補佐の心得
私が暮らしていたのは王都から遠く離れた片田舎だった。
森と山に囲まれた領地はそこまで広いわけでもなく、街の大きさもそこそこといったところ。
だから、今まで気付かなかった。
もしかすると私は、方向音痴というやつかもしれない。
「……ここ、どこ?」
何も考えずに走り続けた結果、見覚えのない風景に囲まれて途方に暮れてしまう。
幸い、近くに見慣れない校舎がある。
この壁面に沿って歩けば校舎の入り口があるはず。
そこまでいけば出入りする生徒に助けを求めることもできる。
何をやっているんだろう、と自分に呆れながらも壁沿いを半周ほどした頃、誰かの話し声が聞こえてきた。
「……そう。やはり彼女が……」
「すみません。私ではもう止められなくて……。せめて、お知らせだけでも」
「ご苦労様。あなたもお辛いですわね……」
どこか緊張感のある声に、自然と足を止める。
ここで私が出て行ってしまうと大切な会話の邪魔になるかもしれない。
「もう行って。何かあればまた知らせてくださいな」
「はい。失礼します」
その穏やかな声音に聞き覚えがあると気付いたとき、ちょうど会話が終わった。
(今の声は……)
意を決してそのまま壁際を進んでいくと、校舎の影から見知った顔が現れた。
「あら、ごきげんよう」
急に顔を合わせたにもかかわらず、エノーラは先ほどの声とは打って変わって明るい声と笑顔を向けてくる。
貴族とは、どんなときでも慌てず冷静に対応することが求められるもの。
エノーラの切り替えの早さは、正に一人前の貴族そのもので心底感心してしまう。
彼女の家柄についても『貴族録』で調べておけばよかったと小さく後悔した。
「こんにちは、エノーラ」
アイザック先輩の一件で会って以来、彼女と顔を合わせるのは二度目だった。
初めて会ったときと変わらない微笑みの向こうに、ここから離れて行く女子生徒の背中が見えた。
三つ編みを揺らして立ち去る彼女は、今までエノーラと話していた生徒だろうか。
(深刻そうな話だったけど大丈夫かな……?)
立ち聞きしてしまったことを気取られぬように、私は困った顔で迷子になっていることを打ち明けた。
「実は今、ちょっと道に迷っていまして……」
「それは心細かったでしょう。<紅の書斎>までご案内いたしますわ」
「ありがとうございます!」
喜んで駆け寄ると、「ああ、でもその前に……」と少し考える素振りを見せて、ささやかな悪戯を思いついた子供のように微笑む。
「もしお時間がありましたら、お茶でもいかがかしら。先日の紅茶のお礼ですわ」
◇◇◇
目の前に運ばれてきたタルトからは甘いアーモンドの香りがする。
添えられた紅茶の香りと相まって、至福のひとときの始まりを感じた。
(うう、幸せ……!)
甘いものは大好きなのに、入学してからお菓子の類にありつくのは初めてだった。
カフェテリアで女子たちが楽しそうに食べているなか、男子として生活している私が混じっては目立つのではないかとぐっと我慢してきたのだ。
それが今、エノーラと一緒に初めてカフェテリアへと足を踏み入れることができた。
「どうぞ、お召し上がりください」
「い、いただきます……!」
勧められるままアーモンドタルトを口に運んだ。
香ばしいアーモンドが散りばめられた生地の中から甘酸っぱいラズベリージャムが口に広がり、甘さと酸味が程良く溶け合っていく。
その余韻に惹かれるまま、つい二口、三口とフォークが進む。
監督生補佐の特権で、ここでの飲食が無料となっていることを後ろめたく感じていたというのに、それすら忘れさせるほどの味わいだった。
「……美味しい、ですね」
はしたないと思われないよう自制心を総動員してフォークを置き、私は紅茶に手を伸ばした。
その様子を見ていたエノーラは、なぜか嬉しそうに笑っている。
「ふふ、それは良かったですわ。リヒト様は甘いものがお好きなんですね」
「えっ!?」
(しっかり見抜かれてる……!!)
「そ、そんなにわかりやすかったですか?」
「はい。ここに来たときから目が輝いていましたわ」
ずっと気になっていたカフェテリアにやってきたことで、気持ちが高まっていたらしい。
気恥ずかしさを誤魔化そうと視線を巡らせて、彼女のネクタイに目が留まった。
そういえば、ひとつ聞きたいことがあったのだ。
私と同じ5年生のネクタイをして、金色のネクタイピンを付けているエノーラに尋ねる。
「あの、この前、聞きそびれてしまったことがありまして……エノーラも監督生補佐なんですよね?」
「ええ、わたくしはブリジット様の補佐をしています。現在この学校にいる三人の監督生のうち、唯一の女子監督生ですわ」
「ああ、そうだったんですね。女子監督生ということは、アイザック先輩のことも……?」
本当なら退学処分にしたかったのではと思ったけれど、エノーラは首を振った。
「ここだけの話、ブリジット様はそこまでお怒りではありません。ライムント様とも旧知の間ですから、今回は大事にしなくても良いと仰られたのです」
監督生はいずれも学業と生活態度、生徒からの人望などを認められた者だが、必ずしもお互いの相性がいいとは限らない。
それぞれに支持する生徒がいて影響力を持つ以上、彼らの関係性を理解しておくことはここで生活するうえで必要なことだった。
(ライムント先輩とブリジット先輩の関係は良好、と)
頭の中にメモを取りながら、エノーラが監督生であるライムント先輩に対しても臆せず慣れた様子で話していたことを思い出す。
他の生徒たちが話しかけるのをためらうような相手に普通に接することができたのも、ブリジット先輩と共に顔を合わせる機会が多いからかもしれない。
「ブリジット様のほうがライムント様との付き合いは長いそうですが、わたくしもここに入る前の予備学校でお会いしているんですよ」
予備学校と聞いて、お茶を吹き出しそうになる。
「よ、予備学校って王都にあるあの……!?」
寄宿学校に入学するまでの間、貴族の子息・子女は家庭教師を付けて学ぶのが一般的だ。
ただ、家柄と財力に恵まれた一握りの王侯貴族のみ、予備学校という教育機関への入学を許されると聞いたことがある。
しかも、入学許可が下りるのは王族や代々国政に関わるような一族に限られている。
(ということは、ライムント先輩もエノーラもただの貴族じゃない……!)
転校したばかりなのに、すでに名門中の名門貴族に囲まれつつあることに緊張を通り越して寒気がしてきた。
下手なことをすれば、私の故郷にまで深刻な影響を及ぼしかねない。
(この人たちにひと睨みされたら間違いなく吹き飛ぶな、私の実家……)
故郷ののどかな田園風景を思い、胃がキリキリする。
「ええ。ですから、ライムント様のことで困ったことがありましたらいつでもご相談くださいな」
「そ、そうですね。困ることばかりなのでありがたいです。本当に」
私の思いなど露知らず、エノーラは優しい言葉をかけてくれる。
(こ、ここは逆に考えよう! この人たちを味方に付ければ私の学校生活は安泰! 今みたいな関係を維持できれば大丈夫!)
再びタルトを口に運んで、なんとか気持ちを落ち着ける。
「でも、アイザック様のことはどうかご内密に。公にはブリジット様とチェスで賭けをして、負けた代償に女子寮の手伝いをしていることになっていますの」
アイザック先輩が女子寮の雑務をこなしている姿は、既に多くの生徒が目にしていることだろう。
さすがに本当の理由を話すわけにはいかないのだから、これは妥当な言い訳だ。
「わかりました。僕も聞かれたらそう答えるようにしますね」
「お願いします。そういえば、他の監督生についてライムント様からお聞きになりましたか?」
いえ、と答えると彼女は優雅な所作でティーカップを手にしたまま、やっぱりという表情を浮かべた。
「仕方のない方ですわね」と呟いて紅茶を飲むと、静かにソーサーへカップを戻す。
「まず、ブリジット様は<翠の庭園>を書斎にしている監督生です。補佐はわたくしの他に二名。庭園の手入れに人手が必要なので、他と比べると一番多いですわね。今もお伝えしたようにブリジット様とライムント様は親しい間柄ですわ。問題があるとすると……」
どう話すべきかと迷う気配を感じて、私は口を開いた。
「確か、アイザック先輩が言っていたのは……<蒼の尖塔>の監督生でしたっけ?」
「あら、覚えていらしたのね。そうです。四大貴族にしてこの学校の理事を務めるルーデンス侯爵の嫡男、レオンハルト様ですわ。彼には補佐が二名います」
そこまで言って、エノーラは素早く周囲に視線を走らせる。
そして、声を潜めた。
「あの方は風紀委員長でもありますから、アイザック様の件は隠しておかなければなりません。でないと……ね?」
「退学のうえ、新聞部は完全に崩壊……でしょうか?」
「ふふ、察しが良いこと」
同じように声を潜めて答えた私にエノーラがくすりと笑う。
「場合によっては、ライムント様の責任も追及されるかもしれませんわ」
寛大な処分を下したブリジット先輩とは打って変わって、<蒼の尖塔>の監督生とやらはそうはいかないらしい。
(そういえば、ルーデンス家は同じ四大貴族のコルベウス家と仲が悪いんじゃなかったかな)
四大貴族のうち、ルーデンス家とコルベウス家の対立は有名な話だった。
初代の頃から犬猿の仲だったという両者は事あるごとに対立し、ときには武力の応酬もあったと聞く。
そのコルベウス家によって現在の地位を築いたというスティルフリード家は、ルーデンス家からすると政敵も同然なのかもしれない。
「あまり睨まれないようにしないといけないですね」
「はい。用心するに越したことはありませんわ。悪い方ではないのですけれど、規則に厳しいのです。いいですか? もしあの方に会っても、嘘だけは吐かないように」
「嘘?」
よくわからないがエノーラが言うことであれば重要なことなのだろう。
ひとまず、忠告を胸に刻むことにした。
それからは、お互いが受けている授業のことや休日の外出についてなど、話題は様々なことに及んだ。
その全てが転入したばかりの私にとって有意義な情報に溢れていて、ここでもエノーラのさり気ない気遣いを感じる。
決して素晴らしいとは言い難い出会いだったものの、こうして話してみると彼女は親切で実に頼りになる存在だった。
「ライムント先輩とは、ここに入る前からの知り合いなんですよね?」
小一時間ほど経っただろうか。
お互いに話題も尽き、そろそろお開きといった頃に思い切って口を開く。
「エノーラから見て、ライムント先輩はどんな方ですか?」
――ライムント・スティルフリード。
私が男子と偽って入学していることを知っている人物。
私の真剣な視線に、エノーラはひとつひとつ言葉を選んでいく。
「そうですね……あの方は他人と関わるのを避けるところがあるようですけれど、基本的には優しい方ですわ。アイザック様と同室でいらっしゃるところを見ても、気は長いようですし」
「アイザック先輩と同室……些細な話題から延々と話が続きそうですね」
「ええ。現に明け方まで話を聞かされ続けたり、締切り間近の原稿の手伝いをさせられたりとかなんとか……」
「アイザック先輩、伯爵家の方にそんなことをさせてるんですかっ!?」
「ふふっ。それでもライムント様がお怒りになったという話は聞きませんわ」
「それなら本当に気は長いのかもしれませんね。というか、そこまでされて怒らないって、一体どんなことなら……ん?」
ついさっき、アイザック先輩は私が濡れ衣を着せられそうになったことについて、ライムント先輩に怒られたと言っていなかっただろうか。
そのことを話すと、エノーラもぱちくりと目を瞬く。
「まあ! あの方がお怒りになるなんて、余程のことがあった時だと思っていましたが……そうですか。確かに、濡れ衣というのは許せませんわね」
エノーラは白いナプキンで軽く口元を拭うと、真っすぐにこちらを見つめてくる。
普段穏やかなぶん、不意の見定めるような視線に緊張してしまう。けれど、視線を逸らすのは嫌で背筋を伸ばしてそれを受け止めた。
ほんの一瞬の出来事なのだろうけれど、体感ではもっとずっと長い時間が経った気がした。
エノーラの視線がふわりと和らぎ、唇がゆっくりと動く。
「リヒト様、あなたはきっと――」
◇◇◇
エノーラと別れて教えてもらった通り、東の方角に見える一際大きなオークの木を目印に歩いていく。
これから迷ったときは、<紅の書斎>の近くに生えている古いオークを探すことにしよう。
そうすれば迷子になる頻度も減るかもしれない。
(それにしても……)
先程のカフェテリアでのやり取りが、頭の中で繰り返し反芻される。
『リヒト様、あなたはきっと――ライムント様にとても気に入られているのです。そもそも初対面で補佐を頼まれるなんて前代未聞ですもの』
補佐は学校で最上位の影響力を持つ監督生という後ろ盾を得られるが、下手なことをすれば監督生が責任を問われ、その立場すらも危うくさせてしまう。
本来ならば補佐にふさわしい人物かどうか、きちんとした調査を経て任命されるものなのだ。
エノーラが言っていたように、初対面で補佐を頼むなんて通常ならあり得ない。
『ですが、引き受けた以上、あなたはライムント様の補佐です。まだ会ったばかりで戸惑うかもしれませんが、どうかあの方を信じてあげてください』
『信じるって……』
『それが、そのネクタイピンを受け取った者の心得ですわ。監督生と補佐は一蓮托生なのです』
同じ監督生補佐という立場にあるエノーラの言葉が重く響く。
この学校でうまく立ち回るため、監督生補佐という立場が有用だと判断して引き受けたけれど、そんな打算で勤めてはならない役職なのだと今更になって気付いてしまった。
(どうして、そんな大切な役目に私を……)
監督生と補佐――片方の信頼が欠けていては、いつか必ず綻びが生じる。
(先輩は私の正体はバラさないって言ってたけど、あれはつまり「自分のことは信頼してほしい」ってこと……?)
「はぁー……」
視線を上げると今の心持とは正反対に空は晴れ渡り、風にそよぐ木々の葉が美しく輝いている。
こんな美しい景色とは裏腹に、胸の中は安易な気持ちで補佐を引き受けてしまったことへの自己嫌悪で一杯だ。
このまま書斎に戻って、どんな顔で先輩に会えばいいのだろう。
私はふらふらと近くにあった物置小屋にうずくまった。
(突然のことだったとはいえ、軽率だったな……。少し考えればわかることなのに、そんな重要な役職だと思わなかった)
物置小屋は扉もなく、ただ掃除用具が並んでいるだけだった。
でも、明るい世界から私を隠す日陰になってくれるだけで充分ありがたい。
小屋の隅で壁に寄りかかって帽子を外す。
きつく結い上げたお団子も一緒に解いてしまいたかったけれど、さすがにそれは我慢した。
「……補佐の心得、か」
ライムント先輩からもらったネクタイピンに触れながら、ポツリと呟いた瞬間――。
「ああ、くそっ! どこ行ったんだ!?」
大きな声にびくりと身体が震えた。
慌てて帽子を被り直し、小屋の角から声のした方角へ視線を巡らせる。
風に揺れる木立の影から飛び出した小柄な少年が、必死に辺りを見回している姿が目に入った。
「さっきまでここを歩いてたのにっ……!」
吐き捨てるように言うと、彼は反対方向へと走って行く。
その背中が見えなくなるまで、私はその場に座り込んだまま動けずにいた。
(あとをつけられてた……!? どうして?)
全身の神経を集中して少年が去った方角を見つめる。
不意に、すぐ近くに別の気配を感じ取って息を呑む。
(あとをつけていたのはひとりじゃなかった……!?)
振り返るより先に低い声が響く。
「こんな所で何してる?」