手作りお弁当と腫れる指
大和田がのろのろと弁当を食べ始めると、成瀬は外の風に当たってくると車を降りた。
フロントガラス越しに好きだと思っていた女が足取り軽く遠ざかるのが見える。踊っているかのような軽やかさだ。
「生島部長と……寝たんだよな。戸川主任とも付き合ってはないって言ったけど、したかも」
戸川君、ええ、相手はさせたわよ、と成瀬の声が脳内に充満した。
このふたりが、成瀬課長の死のいきさつを知っているということなのか。
それを聞き出すために身体を使ったと。
それも殺された夫を愛するがゆえに。
手作りのお弁当味わいイベントが、砂を噛むような苦痛に変わっていた。
半分ほど残して包み直し弁当箱を横に退けると、大和田はのらりと運転席から立ち上がり、成瀬が光り輝く高層ビル群を眺めているのを見つけて近づいた。
大和田は隣に立つべく足を止めたが、ふたりの間は運転席と助手席よりも距離が離れていた。それが今の心理的距離感なのだろう。
「私ばっかりしゃべっちゃったけど、大和田君の話は何だったの?」
身体を振り向けて尋ねた女は瞳に涙を滲ませて、笑顔を作っていた。
「僕は成瀬さんに好きだと言おうかと思ってたんですが」
「もう好きじゃなくなったでしょ」
「そうですね……」
成瀬はついっと目線を戻した。
夜景はどれほど明るく感じて出も、涙を乾かすほどの力はないのに。
案の定、大和田に聞かせるというより自分で納得するために、成瀬は呟く。
「もし本気で好きでいてくれるなら、全部話せるし、全部話したらきっともっと好きになってくれるのにな」
大和田は自分を試す女の物言いに少しばかり抵抗を感じた。
「僕がどれだけ本気になろうと、成瀬さんは課長のことで一杯じゃないですか」
「智也? 智也は私が誰かとちゃんと付き合ったら安心してくれるし、応援もしてくれるわ。離れてはくれないけど」
「どういう意味ですか? 幽霊として側にいるってこと?」
心霊とか怪奇現象には疎い大和田は半信半疑。
「さっき、指輪の話したじゃない。指が太くなったって」
「ええ。サイズ直せばいいのに」
「違うのよ。初めて生島さんと関係を持った後ね、薬指がパンパンに腫れて2時間痛みで苦しんだの。指先が青くなってきて、救急車呼んで指輪切ってもらうしかないかと思ったくらい。なぜかピッタリ2時間で腫れは引いて」
大和田はやはり与太話だとがっかりもした。
「虫刺されとか炎症か何かでしょ」
「二度目も、他の男とでも腫れたわよ。だからネックレスにした」
部長と寝たのは一度じゃない、他に誰と寝てるかわかったもんじゃない、という思いが大和田にジョークを言う余裕を与えた。
「じゃ、僕が抱いても腫れるんでしょうね」
「智也が見込んだ男なら大丈夫よ」
「僕は成瀬課長にたった3か月仕事を教わっただけです」
「智也、褒めてたわよ、大和田君のこと。まるで10年前の自分を見ているようだって。そのうえ自分より律儀で丁寧、センスもよくて悔しいって」
「お世辞です」
「私は9月いっぱいで会社を辞めるわ。AI翻訳をネイティブレベルの英語にブラッシュアップするサービスを立ち上げるの。たいして儲からないだろうけど、他に投資の運用益もあってお金に困ることはなさそうだから」
「そうなんですか……」
「大和田君は日々の業務をこなしながら、私のこと好きかどうかゆっくり考えてみて。そうしてるうちに周りがつまづいて転んで、大和田君は順調に昇進するから」
亡夫を思いながら誰とでも何回でも寝られる女を自分が好きでいるわけがない、この恋愛もここまでだなと大和田は見切りをつけ、口だけで表面的な反応を返した。
「僕は出世には興味がありません」
「なくてもよ。うちの会社実力主義でしょ、智也は33歳っていう凄いスピードで課長になった。戸川君は今その年齢に達したわけだけど、主任から課長への一歩は遠い」
「次の辞令くらいでしょ」
「だといいんだけどね」
いつのまにか涙の乾いた成瀬は意味深に笑いかけて、そろそろ家に帰りたいと言い出した。
「今日はありがとうございました」
大和田は丁寧に頭を下げ、成瀬は「こちらこそ、話を聞いてくれてありがとう」と応えた。
成瀬は自宅前までは送らせず、町田天満宮を過ぎてフロントガラスの前に出てきたただっぴろい広場の角で大和田の愛車を停めさせた。