季節外れの転校生
馨しい新緑と花の香りから逃れるように校舎の廊下を駆け抜ける。
視線の先には猫が一匹。
午後の日差しに照らされた毛並みを黄金に光らせながら、障害物を軽々と飛び越えて縦横無尽に駆けていく。
気を抜けばすぐに見失ってしまであろうその小さな背中を、私は必死になって追いかけていた。
あの猫が咥えている小さなポーチには、とても大切な物が入っているのだ。
校舎と校舎の間を抜けて、手入れの行き届いた庭園を横切って、どんどん引き離されていく距離に焦燥を募らせながらも諦めずに追い続ける。
学校の外れまで来て、ようやく速度を落とした猫は古びた建物の中へと消えていった。
「はぁ、はぁ……」
他の校舎よりも随分昔に建てられたのかレンガ造りの壁はすっかり蔦で覆われていて、手入れされずに放置されているかのようだ。
一目見て魔女でも住んでいそうな雰囲気だと思う。
息を整え、僅かに開いたままになっている扉の隙間を覗くと、玄関ホールを挟んだ向かいの部屋から小さな物音が聞こえた。
(よし、もう逃がさない!)
決意と共に、泥で汚れた玄関ホールを突き抜けて音のした部屋の中へ踏み込んだ。
カーテンで閉め切られた室内は薄暗く、目が慣れてくると床の上に書類や本が散乱しているのがわかる。
雑然とした様子から察するに、やはり誰にも使われていない部屋なのだろう。ただ、その割には埃っぽくないことが気にかかる。
もしかすると、定期的に誰かが空気の入れ替えにでも来ているのかもしれない。
物音を立てないよう細心の注意を払って足を進めていると、何かが動く気配にびくっとする。
本棚が並ぶ壁際に一カ所だけ大きな姿見があった。
場違いにも思える鏡には、驚いた顔をして男子生徒の制服に身を包んだ自分が映っている。
「お、驚かせないでよ……」
私は確認するかのように帽子の鍔を掴んで被り直す。
部屋の真ん中まで来たとき、カーテンの隙間から小さな生き物の尻尾が機嫌良さそうに揺れているのが見えた。
ちょっとした運動を終え、窓際で日光浴に興じているらしい。
こちらの気も知らないで暢気なものだが、警戒が解けているなら好都合だ。
追いかけっこを終わらせるために、私は間合いを詰めつつ目標に向かって素早く飛び掛かる。
「捕まえた!」
狙い通り胸元に小動物の温もりを抱き締めて喜んだのも束の間、上の方からガタンと大きな音が響いた。
見上げると飛び込んだ衝撃でレールから外れたのか、カーテンが視界を覆うように頭上へ覆いかぶさって来る。
「きゃっ!?」
予想外の出来事にも動じることなく、するりと身を躱して抜け出す猫とは反対に、私はなす術もなくそのままカーテンに押しつぶされる。
突然訪れた暗闇の中、もがくようにして布を搔き分けるも質のいい生地で作られているのか、そこそこある質量に苦戦してしまう。
「うう、どうしてこんなことばっかり……」
猫を捕まえた際に素早くポーチを回収できたのが、せめてもの救いと言える。
「一体、私が何をしたっていうの……?」
◇◇◇◇
私――アリシア・ヴィフは取り立てて産業もない田舎に領地を持つ貴族の長女だ。
誇るべきものといえば、大陸から渡ってきた王家と共にこのアンブローシア島へやってきた由緒正しい家柄というだけ。
貴族らしい華やかさとは無縁の、領民と共に慎ましやかな生活を送ってきた。
(そして、あの雪の日に私は死んだ……)
知らない誰かに看取られた私が次に目を覚ましたとき、世界は死の一年前に巻き戻っていた。
最初はもちろんすべて夢だったのではないかと疑った。
そう思い込もうとすらしていたのに、自分の右手に身に覚えのないロケットペンダントとボタンがあることに気づいたとき、再び気を失いそうになった。
――あれは全て現実に起きたこと。
どうやらそれは間違いないようだ。
だとすると、自分は一年後に再び死ぬ可能性があるのではないか。
また巻き戻しが起こる可能性もあるけれど、そもそもなぜそんなことが起きたのかがわからない以上当てにはできない。
むしろ、このまま永遠に死と巻き戻しが繰り返される可能性も無いとは言い切れない。
そこまで想像して、肌が粟立つのを感じた。
これまで平凡に生きて来たにも関わらず、死よりも恐ろしい呪いとでも言うべきものが降りかかってきたのだ。
(わ、私……どうしてこんなことに……!?)
自分の置かれた状況に気付いたとき、数日は恐怖で寝込んでしまった。
父も母もまだ幼い妹までも心配してくれたけれど、自分が抱えてしまった秘密を打ちあけることが彼らにどれだけの負担を強いるのか、考えるまでもなかった。
誰にも相談できない。
それでも、このままじっと手をこまねいてはいられない。
――これは私自身の手で解決しなくてはならないのだ。
手のひらに残された手がかりを握り締めて、私はそう決意した。
手元に残された小さな手がかりはふたつ。
金色のロケットペンダントは表面に小さな赤い石が付いていて細かい彫刻のある装飾品だった。
(ちょっと厚みもあるし中に何かありそう……)
こういった物の中には恋人の肖像画や大切な人の遺髪などを入れるのが一般的で、無関係の自分が開けることには抵抗があった。
それでも、背に腹は代えられない。今は何よりも情報が欲しいのだ。
「あれ?」
何度やってみてもペンダントが開かない。
蝶番が壊れているのだろうか。
(さすがに無理やりこじ開けて壊すのも嫌だな……。とりあえず、これは後回し)
ロケットペンダントをポーチにしまい、次いでボタンを観察する。
おぼろげな記憶が正しければ、これは最期を看取ってくれた人が着ていた外套の物だ。
『もし、また会うことがあれば、そのときは……精々こき使ってやってくれ』
その言葉と共に渡されたボタンに刻まれていたのは、幸いにして私にも見覚えがあるくらい有名なものだった。
(これ、『リーデルベルク寄宿学校』の校章だ……!)
国内でも有数の名門校である『リーデルベルク寄宿学校』は、王室とそれを支える四大貴族の支援を受けて設立された学校で、貴族はもとより推薦さえあれば爵位を持たない平民すらも受け入れる特別な教育機関である。
片田舎とはいえ、私の実家もそこそこ歴史のある男爵家だ。
大きな領地はなくとも歴史だけはあるため、祖先を遡れば四大貴族の親戚くらいなら姻戚関係もある。
とりわけ、この学校の理事を務めているルーデンス侯爵家とは、祖父の時代に多少の付き合いがあったそうだ。
(ちょっと強引だけど、やるしかない!)
私は藁にも縋る思いでルーデンス侯爵へ入学を嘆願する手紙を送ることにした。
恥知らずな要望という自覚はあったものの、17歳の少女が学校へ入り込むには生徒として入学するのが一番自然だ。
そこから何度かやり取りを交わした末、結果として入学を許されたのは奇跡的と言わざるを得ない。
ただ、唯一残念なことは『アリシア・ヴィフ』には入学許可が下りなかったこと。
入学許可が下りたのは平民出身の男子学生『リヒト・フェルトナー』――それこそが、私に与えられた仮初の姿だった。
◇◇◇◇
重いカーテンの下でもがき続けてようやく見えた光に、私は無我夢中で手を伸ばす。
やっとの思いで顔を出した瞬間――。
「……誰かいるのか?」
声と共にドアが開かれる音が聞こえ、息を呑む。
カーテンが外れたことで闇に沈んでいた部屋には光が差し込み、六角形の壁を覆う立派な書架が視界に入った。
けれど、そんなものよりも入り口に立つ青年の姿に釘付けになってしまう。
透けるような白い肌に艶やかな黒髪。
一瞬感じる儚げな雰囲気は、前髪の下から覗く燃えるような真紅の双眸によって瞬く間に打ち消された。
見た者に鮮烈な印象を焼き付ける美しい瞳から、目が離せなくなる。
「あ、怪しい者じゃないんです! 猫にポーチを盗られてしまって、それを追いかけていたらここに辿り着いたんです。勝手に入ってしまってすみません……!」
一息にそう言って頭を下げた瞬間、はらりと帽子が落ちて足元に転がる。
「え……」
カーテンから抜け出すときにズレてしまっていたのだろう。
次いで、帽子の中に隠していた亜麻色の髪が背中にこぼれ落ちるのを感じた。
咄嗟に首を巡らせて姿見を見ると、そこには最初に見た男子はいない。
いくら男子生徒の制服を着ているとはいえ、鏡に映っているのは髪の長いひとりの少女に違いなかった。
『男子学生として入学し、決して女性だとバレないこと。それが君の入学条件だよ、アリシア。バレたら即退学だからね……?』
一ヶ月ほど前、『リーデルベルク寄宿学校』への入学に力を貸してくれた唯一の協力者とも言うべき美しい金髪の青年は、天使のような微笑みでそう告げた。
その甘やかな声音が脳裏に蘇り、一気に血の気が引いていく。
(ど、どどどうしよう!? 転校初日で退学!?)
「君は……」
入口に立つ青年がこちらに近づこうとした瞬間――。
「み……見ないでっ! 変態っ!!」
「っ!?」
見られたくない一心で口にした言葉はあまりに見当違いで、けれど思い切り叫んだことで迫真性だけは出たらしい。
突然の罵倒を受けた相手は当然ながら私以上に当惑して目を丸くすると、自分に言われたと受け止め切れないのか辺りを見回す。
他に誰もいないことを知ると、顔を真っ赤にして飛び出すようにして部屋から出て行ってくれた。
(ああっ、なんか変なこと言っちゃった!? こ、こういうときこそ落ち着いて考えないと!)
ひとり残された部屋で、とりあえず今の状況を考える。
もう彼には私が男装していることはバレているだろう。
ここから「髪が長いだけの男子生徒です」とは言い逃れできる気がしない。
(……それなら、誰にも言わないように約束してもらうしかない、か)
問題は、初対面の相手に謂れのない罵倒をかましてしまったことだ。
気位の高い貴族であれば怒り出しても不思議ではない。
(ゆ、許してもらえるかな……)
手早く髪をまとめ上げてお団子にし、その上から帽子を被れば男子学生リヒト・フェルトナーの完成だ。
今度こそ帽子が落ちないように注意しつつ、急いでドアに駆け寄る。
恐るおそる外を見ると、そこには案の定先ほどの青年が玄関ホールの床に視線を落としたままじっと立っていた。
「あの……いきなり失礼しました」
「……もういいのか?」
こちらに背を向けていた彼は、肩越しに様子をうかがうってくる。
「見ないで」と言われたことをきちんと守っているのかもしれない。
印象的な赤い瞳が、やや元気をなくしているように見えて胸の奥で罪悪感が募る。
「はい。ちょっと取り込んでまして……慌てて変なことを言ってしまったようで、申し訳ないです……」
頭を下げて謝ると、彼は小さく溜息を吐く。
「色々と聞きたいことがある。まずは中で話そうか」