酒仙郷 - 濃尾
酒仙郷 - 濃尾
1
東国の山中、隠れ里あり。
里人みな酒を造る。
山を下りてこれを売る。
人呼びて曰く「酒仙の酒」と。
〜号日譚〜
2
昭和十六年七月。大蔵省醸造試験所技官・先島伸二は、夜の篠突く雨の中、中山道を信州へ向かっていた。長野県諏訪地方の銘酒「真澄」の蔵付き酵母を単離・研究するためである。
汽車が高崎を出てどのくらい走っただろう。突然、汽車は急停車した。
「車掌さんの話だと、横川駅の手前で大きな崖崩れだってさ。ここから先、道中は難儀だな。」
車両の後ろへ走っていき、戻ってきた同僚の小林が言った。
「ともかく、ここにいても埒があかない。降りよう。荷物、忘れるなよ。」
先島と小林、それから下男は線路から外れ、中山道の安中宿方面へと向かった。
3
やがて雨はやみ、月が出てきた。一行は安中宿まであと少しという峠で、粗末な小屋掛けを見かけた。
傍らを通りかかると、藁むしろの上に、あまり清潔とは言えない身なりの男が一人座り、一升瓶が十本ばかり並んでいた。
先島はすぐに興味を示し、藁むしろに近づいて、よく検分した。月明かりに照らされたガラス製の一升瓶には、白濁した液体が入っている。
「君、これ酒かな? 少し試していいか?」
うつむいたままの男に先島が尋ねると、男は黙ってうなずいた。
「じゃあ、失敬。」
先島はそう言って水筒の蓋に白濁液を少し注ぎ、口に含んだ。
「ほほう――風味渾然、香り高し。甘くなく、また辛くもなし。アルコール分、十%内外。」
一口でこう分析すると、残りを小林に渡した。
「ほう。どぶにしては、これは……。」
小林も驚いている。
「君、これは君が造ったのかい?」
先島がかがみこんで尋ねると、男はうつむいたまま首を横に振った。
「このどぶ、どこで造ってるんだ?」
小林が聞いたが、男は黙っている。よくよく見ると、男は酔っているようだ。商売物に手を付けたのだろう。
「まあ、いい。おい君、一本もらうよ。いくらだい?」
「……二円。」
男の声はやはり酔っていた。
「おいおい、ずいぶん吹っ掛けたなあ!」
と小林が言うのを遮り、「じゃ、もらっていくよ」と言って、先島は一升瓶をぶら下げて歩き始めた。
山道がゆるやかに曲がって男の小屋が見えなくなると、先島は二人を呼び寄せた。
「君たちは安中で待っててくれ。佐々木楼に泊まって。僕はあいつを追う。」
そう言いつつ、先島は先ほどの一升瓶を一口あおった。
「……これは、ただのどぶじゃない。僕はこんなもの、飲んだ試しがない。じゃ、ちょっと行ってくる。」
そう言い残し、先島は引き返した。
4
幸い、もう雨は降りそうにない。先島が雨に濡れた草陰で男の小屋を見張っていると、向こうから来た男が二人、ふらふらと小屋に近づき、荷仕舞いを始めた。そして三人で向こうへ立ち去ろうとする。
「……三人とも酔ってるのか?」
思わずつぶやく。道いっぱいを使いながら左右に揺れて歩く三人は、やがて前後を警戒する素振りを見せた後、道をそれた。
先島がそこまでたどり着くと、藪に隠れて半ば見えない細い道が続いている。先島は後を追った。杣道か獣道か判別できないような道に、足跡は確かに続いている。
ところがどうしたことか、急に断崖が立ちはだかった。逡巡ののち、意を決してマッチを擦る。
……ああ、ここに。断崖の壁に登り道がある。
もはや事の顛末を見ない限り後へは引き返すまい。そう心を定め、先島はよじ登った。登り切った先、遠くに灯火が見えた。
5
その集落は小屋が十数軒。大きな茅葺き屋根の家が一軒あった。灯火はその大きな家から漏れている。笑いさざめく人の声もする。
先島は明かり取りから中をそっとのぞいた。油のランプが灯る室内には、十二、三人の男が、それぞれ大きな盥を前にして何かを食べている。
「だからよう、雨が降るから今日はやめとけって言ったべな! ガハハ! ボゲェェ!」
「そうはいってもよう、もうこんなにあるんだ! 腐っちまう! ガハハハッ! グベェェ!」
――あれは……芋か?
里芋のような根塊をガツガツと食べながら喋り、吐き戻す男どもに、先島は目を見張った。女と子供は盥の中身を大きな器に移し、片隅の大樽へ注ぎ込んでいる。人の背丈ほどの大樽は四つあった。家中に酒の匂いが充満している。
しかし、男どもは誰も酒を呑んでいる様子はない。にもかかわらず、彼らが酔っているのは明らかだった。
――「体内発酵」?
先島は人類学の文献で読んだ一節を思い出した。
「誰だっ!?」
不意に、先島の横に人影が現れた。しまった、と思ったときには遅かった。ガアン! と頭が鳴り、先島は気を失った。
6
気が付くと、先島は荒縄で柱に縛り付けられ、大勢の村の男に囲まれていた。
「こんなことして、ただで済むと思ってるのか? 官憲がすぐに来るぞ!」
先島は腹から声を出した。周り中から嘲りの笑い声が起こる。
「ここにかえ? そんなもんは来た試しがねえ。」
「その前に、自分の心配をするこんだ。」
剣呑な雰囲気になってきたとき、後ろから声がした。
「ジ様が通る。道を開け。」
現れた老人は足萎えのようで、屈強そうな若者二人が担ぐ粗末な屋根なし輿に乗っていた。
「おうおう、乱暴なことを。これ、すぐに戒めを解くのじゃ。」
老人の声には怒気が含まれていた。
「これは大変失礼申し上げた。詫びを言うても詮無いが、この通りの無作法者ばかり故、許してくださいまし。」
老人は深々と頭を下げた。それに倣い、他の者の気配も穏やかになる。
「我ら一族、小松と申すものでございます。後鳥羽院が治天の君の世、この地に住まい、隔世の時が過ぎ、今に至り申す……。」
「後鳥羽院? 源平の?」
先島が尋ねると、老人は頷いた。
「我ら小松の者は、往時からこの地で上古の酒を醸し、里に下りて商うてき申した。」
「私は大蔵省醸造試験所技官、先島伸二と申します。酒の研究・指導をしています。少し尋ねたいのですが、その大盥の中身は何ですか?」
「これは『ミケイモ』という根塊ですじゃ。男は成人してミケイモのみを喰らい、生涯を過ごし申す。胃の腑に充満したミケイモは膨らんで『ミケ』となり、一部はその大盥に吐き戻され申す。」
「ううむ、これは……大発見だ。」
「しかしのう、ここは隠れ里。『シモノモノ』には秘匿せねばならんのですじゃ。」
「ご老人、言いにくいが、今や日本は近代国家。すべての知見はお上のものだ。この里もいずれ知られる。」
「儂らはこの地から消えまする。お前様も、どうか我らのこと、忘れてくりゃれ。――それ!」
老人がこう言うや、四人の男が再び先島を戒め、目隠しをして担ぎ上げた。長いことどこかへ運ばれ、やがて土の上に降ろされた。
旅の者が先島を助けたのは、朝日が昇ってからだった。
7
「……で、これが先島博士の残した報告書と、そのときの一升瓶から単離された酵母のアンプルの残骸か……。」
酒類総合研究所の滝本はつぶやいた。
「でも、なんでこれが東京国立博物館にあるんだ?」
同僚の本田が言う。
「戦後のどさくさだろ。先島教授の話を本気にする者は、誰もいなかったらしいからな……。」
「お前は信じるか?」
「……わからん。……でも、本当だとしたら飲んでみたかったな。」
「ああ。『風味渾然、香り高し。銘酒『酒仙郷』』、か……。」
「なあ、今日は先島博士に乾杯しようぜ。」
「ああ、そいつはいいな。」
黄ばんだ報告書とアンプルの残骸を、二人はいつまでも見つめていた。
完