38話「生クリームと笑顔」
「まあ、いらっしゃい!どうぞー!」
「お邪魔します。あ、これ良ければ皆さんで召し上がって下さい」
「あらー、わざわざごめんなさいね、気を遣わせちゃって」
白川先輩の爽やかな笑顔に、明子さんも上機嫌だった。
そして白川先輩を先頭にして、大塚さんと会長も家の中に入って来る。
大塚さんは普段通りの澄まし顔だったが、会長はやたらと周囲をキョロキョロと見回している。
そんなに物珍しいものでもあったのだろうか。
「会長、何か気になることでもありましたか」
「えっ、あ、いや、他人の家にお邪魔することなんて中々無いから、つい色々見ちゃって」
そう言いながら、興味津々で玄関を見回す会長は何だかおかしくて俺は思わず吹き出してしまう。
それに釣られて他のメンバーも笑い出し、会長を怒らせてしまうのだった。
彼女にとっては一般家庭など、どんなものなのかすら想像も付かないのだろう。
こないだお邪魔した彼女の超豪邸が、それを物語っていた。
会長にとってはおそらく全く必要のない知識。
それでも新鮮な反応を示す彼女を見て、俺はやはりこの作戦を思い付いて良かったなと思うのだった。
「……それで、これからどうするのよ」
隣にずいっと寄ってきて、春菜は小声で囁く。
元はと言えば春菜から始まったアイデアなのだ。
彼女に、俺を責める権利はない、はず。
周りに聞こえないように、俺は妹に合わせて小声で話すことにする。
「…全然決めてないな。とりあえず、夏休みの宿題でも終わらせるか」
「…呆れた。あれだけ大々と‘合宿’やろうとか言い出して、何にも考えてないなんて」
「おいおい、俺ばっかり責めるなよ。ちゃんとお前も案を出して貰わないと困るんだからな」
事の発端は昨日まで遡る。
久しぶりに真白台との勉強会がない俺は、ゆっくりと惰眠を貪ろうとした。
そこに妹がノックもせず突撃してきて、急いで着替えさせられた挙句、炎天下のグラウンドまで連れて来られたのだ。
「何よ。別にわたしは何もしてないじゃん」
「いや、したね。あんな炎天下のグラウンドまで俺を引きずっていった癖に」
「それは倉田くんの試合があったからでしょ。日程を忘れてたお兄ちゃんが悪いじゃない」
あまりの正論に、反論するのはやめにした。
そう、昨日は海斗たちサッカー部の県大会予選だったのだ。
すっかりそのことを忘れていた俺は、よく出来た妹のお陰で何とか親友の勇姿を見逃さずに済んだわけだ。
そしてその会場で、聞いてしまったのだ。
会心のアイデアを。
「まあそれは置いておいて。とにかくだな、あの会場で俺は思い付いたんだよ。今の生徒会に足りないものをな」
「それってサッカー部の夏合宿のこと?でも、生徒会で夏合宿なんて聞いたことがないけど」
「だからこそ、なんだよ。俺たちはまだ知り合ったばかりだろ。だからこういう時はこの夏休みという期間を使って、合宿を行うべきなんだ」
何も部活だけが夏合宿をして良いってことじゃない。
最近じゃ塾だって、厳しいところでは夏合宿と銘打って泊まり込みで勉強させているくらいだ。
生徒会だって、夏合宿くらいあってもおかしくはない。
「…じゃあなんで、わたし達以外には‘泊まり’だってことは黙っているわけ。ちゃんと説明すれば良いじゃない」
「それはーー」
そこまで言って、俺は口を閉じる。
目の前の会長はいつも通り、天真爛漫で屈託のない笑顔を俺たちに見せてくれていた。
年上なのにそれを感じさせない魅力が、今の彼女にはある。
でも俺は知っている。
彼女が不意に見せた、あの笑顔に差す暗い影を。
おそらく、白川先輩も知っている。
でもこのままじゃ俺には何も出来ない。
勿論、それは当然のことだ。
ただの子どもが人様の家庭環境に口出しする権利なんて、あるはずがない。
それに俺自身、会長や彼女の父親のことをそこまで知らない。
感じているのはただの‘勘’に頼ったものだけ。
それでも、俺は少しでも会長が自然体でいられる環境を作りたいと思う。
と言っても、今の俺に出来るのことは少しでも父親の支配下から彼女を遠ざけることくらいだ。
だから今日も会長たちにはただの勉強会という名目で、俺たちの家に招待した。
「…それは、何よ」
「…その方が皆驚くだろ?サプライズってやつだよ」
「まあ、お母さんたちには言ったから、もし泊まりになっても大丈夫だとは思うけど」
上手くいくかは分からない。
でもただ手をこまねいて、見ているだけなのはもうやめたのだ。
死に戻りしたあの日から、少しでも後悔が残らないように行動すると、そう決めたのだから。
「――よし、休憩にしましょうか」
「こんなに勉強したの、久しぶりだー!」
「会長はもう受験生なんですから、これくらいはやって当然です」
「ええっ…。そんなことないよね、英?」
「少しずつ慣れていこうか、会長」
「英までそんなこと言うー!」
文句を言う会長は、言葉とは裏腹に楽しそうに笑う。
お昼ご飯も、明子さん特製の炒飯を美味しそうに食べてくれていた。
そういえば白川先輩が言っていたが、会長は意外とジャンクな物が好物のようだ。
5人と言う人数は俺の部屋では少し狭いが、こういう勉強会は意外と密集していた方が楽しかったりする。
現に会長たちもすっかり家に馴染んでリラックスしてくれているようだった。
「あ、俺ちょっとトイレ行ってきます」
その様子を確認した後に、俺はそそくさと部屋を後にして、台所へと急ぐ。
そして今日開店と同時に購入してきた箱を持って、部屋へと急ぐ。
果たして喜んでくれるだろうか。
少し緊張しながらも、扉を開けて‘それ’を机の中央へ置いた。
「よし、頑張ったんでオヤツにしましょう!さ、どうぞ会長好きなやつを選んでください」
「あ、これ…」
会長は驚いた表情をして目の前の箱、正確にはその中に入ったたくさんのドーナツを見る。
これはこないだのリベンジマッチだ。
悲しい思い出なら、楽しい思い出に上書きすれば良い。
「こないだは、その、会長が食べれなかったと思うんで、今日はたくさん買って来ました。今度こそ、皆で食べましょう」
「薫くん……」
会長は少し潤んだ瞳で俺を見つめて来る。
良かった、喜んでくれたようだ。
これでまずは前回のリベンジ成功だ。
自分の好きな物を、好きなように食べられないなんてやっぱりおかしいと、俺は思う。
会長にだってそれくらいの権利――
「――私、生クリーム苦手なんだ」
「さあ、遠慮せずに……なんですって」
「ああ、言ってなかったけど会長はなんでか生クリームは苦手らしいんだよね」
予想外の返答に思わず固まる俺に、白川先輩がすかさず補足説明という名の追い討ちを掛ける。
おいおい、そんなの聞いてないぞ。
じゃあ今、会長が潤んでるのは感動したんじゃなくてーー
「はぁ、貴方も生徒会の一員なら、会長の好き嫌いくらい把握して然るべきでしょうに」
「…お兄ちゃん、ダサい」
「あ、あのなぁ…」
あからさまにへこむ俺に、更なる追い討ちをかけて来る同級生と妹。
こいつらには血も涙もないのだろうか。
というか春菜は少なくとも絶対に会長が生クリーム駄目だって知らなかっただろうが。
しかし事実は事実だ。
とりあえず箱にある内半分くらいは、生クリームが使われたドーナツなのだから。
ここは素直に会長に謝っておくべきだろう。
「か、会長すいません。俺、知らなくて…」
「…あはっ」
「え?」
「あ、あはは!面白いね、薫くん!あはは!」
しかしそんな俺を気にすることなく、会長は楽しそうに笑い出す。
本当に楽しそうに、純粋な笑顔で笑っていた。
「…はは、会長が楽しそうなら、それでいいんじゃないかな」
「あ、ああ、そうですねーー」
「じゃあ、いただきまーす!」
「って会長、それ生クリーム!」
俺の制止も間に合わず、会長は最初に手に取っていた生クリームたっぷりのドーナツを思いっ切りかじってしまった。
そしてやはり苦手なのか、すぐに微妙な顔をして、口を開く。
「……美味しい」
「いやいや!無理しないでくださいよ!ちゃんと生クリームが入ってないのもーー」
「ーー美味しい。本当に、美味しいよ。ありがとう」
「……会長」
絶対に苦手なドーナツの筈なのに、会長は嬉しそうにそう言った。
一体彼女が何に対してお礼を言ったのか、俺には分からない。
でもそのときの会長は、心の底から嬉しそうだった。
「よし、僕たちもせっかくだし頂こうか。四宮くんの奢りだしね」
「まあ、休憩中の糖分の摂取は疲れた脳細胞をーー」
「…大塚さん、やっぱり変わってるよね」
そして白川先輩の一言で、今度こそ皆でドーナツを囲む。
そこにはこの前にはなかった、秋空紅音の笑顔が確かにあった。




