大和田フリーの噂・戸川不倫の噂
翌週、オフィスの独身連中は皆浮き足立った。
女性陣は誰もが「大和田君はフリー、チャンス!」、男性は「女奪られる」「強敵要らん」と気もそぞろ、席を離れるとトイレで、休憩所で、昼食時、駅への道々で、コメントを交わした。
元より、部署が違えば社内恋愛はオーケーの社風。
結婚してもどちらかが退職を求められることもなく、夫婦で雇われた例もある。
社内は「大和田争奪戦」の様相を見せた。
反比例するように、4年前に伴侶を亡くした中堅女性社員成瀬心夏の左薬指のリングが外されたことを気にする者はいなくなった。
争奪対象の大和田一人を除いて。
そんなある日の定時後遅く。
「お前、浮気するなよ?」
残業中に戸川は、コピー機の前に立つ広報課女性の背に声をかけた。
「そっちはしてるでしょ!」
男と女の関係になってしまっているふたりの会話は、他に誰もいないとなると遠慮会釈もない。
示し合わせて形だけの残業をこなしこれから夜に繰り出す予定なのだろう、語気に似合わずどちらの声も微かに艶めいている。
だが誰もいないと思ったのはふたりのミス。
直帰予定だった生島営業部長が忘れた眼鏡を取りに、オフィスに戻ってきていたのだ。
部長の席とコピー機は離れていて女性が誰だか思い当たらなかったが、入社から10年、陰に日向にと気にかけている戸川の声を生島が聞き間違えるはずはない。
「もしかして……不倫?」
ー◇◇◇ー
生島部長は数日悩んだ。
社内不倫が明るみに出ては困る。破局と同時に女性陣が徒党を組んで敵に廻るのが目に見えているから。
手を出した男が悪い、妻帯者が悪いと非難ごうごう、相手の女性だってもう大人で自己判断で選んだ恋愛だということは棚に上げて。
だが、始まってしまっている恋愛を、他人が終わらせろと言ってもどうなるものでもない。
うまく行っていて、戸川が離婚して不倫ではなくなる可能性も無きにしも非ず。
となると、上司として言えることは、「浮気なら意地でも隠せ」「手を引くなら早めに」「別れる時は穏便に」くらいだろう。
「いつまでたってもバカなヤツだ」
生島は独り言ちた。
戸川は手が早すぎる。結婚相手も社内恋愛デキ婚、自分が口を酸っぱくお説教して結婚に漕ぎつけた。
自分は不倫するなら相手は慎重に選ぶし、自分の得にならない相手とはしない。大人同士と割り切ってくれることが最大の条件だ。
部下の愚行のせいで、自分の社内での立場というものが危うい。
部長としての管理能力を問われ、元々営業が得意だったわけでもない過去からも、営業部長から閑職に飛ばされる。
そんなシナリオが容易に生島の頭に映像化された。
それならいっそのこと、田舎で垢抜けない飲み屋をしている姉の店をオシャレなショットバーに改装し、趣味のカクテルを揃えて一国一城の主になりたいものだ。
一人娘は来春短大卒見込み、さっさと嫁に行ってくれればその後は好きなことをさせてもらってもいいだろう、そのくらいの蓄えはある。
部下の不倫を端緒にそんな現実逃避な考えばかりが生島を満たす。
とりあえず生島は、戸川とコンビを組んで営業先を廻っている大和田を別室に呼んで様子を聞くことにした。
「戸川君のことなんだが、最近悩んでいるようなことはないかね?」
直接問い質そうにも確証はなく、直情的な戸川には、セクハラ、パワハラと言い返されるだけだと部長は判断したのだ。
「いえ、主任は絶好調で私の至らない点をカバーしてくださってます」
大和田のほうはといえば、失恋で落ち込み中なところに、あちこちから送られてくる秋波に辟易していて、そんな自分を支え商談の場を盛り上げてくれている戸川を頭に浮かべた。
「仕事はそうだろうが……、女性関係なんかは?」
大和田は部長の言葉に耳を疑った。
10日ほど前だったか小料理屋で飲んだ時の戸川の発言が蘇る。不倫でも好きになれば告ると言っていたような。
でもそれは酒の席での与太話だろう?
「私は存じ上げません」
「そうか、ならいい……、あ、広報課に行って、成瀬君を呼んできてくれないか? 英語で自信がないところがあって……」
思案気な顔が戻らないまま成瀬の名を出した部長を前に、恋する大和田の疑念は急速に膨張した。
「もしかして? そんなことって! 成瀬さんと……戸川主任?」