戸川主任と成瀬さん・4年前の恋のきっかけ
営業部門の奥にある会議室を出て、隣の管理部門の大部屋へ向かう間に、大和田の心に後悔が広がる。
「笑えるよな、あのひとが指輪外したら告ろうなんて。オレのために外してって言えなかったんだから。それで他の男、よりにもよって奥さんのいる戸川さんに搔っ攫われて」
管理部門室に入り広報課の、失恋相手の席に近づいた。
「あの……成瀬さん?」
「はい、何かしら?」
営業部長の生島が会議室で呼んでいると告げるだけなのに、大和田の心拍数は上がってしまう。
キーボードをゆっくり叩いていた、指輪の痕がうっすら見える手を止めて顔を上げたのは、8歳年上、4年前から死別により独り身、町田市にある亡夫とのマイホームを所有し今もそこに住んでいる女性。
大和田は彼女が柔らかい笑顔をふんだんに向けてくれるのを眩しく思う反面、それは自分がまだ半人前で、男として見られていないためだと悔しい。
越えられないのは死んだ旦那さんだけだと思っていた。
それもそのはず、彼女の亡夫は、新入社員だった大和田に仕事のノウハウを叩き込んだ営業部の出世頭、課長職の成瀬智也だ。
最年少で主任を飛び越えて課長に抜擢されたと聞いている。
男としても、ビジネスマンとしても、未だ足元にも及ばないという思いが大和田を苦しめていた。
成瀬課長に負けるならいい、でも戸川さんに負けるとは信じたくない。
大和田にとっては二人とも営業のお手本ではあっても、戸川主任は調子者で実がないから。
そんな思いを抱えた大和田は、「会議室へ」という前に「ちょっと来てください」と成瀬智也の未亡人を、誰も来ない階段のほうへ誘った。
10メートルも歩かない間に、大和田の頭の中に思い出が巡る。
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自分が入社して3か月のこと、出社してみると、一緒に都内の得意先を廻って直帰した成瀬課長が、夜のうちに横浜駅西口タクシー乗り場で倒れ入院した、と言われた。
慌てて病院に向かうと、枕頭にいたのは広報部で社のホームページの英語翻訳や海外からのコメント対応をしている女性。
彼女が成瀬さんで、夫は背後から錐のようなもので腎臓辺りを刺されており失血が著しい、多臓器不全に陥る可能性があるという医者の見解を告げた。その後淡々と、帰宅路ではないのになぜ横浜駅にいたのかわからない、刺されてからかなり歩いたのか、腰に違和感を感じてタクシーで帰宅しようとして順番を待つ間に倒れ、周囲の人が救急車を呼んでくれたようだと付け加えた。
成瀬課長は意識も戻らず逝き、成瀬さんのほうは、病室でもお葬式でも取り乱さない気丈な女性という印象だったのに、1か月後仕事に復帰した彼女が夜遅く、他には誰もいない管理部門部屋で泣いているのを見てしまった。
英語でWhy? Why? Why?と机を叩きながら……
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ふと我に返り、大和田は階段の手前で振り向き問いかけた。
「成瀬さん、もしかして戸川主任と付き合ってたりします?」
「は? え? 戸川君? と、付き合って?」
成瀬女史は目を丸くしてから口元に笑顔を浮かべた。
「そんな噂でもあるの? 私、戸川君より年上だし圏外でしょ」
「歳、関係あります?」
「奥さんのいる戸川君が浮気するなら若い女の子じゃない?」
そんなもの……ですか、と呟いて、大和田は成瀬課長が生きていれば37歳、成瀬さんが35歳、戸川さんが33歳、と思い巡らした。
「成瀬さんは、年上の男のほうがいいんですか?」
「え、私?」
成瀬は困ったように肩をすくめて、
「私なんかのことより、大和田君のほうが誰か選ばないと社内がざわざわして落ち着かないわ」
と微笑んだ。
「仕事に戻っていい?」
大和田は何も返せないでいたが、ハッとして、
「あ、違うんです、生島部長が営業部の会議室に来てくれって」
とやっと伝言の役目を果たした。
「あら、生島さんが? 待たせちゃってるわね、すぐ行きます」
成瀬はちゃんとした用事だったのねとにっこり笑いかけてから、くるりと背を向け廊下を歩いて行った。
大和田はその腰つきと締まった足首についつい目を這わせてしまっていた。




