契約の流儀
南の部屋に入ると、そこは東の部屋よりも更に広い空間が広がっていた。
(わあぁ……!)
あちらと比べると本棚が少なく、玄関と同じく高級なオーク材を用いた室内は上品な雰囲気を醸し出していた。
すっきりとした空間には机と椅子、ソファに暖炉があるくらいで広々としている。
分厚いカーテンに閉ざされることなく降り注ぐ陽光が、床に敷かれた絨毯をほんのりと温めていた。
「アイザック、いるんだろう?」
私とエノーラが部屋の様子を興味深く観察している間に、ライムント先輩の声が響き渡る。
高い天井の途中、少し張り出した中二階の空間へ向けられたものだと気付いて、誰が出てくるのかと身構えていると中二階の本棚の影で何かが動いた。
「おお、ライムント! ようやくお目覚めかい? こっちは来月号の準備で四苦八苦してるっていうのに、君ときたら本当にいいご身分でまったく呆れ……!」
言い終わらないうちに手すりから身を乗り出すようにして顔を出したのは、栗色の癖毛頭の青年だった。
私とエノーラの姿を捉えた瞳が見開かれる。
「これはこれは、エノーラ嬢。それと、ええと……」
「お邪魔してます。リヒト・フェルトナーです」
「ああ、よろしくリヒト。僕はアイザック・ハーベスト。一応、この書斎の主のひとりさ!」
軽快な足取りで階段を駆け下りて来たアイザック先輩は、興味津々といった様子でこちらに近づいて握手を求めて来た。
「珍しいねぇ、ライムントが男子をここに入れるなんて! 男の顔なんて見たくもないと言って、いつもここに引き籠っているのに!」
「そうなんですか……? 今日転校してきたばかりで、何も知らないもので」
「おおっ!? やっぱりそうか! 道理で見たことない顔だと思っていたんだよ! そうかそうか、転校生……ふむふむ」
アイザック先輩は私の周囲をぐるりと一周して、改めて正面から全身を観察してくる。
その目は子供のような好奇心で溢れていて、勢いに圧倒されるものの決して嫌な気はしない。
(この人が犯人なの……?)
「なるほど! ねぇ、取材を受けてみる気はないかい!? 転校生なんて珍しいから来月号に載せたいなぁ~!」
「取材って?」
私が困惑していると、アイザック先輩の視界から遮るようにライムント先輩が身体を割り込ませた。
「いい加減にしろ。自分が置かれた状況がわかっていないようだ」
目を瞬いているアイザック先輩は、思い当たることがないのかライムント先輩とエノーラの顔を見比べて首を傾げた。
「ん? 何かあったのかい?」
「お前、女子寮の敷地に入ったな」
「っ!」
「お前の靴についた泥……おそらく、女子寮の裏手にある生垣の泥濘だろう。あそこは日中も建物の影になるうえに水捌けが悪い」
その場の全員の視線が彼の足元、妙に汚れた革靴へと注がれた。
もう渇いてはいるが、確かにそこには泥濘に踏み込んだと思わしき泥がこびり付いている。
「お前のことだ……どうせ、あそこに隠れて、取材をしていたんじゃないのか」
「なっ、なななななんでそんなこと……!?」
明らかに動揺し始める学友に、ライムント先輩はあくまでも淡々と、ゆっくりとした口調で追及する。
「女子寮の敷地に立ち入った者がいると、騒ぎになっているそうだ。しかも、犯人はこの書斎に逃げ込んだらしい。そうだな、エノーラ?」
「はい、ライムント様」
「げっ……!」
「しかも、偶然ここへ迷い込んだリヒトが疑われることになった。私がいなければ転校初日に退学処分になっていたところだ」
「ええ、先輩の仰る通りです」
「ぐえっ……!?」
次第に状況が飲み込めたのか、それと同時に顔色が悪くなっていくアイザック先輩はふらふらと近くにあったソファに倒れ込む。
「僕が執筆に集中している間に、そんなことに……!?」
「さっき玄関ホールを確認したら、床に泥が落ちていた。私が来たときには無かったものだ。恐らく、お前の靴から泥が落ちたんだろう」
玄関ホールの泥、と聞いて私も記憶を思い起こす。
「そういえば、僕が来たときには玄関が泥で汚れていた気がします」
「あらあら。やはり、リヒト様よりも先にここへ逃げ込んだのはアイザック様ということになりますわね」
初めて会ったときと同じく、エノーラの優し気な顔に浮かぶのは穏やかな淑女らしい笑顔だった。
けれど、今はなぜか悪寒を感じてしまうのは私だけではないはず。
「正直に話していただけますよね、アイザック様?」
「うう……話します! 話しますから、その怖いオーラしまってエノーラ嬢!!」
◇◇◇◇
アイザック・ハーベストは文芸部の部長兼、学校非公認団体である新聞部の部長だそうだ。
学校非公認というのは、彼らが毎月発行する学校新聞の内容の真偽が明らかではないことに起因するらしい。
公式に認められた部活動ではないため、新聞部の存在と部員の詳細については明らかにされていないが、一部の学生は彼が新聞部の部長であると知っているようだった。
現に、ライムント先輩もエノーラもアイザック先輩の話に驚いた様子はない。
「風紀委員がうるさいんだよ。真偽が不確かな情報を学校中に流布するのは許可できないとか言って! だから僕たちは毎月いろんな場所で突発的に新聞を頒布してるんだ。もし先生や風紀委員に見つかったら、逃げて逃げて逃げまくる! まあ、大抵の場合はうまく撒けるのさ」
得意そうに話していたが、何かを思い出したのか急に口調が強まる。
「最悪なのは<蒼の尖塔>の監督生殿に見つかったときだよ……彼ときたら本当にっ……!」
本題とは無関係の恨み節が始まりそうになり、「話が逸れる。今は必要なことだけを話せ」とライムント先輩が遮った。
ここまで話を聞くだけで、既に数回繰り返されたやりとりだ。
このままでは埒が明かないと思い、私も話を整理してみることにする。
「つまり、その新聞部の来月号のために取材をしていて、女子寮の敷地に入ったということでしょうか?」
「そう! ……少し気になる取材対象がいてね。本当にちょっと張り込ませてもらっただけなんだ。決して、覗きのために侵入したわけではないよ。それは断言する」
(取材とはいえ、男子が近づくのは良くないような……)
悪意がなくとも超えてはいけない一線というものはあるはずだ。
ただ、新参者が口を出すのもどうかと思い、私はライムント先輩とエノーラの判断を見守ることにした。
エノーラはふぅ、と一息ついて残念そうに眉根を寄せる。
「……最終学年ですのに、もったいないことです。でも、仕方ありませんわね。校則は校則ですもの」
私を疑っていたときと同じく、彼女は穏やかな中にも厳しい姿勢を崩さなかった。
「退学決定ですか。会ったばかりなのに残念ですが……アイザック先輩、お元気で」
「ちょーーーっと!? ちょっと待ってよ!! 転校生君も理解が早すぎやしないかい!?」
縋るような目を向けられても冷たい微笑みで動じないエノーラと、黙って見守る私。
正直なところ、女性である私からすると彼には何らかの処分が必要だと思ってしまう。
どちらからも相手にされないことに痺れを切らした彼は、もうひとりの書斎の主に声を上げた。
「ライムント、助けてくれ! なんかこう、情状酌量を狙える弁護をだな……!」
「できるはずがないだろう」
ぴしゃりと言われて、絶望の色を更に濃くするアイザック先輩。
「記事のネタにするために、あろうことか女子寮の敷地に踏み込むとは……! 女性たちの安心を脅かした時点で死刑でもいいくらいだ」
毅然とした態度は頼もしくもあったけれど、話している内容は退学を数段飛び越えた極刑だった。
「ううう……君が女性贔屓なのを忘れてた……。せっかく記事の下書きがまとまったのに、発行する前に退学もしくは死刑だなんて……!」
ふと、アイザック先輩がそこまでこだわる記事の内容とはどんなものなのか、少し気になってしまう。
「あの、念のため記事を確認したほうが良くないですか? 僕にはわからないでしょうけど、なにか重要なことだったりして」
私がそう言うとエノーラははっとして、それから逡巡するように視線を落とした。
まるで、何か思い当たることでもあるようだ。
「アイザック先輩はきっと、取材先で格好のネタを見つけたんです。だから、急いで書斎に来て記事を書いていた……」
最初は女子寮の誰かに見つかったから急いで逃げて来たのだと思っていたが、これまでの話を聞いていると、どうやら自分が見つかっているとは露にも思っていなかったらしい。
ただただ、記事を書き上げたい一心で戻ってきたに違いない。
「もしかしたら、大スクープなのかもしれません」
「だ、ダメダメ!! 発行前の記事を見せることはできないっ! ……って言いたいところだけど、退学がかかってるしな……」
そう言いながら、彼は胸ポケットから小さなメモ帳を取り出した。
「記者にとって、ネタ帳は命みたいなもので……」
再びアイザック先輩のご高説が始まろうとした瞬間、ライムント先輩がその手からメモ帳を取り上げてエノーラへと差し出す。
あまりにも流れるような完璧な動作だったため、気付いたアイザック先輩が取り返そうと手を伸ばしても後手後手になって阻止されてしまう。
「これはエノーラが見たほうがいい」
「わたくしが、ですか?」
女子寮で手に入れたネタということは、当然ながら女子学生たちに関する内容だ。
それを知ってしまうことに躊躇を示す彼女の気持ちもわからなくはない。
「貴女は監督生補佐でもある。監督生のブリジットに代わって、ここで確認しておくべきだと思うが」
「……わかりました。拝見します」
口元を引き結んでメモ帳を受け取ったエノーラは、記されている走り書きの文字へ視線を滑らせていった。
「ああ、取材の成果が……」と呻き声を上げているアイザック先輩を無視して、ライムント先輩と私はエノーラを見守る。
一瞬、ほんの微かに瞳が揺れた以外は彼女はとても落ち着いていた。
「この記事は差し止めさせていただきます」
メモ帳を閉じた彼女の言葉に、予想できたこととはいえアイザック先輩はがっくりと肩を落とした。
「あああ、取材の成果が……朝から4時間も粘ってようやく手に入れた特ダネだったのに……! 何度も見つかりそうになったけど、決してあきらめずに忍耐強く粘った成果だというのに……!!」
この後に及んでもまだ、途中で諦めておくべきだったという後悔はないのだと思うと、むしろ彼の熱意には敬意を払うべきかもしれない。
(それだけ凄いネタだったのかな? エノーラも心当たりがありそうだったし)
栗色の癖毛を掻きむしってソファの上で項垂れるアイザック先輩には一瞥もくれないで、黒髪の監督生は溜息と共に深く座り直す。
「リヒト、紅茶を」
言われて、私は改めて用意していたポットから熱い紅茶を注いだ。
アイザック先輩から話を聞くことになったとき、紅茶を淹れるのが絶望的に下手な監督生に命じられるまま準備を整えていたのだ。
もし断りでもしたら私以外のふたりが、あのおぞましい液体を口にすることになる。
そこまでわかっているのに、何もしなかったら私も共犯者になってしまう。
「どうぞ」
とりあえず、この場で一番疲弊しているであろうエノーラの前へカップを置いた。
「ありがとうございます。いただきますね」
紅茶を口にした彼女の口元が緩むのを見て、私もどこかほっとしてしまう。
アイザック先輩のネタがなんだったのかはわからないが、噂好きの女子たちから何かとんでもない情報が出てきてもおかしくはない。
特に、人間関係にまつわる噂は自分とは無関係であっても、知って気分のいいものではないはずだ。
「美味しい紅茶ですこと。淹れ方が上手いのでしょうね」
(この口ぶり……先輩の紅茶がどんな味か知ってるんだな)
「ありがとうございます」
エノーラの緊張がほぐれたことと紅茶が口に合ったことに安心した私は、じっとこちらを見ている視線に気付く。
「エノーラにも褒められるとは」
「僕が特別上手いというわけではありませんよ。先輩が異常に下手というだけです」
「……否定はしない」
自身もカップを傾けて紅茶を味わうと、ライムント先輩は何事か考えるように顎に手を当てた。
「本当に同じ茶葉か……?」
「当たり前でしょう! 問題は茶葉じゃなくて淹れ方です!」
普通に淹れればあんなに恐ろしい味になることは無いだろうに、彼は一体どうやって紅茶を入れているのだろう。
知りたくはないが、原因を解明したいという探求心のようなものは湧いてくる。
「ふふっ、先ほどから思っていましたけど、ライムント様と相性がいいですわね」
とても今日会ったばかりとは思えない、と言われて私は怪訝そうに顔をしかめた。
「いえ、完全に初対面です」
「そうなのでしょうね。でも、ライムント様にそんな態度を取る方はいらっしゃらないので、見ていて楽しいですわ」
言われてみれば、監督生相手に少々当たりが強かったかもしれない。
秘密を握られているというのに、美しい容姿からは想像がつかないほどの粗雑な態度が気になって、つい注意してしまうのだ。
「あ……そうですよね。少し馴れ馴れしかったでしょうか」
「そんなことはありません。ご本人も気にされていないようですし、お気になさらないで。むしろ、リヒト様のようにハッキリおっしゃる方がいらしたほうが、ライムント様のためですから」
私たちの話題の中心となってしまった監督生が咳払いした。
さすがに目の前で自分の話をされるのは居心地が悪かったのだろう。
「……今回の件は私も監督不足だった。アイザックがどういう性格かわかっていながら、騒ぎを起こして申し訳ない」
「まあ、ライムント様が謝ることではありませんわ」
「そうは言ってもな……。こいつとは同室でもあるし、学校新聞の活動についても監督生でありながら目を瞑ってきた責任がある。今回は寮長でもあるブリジットと相談して、アイザックと私の処分を決めてほしい」
自分も何かしらの処分を受けると言い出した監督生に、エノーラは驚いたように目を開く。
「そんな、ライムント様が責任を感じる必要は……!」
「それでは私の気が済まないんだ。それから……」
うつ伏せのままソファに埋もれ、時折呻き声や鼻をすする音を出す哀れなアイザック先輩を指してライムント先輩は続ける。
「こいつの情報収集能力は、そこそこ使えるはずだ。もしも寛大な処置があったなら、今後こいつは無条件で協力する。そうだろう?」
それまで聞き取るのが困難なうわごとを繰り返していた塊が、話を振られた瞬間に跳び起きた。
そして、髪を振り乱して何度も頷く。
「もちろん!! そこは頼まれなくとも協力するさ!!!」
「……だ、そうだ。現金なことこの上ないが……まあ、それだけは覚えておいてくれ」
「本当に申し訳ない! 二度と女子寮に張り込みなんてしないから、今回だけはどうかお許しを……!!」
「まあ……」
退学を免れようと必死なアイザック先輩の気迫に、さすがのエノーラも押され気味のようだった。
監督生であるライムント先輩にまでそんなことを言われては、無下にするのも気が引けるのだろう。
「…………」
私は三人の関係性を正確に把握できてはいないけれど、部外者の立場で一連のやり取りを見ていてわかったことがある。
ここまでアイザック先輩に対して一貫して厳しい態度を取っていたのはライムント先輩だ。
本来ならエノーラが糾弾すべきところを、彼がその役割を引き受けた形になる。
確かに、同じ学年で監督生でもある彼から話したほうがアイザック先輩には効果があるはずで、適任だったことは間違いない。
その結果、真相もあっけなく分かった。
そうして、この場の主導権を握ったライムント先輩が今、アイザック先輩の処分について口添えをしている。
(弁護してほしいと言われて断っていたけど、最初からアイザック先輩を庇うつもりだった……?)
エノーラはそのことに気づいていないのか、何事か考え込んでいた。
「アイザック様はともかく、ライムント様にまでそう言われては……。わかりました。ブリジット様と相談させていただきます。ただ、どんな処分になるにしろ記事はお蔵入りでお願いしますね」
「ああ、記事のことは私が保証する。何から何まで迷惑をかけるな」
「本当に本当に、すみませんでしたっ!! 記事は惜しいけど……どうか退学だけは……っ!!!」
明らかに分の悪いアイザック先輩は、少なくとも即時退学は免れたようだ。
ここから退学以外の道が開かれるかはわからないが、もし開けたならその道を作ったのは間違いなく漆黒の髪に深紅の瞳を持つ監督生だ。
(この人……やっぱり交渉事に慣れてる気がする)
女子寮の敷地に入った犯人がわかったところで、私にはこの監督生との取引を成立させるという大仕事が残っていた。
自分が持っている手札の中に、彼への有効なカードが果たしてあるだろうか。
「――ところで、リヒト」
密かに盗み見ていた綺麗な横顔が不意にこちらを向く。
紅い瞳に捉えられ、私は一瞬どきりとした。
「君は他の監督生には会ったか?」
「いえ、先輩以外はまだお会いしていません」
「そうか」
その視線が、なぜか私の胸元にあるネクタイに注がれた気がした。
これは学年ごとに決まった色で別れており、私は5年生を表す緑色のタイをしている。
対するライムント先輩は赤いチェックのものだ。
本来、最高学年である6年生のタイは紫だが、『監督生』という特別な役職を担う者の印なのだろう。
「アイザック、エノーラ……悪いが立会人になってくれ」
そう言って立ち上がったライムント先輩に促されて、意図を汲めないまま私も椅子から立ち上がる。
座っているふたりも何が起きるのかと不思議そうな顔で見つめてきた。
「監督生にはいくつかの特権があるが、今君に知っておいてもらいたいのは『監督生は自身の補佐を任命する権利がある』ということだ」
私の正面に立ったライムント先輩は、白い指先で自らのネクタイからタイピンを外した。
金色のタイピンを手にした彼を見て、アイザック先輩とエノーラは今から起こることに予想がついたのか、にわかに空気が変わる。
(な、なに?)
困惑する私の目の前で、ライムント先輩が片膝を着いた。
「え?」
何が起こっているのかわからずに固まっていると、黒髪の間から見上げられて視線が合う。
瞳を縁取る睫毛の数さえ数えられるほど、彼の顔がすぐ近くにあった。
――きっと、深紅の虹彩には人を惹きつける魔力があるに違いない。
そう思わせるほど、不思議と目が離せなくなる。
「君に私の補佐を頼みたい」
紅茶の香りが漂う温かな書斎に静かな声が響いた。
妖しく揺れる瞳に映る自分の姿を見て、ようやく事態を飲み込み始める。
「そんな、いきなり……!」
そこまで言って、はたと思い止まる。
私に拒否権などあるのだろうか。
この人は私が女だと知っている。
それをバラされたくなかったら、私は彼の言葉に従う他ないのだろう。
「一応、聞かせてください……どうして僕なんですか?」
「紅茶を淹れられる、部屋の掃除もできる。私の補佐として申し分ない」
エグみと渋みしかない紅茶と、至る所に本が積み上げられた部屋の様子を思い出し、一気に頭痛が襲ってきた。
(補佐というより執事では……?)
「それに、アイザックの一件で察しがいいこともわかった。玄関ホールの泥に気づいていたり、記事の内容に疑問を持ったり……」
「っ!」
私が彼の言動を観察していたのと同じように、彼もまた私のことを見ていたのだと、ようやく気付く。
「悪い話じゃないだろう。補佐になれば、上級生はもちろん他の監督生からの命令も拒否できる」
「……代わりに、貴方の命令には従わなければならない、と?」
片膝をつく監督生は答える代わりに、不敵な笑みを返してくる。
――仮初の主従関係。
それが私の学校生活にどんな影響をもたらすのか、今はまだ想像もつかない 。
ただ、この人と関係を築くことが私にとって不利なものとは限らない。
(一度見たものを覚えてしまう瞬間記憶能力と交渉力……私の《《巻き戻り》》の原因を見つける助けになるかも!)
打算的だとしても、こちらも自分の命がかかっている。
「わかりました。僕でよければ、謹んでお受けします」
「ありがとう、リヒト」
ライムント先輩は、その手にしていたネクタイピンをそっと私のタイに差した。
遠目からでもわかるような重厚感がある金のタイピンは、無地のタイによく映える。
「これは監督生補佐の証だ。決して外すなよ」
ネクタイを整えながら言い含められて、私はとりあえず頷く。
それまで固唾を飲んで見守っていたアイザック先輩とエノーラも、私たちの契約が交わされたことで緊張の糸が切れたらしい。
「いやー、まさかライムントが補佐を取るだなんて……! これまでひとりも取らなかったのに、どういう風の吹き回しだい!? あ、そうだ! これ、お蔵入りになったネタに代わって来月号の目玉記事にしてもいい!? というか、随分古めかしい形式をやったもんだね。今時、片膝なんてつかないよ!?」
などと言いつつ、アイザック先輩は興奮した様子で素早くメモ帳にペンを走らせていく。
さっきまで退学の恐怖に慄いていた人物とは到底思えない。
「補佐のネクタイピンには『ネクタイを汚すような仕事をするのは、たったひとりの監督生のためだけ』という意味がありまして、監督生が片膝を汚すのは『膝をついてまで補佐を頼むのは貴方だけ』という意味があるそうですわ。やっぱり、リヒト様は気に入られたようですね」
「は、はあ……そうなんでしょうか?」
(気に入られたというより、新しい玩具くらいにしか思われてないだろうけど……)
一仕事終えたとばかりに立ち上がったライムント先輩は、さっさと椅子に腰かけると「まずはカーテンを直すところからだ」と呟いた。
「それから書斎の掃除と整理整頓を頼む。あと、合間に紅茶のお代わりも忘れずにな」
温くなってしまったであろう紅茶を飲み干して、彼――監督生ライムント・スティルフリードはさっそく私に仕事を命じてくる。
(ほ、本当にこれで良かった……のかな?)
こうして、前途多難な学校生活がようやく幕を開けたのだった――。