外された結婚指輪と社内恋愛
「ねぇ、見た? あの女、指輪してない」
「新しい男でもできた?」
「早くない?」
噂というものは大抵、疑問形で始まる。
場所は営業部のコーヒー・サーバー前。
若い女子社員が古参の同性を揶揄するのはよくあることだが、運悪く若手ふたりは目ざとく口さがなかった。
噂の相手は35歳、人当たりのいい気さくなタイプだとしても、実は男性社員から一目置かれていることが我慢ならない。
そこに社内きっての独身イケメン大和田隼斗が混ざる。
「何の話?」
「あ、ええと……」
「うん、成瀬さん……」
年ごろ女性はイケメンには弱い。
「広報部の成瀬さん? どうかしたの? 最近元気が出てきたみたいだけど?」
「うん、いいひとできたのかなって……」
こうしてくるりと、発言の意味合いをすり替える。
「結婚指輪、もうされてないみたいだから……」
大和田は一瞬、淹れたての熱々エスプレッソが胃に直撃したかのような顔をして、その後笑顔を作った。
「ふっ切れたのならいいことだね、あの御不幸、オレが新入社員の時だった……」
「4年前?」
女の問いかけに大和田はコクリと頷く。
「私は好きな人と結婚したら、死に別れても指輪は外さないわ」
大和田狙いの女子社員は熱っぽく背の高い相手の瞳を見つめた。
「たった4年で指輪を外す理由って、やっぱり他に考えられないわよね」
4年が長いのか短いのか、誰にも判断できないだろうに。
大和田は「成瀬さんが幸せならいいことだね」と早口に言って、外は7月の猛暑、熱いコーヒーはやめたのか、エレベーターホールの自販機へと向かっていった。
―◇ー
その週の金曜日夜、大和田は営業主任戸川に誘われて、カウンターだけの小料理屋で飲んでいた。
「どうしたんだよ、プレゼンが上の空じゃオーダーなんか取れないぜ?」
「すみません……」
「夏バテって歳でもないだろ?」
「体調は……問題ないです」
「やっぱ、何かあったな? まあここで吐き出しちまえ」
大和田はふわりと遊ばせたくせっ毛をかき上げ、伏目がちな睫毛をしばたたかせる。
「失恋……ですかね」
「失恋?! お前が?」
冷酒が沁みたフリで顔を存分に顰めておいてから、大和田は壁の品書きに目をやって、既に妻帯者の戸川には片想いも失恋も遠い過去で羨ましいという思いを圧し潰した。
「大和田が振られるようじゃ、相当いい女だな」
大和田の返しが遅くなる。
「振られて……はいません。告ってないので」
「は? 告って? 相手はお前の気持ち知らないのか?」
「知らないと思います」
「お前って……結構ビビり? 仕事に響くくらい落ち込むなら、はっきり告ってしっかりフラれろよ」
二人の営業マンは同時に冷酒の切子グラスを手に取る。大和田は口に入った酒を少しばかり首を横に傾けて転がすと徐に口を開いた。
「まあいいじゃないですか、もういいひとできたって噂なんで」
「バカだな……オレは好きになったら告るぜ?」
「奥さんいるのに? 相手に迷惑でしょ?」
元々社内恋愛で結婚したと聞いている戸川が社内で浮気をしたらヤバいだろうと大和田は驚いた。
「迷惑かどうか決めるのは女側だろうが……」
戸川の発言は語尾に近づくにつれ力を失い、カウンターの上にかき消えていった。