、何かが壊れてしまうかもしれない。私は……私はそれが怖いのです」
「そうだね、無傷を約束できるほど、楽観はできない」
「いえ、トゥレイヤ様。問題はエリュドール侯だけではありません。もし仮に、あの方を退けたとしても、その先に待つのは魔王……兄には、誰も勝てません」
トゥレイヤは、彼女の涙を指先でそっと拭いながら、真剣な面持ちで答えた。
「じゃあ、そうならないようにしよう」
「え……?」
「敵が強すぎるなら、こちらも強い味方を得ればいい。それが戦の基本だろう?」
トゥレイヤは立ち上がり、森の奥へと視線を向けた。
その瞳の奥に、かすかな光が宿る。
「君の妹。ミミア・コルペリオン――」
「ミミアを……?」
「そうだ。彼女は正当な王位継承者でありながら、今や『異界』に逃れ、魔王に追われている。ならば……彼女をこの地で保護し、“正統の王“として擁立する。それが、我々がこの戦に勝ちうる唯一の道筋だ」
「で、ですが……!」
リリアが制止しかけたが、トゥレイヤはすでに次の言葉を口にしていた。
「僕は一度、あの少女を見た。君との結婚式の日だね。森の結界が震えたのを感じたよ。彼女の魂に触れた森が、彼女に祝福を与えたんだ。いや、あの時の気配……あれはまるで、森どころか、大地そのものが歓喜しているようだった」
「……!」
「彼女の内には、眠れる力がある。今はまだ覚醒していないだけで、王という器にふさわしいだけの“意味”を、彼女は持っているはずだよ」
リリアは目を伏せ、やがて小さく呟く。
「……異界にいるミミアを、どうやって保護するのですか?」
「それも、問題ないさ」
トゥレイヤは微笑んだまま、天井を仰ぐ。
そこからは、陽光がひと筋、彼の白銀の髪に差し込んでいた。
「異界渡りは、なにもエドリアスの専売特許じゃない。我々エルフもまた、似たような“門”を作る術式を知っている。完全な渡航は無理でも、痕跡を辿ることはできる。彼女の魔力は――この大地にしっかりと記憶されているから」
そして、少しだけ声を低くして言った。
「今の王に未来がないのなら、我々は、新たな王を迎えるしかないのだよ、リリア」
* * *
数刻の時を挟み。
セリアルネの森の最奥――精霊の息吹が濃く渦巻く神域の大地。
巨木たちは静かにその枝を震わせ、葉の擦れる音が、まるで何かの囁きのように耳をくすぐる。
その中央、巨大な根が地表から波打つように隆起し、空洞をなすように広がった空間に、複数のエルフたちが静かに立っていた。
彼らは全員、白と緑を基調とした儀礼服をまとい、手には魔力の奔流を導くための宝杖を携えている。中でも特に年嵩の術者たちは、すでに額から青白い霧のような魔力を放ち、場の気配を徐々に変化させつつあった。
「門の形成は……この森の霊脈を用いる他にない。非常に消耗が大きいが、今は選り好みをしている場合ではない」
トゥレイヤがそう呟くと、周囲の術者たちは無言で頷き、足元の大地へと両手をかざす。
緑の魔術陣が、ゆっくりと地に描かれてゆく。
それはまるで森そのものが応じているかのように、根や苔が自然に形を成し、やがて模様が浮き上がった。
――淡い光が辺りを照らし始める。
トゥレイヤはその光景を見ながら、ふと目を閉じる。
心に浮かぶのは、ある春の日の記憶だった。
* * *
あれは、花が咲き誇る季節のことだった。
精霊の加護がもっとも強まるその時期、森の境界近くにある花園で、トゥレイヤは見慣れぬ気配を感じた。
侵入者かと思い、警戒して枝葉をかき分けた彼の視界に、ふわりと揺れる桃色の髪が飛び込んでくる。
少女は、花畑の中で膝をつき、手のひらにそっと小さな花をのせて微笑んでいた。
風に撫でられるたび、髪がやわらかく波打つ。その頬には曇りひとつなく、目元には深い慈しみが宿っていた。
――その瞬間、トゥレイヤの時間は止まった。
彼は長い歳月の中で、森に咲く無数の花々と対話し、その儚さと美しさを知っていた。それらを超える存在など、この世にはないと信じていた。
けれど、目の前の少女――リリア・コルペリオンだけは違った。彼女の中には、どんな花よりも鮮やかで、やわらかで、凛とした光があった。
それはまさに、一目惚れだった。
後日、先王ダームェラが告げる。内容は『セリアルネの長に王女を嫁がせる』というものだ。エルフとの交流を絶やさないための政略だというのは明白だった。
だが、彼は迷わなかった。王命ではなく、自らの意志として、エルフである自分から、人間の王女へと求婚の言葉を告げた。
今でも覚えている。
膝をつき、拙くも真剣な表情で言葉を紡ぎ、花々の間で彼女に誓ったあの春の日のことを。
リリアは少し驚いたあと、頬を染め、柔らかく微笑んでくれた。
その笑顔だけで、この世界が満たされたように思えた。
* * *
記憶が胸を満たす中で、トゥレイヤは再び目を開いた。
「……守らねばならないのだ。この森も、彼女も」
その呟きは、誰に聞かせるでもなく、ただ空気の中に溶けていった。
魔術陣がさらに光を強め、空気がわずかに震え始める。
リリアが、そっとその隣に立つ。
「トゥレイヤ様……門の形成は、もうすぐですか?」
「そうだ。もう間もなく、向こうの世界へと繋がる」
「……ミミアは、きっと驚くでしょうね。
けれど……彼女はきっと、呼びかけに応えてくれると、私は信じています」
その言葉に、トゥレイヤは目を細めた。
「僕もだ。あの少女には、王としての資格がある。ならば我々が先んじてその道を拓こう」
魔術陣が完成し、森の奥から新たな風が吹いた。
それは異界の気配を孕んだ風。かすかに空間が軋む音がし、ひとすじの光が中心に差し込む。そして、ついに“門”が――開き始めた。
門の光が強まっていく中で、リリアは静かに問いかけた。
「……ところで、異界に向かうのは、どなたなのですか?」
その言葉に、トゥレイヤのまなざしがわずかに揺れた。
ほんの一瞬だけ、寂しげな色がその瞳をかすめる。
「……それは、僕自身だよ」
「……え……?」
リリアの声が震えた。冗談ではないと悟るには、トゥレイヤの表情があまりにも静かで――決意に満ちていた。
「ど、どうしてトゥレイヤ様ご自身が……! それでは……」
「分かっているよ、リリア。君の不安も、民衆の声も、すべて感じている」
トゥレイヤは首を振り、彼女の前に歩み寄った。
魔術陣の光がその鳶色の髪を照らし、まるで聖なる使者のような気配すら漂わせながら、彼は淡々と語る。
「けれど、向こうの世界がどのような理で動いているか、我々には分からない。ましてや、大地の魔力の流れがどうなっているのかも不明だ」
リリアが黙り込むのを見ながら、トゥレイヤはわずかに眉をひそめる。
「そんな不確かな世界の中で、こちらと繋がる“門”をもう一度、確実に開ける者がいるとすれば……それは、僕しかいないんだ」
その声には迷いがなかった。だが、どこか切なさを湛えていた。
「本当は……本当は、君と離れたくないんだ。リリア。君の隣で、君の笑顔を見ていたい。ずっと……そう思っていた」
その言葉は、彼にしては珍しく感情に満ちていた。
リリアの唇がかすかに揺れる。
「……っ」
その一言を、受け止めきれなかった。
リリアは衝動のままに、彼の胸に飛び込んだ。
驚いたようにトゥレイヤの身体がかすかに揺れたが、すぐに両腕で彼女を抱きとめた。
「……勝手なんですから。いつも……一人で決めてしまって……」
「ごめん……ありがとう。君がいてくれて、僕は何度も強くなれた」
二人はしばし、何も言わずに抱き合っていた。
そして、リリアがゆっくりと身を離し、精一杯の笑顔を作る。
「分かりました。トゥレイヤ様の無事を祈り、お帰りになるまで――この私が、トゥレイヤ様の大事な森をお守りいたします」
その言葉に、トゥレイヤの瞳が柔らかく細まった。
「ああ、頼んだよ、リリア。僕は必ず、君の元に戻ると誓おう」
そして彼は、軽く片腕を上げ、傍らの者を示した。
一人の青年が、静かに前に出る。精悍な顔つき、トゥレイヤとどこか面差しの似た青年――彼の弟、ロイエル・セリアルネである。
「不在の間は、この地の長として、ロイエルに代理を任せる。皆、彼に従ってくれるように」
その言葉に、周囲のエルフたちが僅かにざわめくが、やがて静かに頷いた。
ロイエルはその場で膝をつき、左手を胸に、右手を地に置いて頭を垂れる。
「兄上のご命令、謹んでお受けいたします。我が身、命尽きるまで森に捧げる所存」
その声は真摯で、誠意に満ちていた。
だが――その瞬間、風がざわめく。
ロイエルはそのままの姿勢で懐に手を滑らせ、一閃。
銀色に輝く短剣が空を裂き、一直線にトゥレイヤの胸元を狙って放たれた
それは明確な殺意。それは明確な裏切り。弟から、兄に向けて、悍ましい感情の果て。何が彼を駆り立てたのかは誰も知らない。だが、彼ははっきりとした意志を持って、短剣を前に突き出した。
「――トゥレイヤ様!!」
気付いたのはリリアのみ。
実の弟から、ましてや死角からの急襲など想像していないトゥレイヤは、全く反応できていない。
当然だ。これまで兄弟仲が特別に悪いと思ったことはないし、自分は弟のことをよく気にかけていると、トゥレイヤ自身はそう思っている。だから反応できない。避けられない。
叫び声と同時に、リリアが身体を躍らせる。
彼女は咄嗟にトゥレイヤを突き飛ばした。
そして、その代償は――あまりにも大きかった。
短剣が、彼女の胸元へと深々と突き刺さる。
肉を裂く鈍い音。深緑の森に、赤い花が咲く。
「――ッ!」
トゥレイヤが地に倒れこみ、視線を走らせた先に、血を吐きながら崩れ落ちるリリアの姿があった。
「り……リリア?」
何が起きた。なぜリリアが倒れている。
トゥレイヤは理解できない。いや、既に全てを理解している。だが、ありのままの現実を受け入れることができない。
彼の大切な、命よりも大事な、愛する、愛してくれる、一生をかけて守り抜くと決めた、あの美しい少女が……赤く染まり、地に身体を預けていた。
「リ、リリアッ……リリアァァアア!!」
絶叫が、神域に響いた。
そして――次の瞬間、魔術陣が閃光を放つ。トゥレイヤの制御を離れた“門”が、起動してしまったのだ。
狙いを外し唖然とするロイエルと、倒れたリリアの身体が、光の中へと吸い込まれていく。
トゥレイヤの手が、虚空を掴むように伸ばされ――だが、もう遅かった。白光が森を包み、風がすべてをかき消した。
……気づけば、彼らの姿は、そこにはなかった。




