2話 俺の決意
俺が住む国の海域には水竜がいる。
ある時代の王と王妃が「私たちの娘は海の女神レレネスよりも美しい」と王女を自慢した。
それを聞いた海の女神の夫、男神アドロリウスの怒りを買ってしまった。
男神アドロリウスは水竜を生み出し「滅ばされたくなければ王女を捧げよ」と告げた。
王と王妃は号泣し、王女は水竜の生贄となった。
しかし、その生贄は王女ではなく、王女に似た娘だった。
それが男神アドロリウスのさらなる怒りを買い、「水竜が現れるとき、必ず王女を捧げよ。再度裏切れば水竜によって滅びるだろう」と告げられた。
よって俺の国では男神アドロリウスの怒りを鎮めるために水竜への生贄として代々王女が選ばれる決まりになっている。
そんな歴史がある俺が生まれた国は海に面している。
いくつもの大小の港を抱えているので漁港も交易も盛んだ。
海に面していることを活用し良質な塩を量産していることで有名な国として知られている。
胡椒などの香辛料と同じく良質な塩も貴重で、金と同等の価値として売買される。
交易船が海を渡ってこの国に入国するときは関税がかけられる。その徴収した税金は、この王都に恵みの雨のごとく降りそそぐ。
そのおかげで巨万の富を得た国王が住まう白亜の城は豪華絢爛なのだと昔から囁かれている。
実際、白亜の城を支える石柱には贅沢にも金銀で装飾が施されている。
謁見の間も同様に豪華絢爛な空間で床は大理石。奥には純金の縁で作られた玉座があり国王が座していた。
◇◇◇◇◇◇
(俺はなにもできなかった……)
リリアーヌが連れ去られ、半ば強制的に謁見の間を出された後の俺の記憶は曖昧だった。
鮮明に残っているのは謁見の間を出た瞬間、今までの人生の中で一番の悪夢だと叫びたくなるほどの日だと思ったこと。
廊下は国の繫栄を誇示するかのような金縁の赤い絨毯が敷かれていて、美術品が飾られており、透き通った硝子窓が連なっていた。
その廊下を歩いていた俺の視線はさまよい、呼吸もちゃんとしているのかどうかもわからなかった。
その姿が地下に住む魂が抜けた幽霊にでも見えたのだろう。通りすがりの文官が驚いた反応をしていた。
リリアーヌは病弱で一年のほとんどを自室で過ごしていた。
ダンスの練習もままならず、踊れなければ淑女として恥ずかしい。だから、まだ社交界デビューしていなかった。
去年両親を亡くし、俺は父の爵位を継いだ。
爵位は男爵。上位貴族から睨まれれば吹き飛ぶような家だ。
若くして爵位を継いだということ以外、なんてことのない男だ。
家族はお互いだけ。
そんな家だから、都合が良かったのだ。
俺は、そうとしか思えなかった。
「着きましたよ」
二頭立ての馬車の手綱をとっていた馭者に声をかけられて、はっと意識を取り戻したように俺の肩が上がった。
馬車から下りて、ふらつきそうな足取りで屋敷に入ると、白髪交じりの執事が背筋を伸ばして腰を折った。
「お帰りなさいませ。リリアーヌお嬢さまは?」
「奪われた」
俺が親の仇のように言い捨てると、執事は珍しく間抜けな顔をしたがすぐに事情を察した。
「頼れる方にご相談なされては」
「誰がいる? 誰もが自分の娘や妹など差し出しだしたくはないだろう」
俺は眉を寄せて苦々しい顔で階段を上がる。
その後ろを執事が静かに追いかける。
黙って首を垂れることしかできなかった自分にいらいらしながら、俺は自室へと入った。
「……どなたかの王女の身代わりですか?」
「いや、第六王女セリーナ姫が選ばれている。王宮お抱えの占術師によれば、セリーナ姫だけでは男神アドロリウスの怒りを鎮めることはできないと予言がでたそうだ。だから妹が選ばれたと」
「申し上げにくいことですが、陛下には第六王女以外にも王女がいらっしゃいます」
『海の乙女』は代々王女が選ばれる決まりだ。
だから国王に限っては、来る日に備えて複数の王妃をもつことが許されている。
「どの王妃も実家から圧力をかけてもらって抵抗したのだろう」
謁見の間には第六王女であろう姫しかいなかった。
俺がそう言うと、執事は第六王女に同情したようで目を伏せた。
自分の記憶が正しければ、王族以外ではリリアーヌが始めて。
王宮内にある図書館に行って文献を読めば正確なことが分かるだろうが、今となっては意味もない。
「くそ……!」
俺は上着を長椅子に向かって投げ捨てた。
俺は騎士になって、国のためリリアーヌを守るために剣を振るってきた。
今になって何のために自分は剣を握ってきたのか、わからなくなった。
執事は俺が投げ捨てた上着をそっと回収する。
「お食事はどうなさいますか?」
「いらない。しばらく一人にしてくれ……」
俺は端的に答えて、倒れ込むように寝台に横たわる。
執事は静かに一礼して部屋を退出した。
いつの間にか夕暮れになっていた。
茜色の光が窓から差し込み、寝台と俺を照らす。
照られている顔に微かな西日からの熱を感じながら、俺は自分の手のひらをじっと見つめていた。
今の俺にはこのまま泣き寝入りするか、抗うかの二択がある。
「…………」
長い黙考の末、俺は起き上がった。
騎士団に所属してはいるが、騎士団長候補に選ばれるほどの技量があるわけでもない。
上の役職が望めるほどの伝手があるわけでもない。
――未練はない。
俺は拳を握り、騎士団を退団することを決めた。