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歌物語

松虫

作者: 夢のもつれ

 タクシーから降りて、一体ここはどこなんだろうと思った。

 ぼくの家はわりとややこしいところにあるから、いつもは住所を言ってからも、間違えられないように要所要所で、そこを曲がってとか、その細い方の道に入ってとか指示することにしているんだけど、大きな交差点に佇んでいる、赤いワンピースを着た女が裸足なのに気を取られているうちに眠ってしまっていた。


 飲みすぎたことは自分でもわかっていた。

「お客さん。着きましたよ」と2、3回目なんだろう、ちょっといらいらしたような口調で言われたのに、慌てて料金を払って、忘れ物だけはしないようにと思って降りたら、全く見覚えのない薄暗い住宅街だった。

 乗っていたタクシーのテールランプが登り坂の角を曲がっていく。運転手に毒づいても仕方ない。住居表示を探したけれど、そういうのって知りたいときには見つからないことになっているような気がする。

 電柱にも家の壁にも『4-12』といった番地表示はあっても何という町名なのか、どの区なのかさえわからない。


 デザインや屋根や壁の色は様々だけど、元々は広い土地を2つか、3つに区切った、まるで羊羹を切ったみたいに3階建てが並んでいる。冴えない色の街灯が照らしている。こんなところにいても右も左もわからない。もう少し広い道路に出て、コンビニでも探せば場所も訊けるだろう。


 あてずっぽうに方向を決めて歩き出す。行き止まりで曲がると道が狭くなる。

 こんなところは車じゃ来れないなと思っていると、車庫にレクサスが停めてある。大した腕前だけれど、この家は1階は玄関と車庫だけで、世帯主はこの車なのかもしれない。…そんなことはどうでもいい。いくら歩いても大きな道には出れない。


 この辺りは元々は農道だったのだろう、くねくねと見通しのきかない細い道が続く。背広が重い。ワイシャツの襟がべたべたする。

 10月だというのに真夏並みの暑さになったり、急に涼しくなったり、おかしな天気が続いている。暗いところから虫の声が聞こえてくる。…


 急に小さなマンションというか、アパートというか、その前で、ここに来たことがあるのを思い出した。周りを見回す。

 来たことがあるどころじゃない。2階の窓を見上げる。ほんの2、3年前に別れた彼女の部屋で、何度も泊まったことがある。

 時計を見る。1時20分。タクシーを降りてからどれくらい歩いたか、見ていなかったのでわからないけれど、30分は歩いていたような気がする。疲れがどっと押し寄せる。

 スマホの住所録を探してみると彼女の名前があった。番号が変わっているかもしれないと思いながら、すがるような気持ちで掛けてみた。


 相手はすぐに出て、懐かしいような声が聞こえる。思い出しかけていたことを忘れてしまうような声だ。

「ぼくだよ。ひさしぶり」

「ひさしぶり。どうしたの?」

「たまたまこの辺に来てさ。今、君んちの前にいるんだ」

 カーテンが少しゆれる。軽く手を挙げる。

 じゃあ、おいでよということになって、部屋へ上がり、いつも座っていた場所に座ると、缶ビールとコップが目の前に出てくる。

「悪いね。急に来ちゃって」なんてことを言いながら、こんなにするすると事が運んでいいのかなと思う。


「だいじょうぶよ。今、ちょっとおつまみでも作るから待ってて」とキッチンに立って行く。彼女は手早くおいしいものを作るのが得意だった。

 どうしてこんな時間に来たのかとか、今までどうしていたのかとか、ふつうなら訊きそうな気がするが、まるで付き合っていた当時のように振舞っている。


 あの頃は前触れもなくもっと遅い時間にも訪れたりしたものだ。だのに彼女はいつも起きていて、コンビニに行けるくらいの格好はしていた。今日も薄手のトレーナーに細身のジーンズを身に付けている。ビールを2口ほど飲んで、何か料理を始めた彼女の後ろ姿をちらちら見る。


 ふと今年の夏に職場の仲間とディナークルーズに行ったときにふざけて絡み合って、スマホを海に落としてしまったことを思い出した。住所録のバックアップを取っていなかったせいで、大変な思いをして1件ずつ新たに登録した。だから、この彼女のような以前の知り合いで、付き合いがなくなっている人たちの番号はないはずなのだった。

 じゃあ、どうしてさっき彼女の名前があったのか、スマホを見てもさっき見た番号が登録されていない。発信履歴を見ても最新は昨日の19時47分、飲み会の場所を訊いた時のものだった。


 そんなホラーじゃあるまいし、何か故障だろうと思ってビールに口をつけていると、また思い当たった。彼女は酒を飲まない。だのになぜ買い置きがあるのだろう。ぼくがしょっちゅう来ていた時も一緒にコンビニに買いに行っていた。道すがらうれしそうに腕を絡めてくる感触がありありと蘇る。


「あのコンビニつぶれたのよ」と突然、後ろ向きのまま彼女が言った。

 抑揚のない声で言葉を続ける。

「表通りからちょっと入ったところだったでしょ? だからお客さん来なくて。あの愛想のいいおじさん、首吊ったのよ。お店で」


 何か逃げ場がないような気がしてきた。海に沈んでいくスマホが目に浮かぶ。髪の毛のような海藻が揺れていた。

 どうしてこの女はいつまでもぐずぐず料理を作っているのだろう。フライパンを動かしているみたいだけれど、まるで何かを煮込んでいるくらい時間がかかっている。

 その時、あっと思った。別れる時に決して許さないと言って…。

「さあ、できたわ。お待ちどおさま」

 女が振り返った途端、ものすごい臭いがキッチンから流れてきた。



   秋の野に 道もまどひぬ 松虫の


   声する方に 宿やからまし 

    


              よみ人しらず・古今和歌集

秋の野で道に迷ってしまった、松虫(=待つ虫)の鳴き声の方へ行けばわたしを待っていてくれる人がいて、宿を借りることもできるかもしれないといった意味でしょうか。具体的な女性に向けて詠んだと解釈した方がいいような気がします。

古くはスズムシのことを「マツムシ」、マツムシのことを「スズムシ」と呼んでいたって古文の時間に習いましたけど、どうしてこういう歌の松虫が実は鈴虫だとわかるのか不思議です。

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― 新着の感想 ―
[一言] あっ……主人公死んだ。タイトルにドンピシャであってる感じ好きです。
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