二兎追うものは一兎くらい得る
宿の外に出ると、窓越しに見えていた通りの見事な悪天候が広がっていた。
俺は黒ローブのフードを深く被り直してから、雷雨が大はしゃぎしている夜の街へと足を踏み出す。
ここは雷鳴の街。
周囲三方向を山に囲まれており、残りの一方は海に面している。
その名の通り、一年の大半を雷に見舞われるという土地につくられた街だ。
大粒の雨がローブ越しに体に叩きつける感触を受けつつも、どうせ走ったところで先も雨だと、さほど急ぎもせずにひと気の皆無な街中を歩いて行く。
まぁこれほどの悪天の中、しかも夜にわざわざ外へ出ようという輩はそう多くないだろう。雨だけならまだしも、雷がこうひっきりなしに鳴り響いていては外出する気も失せるというものだ。
なにせ人は……というか大抵の生き物は、雷に打たれたらわりと死ぬ。なんなら近くに落ちただけでもそこそこ死ぬ。
異世界だろうがなんだろうが、人々にとって自然の脅威は変わらず脅威なのだ。
とはいえファンタジー世界ならではの例外ももちろんある。
他種族のことはあまり詳しくないから分からないが、少なくともエルフにとって、ほとんどの自然現象は脅威ではない。
エルフの得意とする自然魔法とは、その自然の力を意のままに操る術であるからだ。
だから落雷があろうとエルフたちは直撃する前にいなしたり弾いたり打ち消したり、片手間で処理することが出来る。
なお、お察しの通り魔法下手の俺にはそんな真似は不可能なので、里でも天気の悪い日は普通に住処に引っ込んでいた。
メリットもなしに試す気はないが、おそらくエルフの体なら雷の直撃をくっても即死するということは無いと思う。そして即死じゃなければたぶん回復は可能だ。
ちなみにダークエルフはどうなのかとヴェスに聞いたら、真顔で「勝てる」と一言頂いたのでよくわからんが勝てるらしい。
元々頑丈であるし、そこへ身体魔法も合わせればそりゃ勝てるんだろう。勝てるって何?
戦闘狂族の言うことは牢屋で鍛えた以心伝心力をもってしても時々意味が分からんが、とにかく俺とヴェスは多少雷に打たれても死にはしないはずだ。
だが、これが人間の幼児となればそうもいかない。
胸の手術痕など少々疑わしい部分もあるが、アルテアは人間である。
ひときわよく眠り、食事量が少なくとも健康に育っている以外には、今のところ普通の人間と比べてこれといった違いはない。
二足歩行するようになってから時々転んだりして擦り傷を負うこともあるが、エルフのように回復が早いという様子もなかった。
ところでこういう日常の怪我もスラファトの言った「損なわず」に抵触するんだろうかと毎度ちょっと肝を冷やしている。
だけど動きたい盛りに突入した幼児のささやかな負傷をゼロにするの不可能だろ。すぐ治る範囲の怪我はさすがに許してほしい。なんでもするから。閑話休題。
要するに何が言いたいかというと、この街を出るには周囲の三方いずれかの山越えをするしかないのだが──海路は諸事情により使用できない──通常の天候ならともかくこの尋常じゃない雷雨の中、アルテアをつれて山歩きするのは危険が大きい。
万全を期すのであれば、せめて少しくらい天候が落ち着いた日を狙って出発したいところだ。
そんなつもりでいた俺達は、もう二週間ほどこの街に留め置かれていた。
いや、いくら雷の多い土地とはいえ、さすがに小止みになるタイミングがあるだろうと最初は思っていたのだ。現に俺達が街についたときは普通に晴れていたし。
だが到着翌日から一気に天候は悪化し、二週間ほどずっとこの調子である。一応雨は時々弱くなったり止んだりもするのだが、雷のほうは四六時中鳴りっぱなしだ。
晴れ間の隙をつこうにもその隙が皆無ではさすがにどうしようもなかった。
最終的には雷が当たらないことを祈って強行軍するしかないのだろうが、今のところはまだ、そこまでのリスクを犯す理由はない。
とはいえこのままじゃ時間の問題だろうかと、軽くなってきた財布のことを思いつつ俯き加減に歩いていると、ふいにばしゃばしゃと荒い水音が耳に届いて顔を上げた。
人が走る音だ。一人分には多い。
この土砂降りのせいで見えにくい風景に目をこらして、音の聞こえるほうへ意識を向ける。
その足音は俺の正面から徐々にこちらへ近づいてくるようだった。ぼんやりとしていた人影が少しずつ形をなしていく。
まずしっかりと視認出来たのは、小さな人影。
ぼろ切れのような服を身にまとった子供が、何かを胸に抱え込んで全力で走っている。
次に見えたのはその子供のさらに後ろを、こちらもまた全速力で走っているらしい大人の男が一人。
「おい! 待たんかコラ!! こんの泥棒ー!」
必死な形相をした男のほうが発した言葉で、なんとなく状況を察する。
察しはしたが、こういう揉め事は往々にして首を突っ込むだけ損なのだ。
手を貸さなかった方に逆恨みされる可能性があるし、手を貸した方に感謝されるとも限らない。何なら両方ともから、余計なことしやがって、と理不尽なお叱りを受ける場合すらある。
これはスルー一択だな、と己の指針を定めたところで、前を走る子供がぐんぐんとこちらに近づいてきていることに気づいた。随分と速い。
大人と子供の歩幅の差をものともしないスピードで、子供は男との間を引き離しにかかる。このまま行けばすぐ振り切れるに違いなかった。
男との距離を確かめるためにか肩越しに後ろを振り返りながら、子供がぐっと足に力を入れてさらに加速する。
子供はそのとき、前を見ていなかった。
そしておそらく逃げるのに必死で、前方を歩く俺の存在にも気づいていなかったのだろう。
俺は互いの存在を認識していた。
だが爆発的な加速をもって、まるで瞬間移動でもしたかのように突如目の前に迫った子供の動きに、まるで反応が出来なかった。
結果どうなったか。
「うわっ!」
「ぎゃん!!」
そりゃぶつかるよな。
大きな雷が気の利いた効果音みたいに鳴り響く中で正面衝突した俺達は、ばしゃりと派手な音を立てて二人とも地面に転がった。
弾き合ってお互い真後ろに倒れ込んだ俺と子供は、それぞれ小さく痛みに呻きながら身を起こす。
何が起きたか分からないとばかりの顔をしていた子供は、目の前で同じく座り込む俺の姿を見てすぐに状況を把握したのか、鋭くこちらを睨みつけた。
だが己の背後から迫ってくる足音に気づくと、はっとしたように己の手元を見て、それからきょろきょろと辺りを見回す。
何をしているのかと疑問に思うより先に、俺もまたふと自分のすぐ横の地面に転がる塊に気づく。
それは地に落ちて雨と泥にまみれた、ひとつのパンだった。
「パン?」
「かえせ!!」
反射的にパンのほうへ手を伸ばそうとした俺に向かってそう叫んだ子供が、勢いよく立ち上がったかと思うと、急に顔を顰めてしゃがみこむ。
小さな手のひらが、そっと子供自身の右足首に添えられるのを見た。そのとき。
「やっと捕まえたぞこのガキ! 食いもんが欲しけりゃ金払え! 払えねぇならこのまま私兵団に突き出すぞ!!」
「っ!」
ようやく追いついてきた男が、子供の襟首を掴んで猫の子のように引っ張り上げる。
じたばたと暴れるみすぼらしい子供。
肩で息をしながら怒鳴りつける男。
無関係の一般美少年になるタイミングを完全に逃した俺。
傍らに残されたままの泥だらけのパンをちらりと見下ろして、内心ひとつため息を零してから、意識を切り替える。
理想の展開にならなかったからとそれを嘆いている暇があるなら、とっとと次の手を打て。
半端に関わるくらいなら、いっそ一足飛びで当事者になってしまえ。
そして手元にある駒で、盤面で、現状で得られる最大限の好感度を引っつかむのだ。
「……何かあったんですか?」
よろめきながら立ち上がって問いかけると、第三者の存在に初めて気づいたらしい男が目を丸くしてこちらを向いた。
「あ、ああ。このガキがうちの店からパンをかっぱらって行きやがってな。急いで追いかけたんだがめちゃくちゃ速くて……あんたが足止めしてくれたんだな、助かったよ」
「偶然ぶつかってしまっただけなんですけど、お役に立てたならよかったです。それで、その……この子は?」
「路地裏に住み着いてるタチ悪い孤児のうちの一匹だろ。時々こうして街中に出てきちゃ食いもんやら金目のもんをかっぱらってくんだ。ったくいい迷惑だよ」
ずぶ濡れの髪をかきあげた男が、困り果てたようなため息を吐いた。
「金払えとは言ったものの金なんか持ってるわけないだろうし、私兵団に突き出したところであいつらが代わりに弁償してくれるわけでもないし、盗られたパンはぐちゃぐちゃで、結局は走り損のずぶ濡れ損と……散々だなまったく」
“ここ”だ。
俺は深く被ったフードの下で小さく笑みを浮かべて、口を開いた。
「あの、よろしければ、なんですけど。この子が盗ったパンのお代、僕に払わせてもらえませんか?」
「はぁ? そりゃこっちは誰からだろうと払うもん払ってもらえりゃ文句はないが、そいつはまた随分と人がいいことで」
見ず知らずの孤児の盗人の代わりに金を払おうという奇特な黒ローブの人物を前に、男の目にわずかに訝しげな色が宿る。
そうそう、都合の良い話も過ぎれば疑念を抱くというものだ。
だからその目の色が不信に変わる前に、被っていたフードをさっと外してみせる。
そうして現れた俺の顔を見た男が、意表を突かれたようにぽかんと口を開けて動きを止めた。
一瞬前までの困惑も疑念も思考すらも、その全てを消し飛ばす威力を持つのが、この圧倒的“美”ことエルフ顔面である。
とはいえ誰も彼もが他人の美醜に興味があるわけでもない。
なのでヴェスのように効果のない相手も当然存在はするが、大抵の人間は途方もなく美しいものが急に目の前に現れれば、大なり小なり気を取られるものだ。まさに人外の美しさを持つエルフのツラで、愛想良く笑顔を浮かべればなおのこと。
「さっき僕とぶつかったせいで、この子に怪我をさせてしまったみたいで。そのお詫びも兼ねてと言いますか」
「え、あ、ああ……まぁ、そういう、ことなら……?」
少し眉尻を下げて上目遣いに見上げてみせれば、男はこんな雨夜の下にありながら眩しいものでも見たかのように目を眇めて、しどろもどろに頬をかいた。
「よかった。それじゃ、お支払いしますね」
男の思考力が戻る前にと、ことさら嬉しげに喜んでみせながらさっさとパンの値段を聞き出して金を払う。
捕獲されていた子供も金と引き換えに解放されたので、ひとまず暴れないように肩を押さえながら、俺は男と少しばかり雑談する。
「お店はどちらに?」
「裏のほうでちょっと分かりづらいんだが、向こうの酒場の奥にあってなぁ」
「そうなんですね。あの、僕、どこかで夕ご飯を買って帰ろうと思ってたんですけど、このあと用事が済んでからお伺いしてもいいですか? あ、いえ、すみません。今からだとお店閉まっちゃいますよね。やっぱり明日に……」
「いやぁ! 平気平気! どうせこの天気でずっと暇してるしな、あんたが来るまで開けとくよ」
「でもそんな……いえ、ありがとうございます。夜は開いているお店が少なくて、どうしようかなって困ってたんです。すごく助かります!」
ほっとした顔で微笑んだ俺に、男も気安い表情で「なんのなんの」と笑って返す。
そんな調子でいくつかやりとりを交わした後、男はいつまでも雷雨の中で突っ立ってるのも何だと、軽く挨拶をかわして去っていった。
その背中が完全に見えなくなったところで、さて、と息を吐く。
ひと気皆無な街の片隅に残ったのは、水もしたたる美少年こと俺、と。
「はなせっ……!!」
男とやりとりしている間はかろうじて大人しくしていたが、我慢の限界がきたらしい子供が俺の手を振り払う。
そしてそのまま駆けだそうとして、しかし数歩進んだところで唸り声を上げて倒れ込んでしまう。
俺は雨に濡れたせいで顔に張りついて鬱陶しいことこの上ない片側の長い前髪の先を軽く指先でつまんで弾いてから、地面でもがく子供を静かに見下ろした。
年の頃はおそらく十歳前後。だが小柄でガリガリなせいか、もう少し幼くも見える。
薄汚れた土色の短い髪が、俺と同じく雨に濡れてじったりと皮膚に張り付いていた。
さらによく見れば髪かと思っていた土色の一部がぴくりと動いて、それが長く垂れた獣の耳であることに気付く。ウサギの獣人、といったところだろうか。
一歩、子供のほうへ足を踏み出す。
跳ねた水音に長い耳の先をぴっと動かした子供が、立ち上がれないままに俺のほうへ向き直る。
こちらを睨みつける大きな目は、薄汚れた全身からそこだけぽっかりと浮かび上がるような鮮やかな桃色をしていた。
その桃色の上にある特徴的な眉は、なんというか、いわゆるまろ眉だった。そのせいか全体的にどこか愛嬌のある顔立ちをしていて、睨まれてもほとんど威圧感を感じない。
「くるな!!」
威嚇のつもりなのか、子供は痛めていない左足で地面にたまった水を思いきり蹴り上げる。
ばしゃりと顔にかかった水しぶきを小さく首を振って払ってから、子供の前にしゃがみこんだ。
子供の顔を真正面から見据えて、にこりと笑ってみせる。
「お嬢さん」
「!」
そして子供に向かって、上向きにした手のひらを差し出す。
「返してもらえますか?」
「なに……」
「さっき僕とあの人が会話してる隙にですかね。随分大人しかったですけど、盗ったんでしょう? 僕の持ち物」
「…………」
子供が先ほどから握りしめたままの左の拳にぐっと力を込めたのを見て、目を細めた。
俺はヴェスと違って、気配を読むとか視線を感じるといったことは得意ではない。
物語ではよく「殺気!」とかいって見えない敵に気づいたりするが、現実でやられると本当に意味不明である。わかるわけないだろそんなもん。
よって俺は別に、盗られたときに気づいたわけではない。クソ雑魚エルフにそんなスペックはないのだ。
「僕、元々あんまり勘がよくないし、ちっとも強くないんです。だからこそよく“気をつける”ようにしてまして、なくしたら困るものはこまめに確認する癖があるんです」
だからこそ俺のやり方は至って単純。
何かあっても何もなくても、定期的に貴重品の所在を確認すること。それだけだった。
子供とぶつかる前にはあった。子供とぶつかった後にもあった。
男と会話しているときにも、途中まではあった。だが男と別れたあとには無くなっていた。
であれば、盗られたのはその間で、それを為せたのは目の前で一挙手一投足を見ていた男ではなく、この子供だ、と。
これが本当に言うは易いが、行うはそこそこ面倒くさい。しかしクソ雑魚がクソ雑魚のままで可能な盗難防止策のひとつとしては手っ取り早いだろう。
力も知恵もない俺には、人に“そんなこと”と言われるような簡単で手間のかかる地味な予防線を、バカみたいにいくつも積み重ねて必要な確率を上げることしか出来ない。
だがそのやり方で現にこうして気づくことが出来たのだから、結果よければというやつだ。
「お望みならお金をお渡しします。少し待っていてくださるなら、代わりの食べ物を買ってくることも出来ます」
いまだ地面に落ちたまま、どろどろになったパンを一度見て、また子供に視線を戻す。
「だからその耳飾りは返してもらえませんか。母の形見なんです」
俺の静かな声に、子供が微かに肩を震わせた。
降りしきる雨音の合間から、ぎり、と歯を食いしばる音がする。
短い沈黙の後、子供は手の中のものを俺に向かって投げつけた。
反射神経がゼロな俺には格好良く宙でつかみ取るなんて真似は出来なかったが、胸元にぶつかって落ちたそれは、間違いなく俺が持っていたピアスである。
雨に濡れた地面から母のピアスを拾い上げ、服の中にしまった。
「ありがとうございます。代わりのものは何がいいですか?」
「……いらない」
「そうですか。ではお詫びにひとつ、おまじないを」
子供の右足首に手を伸ばし、そっと触れる。
びくりと震えた体に気づかないふりをして、俺は意識を集中させた。
「いたいのいたいの、とんでいけー」
手のひらから淡く放たれた光が、雷光に紛れて消える。
「……なんて。気休めで申し訳ないですけど、念のため二、三日は全力で走らないようにして、なるべく安静にしてくださいね」
これで不可抗力とはいえ子供に怪我させた件はチャラだろ、と世間体の収支を勝手に合わせていると、子供の足首に添えていた手がふいに力いっぱい払い落とされた。
爪でも引っかかったのか、ぴりっとした痛みが走った手を引き戻しつつ顔を上げると、子供はなんともまぁ憎々しげな表情で俺を睨んでいる。まろ眉の愛嬌補正すら貫通する鋭い眼力だった。
「っ、ぎぜんしゃ!!」
そう吐き捨てた子供は、勢いよく立ち上がると地面に落ちていたパンを拾い上げる。
今度こそ手放すまいというようにドロドロのパンを胸に抱き込んだまま、その小さな体が転がるように駆けだして、雨に煙る街の向こうに消えていった。
瞬く間の出来事を呆然と見送った俺は、また閃光の走った空を緩々と仰ぎ、一人呟く。
「ばれたか」
数秒遅れで、大きな雷鳴がどかんと空気を揺らした。




