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最終章

 東京都心、オフィスビルが立ち並ぶビジネス街。

 スーツを着た大勢の人々が足早に横断歩道を渡り、せわしなく行き交う。

 当たり前の日常は突然終わりを告げ、混沌が世界を支配した。

 高層ビルの屋上で青年が左手を空へ向け、二つの巨大な魔法陣を投射する。一つは漆黒の、もう一つは純白の紋章だった。

 黒の刻印ははるか下の道路へと吸い寄せられるように移動していき、白の刻印は天まで昇ろうとするかのように高く高く舞い上がっていく。

 そして次の瞬間、融和派の計画は最終段階へと入ったのだった。

 地からは黒い光が柱となって噴き出し、天からは白き光の奔流が降り注ぐ。

 黒と白の輝きは青年の眼前、ビルよりもやや上の座標でぶつかり合った。その隣接点から、異界からの使者が大挙して現れる。

 漆黒の柱からは、冥界の住人たちが姿を現した。悪魔、堕天使、ゾンビ、ケルベロス、キメラ、ガーゴイル―考えられるありとあらゆる種類の闇のものが、パンドラの箱を開けたように一斉に溢れ出す。あるものは翼を広げ地上へ降下し、またあるものは猛スピードで柱を駆け下る。高位の悪魔は口から火炎を吐いて街を焼き払い、堕天使らは目から放つ熱線でビルを両断する。

もはや、街はその機能を停止していた。混乱し怯え、逃げ惑う人々へ、地上を闊歩する腐敗した死体たちが襲いかかる。地獄の番犬もそれに加わり、獲物の喉笛に喰らいついた。至る所で悲鳴と絶叫が轟く。まさに地獄絵図だった。

純白の柱からは、光に包まれた天使たちが顕現した。白い翼を生やし同色の衣を纏ったそれは人のかたちをしていた。けれども身長は三メートルほどもあり、手に構えた武具も相応に大きい。弓、剣、戦斧、錫杖と、構えている武器は一人一人異なっていた。翼と衣の色以外は堕天使と似ているが、天使たちの顔つきには人間らしさが残っている。彼らこそが、冥界術の行使する魔術師に力を貸し与えている天界の神々であった。

しかし、術により強制的に召喚された彼らは自我を失っていた。人の営みを見守り、必要があれば手を差し伸べる。本来の使命を忘れた天使たちは破壊の権化となり、闇のものたちと共に世界を破滅へと導いた。自動的に次の矢が装填される聖なる弓を構えたのは、狩猟を司る神、アルテミス。「アルテミス・アタック」の魔法を授ける存在だ。

アルテミスが放った何本もの矢が、そびえるビル群を次々に射抜き、粉砕する。翼を羽ばたかせて滑空した軍神アレス、海の神ポセイドンが斧と剣を振るい、人々へ斬りかかった。彼らに続き、他の神々も果てしない殺戮に加担していく。

世界は、二条の思惑通りに塗り替えられていこうとしていた。


 必死で逃げる人たちの流れに逆らい、杉本は三人の弟子を率いて現場へ急行した。交通網が麻痺しているため、「アレス・アタック」を使った跳躍を繰り返すかたちで向かう。もちろん、他の穏健派の魔術師たちも同様に向かっていた。

 マスコミが流している速報の映像を見る限り、魔術による攻撃であることは間違いなかった。それも、見たこともない魔術だ。

 いや、正確にはそれは違う。類似した魔法を、高木たちは目撃したことがあった。

 過激派の掃討作戦が行われたとき、彼らの立てこもっている式場から突如黒い光が柱となって噴き上がり、そこから魑魅魍魎が現れた。今回使われている魔法は、あのときのものとよく似ている。ただし違うのは、光の柱の直径が前よりも数倍大きいことと、黒だけでなく白の柱までもが姿を見せていることだ。現場から数キロ離れた現在地からでも、くっきりと輪郭が捉えられる。

 屋根から屋根へ飛び移り、高木らはようやく柱まであと一キロほどに達した。穏健派の魔術師も続々と到着し、中には見たことのある顔もある。だが、それ以上先に進むのは容易ではない。

 片側四車線の道路いっぱいに溢れた異形のものたちが、行く手を阻んでいたからだ。

「何て数だ…」

 杉本は唇を噛んだ。

 後方にいる皆を振り返ると、七賢人の面々はまだ到着していないようだった。どうやら、実質的にこの場で最も階級が高い魔術師は彼であるらしい。つまり、指揮を執る権限があるということでもあった。

 柱のすぐ側、遠くの高層ビルに目をやる。そこだけは全く破壊の痕がなく、術を行使している魔術師はそこにいると思われた。

 こうしている間にも、二つの光の隣接点からはさらに多くの怪物が現れている。

 杉本は皆を見回し、険しい表情で言った。

「一刻も早くここを突破し、術者を無力化するぞ。これ以上、被害を拡大させるわけにはいかん」

 賛同の声が次々に上がり、強大な敵に怯みかけていた魔術師たちの士気が再び高揚する。

「前側にいる者は、敵を牽制しつつ前進。数が多過ぎるため、全てを倒し切る必要はない。ともかく、術者の元へ辿り着き倒すことだけを考えてくれ。後ろの者は遠距離から彼らを援護しろ」

 高木を一瞥し、指示を出す。

「高木は使い魔を呼んで、空の敵に対処してくれ」

「はい」

 高木は頷き、紫の魔法陣を展開した。現れた悪魔をかたどった巨大な石像が、翼を震わせて宙に浮かび、使役者へ視線を向ける。

(―小僧、一体何がどうなっている。俺も長い間生きてきたが、こんな大規模な召喚術を見るのは初めてだ)

「正直、俺にもよく分からない。とにかく、こいつらを片付けないとやばいってことは確かだ」

 小声で答えると、ガーゴイルは腕が鳴る、とばかりに咆哮を上げた。空気が震えるほどの迫力に、ゾンビやキメラの集団が一瞬足を止めおののいたように見えた。

「―私も力を貸すわ」

 そのとき、廃墟となったビルの横の路地から「威」が姿を見せた。

心強い助っ人の参上に、勇気づけられない者はいなかっただろう。先日魔法協会が攻撃を受けた際に、彼女の実力は存分に示されている。それに、高木の負った傷を治療してくれた借りもあった。

穏健派も過激派も、今となっては関係なかった。世界を蝕む悪を倒すため、共に戦う。ただそれだけだった。

「威」の呼び出したケルベロスの群れが、魔術師たちの前に並ぶ。

「雑魚の足止めは、私とこの子たちに任せて」

「…分かった」

 杉本は短く応じ、マジック・ウォッチの装着された左手を前に出した。それに呼応し、後ろに立つ高木たちも戦闘の構えを取る。

「行くぞ!」

「おう!」

 杉本の掛け声に続き、鬨の声が上がる。地獄の番犬たちが怪物の大群に果敢に飛びかかり、噛みついて身動きを封じた。前列の魔術師たちが一斉に走り出し、稲妻や火炎弾を繰り出して敵を退けながら道を切り拓いていく。

 後列で待機していた高木は、徐々にこちらへ接近してくる一体の天使に気づき目を細めた。右手に握った斧を振り上げて降下し、先行した魔術師たちに襲いかかろうとしている。

(…させるか!)

 ガーゴイルに念を送り、魔像が唸り声を上げて天使の元へ飛翔する。

 隣では、北野と篠崎が魔法を放ち前方の者たちを援護している。幾度となく一緒に戦った彼女たちの背中は、とても頼もしく見えた。

 信じられる仲間たちがいれば、何でもできる気がした。

 状況は決して芳しくなく、絶望的といってもいいくらいだ。それでも高木は、絆の力と可能性を信じ戦い続けた。


「―ギイッ!」

 ガーゴイルを操り、数体の天使を石化して倒した直後、死角から奇怪な叫び声が飛び込んできた。

 反射的に屈み横に転がった高木の頭上を、鋭い爪が一薙ぎする。冷や汗が噴き出した。魔法が飛び交い爆音が響き渡る中、危うく敵の威嚇音を聞き取れないところだった。気がつくのがもう少し遅ければ、首元に爪を突き立てられていただろう。

 小さな羽を生やした悪魔は静かに路上に降り立ち、金属質な鳴き声を上げて獲物へ向き直った。

 高木は立ち上がり体勢を立て直すと、冥界術の使用を中断した。同時に「ポセイドン・アタック」を発動し、左手の先に形成した魔法陣から氷柱を弾丸のように連続で撃ち出す。悪魔は躱そうとしたがそのうちの一本が心臓部に刺さり、やがて倒れたまま動かなくなった。

「…大丈夫でしたか、先輩」

 右隣のやや離れた位置から火球を放っている篠崎が、少しだけこちらに顔を向けて囁いた。先ほどの悪魔の攻撃に気づけなかったのを悔いているのか、心配そうな声音と申し訳なさそうな声音が入り混じっていた。

「ありがとう。俺なら大丈夫だ」

 小声で応じると、篠崎がほっとしたように表情を緩める。二人はまた前を向き、攻撃に専念した。

 再度ガーゴイルを召喚し、戦況を整理してみる。

 魔術師たちは一歩も引かずに応戦しているが、やはり多勢に無勢。数十メートルほど進んだ地点で停滞し、彼らを包囲しようと迫ってくる怪物の群れへの対処に追われている。後方からの魔法による援護射撃は絶えず行われているが、このままでは魔術を行使し続ける魔術師の体力がもたないかもしれない。今では七賢人ら他の魔術師も駆けつけている―けれども、これ以上の増援は望めそうになかった。

(くそっ…どうすればいい⁉)

 遠距離の敵への攻撃手段をもたないガーゴイルでは、相手を一体ずつ、せいぜい二三体ずつ倒していくのが精一杯だ。光の柱から次々と湧出する異世界の者たちを相手に戦い続けるのは、あまりにも苦しい。事実、さっきだって討ち漏らした敵の不意打ちを受けたのだから。

(それでも、俺にできることをやるしかない)

 そう思い直し、遠くに浮かぶ中型の悪魔に向かって使い魔を突進させようとしたときだった。

「…この期に及んでまだ悪あがきをするか。穏健派の連中は健気なものだ」

 高木たちが魑魅魍魎を食い止めている遥か後方、比較的建物の被害が少ないエリアから、黒のプロテクターを装着した魔術師たちが姿を見せた。隊列を組んで進む、アレスプロテクターを纏った大勢の男女。その先頭に立つ二条智宏は、薄ら笑いを浮かべて高木たちを眺めていた。その後ろには同じくアーマーに身を包んだ「覇」、それに痩せた坊主頭の男が控えている。前回魔法協会を襲い松宮を殺害した、藤原と名乗る男だった。

 全く気配を感じなかったことを踏まえると、おそらく高木の知らない何らかの隠形系魔法を使ってここまで接近していたのだろう。

 他の魔術師たちも徐々に融和派の乱入に気づき、陣営は動揺していた。

 両勢力の距離は、今やたった数メートルほどになっていた。

「最後くらい、ゆっくり話をしてみるのも悪くはない」

 二条は悠然と呟き、口の中で呪文を唱え左手を軽く振った。空間を操る高度な術が発動され、空気が揺らぐ。

 直後、前線で戦っていたはずの魔術師たちが高木らの眼前に瞬間移動していた。その中には杉本や「威」もいる。

「やはり生きていたか…二条智宏」 

 必死で敵を倒し進んでいた努力を無にされた苛立ちを隠さず、杉本は吐き捨てるように言って二条を睨んだ。二条が悪びれずに答える。

「当たり前だ。私がそう簡単に死ぬはずがないだろう」

 そこで高木はようやく、異変に気づいた。異形のものたちの攻撃が止んでいる。彼らは魔術師たちには見向きもせず、別の方向を目指して移動を開始していた。

「…我々を囲むように結界を張っておいた。外の怪物たちは我々の存在を認知できない。まあ、十分少々しかもたないがね」

 付け足すように言った二条に、「威」が眉をひそめる。

「何故そんな真似をしたの?私たちを倒したいなら、別にあなたたちが手出しする必要はないと思うけれど」

 彼女の呈した疑問には、高木も同感だった。光の柱から現れる怪物たちに任せるのではいけなかったのだろうか。

「君たちを倒したくないわけではないが、我々の最終目的はそこではないのだよ。ともかく、光の柱の元にいる術者のところへ君たちを行かせるわけにはいかない」

 出来の悪い生徒に言い聞かせるような口調で、二条は言った。

「…一体、お前たちの狙いは何なんだ」

 高木が鋭く問い詰めても、彼は全く動じなかった。それどころか、自信ありげな笑みさえ浮かべている。

「―人間は堕落した存在だ。ゆえに滅びるべきである。それこそが真の調和であり、あるべき姿。我々は、それを実現させたいと願っている…天界と冥界、そして地上を魔術によって繋ぎ、やがては神々と邪悪なるものたちの最終戦争によって全てを終わらせることによって」

 まるで聖書の一節を読み上げるように、二条はよどみない口調で語った。

「…何なの、それ。頭おかしいんじゃないの」

 左に立つ北野が漏らした。意に介さず、饒舌になった二条は続けた。

「…だが、普通の魔術師がそんな複雑な術を使い異界との接触を図っても、体力の消耗が激しく長くはもたない。その点は過激派のリーダーだった黒田が証明済みだ…自身を犠牲にしてな」

 当然、「威」が反応しないはずがなかった。血の気が引いた表情で、彼女は言った。

「まさか。黒田様にあの術式のデータを渡したのは…」

「あのときは、どうしても術式の実戦データが欲しくてね。悪いが彼には実験台になってもらった。ま、データ収集が終わり次第、私自らが始末したのだがな」

 黒田を殺した犯人は自分だと明かしながら、二条は一切の良心の呵責を見せなかった。絶句し肩を震わせている「威」をよそに、彼は穏健派の魔術師たちをぐるりと見渡した。

「話を戻そう。…そこで我々は、長い年月をかけて準備を重ねることにした。まず、過激派と穏健派双方を陰でバックアップし対立をエスカレートさせることで、魔術の使用データを収集した」

 高木たちは皆、明かされる真実を前に呆然としていた。正義を信じ、それぞれが懸命に戦ってきた。命を散らした者も少なくはない。これまでに払った犠牲は、全て無駄だったというのか。融和派の手のひらの上で踊らされていたというのか。

「…両勢力にマジック・ウォッチの技術を提供したのは、二つの理由があった。一つは、より戦闘に特化した魔法を開発させて戦いを激化させるため。もう一つは、術式の多重展開が可能な新型のデバイスを開発するために必要となるデータを集めるためだ。『ヘブンズ・コネクト』と『ハーデース・コネクト』を同時に発動するには、さらに高性能のマジック・ウォッチが不可欠だったのでな」

 二条は左手を掲げ、太い手首に巻かれた銀色の腕時計型デバイスを見せつけるようにした。計画の要となる新型マジック・ウォッチは量産化にも成功したらしく、彼の後ろに控える融和派の構成員は全員がそれを身につけている。

おそらく、新型デバイスとアレスプロテクターは敵勢力の排除が容易になるように作られたのだろう。以前「覇」と交戦したとき、彼の身につけていた黒いアンダースーツが「ハーデース・アタック」のレーザー光を反射したことを高木は思い出した。やはり、あれは例のプロテクターの試作型だったのだ。過激派といずれは対立することを最初から想定していて、対冥界術用の武具として密かに開発を進めていたのだろう。もちろんその武装は、穏健派の魔術師に対しても十分強力である。

「術式を発動するデバイスの問題はこれで解決するが、問題は術の行使に耐えうる高い適性をそなえた魔術師を用意できるかどうかだった。我々は議論を重ね、一つの結論に辿り着いた」

「…それが、人造魔術師計画だったってわけか」

 静かに問うた高木に、二条は鷹揚に頷いた。

「その通り。優れた魔術師たちの遺伝子を部分的にコピーし、私たちは人類史上最も魔法への適性が高い人間を生み出した。それが倉橋烈、私の愛しい息子だ…もっとも、遺伝子組み換えで多少の肉体的問題が生じたのは事実だがね。魔法の連続使用に耐えられない虚弱体質で、寿命も普通の人間の半分くらいしかない。とはいえ薬物投与でだいぶ改善したし、君の遺伝子を取り込んだことで平均を上回る身体能力を身につけることにも成功した―」

「ふざけるなよ」

 話を遮り、高木が叫んだ。思わず、声を荒げていた。

「あんたは、あいつが術式を使ってボロボロになるのを見て何とも思わないのかよ!倉橋はあんたのことを良い父親だと思って、尊敬して、いつも慕ってて…あんたのやってることが正しいと信じて疑ってないんだぞ!」

 初めて会ったとき、倉橋は二つの術を併用しようとして体力を消耗し、倒れてしまった。二回目に会って攻撃されたときも、終始高木を圧倒したものの最後はスタミナが限界を迎えて隙ができてしまっていた。どこか儚げな印象を受けたのは、きっと美しい外見だけによるものではないはずだ。二条は、倉橋が平均を上回る身体能力を身につけたと言った。それを信じるのだとしても、彼にあの莫大な威力をもつ二つの術式を使わせ続けるのはすなわち、死を意味している。

「いずれにせよ、我々の計画が発動すれば全ての人類は死に絶える。それならば、敬愛する父の役に立って死んだ方が烈も幸せだろう」

「お前…っ」

 表情一つ変えずに述べた二条に殴りかかりたい衝動を、高木は必死で抑えた。一方、二条はもう高木への興味をなくしたようで、隣にいた北野へ視線を向けた。

「もしかして君は、北野文恵の娘か」

「…どうして、母さんの名前を」

 警戒を露わにした彼女に、二条は冷たい笑みを見せた。

「君の母親の遺伝子も、烈の中に取り込まれていることを思い出しただけだよ」

 それを聞いた瞬間、冷静さを保っていた北野の中で何かが崩れた。指先がわなわなと震える。

「過激派との抗争で、たくさんの魔術師が死んだ…その遺体処理を手伝うのを装い、随分と多くの血液サンプルが採取できた。君たちが『正義』のために死に物狂いで戦ってくれたおかげで、我々は楽をすることができた」

「母さん…」

 北野は誰に対してでもなく呟いた。小学校中学年だった頃に母を亡くした悲しみは、今もまだ完全には消えていない。母の死とともに笑顔の消えた家庭が当たり前になってしまった今では、いつも母親と過ごしていた幼い頃は北野にとって宝物のような時間だった。その思い出を蹂躙され、引き裂かれたようで、北野は我を忘れて喚いた。

「…あんたたちが母さんを殺したんだっ」

 苦い過去が脳裏に蘇る。下校する少し前学校に電話があって、病院に来るよう父から言われたこと。切羽詰まった声色にただ事でないと感じて病室に向かい、着いたときには母はもう息絶えていたこと。

「よくも…よくもっ」

「北野、落ち着け」

 今にも掴みかからんばかりの彼女の肩に手を置き、側へ近づいた杉本が言う。

「俺たちは皆、大切な人を戦いの中で失ってきた。全ての元凶だった融和派を憎む気持ちは、皆同じだ…焦るな。あとで必ず、仇は討つ」

「…すみません」

 俯いた北野の目からは、涙が零れ落ちていた。

 二条は続けて、篠崎にも目を向けた。

「篠崎華燐…君の父親の遺伝子情報も烈に取り込んである。死にぞこなったのは残念だったな」

「なっ…」

 篠崎は硬直した。毎日のように見舞いに行き、日々の出来事を一生懸命に話して聞かせている父。植物状態になりずっと意識がない父だが、いつか回復することを祈って、父の好きそうな花を持って病室に足を運んでいた。その父を死にぞこない呼ばわりされて、悔しくて、恥ずかしくて、どうしようもなかった。

「…そして、高木賢司」

 二条は再び高木へ視線を向け、にやりと笑った。

「君の母―高木穂香といったか―の遺伝子を採取しておかなかったのは実に失策だった。彼女を始末したとき、ついでに血液を抜き取っておくべきだったよ。君と同等に高い適性をそなえている魔術師だと知っていれば、手間を惜しまなかっただろうがね」

「…始末した?」

 高木は表情を消して、聞き返した。嫌な予感がした。

「君の実家は京都だったな。我々の本拠地ともほど近い。高木穂香は過激派へ送るための支援物資を私の部下が運んでいるところを偶然目撃し、我々の計画の一端を知った。…だから始末させたのだよ、過激派の仕業に見せかけてな」

「…そういうことじゃないかと思ったぜ」

 口では平静を装おうとしつつも、高木は内心怒りを爆発させそうだった。母の意志を継いで今まで戦ってきたつもりだったのに、その母を殺した相手に知らぬ間に利用され続けていたとは。感情を何とかコントロールすべく、右の拳を強く握り締める。

 二条は他の穏健派の魔術師の顔も見回したが、ぱっと顔を思い出せる相手はいなかったらしい。一体、何人分の遺伝子を倉橋に取り込んだというのだろうか。

「―救いのときは来た。今の烈なら、数時間程度天界と冥界の接続を維持できるだろう。それだけあれば、人類を滅亡させるのには十分すぎる…この術式は冥界術とは少し異なり、異界とのゲートが閉じても召喚した魔物は消滅しない。自我を取り戻した彼らは互いを敵と認識し、闇と光の軍勢が激突する。その戦いに巻き込まれて人類は死に絶え、あとには混沌のみが残る。私の望む真の平和が完成するのだ」

 二条が語っている間にも、光の柱からはますます多くの異形の怪物たちが飛び出してくる。その中には飛行能力をもっているものも多数おり、黒い翼を羽ばたかせた堕天使や悪魔が群れを成して飛び去っていった。天使たちもそれに続く。恐るべき速度で飛翔する異界のものたちは、あっという間に視界から消え去った。

「術を発動している烈を止めない限り、怪物どもは無限に現れる。世界に安寧が与えられるのを阻止したければ、やってみるがいい…ただし、我々が君たちを行かせるはずがないがな!」

 それを合図にしたように、それまで沈黙していた融和派の魔術師たちが二条を守るように前に出た。黒のプロテクターを装着した、屈強な男たちが並び立つ。

 そのとき、不意に風が吹き込んだ。

 術の有効時間が切れ、結界が解かれたのだ。魔物たちはまだこちらに気づいていないようで、高木たちがいるのとは逆方向へ進軍している。

 チャンスだ、と高木は思った。結界が解かれた直後の今なら、倉橋がいるあのビルへ接近するのは先ほどまでと比べ容易であるはずだった。ガーゴイルの力を借りれば、目的地までさほど時間はかかるまい。使い魔を操れる自分だからこそ、できることでもあった。

 だが、同時に迷いもあった。融和派は自分の母を手にかけた仇だ。いや自分だけではない、篠崎や北野、多くの魔術師に苦難と絶望を与え続けてきた諸悪の根源なのだ。その因縁の相手との戦いを仲間に任せて倉橋を倒しに向かうのは、許されることなのか。母親の仇を討つべきではないのか。

 それに、倉橋烈に挑んで勝算はあるのか。あの術を行使し続けているせいで多少なりとも消耗している状態には違いないが、前回よりも身体能力が大幅に向上したと二条は言っていた。彼を倒し術を止めさせるだけの力が、自分にはあるのか。

 鬨の声を上げて一斉に襲いかかってくる、融和派の魔術師たち。強化された脚力で一気に距離を詰め、スピードに任せた攻撃を仕掛けてくる。そのうちの一人は、高木にも飛びかかってきた。

(…やるしかない)

 加速魔法を使って相手の放ったジャブを躱し、高木は結論を出した。

(母さんは融和派の計画に気づいていた―二条はそう言っていた。なら、それを止めることが母さんの意志でもあるはずだ)

 体を低く沈め、「アレス・アタック」をさらに発動する。

(犠牲になった人たちの無念は…仲間たちがきっと晴らしてくれる!)

 突き上げた右拳が男の胸にヒットし、呻いた男がのけぞり、後退する。さらに脚部に雷撃を命中させて動きを封じると、高木はそれ以上ダメージを与えることはせずに敵に背を向けた。

 あちこちが陥没し抉られた道路を蹴ってひたすらに走りながら、相棒の魔像を呼び出す。横に並ぶようにして低空飛行する石の悪魔は、今では頼りになるパートナーだった。

(あのビルまで乗せてくれ)

(―よかろう)

 結界が張られてしばらく外界と遮断されていたためであろう、また思い切り暴れられるとばかりにガーゴイルは大きく吠えた。

 咆哮を聞き、やや離れた位置を闊歩していた魔物たちがようやくこちらに気づいた。ゾンビたちが腐りかけた両腕をめちゃくちゃに振り回し、奇妙な叫び声を上げて突進してくる。

 隣に着地したガーゴイルの背に飛び乗り、高木は屍たちを振り切って飛び立とうとした。

「待って下さい!」

 しかし、予想外に投げかけられた声に使い魔を制止する。振り向くと、篠崎が息を切らしてそこに立っていた。その瞳は、強い意志をたたえている。

「…私も、一緒に行きます」

「篠崎…」

 高木は一瞬驚いたような表情を浮かべ、すぐ笑顔をつくった。篠崎も、はにかむように微笑む。

 そのとき、二人の間を一筋の雷撃の槍が通り過ぎ、集団の先頭にいたゾンビらを貫いた。腐った死体たちは将棋倒しになり、直撃を受けたものからは肉が焦げるつんとした臭いが立ち昇る。

「―何でも一人で背負い込もうとするの、あんたの悪い癖だよ」

 後方から歩いてきた北野が、ふっと笑って言った。もう、涙の跡は残っていない。

「あたしたち、同じ師匠に鍛えてもらった仲間じゃない」

「…悪かったよ」

 高木は頭を掻き、苦笑した。ガーゴイルの方を向き、心の中で呼びかける。

(三人乗っても大丈夫か?)

(―問題ない)

 巨大な魔像は鼻を鳴らし、軽く頷いた。屈みこみ、早くしろと急かしてくる。

 高木がその背中の中央に、右隣りと左隣に篠崎と北野がそれぞれ乗る。ガーゴイルが石の翼を力強く震わせ、徐々に高度を上げていく。

 目的のビルの屋上と同程度の高さまで上昇すると、ガーゴイルは一直線に飛んだ。冷たい風が強く吹き付け、高木たちはしっかりと背にしがみついた。

(待ってろ、倉橋…お前は俺たちが止めてみせる!)

前を見据え、高木は仲間と共に戦う決意を新たにした。三人の若き魔術師たちを乗せて、ガーゴイルはさらに速度を上げた。


三人の前に立ちはだかったのは、一体の悪魔。身長は二メートルを超え、上級に位置する大型のものだと思われる。牛に似た角と猛禽類を想起させる羽を生やし、全身は羊のようにもこもことした毛皮で覆われている。筋肉質な太い腕を広げ、悪魔はビルを守るように行く手を塞ごうとした。

ガーゴイルの背中に右手をついたまま、高木がマジック・ウォッチを装着した左腕を大悪魔へと向ける。北野と篠崎も、ほぼ同時にそれに倣った。

『ポセイドン・アタック』

『ゼウス・アタック』

『アポロン・アタック』

 氷の弾丸、稲妻の槍、灼熱の火球を顔面に喰らい、悪魔が苦痛に吠える。ガーゴイルは体を捻り、その脇をさっと通り抜けた。

すれ違いざまに尾を一振りし、下方向に思い切り叩きつける。悪魔の絶叫が轟いた直後、はるか下の道路にその巨体が激突し、衝撃音が響いた。

高木はガーゴイルに念を送り、一旦高度を下げてビルの反対側、光の柱のない側に回り込むよう指示した。際限なく溢れ出てくる異界の怪物たちとまともにやり合っては、勝ち目はない。今のような避けられない戦闘は除くが、不要な戦いは避け、なるべく体力を温存しておく必要があった。

はたして三人は摩天楼に辿り着いた。高層ビルの屋上の柵、そのすぐ側でガーゴイルが飛行を止め、ホバリングする。背中から降り立った高木たちの視界に、こちらに背を向けて立っている一人の青年が入った。銀色のデバイスを巻き付けた両手を前に伸ばし、光の柱を維持し続けている。

篠崎と北野は、彼と会うのはこれが初めてだ。けれども高木は違う。後ろ姿を見ただけで、彼だと確信した。

「…術式を使うのをやめろ!倉橋烈!」

 倉橋はゆっくりと振り返った。ただし術の発動を中断することはなく、両腕は下ろしたものの彼の背後に屹立する黒と白の輝きの束は消えなかった。

 先がややカールした癖毛。鼻筋の通っている整った顔立ち。病的に白い肌。ほっそりとした女性的な体。全ての要素が現実離れした美しさを放っている。真っ白なシャツは、汗でぐっしょりと濡れていた。術式を連続で行使し、やはり相当体力を消耗しているようだ。

「嫌だ」

 簡潔だが、断固とした拒絶だった。そこには、相手の意見を即座に撥ねつける奇妙な威圧感があった。さほど強い口調でもなく、声を張り上げているわけでもない。それなのに、得体の知れない凄みが倉橋の言葉から、全身から滲み出ていた。高木の横で、篠崎が僅かに体を強張らせた。

「これは父さんの命令なんだ。父さんは僕を造ってくれた。父さんの計画がなければ、僕はこの世にいなかった…だから僕は、父さんから受けた恩に報いなければならない」

 不自然なほどにこやかに笑って言った倉橋に、高木は静かに問うた。

「二条の理想に従うことが、お前がやらなきゃならないことだっていうのか。あいつは、お前がその術を使い続けてどんなに傷つこうが何とも思ってないんだぞ。そんな奴の言いなりになる必要があるのかよ」

「父さんのことを悪く言うな!」

 噛みつくように倉橋が言い返す。さっきまでの笑みは一瞬で消し飛び、殺気さえ漂わせていた。

「父さんの目指す世界を完成させることが、僕が今ここに存在している理由なんだ。唯一にして、絶対のね」

「…違うだろ」

「?」

 声を震わせていた高木を、倉橋は無垢な子供のようにあどけない疑問の表情を浮かべて見つめた。

「…お前にだって、父親に縛られず自由に生きる権利があるはずだろ!二条のやってることは間違ってる。あいつの間違いを正してやるのが、息子であるお前が為すべきことじゃねえのか!」

 高木はその瞳を正面から見つめ返し、思いの全てをぶつけた。

 対して倉橋はぽかんと口を開け、呆然としていた。高木の言葉を漏らさず聞き取ったにもかかわらず、内容が頭に入っていないような風であった。

 否、無意識下でそれを受け入れるのを拒んでいたのか。

 異形の魔物たちが破壊の限りを尽くし、遠くから絶え間なく聞こえる爆発音。人々の悲鳴。いくつもの建物が崩れる音。そうした無数のノイズと高木の呼びかけ全てから自己を隔絶させるかのように、倉橋は両手で耳を塞ぎ、喚いた。

「煩い…煩い煩い煩い!父さんのことを侮辱するのなら…僕の視界から消えろ!」

 そして、真っ黒なズボンのポケットから黒い小さな立方体を取り出した。サイコロくらいの大きさだった。

「『アクティブ』」

 倉橋が短く言うと同時、立方体が光を放ちながら膨張した。無数の細かいパーツへと別れたそれは次々に彼の肉体へと張り付き、身体能力拡張スーツ「アレスプロテクター」となった。厚く頑丈なアーマーを装着し終えた倉橋が、高木たちに残忍な眼差しを向ける。獲物を見る目だ。

 そうか、と高木は今になって理解した。融和派は、単に魔術師の能力を底上げするためにアレスプロテクターを開発したのではない。その真の目的は、虚弱体質である倉橋烈の肉体を強化するための、補助アイテムとするためだったのではないか。

 話し合いで片が付いてほしいと願っていたし、できることならば彼とは戦いたくなかった。しかし、もはや衝突は不可避であった。

「そっちがその気なら仕方ない。お前を止めて、融和派の野望も阻止する」

 高木が倉橋へ、挑むように視線をぶつける。

 ついに、最後の戦いが幕を開けた。


(ガーゴイル、先手必勝で行くぞ!)

(―皆まで言うな!)

 冥界術に頼りすぎるのは本来好ましいことではないが、相手が相手だ。出し惜しみは一切している余裕がない。最初から全力を出し尽くすのみだ。

 十メートルほど上昇してから勢いよく急降下したガーゴイルの突進攻撃を、倉橋は腕を伸ばしたまま悠然と見つめていた。

『ハーデース・アタック』

 倉橋のマジック・ウォッチから巨大な紫の紋章が投射され、そこから悪魔をかたどった魔像が姿を現す。外見も体躯も、高木の操るガーゴイルと全く同じだった。

「…何⁉」

 これには、高木も動揺を隠せなかった。 

 二体目の石の悪魔は倉橋を庇うように前に出ると、ガーゴイルの突進を受け止めてみせた。高木の使い魔の両手を強い力で掴み、がっちりと組み合っている。双方の力は互角のようで、両者ともに一歩も引かない。

「君の遺伝子を取り込んだことで、僕も冥界術を使えるようになった。今の僕は、君の力を完全にコピーしている…そんな攻撃じゃ僕を倒すのは不可能だ!」

 高らかに言い、倉橋は左手を高木に向けて照準を合わせた。新型デバイスは術式を多重展開できるため、前に使っていた魔術をいちいちキャンセルする必要がないのだ。使い魔の存在を維持したまま他の魔法を使うことも、もちろん可能となる。

 撃ち出されたレーザー光線を、高木は横に跳んで躱した。着地と同時にガーゴイルの使役を中断し、歯噛みする。

(くそっ…冥界術でも対抗できねえのか!)

 自分の使役できる最強の相棒の攻撃さえも簡単に防いでしまう倉橋に、高木は底知れない恐ろしさを感じた。だが、諦めるわけにはいかない。

「…うおおおおおっ!」

 ならばと、高木は「ヘルメス・アタック」で一気に距離を詰め、近距離から魔法を発動した。

『ゼウス・アタック』

 黄の紋章から音速に近い速さで撃ち出された雷撃は、しかし土の障壁によって呆気なくガードされた。倉橋がその後ろでほくそ笑む。

「足掻いても無駄だよ。何をしようが、最強の魔術師である僕には勝てない!」

 突然、障壁が砂へと変化して四方八方へと飛び散る。思わず手で目を覆った高木の腹に、容赦なく拳が叩き込まれた。アレスプロテクターで威力の強化されたパンチは、鋼鉄の塊を撃ち込まれるのと同等の破壊力を秘めていた。

「がっ…」

 防御する暇を与えないほど、完璧なカウンターだった。口の中が血の味で満ち、意識が遠のきかける。高木は大きく吹き飛ばされ、落下防止フェンスに強く体を打ちつけた。腹部が燃えるように痛む。肋骨の数本は折れたかもしれない。

「先輩!」

 篠崎が悲鳴を上げた。その横で北野は唇を噛み、苦い表情を浮かべた。

 高木の実力は、プライドの高い彼女でさえも認めていた。出会ったばかりの頃こそ経験の差で圧倒できたが、何度も強敵と戦いその度に強くなっていく彼の成長には目を瞠るものがある。その高木をこうもあっさりと退けた倉橋は、只者ではない。

「だったら…あたしが相手だ!」

 だが、彼女の辞書に撤退はない。「アレス・アタック」による筋力強化で倉橋に接近し、臆することなく躍りかかっていく。無駄のない動作で繰り出された跳び蹴りを、彼は後方に跳躍して難なく回避した。

 一方篠崎は高木の側に跪き、肩を揺すって必死で呼びかけた。

「先輩!…先輩!しっかりしてください!」

「篠…崎…」

 辛うじて激痛に耐え、高木はうっすらと目を開けて視線を彼女に向けた。篠崎の肩を借りてどうにか立ち上がり、片手で屋上の縁の柵を掴んで倒れないように足を踏ん張る。ここで倒れるわけにはいかなかった。

「無理しないで下さい。ここは私が…」

 言いかけた篠崎の頬を、かぎ爪が掠めた。反射的に体を低くし、辺りに視線を走らせる。

 光の柱から現れた魔物たちがこちらに気づき、攻撃を仕掛けてきたのであった。数体の小型の悪魔たちが屋上に降り立ち、二人を取り囲む。長く鋭い爪をそなえた彼らと向かい合い、篠崎は身構えた。凛とした声音で、言い放つ。

「…今度こそ、先輩は私が守ってみせます」

 襲いかかってくる悪魔に、篠崎は果敢に立ち向かった。両腕を素早く振るって繰り出される斬撃を加速魔法を使って避け、隙を突いて赤の魔法陣から火球を放つ。至近距離からの直撃を受けた一体は断末魔の叫びを上げ、炎の中に溶けるように消えた。

さらに魔術で皮膚を硬化し、長いかぎ爪による攻撃を片手で防ぐと、空いた片手で掌打を打ち込む。背後の高木を守りつつ戦うという制約があるにもかかわらず、見事な立ち回りだった。一匹、また一匹と悪魔が倒れていく。たちまち、下級悪魔の群れは無力化された。

束の間安堵した篠崎を、不意に強い倦怠感が襲った。がくりと膝を突き、荒く不規則な呼吸を繰り返す。心臓が早鐘を打っているのが分かった。顔が赤いのは、決して緊張や照れに由来するものではなかった。

魔術の連続行使により、無自覚のうちに体力をかなり消耗していたのだ。このビルに到達する前にも、仲間の魔術師たちを援護するため複数回魔法を使っている。今の攻防で、残された力を使い果たしてしまったのだった―高木を、守るために。

「…おい、しっかりしろ!」

 覚束ない足取りで篠崎の元へ駆け寄り、高木が両肩を掴む。もはや自分の負っている怪我のことなど、頭から吹き飛んでいた。無理していたのはどっちだよ、と叫びだしたくなる。いつも他人の幸せを優先して、自分を犠牲にしてしまう―そんな彼女が目の前で消えてしまいそうで、不安で心配でしょうがなかった。

弱々しい微笑みを浮かべて、篠崎は囁くように言った。

「私のことは、いいですから…」

 途端に体から力が抜け、糸が切れたようにふらっと後ろへ倒れそうになる。その今にも壊れそうな華奢な背中を腕で抱きとめ、高木は藁にも縋る思いで彼女の体を揺さぶった。

「何言ってんだよ…見捨てられるわけないだろ!」

 返事はなく、篠崎は曖昧な表情のまま、不規則にブラウスの膨らみを上下させるのみだった。嫌な汗が首筋を流れている。

 轟音にはっと意識を引き戻され、高木は彼女をそっと横たえ、痛みを無視して再び立ち上がった。もうもうと立ち込める土煙の向こうに、目を凝らす。

「…冥界術って、結構便利なものだね」

 素直に感心したように、倉橋が呟く。突風で視界が晴れると、彼の操るガーゴイルが上空で力強く羽ばたいていた。

「特に使役の術は便利だ。自分は何も手を下さずに、圧倒的な力を振るえる」

 その下に体を折り曲げてうずくまる北野は、もう戦える状態ではなかった。ガーゴイルの強靭な尾を叩きつけられて負ったダメージは、肉体の許容限度を超えている。内蔵の損傷などは言うまでもなく、何本も骨が折れていた。指先をぴくぴくと震わせ、悔しそうに倉橋を見上げる。

「畜生…ここまでか」

 そこで体を痙攣させ、苦しそうに顔を歪めた。吐血し、全身を襲う痛みに悶える。あまりに痛々しくて、凄惨な光景だった。怒りを露わに倉橋を睨んだ高木を、彼は平然と見つめ返している。

「お前…何も感じないのかよ。いくら敵だからって、殺す一歩手前まで」

「別に」

 その台詞を遮り、倉橋は無慈悲な否定を示した。

「確かにちょっと痛めつけすぎたかもしれないけど、この人は父さんの計画の邪魔だったから」

「この…っ」

 かっとなって言い返そうとしたが、話が通じる相手ではないことを悟ってやめた。二人の視線が交錯する。

「―君も、邪魔だ」

 一瞬の沈黙の後、出し抜けに倉橋が言った。ガーゴイルが吠え、屋上すれすれに低空飛行して高木へ迫る。


(あいつら…!)

 戦線を抜けて倉橋の元へ先行した弟子たちに気づき、杉本は後を追おうとした。師として、彼らが危険を冒すのを黙って見ているわけにはいかない。

「そうはさせん」

 その前に回り込んだ恰幅の良い男が、杉本へ挑戦的な眼差しを向ける。全身に装着した黒のプロテクターので常時筋力強化がなされており、素早い動きであった。

 杉本と二条はじっと睨み合ったまま、間合いを計り横に数歩動いた。

 口火を切ったのは、杉本だった。

「…二条智宏。あなたのことは調べさせてもらった」

「何?」

 怪訝な顔をした二条は足を止め、推し量るように杉本を見た。

「何故わざわざそんなことをする?」

「ずっと気になっていた。どうしてあなたが融和派を間違った方向に導こうとし―さっきの話によれば、ついには世界を破滅へ導こうなどという考えへ至ったのか。俺はそれを知りたかった」

 不快感を露わに尋ねられても、杉本は表情をほとんど変えずに淡々とした口調で答えた。

「二条さん、あなたにはかつて最愛の妻がいた。その女性の名前は、倉橋奈央子」

 それを聞くやいなや、二条の顔つきが変わった。親友に出し抜けに殴られたかのように、衝撃を受けているようであった。

「彼女は妊娠数か月のときに通り魔に刺され、お腹にいた赤ん坊と共に命を落としている。違いますか」

「…その通りだ」

 二条はうなだれ、遠い過去に束の間思いを馳せているように見えた。それは杉本の想像しうるところではなかったが、彼にもきっと幸せだった時代があるのだろう。

「奈央子さんの友人だった方の話によれば、彼女は子供につける名前もそのとき既に決めていたとのことです。…倉橋烈。それが、生まれてくるはずの子の名だった」

「…大したものだ。いつの間に、そこまで詳しい調査を?」

「融和派の魔術師が俺の弟子を何度も襲撃しているときに、手をこまねいているわけにもいきませんでしたから」

 皮肉交じりに返し、杉本は再び二条に厳しい視線を向けた。

「二条さん。あなたは奈央子さんを亡くし、この世に存在する不条理と悪意に絶望を感じたのではないですか。そして、世界のあり方を変えることを決意した」

「でたらめを言うなっ」

「でたらめではありません」

 声を荒げた二条に、杉本はあくまで冷静さを保って言った。

「人造魔術師計画で生み出した彼に、あなたは生まれてくるはずだった息子と同じ名前をつけている。奈央子さんや生まれてくるはずの息子に未練がなかったのなら、そんなことはしないはずだ」

 二条はしばし口をつぐみ押し黙ったが、やがて口を開いた。

「…ああ、そうだ」

 その声は、微かに震えていた。

「私は融和派のグループの中でも有力な一族に生まれ、魔術師として生きる以外の生き方を知らずに育った。ゆくゆくは組織の重役になり、融和派を率いる立場になるのだと、そう思っていた。だが、奈央子は…」

 ふっと視線を上の方へ向け、ぼんやりとした目で虚空を見つめる。何かを見ているようでもあり、何も見ていないようでもあった。

「奈央子は、魔術の世界とは何の関りもない普通の女性だった。私たちが出会ってから恋に落ちるのにそう長い時間はかからなかった。しかし両親に反対された…魔術の才能をもたない女と結婚などしたら血統が汚され、仕事にも支障が出るとな」

 杉本は、黙って彼の独白に耳を傾けていた。二条の言葉はどこか自嘲的で、一種の諦観が感じられた。

「…まだ若かったということもあろうが、私は猛反発した。私にとって奈央子は、初めて心の底から好きになることができた女性だった。彼女と別れることなど論外だった。反対を押し切り籍を入れた、それからすぐのことだった…奈央子が死んだのは。私は何日も部屋にこもり、狂ったように泣いた。心を落ち着けようと、仏門に帰依し頭を丸めたのもちょうどその頃だ」

 そこで二条は目を瞬かせた。目の焦点がまた合うようになった。

「不幸な事故だったのだと言い聞かせようやく立ち直りかけたとき、私はある噂を耳にした。奈央子が死んだ事件は、私たちの結婚をこころよく思っていなかった一族の者が仕組んだものだったのだと」

 自分の知らなかった情報までもが明らかにされ、杉本は緊張して話の続きを聴いた。まさか、偶然の事故ではなかった可能性があったとは。関係者の何人かに聞き込みをしたときには分からなかったことだった。

「今思えば、真偽のはっきりしない曖昧なものだったのかもしれん。だがあのときの私は精神的に相当参っていて、平たく言えば冷静な判断力を失っていた。…私はそれを本当だと信じ込み、一族への復讐を誓った。幸い、当時の私にも自由に動かせる部下たちが大勢いた。奇襲を前提とした作戦を立てるならば、戦力的にはあまり問題はなかった」

「まさか」

 杉本は息を飲んだ。

「…そうだ。私は部下を率い、奈央子の命を奪った者らの住む屋敷を襲った。私は怒りのままに、父を、母を、祖父母を、兄と妹を、そして使用人をも手にかけた。反乱は成功し、一族のトップへ躍り出た私は融和派の指導者の地位までのし上がることができた」

 正気の沙汰ではない、と杉本は思った。憎しみとは、これほどまでに人を歪ませるものなのだろうか。

「…杉本宗一、お前の推測は概ね合っている。ただ一つ違う点は、私が世界に安寧を与えようと思ったきっかけだ。妻を失ったことに絶望したのではない…愛する者を大切な存在に殺されたと思ったからだ」

「あなたの辛い気持ちはよく分かった。…だが、世界をあなたの思い通りにさせるわけにはいかない」

 そう言い放った杉本を、二条は苛立たしげに見た。

「何故我々の邪魔をする?世界へ永遠の安息がもたらされる瞬間を…お前たちは見たくないのか!」

 その瞬間、二条の全身から殺気が放たれた。さっと左手が前に突き出され、銀のマジック・ウォッチから光が放出される。

(―来る!)

 杉本が予感した直後、彼の周囲を取り囲むように八つの紋章が同時展開された。

『ゼウス・アタック』

『リピート』

 全方位から一斉に稲妻が放たれる。直撃を喰らえば超高電圧の電流が体に流れ込み、間違いなく即死するだろう。

 回避する手段は、一つしかない。

『アレス・アタック』

 杉本は真上へ高く跳躍し、雷の集中砲火を逃れた。

『アポロン・アタック』

『リピート』 

 しかし、その動作も予想の範疇だったらしい。続いて繰り出された何発もの火炎弾を、杉本は空中で「ポセイドン・アタック」を発動し辛うじて防ぎ切った。氷の障壁が溶かされる前に新しい盾を展開し、術式の連続発動でどうにか凌ぐ。

 着地した杉本に、路面を蹴り飛ばした二条が迫る。大柄な体格を活かし、体重を乗せた右フックを放ってくる。アレスプロテクターの補助により、かなりのスピードと威力が拳に付与されていた。

 杉本は再び上へ跳び上がり、高速で放たれた二条のパンチを躱した。

「…同じ手が二度通用すると思うな!」

 さすがは熟練の魔術師というだけあり、二条の反応は早い。すぐに体の向きを変えて上方へ左手を向ける。

発動前の待機状態にしてある術式は「ポセイドン・アタック」。空中で自由に動けない杉本に氷の弾丸の嵐を浴びせ、蜂の巣にする。それが二条の放とうとしていた次の一手だった。さっき火球を放ったときは一方向からのみの攻撃であったためガードされたが、今度は逃がさない。宙を漂う杉本を取り囲むように魔法陣を展開し、一思いに心臓を貫いてやるつもりだった。

しかし、その魔法は不発に終わった。

杉本は、ただ単に跳躍し回避したわけではなかった。斜め上の方向に跳び、反撃の契機を待っていたのである。

 太陽の光が杉本に重なるようにして降り注ぎ、標的を直視しようとした二条の視界を一瞬奪う。

(しまった…!)

 杉本は最初からこれを狙っていたのだ。日の光に敵が目を眩ませ、隙が生じた瞬間に攻撃するつもりだったのだ。

 敵の姿をはっきりと視認できない状態では、紋章を投射すべき位置座標が定まらない。したがって、魔法は発動されない。

 二条が発動する魔法を防御用のものに切り替えるよりも早く、杉本が動いた。

「俺は安息など望んでいない。全てが滅び、混沌が世界を支配する…そんな世界に調和などあり得ない」

 空中で体を捻って体勢を整えると、左の手のひらの先に黄の紋章を展開する。溢れ出る稲妻のエネルギーが、幾何学模様や刻まれた数式の上で火花を散らした。

「確かに人間は醜い。俺たち穏健派も、融和派に操られていたとはいえ過激派と何度も衝突し、血で血で洗うような抗争を繰り広げてきた」

『ゼウス・アタック』

 唸りを上げて、強大な雷撃の槍が撃ち出される。

「だが、人は過去から学ぶことができる。俺は、人類の現状に絶望を感じ諦めたりはしない。この戦いを終わらせ…皆が支え合い、笑い合える世界を築いてみせる!」

 プラズマが凝縮されて一本の細く鋭い槍のようになり、音速で放たれた紫電の雷光が二条の胴体を貫いた。黒の強化スーツのあちこちが焼け焦げ、白煙を上げる。細胞組織へ高圧電流が流れ、全身が麻痺する。

 戦闘不能へ追い込まれた二条は力なく崩れ落ち、ほどなく気を失って目を閉じた。

 静かに着地した二条はそれを一瞥すると、加速魔法を発動して弟子たちの元へ急いだ。


「…あなたの相手は私よ」

「ほう、因縁の対決というわけか」

 立ち塞がる「威」にきっと睨まれた「覇」は、面白がっているようだった。

「…できれば、お前とは戦いたくなかったんだが」

 不意に笑みを消した彼は声のトーンを落とし、やや残念そうに言った。以前にも「威」と一戦交えたことがある事実を考慮すれば、巧妙な演技に思える。

「お前とは分かり合えるんじゃないかと、心のどこかでずっと思ってたよ。俺たちは似た者同士だからな」

「…どういう意味?」

 不審そうに見つめる彼女に、「覇」はぽつりぽつりと語り始めた。

「俺は幼い頃両親を亡くし、養護施設を経営していた資産家の元に引き取られた。それが二条様だった」

 彼のプライベートな部分を知るのは初めてだった。自分のことを極力話さないようにしていたため、訳ありなのだろうとは漠然と感じてはいた。しかし、まさか幼少期から融和派と繋がりをもっていたとは思わなかった。

 何故今さらこんなことを自分に話すのだろう、と「威」は訝しんだ。あるいは計画が無事に遂行されるものと確信しており、死ぬ前に誰かに胸中を打ち明けたくなったのだろうか。答えは彼にしか分からない。

「二条様から世界の無情さを説かれた俺は、絶望から抜け出そうとするようにその思想に共鳴した。だから融和派に忠誠を誓い、過激派に潜入してスパイ活動を開始した」

 そこで「覇」は、「威」の瞳をまっすぐに見た。何もかも見通すような目だった。

「『威』、俺たちは同じだ。家族を失い、この世界を呪った人間だ。お前なら、俺の気持ちが理解できるんじゃないか?」

「…全然理解できない」

 対する「威」は目線を落とし、冷静さを保とうとするように深呼吸を一つした。それから顔を上げ、柳眉を逆立てて言い放った。

「あなたがこの世界を憎む気持ちは分かるわ。…でも、この世界は悪意ばかりで満ちているわけじゃない。生きていれば、確かに辛いこともたくさんある。けれど、楽しいことだって数え切れないくらいあるはずよ」

 感情をぶつけていると、何故か徐々に怒りが薄れてきた。憎しみの代わりに浮かんできたイメージは、穏健派との対立が深まる前の幸せな日々だ。


 あれは、まだ黒田からコードネームを与えられる前の頃だった。「威」は黒田が学費を負担してくれたおかげで大学へ通わせてもらえることになり、学部は違ったが同じ大学へ進学することになった「征」と喜び合っていたところだった。

 その学費が融和派から援助された資金の一部を使い払われていたことを、当時の二人は知る由もなかった。過激派の指導者である黒田と、スパイとして暗躍する「覇」のみがその事実を知っていた。

「優一っ」

 合格通知を受け取ってすぐ、「威」は「征」の部屋に駆け込んだ。そのとき過激派はさほど目立った動きを見せておらず、穏健派の監視も甘かった。したがって、黒田の住む屋敷をアジトとして使うということも可能であったわけである。木造二階建ての立派な家で、構成員を何人も寝泊まりさせられるだけの広さがあった。

 もっとも、この屋敷も数年後には戦火で焼けてしまうのだが。

「どうしたの?明日香」

「私も受かったわ」

 誇らしげに合格通知書を見せると、「征」こと津島優一は顔をほころばせた。

「そっか。…やったじゃん」

 二人はベッドの縁に腰掛け、微笑み合った。高校までずっと同じだったこともあり、これからも一緒にいられるかどうか不安だったのだ。 

過激派のメンバーに同年代の者がほとんどいなかったこともあって、二人は昔から長い付き合いだった。幼なじみといってもいいかもしれない。お互いに気が合い、自然と話が弾んだ。将来は黒田様の右腕になるんだなどと、夢を語り合ったりもした。

「これで参考書ともおさらばだ。やっと遊びまくれる」

 優一はふざけた調子で言うと、ベッド脇にある机の上の分厚い問題集へ手を伸ばし、ゴミ箱に放り捨てた。

「ちょっと、もったいないじゃない」

 だが明日香の性格は彼とは正反対で、慌ててそれを拾い上げた。

「こういうのって、古本屋に持っていくと結構な値段になるのよ」

「そんなはした金に興味ねえよ。バイトして金稼いだ方が手っ取り早いし」

 大雑把な性格の彼を真面目な明日香がたしなめるというのは、日常の光景となっていた。

 黒田は今、外出している。取引先が画期的な魔法発動デバイスを提供してくれるそうなんだ、と部下を集めた昨日の夕食の席で嬉しそうに話していたのを思い出す。間もなく彼らにも支給されることになる、黒いマジック・ウォッチのことである。

 屋敷にいるのは二人と、数名の使用人のみ。受験を終えた優一と明日香は、世間より一足先に春休み気分を味わっていた。家の中はやけに静かで、庭で小鳥がさえずるのが時折聞こえるくらいだった。

 一瞬話題が途切れると、妙に緊張した空気が流れた。

「…なあ」

「何?」

 口を開いた優一の声は乾いていた。恥ずかしそうに目を逸らした後、照れ笑いを向けてくる。

「俺、お前のこと好きだな」

「…え」

 明日香は台詞の意味を理解したにもかかわらず、硬直してしまって動けなかった。顔がかあっと熱くなるのを感じる。

「な、何なのよ、急に」

「受験勉強終わったら、告ろうって決めててさ」

 優一に屈託のない笑顔を向けられると、自分の心臓が高鳴っていることを自覚せざるを得なかった。

「今まで色んな奴に出会ったし、色んなことがあったけど、明日香以上に側にいたいって思える奴には出会わなかった」

 どぎまぎして俯いてしまった彼女の顔を覗き込むようにし、例のごとく悪戯っぽい笑顔を浮かべる。

「俺じゃ、駄目かな」

「…嘘つき」

 明日香は拗ねたように呟き、ぷいと顔を背けた。

「他の女の子と付き合ったこと、何度かあるんじゃないの」

「あれは…いや、成り行きっていうか」

 ペースを乱されたのか、優一は頭を掻きながら赤くなって弁解した。

「何ていうか、本気で好きだったわけじゃない。つまり、明日香のことは常に頭をよぎってて…」

「…言い訳はしなくていいわ」

 ふっと慈愛に満ちた笑みを浮かべた彼女に、彼は戸惑いの眼差しを向けた。

 整った容姿をもち身だしなみにも気を遣っている優一は、二人の通っていた地元の高校でも女の子にモテた。どこか退廃的な雰囲気を漂わせた彼は、狼のような印象を与える。中高生くらいの年頃はそういうタイプに夢中になる傾向があることを、明日香も実感として知っていた。

 それゆえに、彼が今まで異性と交際したことがない方が不自然なくらいなのだ。そのくらいは大目に見よう、と明日香は思った。

「これからは、私だけに夢中にさせてあげるから」

「…明日香、それじゃ」

 優一ははっとして、彼女の横顔を見つめた。明日香はこくりと頷き、頬を紅潮させてはにかむように笑った。

「私も、優一のこと好きだった。ずっと前から」

 彼は一瞬、信じられないというようにぽかんと口を開けた後、くしゃっと笑った。

「…ありがとう。言葉にできないくらい嬉しい」

「ううん」

 明日香は軽く首を横に振り、それから体の力を抜き、優一にしなだれかかった。

「…優一」

「何?」

「大好き」

 彼の大きくて逞しい手が伸びてきて、彼女の艶のある黒髪を優しく撫でた。

「…ああ。俺たちはずっと一緒だ」

 温もりの中で、明日香は限りない幸福感に包まれていた。

 

 刹那の回想から現実へ戻り、「威」は「覇」を睨みつけた。

「…あなたたち融和派は、世界の悪い側面しか見ようとしていない。断じて賛同できないわ」

 「覇」はやれやれと首を振り、銀のマジック・ウォッチを装着した左手をすっと前へ出した。途端に目つきが鋭くなる。

「ならば仕方ない。ここで散ってくれ」

「…散るのはあなたよ」

 紫の紋章が展開され、それぞれの使い魔が降臨する。漆黒の翼を広げた堕天使が妖艶な微笑みをたたえて宙に浮かび、大型のケルベロスの三つの頭部が牙を剥き、咆哮を轟かせる。

双方の視線が交差し、ついに二人の魔術師は激突した。


 勢いよく飛びかかった地獄の番犬の牙から、堕天使はさらに上昇することで逃れた。鋭い歯が空を切り、ケルベロスが上を見上げる。

 堕天使は高く舞い上がったのちにぴたりと静止し、両の手のひらの上に黒い破壊光弾を浮かべた。腕を振るい、投げつけるようにしてそれらをケルベロスへ放つ。

 「威」の指示を受け取った猛犬は、あちこちが抉られ陥没した道路をジグザグに走った。全ての光弾を躱し切ると、今度は反撃に転じる。横方向に跳躍し、さらに崩れかけたビルを足掛かりとしてさらに高く跳ぶ。二段階のジャンプで堕天使と同じ高度に達したケルベロスが唸りを上げ、三つの顎を大きく開いた。

 上体を後ろに倒すようにして、堕天使は攻撃をあっさりと躱した。黒い衣の一部が引き裂かれて宙を舞い、マネキンのように無機質でのっぺりとした肌の一部が露わになる。しかし、彼女に一切の恥じらいの気配はない。元よりそういった感情を持ち合わせていないからだ。

 堕天使の両目が妖しく輝き、斜め上から斬り下ろすような軌跡を描いて灼熱の光線が撃ち出される。

 飛行能力を持たず空中を落ちていくばかりのケルベロスには、防御手段がない。

 そして熱線は、術者である「威」をも巻き込む形で発射されたのだった。

 咄嗟に冥界術を中断し、ケルベロスを紋章から冥界へと帰還させる。落下する途中の猛犬の体が下に展開された魔法陣に吸い込まれ、かき消えた。使い魔のコントロールを手放したことで、他の魔法による防御が可能になる。「威」は前方に紋章の盾を形成し、衝撃を殺そうとした。

 だが、「覇」の方が一枚上手だった。堕天使に素早く念を送り、熱線を連射させる。彼は「威」がそう動くことは予想済みで、最初から術者を狙うつもりだったのだ。

 暴力的なまでの熱と破壊の風に耐えるのには、通常の魔法ではあまりにも困難である。一瞬で障壁は吹き飛ばされ、「威」は衝撃で廃墟となったビルの外壁に激しく体を叩きつけられた。

「かはっ…」

 強く打ったせいであろうか、頭が朦朧とする。軽い脳震盪くらいは起こしているかもしれない。力なくコンクリートの壁にもたれかかるようにしている彼女へ、「覇」は悠々と歩み寄った。目を細め、僅かに眉をひそめる。

「…もう終わりか?」

「……まだよ」

 振り絞るように、「威」は呟いた。全身が燃えるように熱い。熱線の余波で焼けた皮膚は、気を失うほどの激痛を与えてくる。それでもなお、彼女は辛うじて意識を保っていた。

「しぶといな」

 そう吐き捨て、「覇」はつかつかと近づいてきた。抵抗する力の残っていない「威」の胸倉を掴み、彼女の体を高く持ち上げる。アレスプロテクターの補助により、常人を遥かに超える力を彼は今発揮していた。

「前に戦ったときは二対一だったから多少手こずったが、お前一人など敵ではない!」

 「威」の腹部に、「覇」は右拳を深くめり込ませた。一度引いてから高速で放たれたパンチは、筋力強化と皮膚の硬化により砲弾に匹敵する威力を秘めている。骨が砕け、内臓が潰れる嫌な音が、彼女自身にもはっきりと聞こえた。

「がっ…」

 たちまち口から血が溢れ、耐えがたい痛みが電撃のように体中を駆け巡る。顔から血の気が引いた「威」を「覇」はアスファルトの上に放り、容赦なく蹴り飛ばした。無様に路上を転がる元過激派の魔術師を憐れみをこめて見下ろし、「覇」はその姿をせせら笑った。

「これで終わりだ。せいぜい、あの世で恋人と好きなだけいちゃつくんだな」

 銀色のマジック・ウォッチの照準が自分の心臓へと合わされるのを、「威」は必死で呼吸し、体を痙攣させ、なす術もないまま見ていた。


 夢を見た。

 「威」は、美しい花の咲き乱れる草原の中に立っていた。まるで天国のような、この世のものではないと思えるほど神秘的な場所だった。

 草木が生い茂る中に、大河が流れている。

 その向こう岸に、「征」が立っていた。彼女の方へ視線を向けている。

「優一…」

 「威」はよろよろと、そちらへ近づこうとした。川はさほど深いようには見えない。浅いところを探して渡れば、対岸へ辿り着くことは決して難しくはないように思えた。

(ごめんね…私じゃ、力になれなかった。でも、これでまた一緒になれる…)

 痛みはいつの間にかどこかへ消えていた。「威」は靴を脱ぎ捨て、夢中で川の中へ足を踏み入れた。

 けれども、ぞくりとするほど冷たい水が彼女をはっとさせた。靄が晴れたような心地だった。

 今まで気づかなかったが、「征」はとても悲しげな目をしていた。そして、小さく首を横に振っていた。

 我に返り、明日香はすぐに川から上がった。分かったわ、と恋人に頷く。優一はふっと微笑み、軽く手を振ると、白い光となって消えた。

(…駄目。優一は、私が死ぬことなんか望んでない。私には、彼の分も生きる責任がある!)

 視界が眩しい輝きに包まれて、「威」は現実へと帰還した。

 

 放たれた紫のレーザー光を紋章の盾に阻まれ、「覇」は驚きに目を見開いた。

「まだ術を使うだけの力が残っていたか…ならば」

 予期せぬ反撃を警戒したか、後方に大きく跳んで距離を取る。心の中で使い魔に命令を出し、彼の前に堕天使が音もなく舞い降りた。

「今度こそ完全に消し飛ばしてやる!」

 見開かれた瞳から、真っ直ぐに放たれた熱線。赤く燃えるその光から、「威」は目を逸らそうとしなかった。ゆっくりと立ち上がり、左手を伸ばす。

『ハーデース・アタック』

 「威」の前に巨大な魔法陣が投射され、大型のケルベロスが顕現する。

「何をしようと無駄だ。使い魔を盾にしたところで、時間稼ぎにもならない!」

 高らかに笑う「覇」の声が耳に届いても、彼女は硬い表情を崩そうとしない。

 地獄の番犬の全身が爆炎に包まれた―かに見えた。だが、ケルベロスは叫び声一つ上げない。微動だにせず、じっと堕天使を睨みつけている。

 猛犬を包む赤い火が、徐々に暗色へと変化していく。やがて蒼炎を纏ったケルベロスは、力の限り吠えた。大気が震える。黒く厚い毛皮には火傷の跡は皆無で、青い炎を完全に自分のものとしてコントロールしている。堕天使の攻撃の熱を吸収し、自分の力に変えたのだ。

「馬鹿な…ケルベロスの上位形態だと⁉」

 さすがの「覇」も、これには動揺を隠せなかった。

 冥界の炎を操る、最高位のケルベロス。術者の強い感情に反応し、使い魔自らが進化を遂げた瞬間であった。

 怯んだ様子もなく、堕天使は次々に両目から熱波を繰り出した。対してケルベロスは力強く地を蹴り、猛然と相手へ突進する。超高熱を帯びた光線がその体躯を覆う蒼炎へと吸い込まれ、青き炎はますます激しく燃え上がった。

「この炎には、敵の熱攻撃を打ち消す力がある…あなたのその攻撃は、もう通用しない」

 荒い呼吸を繰り返しながら、「威」が静かに言う。一気に堕天使に肉薄したケルベロスは、飛翔し回避しようとするのを許さなかった。黒の片翼に喰らいつき、牙を突き立てて食いちぎる。墨汁を思わせる黒々とした血が翼の付け根から流れ、飛行能力を失った堕天使はノイズのように耳障りな甲高い悲鳴を上げた。

 体を低く沈めたケルベロスが三つの頭部を堕天使へ向け、さらに強烈な頭突きを繰り出す。機動力を削がれた堕天使は避けられずに、直撃を受けて後方へ飛ばされた。

「覇」は眼前に横たわる使い魔に命令を出し、無理矢理立ち上がらせた。ふらつきつつも再起した堕天使が、再び破壊光弾を両手に生成する。

「死にぞこないの魔術師が…調子に乗るな!」

 憎悪に醜く顔を歪めた「覇」が絶叫し、主の命を受けた堕天使が何発もの光弾を一斉に撃ち出す。

 「威」は残された力を振り絞って、ケルベロスの背に飛び乗った。漆黒の光弾を躱しながら疾駆する獣にしっかりと跨り、魔法を発動する。既に体力は限界に達していたが、彼女は気力だけで戦い続けた。

『ヘルメス・アタック』

『アレス・アタック』

 発動したのは、二種の中間魔法。しかし、その効果範囲に指定したのは自身の肉体ではなく、ケルベロスの巨体だった。

 一層速度を上げた猛犬は電光石火で駆け抜け、全ての破壊光弾を躱した。爆風の吹き荒れる中を弾丸のように疾走し、一直線に「覇」と堕天使へ肉薄する。青い炎を纏ったケルベロスは勢いを緩めず、渾身の力で二体へ体当たりを喰らわせた。

「優一、『武』、黒田様、そして皆…あなたたちの無念は、私が晴らす!」

 「威」が背負っているのは、今生きている人々の願いだけではない。散っていった数え切れないほどの魔術師―その想いを無にせぬため、全てを捧げる。それが、彼女の生きる理由だった。

 地獄の業火を纏いし猛犬の通った後ろには、焼け焦げた跡しか残らない。

 蒼炎に包まれた堕天使が路面に叩きつけられ、断末魔の叫びを上げて消滅する。「覇」の体が宙を舞い、鈍い音を立てて落下した。アレスプロテクターで衝撃は緩和されたようで致命傷には至っていないが、意識を失っているのは遠目にも分かる。苦悶の表情を浮かべ白目を剥いた姿は、彼にふさわしい末路だと思えた。

 ケルベロスの背から降りると、もう立つことは難しかった。「威」は崩れ落ち、震える手でスーツのポケットをまさぐった。回復魔法の紋章の刻まれたメモを取り出したものの、多くは熱線の攻撃を受けたときに黒く焼けてしまっていた。唯一使えそうだったものを自分の腹部に押し当て、念を送る。

「…っ、が、ああっ」

 回復魔法は中間魔法の一種に属し、行使には体力の消費が伴う。魂を削られるような感覚に呻きつつ、「威」はどうにか応急処置を完了した。ひとまず傷口は塞いだし、内臓もできる限り治癒させた。少なくとも失血死することはないだろう。

 全ての力を使い果たし、彼女はぐったりと瓦礫の中に横たわった。

 思えば、「覇」に裏切られたときもこんな風に自分は倒れていたのだった。けれどもあの時と比べて決定的に違うのは、絶望ではなく、ほっとしたような穏やかな気持ちに包まれていることだった。

 遠のいていく意識の中で、「威」は黒と白の光の柱を、そしてその背後にそびえる高層ビルを見つめていた。

(どうやらここまでのようね…あとは頼んだわよ、穏健派の魔術師たち……)


「これはこれはご老人たち、お揃いで」

 痩せた剃髪の男は、包囲網を狭めてくる七賢人らを見回して冷笑した。熟練の魔術師である彼らは融和派の戦闘員を圧倒し、藤原へと迫りつつあった。

藤原を守る魔術師が一人、また一人と倒れていくのを、彼はまるで壊れたおもちゃでも眺めているように見ていた。能力の低い魔術師など、所詮は時間稼ぎの道具に過ぎない。藤原にとって彼らは、融和派の計画を実現するための使い捨ての駒でしかなかった。

「答えろ」

 黒縁眼鏡の老人が、低い声で言った。左手を振るって放たれた閃光が、黒のプロテクターを装着した戦闘員らを一薙ぎする。体が痺れ地に伏した男たちには目もくれず、彼は藤原を睨みつけ、また数歩近づいた。

「末永を殺したのも、お前たちじゃないのか」

「…そうだと言ったら?」

「貴様!」

 その対角の方向から、白髪の男の罵声が飛んだ。青の魔法陣から迸った水流で融和派の魔術師を蹴散らし、怒りを露わに藤原へと近づく。

「絶対に許さん」

「仕方なかったんですよ、あのときの状況では」

 藤原はなだめるように言った。

「穏健派は、自ら過激派に攻撃を仕掛けようとすることが少ない。過激派のアジトが特定できていない以上無理はありませんが、我々としては双方に潰し合ってもらわなくては困るんです」

「―だから過激派の犯行を装って末永さんを殺害し、戦争の火種を生じさせたのね」

 杖をついた婦人が、空いた左手から撃ち出した火球で周りの魔術師を吹き飛ばしていく。彼女の厳しい視線にも動じず、藤原は軽く頷いた。

「ええ。あとは、過激派内に送り込んでいたスパイからの情報を元に本拠地を特定するだけでした。実に簡単な作業です。あなたたち穏健派のおかげで、我々はほとんど手を下さぬまま過激派を壊滅させることができました」

 藤原は可笑しそうに笑った。およそこの場にふさわしくない笑みだった。

「ただ、過激派の黒田があそこまで仲間思いな人間だとは知りませんでした。本来のプランでは穏健派と過激派に総力戦を演じてもらう予定でしたが、彼は部下を逃がすことを優先した。結果的に穏健派の損害は少なくなり、共倒れとまではいきませんでしたね。逃走を図る過激派構成員を粛正するため、スパイの者にも動いてもらわねばならなかった。そこは計算外でしたよ」

 彼の前に立っていた魔術師の足元が、大きく陥没する。藤原は反射的に後ろに跳んで逃れたが、反応の遅れた部下たちは底の見えない蟻地獄へと引きずり込まれた。痩せぎすの老人が、彼をきっと見据える。

「私たちは、あなたたち融和派にずっと騙され、利用され続けてきたというわけですな」

 直後、一羽の炎の鳥が飛翔し、藤原へ襲いかかった。猛禽類に似た姿をした不死鳥は氷の盾に攻撃を阻まれたが、何度も突進を繰り返しついに障壁を砕いた。藤原はバックステップでどうにか炎の鳥の体当たりを躱すと、苛立たしげに眼鏡をかけた老婦人を見た。

「倒された仲間の復讐のつもりですか。誠に殊勝な心掛けだ」

「いいえ、違うわ」

 だが、きっぱりと言い切った彼女に藤原は戸惑いを隠せなかった。

「何故です。あなたたちには、我々を憎む理由が山ほどあるというのに」

 体を爆炎で包んだ不死鳥が低空飛行し、数名の魔術師へと向かっていく。いくら頑丈なスーツを着ていようとも、熱を完全に遮断することは不可能だ。高速で飛来する灼熱の塊に激突され、融和派の構成員らは呻き声を上げて崩れ落ちた。

 もはや、藤原を守る者は誰一人いなかった。

「単純明快だ」

 白髪の老人がさらに藤原へ歩み寄り、左手をすっと掲げる。

「俺たちは過去のために戦うんじゃない…未来のために戦うからだ。この戦いを終わらせ、末永や松宮の望んでいた平和な世界を築く」

「未来…?笑わせないでください」

 よく考えられたジョークだと言わんばかりに、藤原はくっくっと笑いを漏らした。

「一体、愚かな人類にどんな未来が待っているというんです。人は互いを憎み合い、絶えず争う。自己の利益のみを優先し、他者を蹴落とす。そんな醜い生命体に、希望を見出せとでも?」

「…愚かなのはお前たちの方だ」

 その嘲笑をかき消すように、先刻の老人が叫び返す。

「お前たちは人間存在を忌み嫌うようになった。だが人類を見限った結果、自らが最も憎んでいたはずの醜悪な人間の姿へ近づいてしまったんだ。お前たち融和派のやってきたことは、まさしく悪魔の所業だ」

「…少し黙ってくれませんか」

 藤原はゆったりと両腕を伸ばすと、ぎろりとした目で五人の魔術師を見た。

「決着をつけましょう。どちらの正義が正しいのか、そしてどちらの描く世界が実現されるのか決めるために」

 七賢人の五人を前にしても、藤原に怯んだ様子はない。自身を取り囲むように紋章を多重展開し、身構える。

「望むところだ。この戦い、必ず勝つ!」

 白髪の男の声を合図にしたかのように、両勢力は一斉に魔法を放った。強い魔力と魔力がぶつかり合い、爆風が吹き荒れた。


「行くぜ、兄貴!」

「ああ!」

 一方、江原兄弟も活躍を見せていた。

弟の想が中距離から火炎弾を放って敵を牽制し、隙の生じたところに兄の悠が襲いかかる。相手の胸に掌打を叩き込むと同時に「ゼウス・アタック」を発動して電流を流し込み、瞬時に敵を無力化する。息の合った連携攻撃で、二人は既に多くの敵を撃破していた。

今まで倉橋や「覇」を相手に苦戦することも多かった彼らだが、決して魔術師としての力量が劣っているわけではない。実際、倉橋烈にやられたのは奇襲を受けたという側面が強い。「覇」に退けられたのも、堕天使の攻撃に咄嗟に反応できなかったからだ。相手の手の内が分かっていれば、対処する方法は十分にあった。

ふと、視界の端にガーゴイルの背に乗って飛び立つ高木賢司の姿が映った。いや、彼だけではない。杉本宗一の他の二人の弟子も一緒だった。

「あいつら、無茶しやがって…ボディーガードを差し置いて何やってんだ。これじゃ俺たちの面目丸つぶれじゃねえかよ」

 アレスプロテクターを纏った男の回し蹴りを躱し、露出した顎にカウンターのアッパーカットを見舞って気絶させる。呼吸を整えながら、想はぼやいた。

「そうならないように急ぐんだろ」

 悠はそれに応じつつ、展開した紋章から冷気を放って敵の全身を氷で包んだ。

「とっとと片付けて、彼らを援護しに向かおう」

「了解だ、兄貴」

 二人は小さく頷き合うと、猛然と向かってくる融和派の構成員らを果敢に迎え撃った。


『ゼウス・アタック』

 倉橋の召喚したガーゴイルが急降下し、高木へと突進する。

 その頭部を雷撃の槍が直撃し、悪魔を模した魔像の上半身から激しくスパークが上がった。よろめいたガーゴイルは一旦高度を上げて間合いを取ると、倉橋の傍らに着地した。

 倉橋が、訝しげな視線を乱入者へ向ける。高木は目を見開き、ビルの非常階段から屋上に現れた魔術師を見た。

「…師匠!」

 杉本は荒い息をつきながらもしっかりとした足取りで歩き、高木の右に並んだ。そして、血を吐き体を震わせて倒れている北野へ、力を使い果たしぐったりとしている篠崎へと目をやった。

 最後に倉橋の攻撃でボロボロになった高木を見ると、杉本は倉橋へと視線を戻した。

「…これ以上、俺の弟子を痛めつけることは許さん」

 言葉の端々から、憤りが滲んでいた。

 倉橋はそんな彼を興味なさそうに見ていた。ガーゴイルが魔力で傷を修復し終え、再び使役者の前に立つ。

「邪魔が入ったか。けれど、君一人が加わったところで、勝ち目はないよ」

「―一人じゃないぜ」

 そこに、屋上のフェンスを飛び越えて江原想が降り立った。「ガイア・アタック」を使いビルの外壁に足掛かりを作った彼は、自身に筋力強化の魔術をかけてそこを駆け上がってきたのだった。続いて、兄である悠も静かに着地する。

「俺たちも混ぜてもらうよ」

 悠はそう言い放ち、高木の左に立った。想もそれに倣う。

 並び立った四人の魔術師。その陣容を見ても、倉橋は顔色一つ変えなかった。残酷な笑みを浮かべ、高木たちに対峙する。

「悪あがきをするのなら、容赦はしない」

「…上等だ」

 燃えるように痛む腹を押さえていた右手をゆっくりと下ろし、高木は言った。

「お前は俺たちが絶対に止める」

 不規則な呼吸を繰り返し、力なく横たわっている篠崎。ひどい怪我を負い、動くこともままならない北野。

 自分一人では、倉橋には及ばなかった。二人が共に戦ってくれたからこそ、高木は今生きていられるのだ。彼女たちの払った犠牲は決して無駄にしない。何としてでも、融和派の野望を阻止してみせる。

 いや、彼女たちだけではない。先ほどガーゴイルの攻撃を防いでくれた杉本。以前融和派の刺客に襲われたとき、高木を守るため奮闘してくれた江原兄弟たち。

当初は最強の魔術師に一人で挑もうとしていた自分が何だか恥ずかしくて、ちっぽけな存在に思えてしまう。

(…俺は色んなことを抱え込もうとしてしまって、大切なことを見落としていたのかもしれない)

 高木の瞳に、熱い闘志の炎が再び燃え上がった。左右に並んだ杉本と江原兄弟の存在が、これまでになく頼もしく感じられる。

(俺は今まで、かけがえのない仲間たちと一緒に戦ってきた。仲間がいたから、ここまで戦い抜くことができたんだ)

 絆の力を信じ、高木は再起する。

『ハーデース・アタック』

 紫の巨大な紋章を頭上に投射し、ガーゴイルを召喚し直す。降臨した魔像が咆哮し、倉橋の操るガーゴイルが負けじと唸り声を上げる。

 穏健派の四人の魔術師たちは一瞬視線を交わし、首を縦に小さく振った。

 行こう、という合図であった。

 最後の戦いがもたらすのは破滅か、それとも創造か。

 世界の命運は、四人の魔術師に託された。


 二体の悪魔像は、互いに相手の腕を掴みがっちりと組み合った。

 倉橋の使う冥界術の力は、高木の能力をコピーしたもの。つまり、力量は互角である。当然二人が操る使い魔の力にも差はなく、ガーゴイルは掴み合ったまま高く舞い上がった。

 倉橋の使役する魔像が力任せに腕をふりほどき、翼を広げて後方に水平移動する。膠着状態から脱した二体は空中戦を展開し、翼をはためかせたガーゴイルらが空中を滑るように飛んで相手に突進する。両者は何度もぶつかり合って火花を散らし、一歩も退かなかった。

 高木は杉本と兄弟の方を振り向いて言った。

「使い魔は俺が食い止めます。師匠たちは倉橋を!」

 無言で頷いて高木に答えると、杉本は「ヘルメス・アタック」を発動した。一瞬で間合いを詰め、倉橋へ攻撃を仕掛けに行く。

「おう!」

 一拍遅れて、江原兄弟もそれに続いた。

 倉橋は視線をガーゴイルから離し、使い魔に戦闘を継続するよう命令を送った。あとは放っておいても、闘争本能の赴くままに戦ってくれるだろう。

 そして、排除すべき新たな脅威へと目を向ける。

『ゼウス・アタック』

 倉橋の眼前にまで迫った杉本が左手を突き出し、至近距離から雷撃を放った。だがそれと同時に発動された「ポセイドン・アタック」により、氷の盾が倉橋の前に形成される。

 盾が稲妻を受け止めたかに思われた瞬間、氷の障壁の下部が融解した。

 高電圧を受けたために氷が熱を帯び、溶けたのではない。倉橋の巧みな操作による意図的なものであった。高木の遺伝子を取り込んだ際に、冥界術の技能だけではなく高木の得意魔法の適性までも向上していたのだ。

 やがて盾は完全に液体に変化し、透明な水が杉本のズボンへと滴り落ちた。

 帯電した状態のままで。

「ぐっ…!」

 足に痺れるような痛みが走り、杉本が顔を歪める。バランスを崩してふらついた隙を、倉橋は見逃さなかった。

 刹那体を沈めたように見えた後、体重を乗せた回し蹴りを右足で繰り出す。アレスプロテクターで破壊力を極限まで高められた一撃が杉本の胸部に命中し、ドン、と鈍い音が響いた。

 とてつもない衝撃を受け、杉本の体が大きく吹き飛ばされる。落下防止柵に体を打ちつけ、高木の師は苦しそうに呻いた。

「―俺たちが相手だ!」

 杉本が退けられたのを見ても怯まず、江原兄弟が倉橋に果敢に立ち向かっていく。

『アレス・アタック』

 中間魔法で筋力を強化し、プロテクターを装着した倉橋に対抗。兄弟は跳躍し、二方向から敵に躍りかかっていった。

『アポロン・アタック』

『ゼウス・アタック』

 想が超高熱の火球を、悠が空気中のプラズマを一点に集めた光の渦を撃ち出す。

 その両方に、倉橋は冥界術を使い紋章の盾を生成することで完璧に対処してみせた。兄弟の放った魔術が紫のバリアに阻まれ、火花を散らして消える。想が唇を噛んだ。

「…まだまだ!」 

 二人は着地し、想は右から、悠は左から回り込むようにして相手に迫る。魔法で強化された脚力により凄まじい移動速度が発揮され、気づけば彼らは倉橋の懐に潜り込んでいた。その動きは非常に滑らかでかつ無駄がなく、兄弟が今まで鍛錬に費やしてきた膨大な時間が容易に想像できる。

「この間の借りは返させてもらうぞ!」

 悠が言い放ち、左手の拳を硬く握る。それに応じ、想も右拳を握り締め力を溜めた。

 術式の多重展開が可能な新型デバイスなら、冥界術による防御を何度でも繰り返せる。かたや、こちらは体力の消費を伴う天界術しか使えない。長期戦で分が悪いのならば、接近戦に持ち込んで一気に攻撃し、ガードする暇を与えずに倒すしかない―それが二人の導き出した結論だった。

 黒く頑丈な強化スーツで覆われていない顔面を狙い、兄弟が勢いよく拳を振るう。

 しかし倉橋はにっと笑い、二人の放った渾身のパンチを両の掌で受け止めてみせた。アレスプロテクターの効力が余すところなく発揮され、破壊力を完全に殺すことに成功している。

「何…⁉」

 予想外の行動に悠は驚いたが、敵との距離がゼロであることに変わりはないと思い直した。今魔法を放てば、回避はほとんど不可能。この瞬間に賭けるしかない、と魔法陣を倉橋の目の前に展開する。

 けれども、次世代型のウォッチによる術式発動の方がゼロコンマ数秒ほど早かった。

 拳を受け止めた倉橋の両手の上に、黄色の紋章が投射される。合わせられた掌から高圧電流を一気に流し込まれ、江原兄弟はがくりと膝を突いた。

 その体を蹴り飛ばして脇に押しやると、倉橋は再び杉本に視線を向けた。

 上空では、ガーゴイルたちが依然として戦闘を続けている。使い魔のコントロールをしている高木には、杉本らに加勢することができなかった。仲間が必死に戦っているのに何もできないというもどかしさだけがあり、歯痒かった。

 よろめきながらも杉本が立ち上がり、左腕を前に出す。放たれた一筋の雷光を、倉橋の繰り出した紫のレーザー光が迎え撃った。

 二筋の光が激突し、光と闇が拮抗したのは一瞬だった。次の瞬間、僅かな差で押し勝ったレーザー光が杉本の肩を貫いた。倒れた杉本の手首を狙って倉橋が第二射を放ち、今度はマジック・ウォッチに命中させる。白色だったウォッチは黒く焼け焦げ、スパークを上げて砕け散った。

 とどめだとばかりに、倉橋が左手をすっと構える。杉本は片手で肩を押さえ、苦しげに息をしていた。デバイスを破壊され、もはや防御手段はない。

(―小僧、行け!ここは俺が引き受ける)

 そのとき、頭の中に低い声が轟いた。紛れもない、ガーゴイルの思念だった。

(…駄目だ。今冥界術を使うのを中断したら、奴だけが一方的に使い魔を使えるようになる。そうなれば、俺たちは全滅だ)

 耐えるように歯噛みし、高木はそう念を送った。

(俺のことなら大丈夫だ)

 しかし、続くガーゴイルの言葉は思ってもみなかったものだった。

(―あの黒い光の柱の影響がある今なら、お前の術による縛りがなくともしばらくの間はこの世界にとどまっていられる。お前の命令がなくとも、俺は戦えるということだ)

(そうか)

 確かに、異界の存在を無差別に召喚する魔法がはたらいているこの状況でならそれも可能かもしれない。彼の言葉を信じ、賭けてみたいと高木は思った。

 だが、一つ疑問が残る。

(…どうして、俺なんかのためにそこまで)

(―俺はお前のことが気に入った。それだけだ)

 ガーゴイルは相手にタックルをかまして宙を舞わせ、体勢を立て直す前に力を込めて尾を叩きつけた。倉橋の操る魔像が苦痛に叫び、大きく高度を下げる。屋上に墜落することは免れたものの、相当なダメージを負ったようだ。ガーゴイルは肩で息をしながら、その後を追った。

(―契約したばかりの頃は、お前のことはまだ青臭い半人前の魔術師だと思っていた。…が、お前は俺の想像を超えていた。お前はいつも仲間のためを思い、正しいことのために力を使った。自らを犠牲にしてまでも、大切な存在を必死で守ろうとした。長い間生きてきて何人もの魔術師と契約を交わしたが、お前ほど見どころのある奴は初めてだった)

 剛腕を振るい、敵の胸部にストレートパンチを叩き込む。

(お前が世を去るとき、その魂を頂く。その代わりに力を貸し与える―そういう約束だった。だが、今だけは特別だ。俺は契約によってではなく、自分の意志で奴らと戦う!)

 ガーゴイルが倉橋の使役する魔像の腕を掴み、引っ張るようにして上昇する。向かう先には、黒と光に輝き屹立する光の柱があった。

 高木と使い魔のやり取りは、瞬きするほどのほんの僅かな間に行われた。

(ああ…頼んだ!)

 高木は意を決し、冥界術の発動を中断した。しかしガーゴイルの姿は消えず、二体は組み合い、激しい肉弾戦を繰り広げている。

 すぐさま魔術を発動し、杉本の前に土の障壁を築く。倉橋の放った閃光がそれに防がれ、スパークを飛ばして霧散した。

「…何だって?」

 倉橋は驚いたように高木を見た。

「何故、僕たちのデバイスなしで術の併用を…?」

 そのとき遥か上空で甲高い叫び声が聞こえ、倉橋、高木は反射的に空を仰いだ。

 見れば、高木のガーゴイルに引きずられるように倉橋の使い魔が光の柱の中に突入するところだった。もう一体の魔像は激しく抵抗しているが、ガーゴイルは相手を掴んだまま放そうとしない。共に、光の中に姿を消そうとしている。

「ガーゴイル!」

 高木は思わず、叫んでいた。

(―ゲートをくぐり抜け、こいつ共々向こうの世界に戻る。それくらいしか時間を稼ぐ方法が思いつかん…高木、俺が食い止めている間に術者を止めろ!)

 最後にガーゴイルがこちらを見下ろし、ふっと笑った気がした。

 なおも喚いているもう一体のガーゴイルをがっちりと掴んで離さず、彼は光の中に突っ込み、消えた。

 最後にやっと自分のことを名前で呼んでくれたことが、認められたようで何だか嬉しかった。ありがとう、と心の中で呟いた声は、彼に届いたであろうか。

「理解不能だよ」

 二体の魔物が消滅する光景を目の当たりにし、倉橋は信じられないとばかりに幾度となく首を振った。

「まず、君が冥界術と天界術を併用できた理由が分からない。両者は本来相容れないもので、僕の使っている新型デバイスを用いない限り同時には発動できないのに」

 そして首を傾げ、高木をじっと見つめる。

「それに、僕の使い魔が君のに競り負けたのもあり得ない現象だよ。僕は君の遺伝子を…魔術的な特性をコピーした。冥界術において同等の力が発揮されないのは、理屈に合わない」

「…お前は、二つ勘違いしてる」

 高木は彼を見返し、静かに告げた。

「一つは、俺は術を併用してなんかないってこと。俺の相棒は、命令によってじゃなく自分の意志でお前と戦うことを選んだんだ。…そしてもう一つは、お前は過去の俺をコピーしたに過ぎないってことだ。今の俺は、あのときより強い」

 目を見開いた倉橋に、高木は続けて言った。

「俺は皆を守るため、戦い続けてきた。父親の言いなりになって戦っているだけのお前じゃ、俺の進化には追いつけない」

「…進化だって?よく言うよ」

 倉橋は意地の悪い笑みを浮かべ、推し量るように高木を眺めた。

「僕に完膚なきまでに叩きのめされておいて、よくもまあそんな大きな口が叩けるね。もう君の肉体は限界が近いはずだ」

「いちいちうるせえよ」

 高木は顔をしかめて適当にあしらうと、真剣な表情に戻った。

「…お前こそ、人のこと言えないんじゃないのか」

 先刻、倉橋は冥界術で江原兄弟の攻撃を防御した。それまでは天界術メインで戦っていた彼が防御に冥界術を使ったのは、体力を温存する意味合いが強かったのではないかと推測していたのだ。

 「ハーデース・コネクト」と「ヘブンズ・コネクト」。二つの術を継続的に発動している影響で、倉橋の体力はかなり削られているはずだ。事実、額には絶えず汗が浮かんでいる。図星だったらしく、倉橋が悔しそうな表情を垣間見せた。

「…決着をつけよう。倉橋」

「僕も…そのつもりだ!」

 二人の視線が交わり、両者は屋上の硬いタイルを蹴って走り出した。

 これが正真正銘、世界の運命を決する最終決戦となる。

 かくして、高木と倉橋の一騎打ちは始まった。


『ヘルメス・アタック』

 加速魔法を発動した高木が疾駆する。対する倉橋も、アレスプロテクターの補助を受けて力強く突進する。

 激突するかと思われた瞬間、高木が跳躍して倉橋の頭上へ移動した。空中で身を捻り、左手を振るって氷の弾丸を放つ。倉橋は素早く冥界術を使い、紋章の盾で攻撃を防いだ。

 着地した高木へ振り向き、倉橋が再び彼と対峙する。

『ハーデース・アタック』

『リピート』

 刹那、無数の紫の魔法陣が高木の周囲の空間を覆いつくした。半球を形作るようにして投射された紋章が輝きを帯び、それぞれの中心点から一斉にレーザー光が放たれる。

「くっ…!」

 高木は咄嗟の判断で、半球状に展開された紋章の一方向に向かいタックルを仕掛けた。体が紫色の光の中をすり抜け、どうにか射程圏外に逃れる。

 だが同時に、右足首に鈍い痛みが走った。さっと視線を落とすと、躱し損ねた数本の光線が足首を貫いていた。グレーのソックスもその下の皮膚も、醜く焼け焦げている。

 息を荒げ、片足を引きずるようにして立つ高木を見て、倉橋が笑みを漏らした。仕留め損ねはしたが、動きは封じた。勝つのは自分だと確信したのだろう。

「…これで、終わりにしよう」

 そう言うと彼は左手を高木へ向け、マジック・ウォッチの照準を合わせた。

 高木も同様に身構えたが、再び双方の間合いが開いた今、単純に魔術を撃ち合えば火力で押し負けてしまうのは明白だ。その点では、術式を多重展開できる向こうに分がある。ゆえに彼は、必死で打開策を模索した。

(何か…何か手はないのか)

 まず、冥界術を使うという選択肢はない。レーザーで攻撃してもプロテクターに反射されるのでは意味がない。

 当然天界術しかないわけだが、まともに動くことすらままならないこの状況をどうすればいいのか。右の足首には断続的に痛みが押し寄せ、倉橋の殴打を喰らった腹には相変わらず激痛が走っている。

『ハーデース・アタック』

『リピート』

 倉橋が再度術式を発動した。今度は横並びに紋章を複数展開し、攻撃範囲を限界まで広げている。大きな長方形を描くように投射された紫の魔法陣が、光を帯びる。

 高木の取り得る選択肢は、一つしかなかった。

 被弾覚悟で相手に突っ込み、至近距離から術を浴びせて速攻で倒す。それ以外に方法はない。高木は左手を下ろし、足元へ青の紋章を展開した。

『ポセイドン・アタック』

 幾つものレーザー光が撃ち出され、標的を焼き尽くさんと襲いかかる。

 灼熱の地獄の中を、高木が滑るように進む。高木が足を踏み出す先に氷の膜が張られ、次の一歩を踏み出すときにも進行方向に氷の道が形成される。スケートの要領で一気に加速し、高木は倉橋へ一直線に迫った。

 もちろん、ノーダメージで済んだわけではない。肩を、脇腹を、大腿部を、次々にレーザーが射抜いていく。噴き出す鮮血でシャツが真っ赤に染まり、意識が遠のきかける。だが高木は歩みを止めず、ついに倉橋の眼前まで肉薄した。

 思いもよらぬ捨て身の戦法に、倉橋は狼狽の気配を見せた。けれどもすぐに冷静さを取り戻し、銀の腕時計型デバイスを高木の胸に向けた。

「そんなに死にたいのなら…一思いに終わらせてあげるよ!」

 発動されたのは「ゼウス・アタック」。雷が唸りを上げ、近距離から放たれた。

 高木が体を深く沈め、スライディングするようにして倉橋の脇をすり抜ける。稲妻が空を切り、霧散する。倉橋の背後に回り込んだ高木はそこで術の使用を止め、攻撃用の魔法に切り替えた。タイルに手をついて立ち上がり、左腕を倉橋へ向ける。

 振り返り、障壁を展開しようとした倉橋の足元が、突然陥没する。屋上の床が大きくへこみ、足元をすくう。

「何…⁉」

 バランスを失った倉橋はふらつき、背中から倒れ込んでしまった。

あえて目を向けなくても、誰が放った魔法なのか分かった。

(篠崎…ありがとう)

 遥か後方で、安堵したように吐息を漏らす音と、静かに腕を下ろす気配があった。

残された最後の力を振り絞り、高木に好機を与えてくれたのだ。既に体力は限界を迎えていて、「ガイア・アタック」の行使にもかなりの負担が伴ったはずだ。彼女が命懸けでつくったチャンスを、無にするわけにはいかない。

「倉橋…今、目を覚まさせてやる!」

 高木は右足を引きずりつつも、陥没して生じた穴の縁まで懸命に駆けた。横たわる倉橋が彼に気づき、魔法を放とうとする。しかし、デバイスを発動直前の待機状態にしていた高木の方が、一瞬早かった。

 それが、勝負の決した瞬間だった。

 放たれた一筋の紫電が倉橋の胸に命中し、強化スーツ越しに高圧電流を流し込む。命を奪う気は毛頭なく、威力は調整してある。致命傷にこそならないが、意識を刈り取るには十分だった。

 手足をぴくぴくと痙攣させた倉橋は、何かを語りかけようとするように穴の底から高木を見上げた。しかしそこで意識は途切れ、彼は瞼を閉じたまま動かなくなった。

 それとほとんど同時に、ビルの側方で輝きを放っていた光の柱にも変化が生じた。白と黒、二色の眩しく強大な光が徐々に薄れ、やがて静かに消滅した。

 高木はただぼんやりと、その光景を眺めていた。

(これで、全て終わったのか…)

 地上と異界を繋げる魔術の使用は、術者が意識を失ったことにより強制的に中断された。もうこれ以上、怪物たちがこの世界に現れることはないだろう。

 ほっとしたのも束の間、体から力が抜けた。がくりと膝を突き、そのまま屋上の冷たい床の上に倒れ伏す。

 か細い声で篠崎が何か叫ぶのが、最後に聞こえた。


 目を覚ますと、白い天井が見えた。柔らかい掛け布団の感触で、ベッドに寝かされていることが分かる。着せられている薄い青色の入院着は、ほとんどぴったりといっていいサイズだった。

 力を入れると、意外と難なく体を起こすことができた。倉橋に殴られた腹部は、今はさほど痛まない。推測だが、回復魔法で応急処置を施されある程度傷を塞がれた後、この病院に運び込まれたのではないだろうか。通常の医療技術だけに頼ったにしては、怪我の治りが早い。

 そう、本来ならばこれが正しい魔法の使われ方なのだ。破壊や殺戮のために魔術を使うなど間違っている。誰かを助け、笑顔にするための力。それが、魔術だ。

 改めて広い病室を見回してみると、斜め向かいのベッドに寝ていた少女と目が合った。軽く手を挙げて挨拶する。

「…おう、北野」

 同じく入院着を纏った彼女は腕に包帯を巻いていて、ベッドの脇には松葉杖も置いてある。倉橋の使い魔にやられたダメージはかなり大きかったようだが、ベッドの縁に腰掛けて片手でスマホをいじっている姿は元気そうに見えた。

「何なの、その薄いリアクション」

 携帯の画面から顔を上げ、不機嫌そうに呟く。ツインテールにした黒髪が揺れた。いつも通りの憎まれ口が、今日は全然嫌味に聞こえなかった。

「ともかく、お互い生きてて良かった」

「まあね」

 つれない口ぶりで言うと、北野はスマホを耳に押し当てた。片手のみで操作しているため、やや動作がぎこちない。

「もしもし、師匠?…高木が起きたから、皆を連れてきて。…うん、それじゃ」

 手短に通話を終わらせた彼女に、高木は聞きたいことが山ほどあった。

「なあ、俺が気を失った後、何があった?」

「…簡単に言えば、事後処理」

 北野は顎に手を当てて考え込むような素振りを見せ、混乱した状況を振り返った。

「あたしたちが必死で戦っている間に、穏健派は融和派の勢力ほぼ全員を無力化したらしいの。あんたが気絶してしばらくしてから彼らがビルに到着して、負傷者を病院に搬送したってわけ。師匠が魔法で手当てしてくれたから、あんたもあたしも死なずに済んだ。もちろん、可愛い後輩もね」

 やけに「可愛い」を強調した北野だったが、高木は深くその意味を考えることをしなかった。

「そうか…篠崎は今どこに?」

「別の病室。でも、もうすぐ来ると思う。あたしみたいに目立った外傷があるわけじゃないし、歩けないなんてことはないから」

 高木は心の中で、ほっと息をついていた。彼女がいなければ、最後の戦いに勝利できたか分からない。篠崎は自分にとって命の恩人であり、大切な存在だった。

 この病室には四つベッドが置かれていて、他の二人の患者はぐっすりと眠っている。壁にかけられた時計を見ると、午後二時を回ろうとしていた。窓から差し込む日差しは明るく、眩しい。お昼寝にはもってこいの気候だった。

『時刻は午後二時になりました。ニュースをお伝えします』

 そこで、壁際に置かれたテレビが二時を告げた。アナウンサーが手元の原稿に時折目を落としつつ、内容を読み上げる。

『昨日都心で発生した局所的な地殻変動により、街は甚大な被害を受けました。被害状況を、現場の―』

 驚くというより呆れてしまい、声も出なかった。

「……地殻変動ってことになってるのか」

 騒ぎが起こった当初は、魑魅魍魎が市民を攻撃している映像が間違いなくマスコミによって流されていたはずだ。それがどうしてこうなったのか。

「結局、人間って生き物は自分の信じたいことしか信じないから」

 達観したような北野の物言いは妙に様になっていて、大人びて見えた。

「それに、これは師匠から聞いた話なんだけど、融和派の一部が計画を実行する前にメディアに働きかけていたみたいなの。穏健派に情報が流れにくくするための工作のつもりだったんだろうけど、それが今になって効力を発揮したってわけ」

「…なるほど。こんなかたちで敵に助けられるとは、皮肉なもんだな」

 混乱が生じていた当時は報道統制し切れていないように感じたが、融和派の思惑が狂い、思いもよらない結果をもたらしたようだった。人類が魔法の存在を知ることになるのは、まだまだ先の話になりそうだ。

 ニュースは続いており、今は被害現場が映されていた。抉られた道路、崩壊した高層ビル。何台もの車が付近に停まっている。建設業者たちがせわしなく通りを行き来し、何事かを話し合っている。瓦礫は大方撤去されていて、破壊されたビルの解体作業もあちこちで進められている。総じて、修復作業は順調に進行しているといえた。

 そう、人は何回だってやり直すことができる。

 何度間違え、道を踏み外したとしても、過去から学ぶことで未来を創ることができる。それが人間の無限の可能性なのだ。

融和派は人間存在を、人類の未来を否定したが、彼らは人の秘めた力に目を向けることができなかった。それが彼らの限界だった。


不意に病室のドアが横にスライドして開き、杉本と篠崎が入ってきた。

杉本はスーツ姿だった。回復魔術で自身の怪我の治療を手早く済ませ、入院する必要もなかったらしい。一方篠崎は入院着で、若い看護師に付き添われている。まだ若干衰弱している様子の彼女は、高木を見ると泣き笑いのような表情を浮かべた。

「先輩…よかったです、無事で」

「ああ」

 高木も照れくさそうに微笑む。

「色々ありがとな。篠崎がいなかったら、倉橋を倒せたかどうか怪しかった」

「いえ、そんな…」

 頬を赤らめた弟子を横目で見やり、杉本は咳払いを一つした。弛緩し切っていた空気が引き締まる。

「決戦を終え積もる話もあるところだろうが、ちょっと時間をくれ。俺から話しておきたいことがある」

 そして高木に向き直り、告げた。

「まずは、よくやったな、と言わせてくれ。お前の活躍で、世界を蝕む脅威は去った。師として誇りに思っている」

 高木が頭を下げたのを見つつ、杉本は苦々しげに付け足した。

「…脅威は去ったと言いたいところなんだが、異界と地上を繋ぐ門は閉じられたものの、そこから発生した怪物たちの討伐はまだ終わっていない。穏健派が総力を挙げて駆除を行っていて、今のところ目立った被害は出ていないが」

「海外には被害はなかったんですか?」

 顔を上げ、高木は純粋な疑問を口にした。光に柱から現れたものたちの中には、高い飛行能力を有する個体も多かったはずだ。彼らが外国まで移動するのにさほど時間はかからなかったろうし、現地で暴れればかなりの被害が出たに違いない。

「多少はあった。だが、さほどではない」

 杉本は軽く笑って言った。

「日本国内に穏健派や融和派といった組織があるように、諸地域や国ごとに魔術師のグループが存在している。融和派が行動を起こした時点で、魔法協会から各組織にその旨は伝えられていた。結果、それぞれの地域で魔術師たちが迅速に対応し、被害を最小限に食い止めたということだ」

 魔術師の組織は一枚岩ではなく、緊密な連携がとられている。自分たちだけではなく、他の数多くの魔術師たちの協力で事態を収束に向かわせることができたのだと実感できた。

「…それと、融和派の処遇についてだが」

 杉本は説明を続けた。

「二条と、その側近であったコードネーム『覇』、そしてナンバースリーの藤原。彼らには、魔法界からの永久追放と多額の賠償金が課され、また魔術的意味を持つ道具全ての押収が行われた。七賢人は彼らから得た賠償金を全額民間団体へ寄付し、復興の助けにするつもりらしい。融和派上層部の他の魔術師たちにも、これよりは軽いが同様の処罰がなされた」

 淡々とした口調で語られているが、それは実質的に彼らが魔術師でなくなるということを意味していた。デバイスや魔導書の全てを失えば、残るのは自分の頭の中にある魔術的知識だけだ。しかしマジック・ウォッチに頼り切っている現代の魔術師が、一体どれほどの知識を有しているというのか。せいぜい、応急処置に使う回復魔法の手順くらいであろう。実戦的な力はもはや残っていないはずだ。

「融和派は解散が決定され、計画に加担していなかった末端の構成員の一部は穏健派に転向することを決めている。また新型デバイスやアレスプロテクターは全て押収され、悪用されることのないよう穏健派が保管している。現状はこんなところだ」

「…説明、ありがとうございます」

 高木はもう一度一礼した。

どうやら融和派は権力を失い、彼らの計画は完全に潰えたようだった―ただ一つ、気がかりな点を除いては。


それについて尋ねようとすると、ちょうど「威」が病室に足を踏み入れたところだった。グレーのパンツスーツを着こなした「威」は、高木たちに会釈した。彼女もまた、すっかり回復したらしい。さすがは回復魔法の名手といったところか。

「元気そうで何よりね」

「そっちもな」

 応じつつ、「何故俺の病室を知ってるんだ…」という当然の疑問が浮かぶ。やや当惑した高木に、北野が手短に伝えた。

「この人も呼んでおいたの。新しい穏健派の一員だから」

「なるほど…って、え⁉」

 ほうほうと頷いて耳を傾けていたが、台詞の後半に度肝を抜かれてしまった。驚きを隠さない高木を見て、「威」がくすくすと笑う。

 こんなに優しそうに微笑む彼女を見るのは、初めてかもしれなかった。多分、これが本来の彼女自身なのだろう。

「驚くのも無理ないわよね。でも、色々と考えた末に決めたの。私たち過激派のしたことは、決して許されることじゃない。けれど、今の私にできることはその罪を償うことだって思ったから。これからは全面的に穏健派に協力して、まだこの世界に残存している魔物を退治するのに全力を尽くす。私の持っている冥界術や回復魔法の知識も、穏健派に提供したいと思っているわ」

「今回の件で、彼女は大きな活躍を見せてくれた。七賢人は彼女の過去については深く問わず、寛大な処分にするとのことだ」

 杉本はそう補うと、きまり悪げに言った。

「…それはそうと、コードネームで呼ぶのも何だか気が引ける。失礼かもしれないが、名前を聞いてもいいだろうか」

「もちろん」

 「威」は笑顔で頷き、実に久しぶりに自身の名を名乗った。

「―久松明日香よ。改めてよろしく」

 慕っていた黒田に貰った二つ名を捨てるのは名残惜しくもあり、新しい人生の始まりを予感させるようでもあった。

(優一、黒田様、そして皆…私、頑張るから。今度こそ、争いのない平和な世界を実現するために)

 柔らかな日差しが差し込む部屋で、明日香はそう誓った。


 そうして話に一区切りがついたのを見計らい、高木は切り出した。

「…ところで師匠、倉橋の処遇はどうなったんですか?」

「倉橋烈か」

 杉本は盲点を突かれたようだった。

「俺としたことが、伝え忘れていたな。彼もこの病院に入院している。処遇については正式には決定していない。もっともマジック・ウォッチを取り上げた上で監視の者を二名つけているから、万が一にも暴れ出すことはないだろう」

「病室はどこです?」

「三階の一番西の部屋だと聞いているが…」

 切羽詰まった調子で尋ねてくる高木を、杉本は訝しげに見た。と、次の瞬間、高木は布団を跳ね除けてベッドから降り、手早くスリッパを履いた。

「俺、あいつとどうしても話したいことがあるんです」

 体に倦怠感は残っているが、動くのに支障はない。「威」こと久松の脇をすり抜けるようにして、高木は走り出した。

「おい、高木」

 杉本の制止の声も聞かず、高木は病室を抜け出した。目指すのはもちろん、倉橋の眠る病室だった。


 病室の前に立っていた二人の男は、ややおぼつかない足取りでこちらに走ってくる高木を見て目を丸くした。

「君は…」

 視線をそちらに向けると、馴染みのある顔ぶれだった。けれども、今用があるのは彼らではない。

「悪い、中に入れてくれ。あいつと話がしたい」

 江原兄弟の返事も待たずに、高木はスライド式の扉に手をかけ、滑り込むようにして病室に入った。

 ドアをそっと閉め、ベッドに横たわる青白い顔の青年へ目を向ける。先のカールした柔らかい髪、鼻筋の通った美しい顔立ち。日に焼けていない細い腕。人間離れした美がそこにあった。

 倉橋は弱々しく微笑み、突然の見舞客を見上げた。

「…やあ」

「おう」

 短いやり取りを交わし、高木はふと、ベッドの脇に置かれたサイドテーブルへと視線を移した。ご飯に味噌汁、野菜炒め、魚の煮つけといった典型的な和食が皿に盛られ、木のお盆に載っている。料理はとっくに冷めてしまっていて、味噌汁からは一筋の湯気も立ち昇っていなかった。

「食べないのか?病院食」

 倉橋は、奇妙なものを見るような顔つきで高木を凝視した。敵同士だった相手にわざわざ見舞いに来て、最初にする質問がこれなのだ。奇異に感じるのも当然かもしれなかった。高木としては体調を気遣って何の気なしに問うただけなのだが、悪手であったか。

「…君は」

 倉橋はそこで一泊間を開けた。

「僕のことを憎んでいないのかい?」

 質問に対する回答を保留した上で、問いで返す。高木は苦笑いし、肩をすくめた。

「お前がやったことは許されることじゃない。けど、明確な悪意を持って行動したわけじゃないのは確かだ。…だから、嫌いにはなれない」

 目を瞬かせた倉橋に、高木は同じ質問を繰り返した。

「…で、食べないのか?」

 首を振り、倉橋は答えた。

「いらないよ。僕はもう、自分が何のために生きていけばいいのか分からないんだ…。慕っていた父さんや『覇』さんは魔法界から追放され、融和派も解散した。僕には何も残ってない。帰る場所もない」

 ため息からは、諦めが滲んでいた。

「それに、僕は以前ほどの力を失ってしまった。長時間術式を行使し続けたせいで、許容量を超える負担が体にかかったらしい。君と戦ったときのようには、今の僕は自由に魔法を使えないだろうね」

 自身の両手を見つめながら、倉橋はそう言った。

「僕は全てを失った。僕を支えてくれた人たちは皆遠くに行ってしまったし、魔術師としての技量も今では大したことはない。僕は一体、これからどうすれば…」

 しばらく沈黙が流れ、やがて高木がベッドに近づいた。倉橋の肩に手を置き、真剣な表情で話しかける。

「…倉橋、俺たちと一緒に来い」

 はっと顔を上げた彼の頬を、それまで堪えていた涙が一筋伝った。

「…えっ?」

「お前は、本当はすっごくいい奴なんだよ。ただ、二条の言いなりになって動いてしまっただけさ」

 初めて会ったときに彼が見せた無邪気な笑顔を、高木は忘れていなかった。

「こんな僕を、受け入れてくれるのか…?」

 掌へ再び視線を落とし、倉橋は痛みに耐えるように顔を歪めた。

「僕は人を殺したんだぞ。父さんに言われるがまま、末永という人を殺めてしまった…あのときの嫌な感触は、僕の記憶から消えることはないだろう。それに、異界から魔物たちを召喚したことでもっと大勢の人たちの命を奪ってしまった。僕は取り返しのつかないことをしたんだ」

「…確かに、お前の望む通りにお前を罰することもできる。でも、殴られて殴り返すだけじゃ何も解決しない。亡くなった人たちだって、納得しないはずだ」

 高木は肩から手を離し、静かに言った。

「お前は二条の計画によって生み出され、ずっと融和派の人間の下で育てられてきた。融和派の忠実な駒として使えるようにと洗脳され、訓練を受けてきた。倉橋を正しい生き方に導いて、罪を償う機会を与える―それが犠牲者の無念を晴らす最良の方法だと、俺は思う」

 そして軽く笑い、右手を倉橋の目の前に差し出した。

「人間は何度でもやり直せる。お前も、またやり直せるさ」

「…そうかな」

 伸ばしかけた手を引っ込めるのを繰り返し、倉橋はまだ逡巡していた。

「ああ」

 しかし、頼もしい高木の応答に、ついに心を決めた。力を入れて少しだけ上半身を起こすと、華奢な腕を持ち上げる。広げた掌が高木の手を取り、二人は固い握手を交わした。

「…ほら、ご飯食べないと体がもたないぞ」

 食事を口に運ぶのを高木に手伝ってもらいながら、倉橋はしばらくぶりに点滴以外で栄養を摂取した。これが生きるということの重みなのだ、と白米を口の中で噛みながら実感する。

 横目で高木を見やる。彼が何だか眩しく輝いて見えたのは、差し込んだ陽の光のせいだけではないはずだ。

(高木賢司…君は何てすごいんだ。敵だった僕を受け入れ、共に歩む道を選ぶだなんて…)

 その道は、決して平坦なものではないだろう。むしろ茨の道だ。元融和派の構成員であり世界を破滅へ導こうとした自分は、他の魔術師からすれば憎むべき存在である。周囲には反発する者も少なくないかもしれない。

高木だって、自分に何の恨みもないわけではあるまい。事実、彼の母親が死んだのは倉橋の属していた融和派の陰謀に巻き込まれたからだ。それでも彼は、全てを承知したうえで自分を、倉橋烈を仲間に引き入れたいと言ったのだ。今では高木は、自分なんかよりずっと大きな存在に思える。

自分の意志で決断するというのは、倉橋にとってほとんど初めての経験だった。だが、そこに迷いはない。

(ありがとう、高木…。君には感謝してもしきれない。僕はもう一度やり直す。今度は皆が望むやり方で、この世界を幸せで満たしてみせる)

 午後の日差しの中、二人は笑い合って過ごした。その様子をドアの隙間からこっそりと眺め、杉本は江原兄弟に安心させるように目くばせした。

 穏健派、過激派、融和派―三つの派閥間の争いはついに集結した。全ての魔術師が手を取り合う時代の始まった瞬間であった。


 その後、魔法協会は組織のあり方を改革することを決めた。つまり、あるべき状態に戻った。

 魔術師間の抗争は完全に終息し、戦闘用以外の魔法の研究が再開されたのだ。魔術師たちはグループに分けられ、日常的に用いられる無害な魔法もマジック・ウォッチに組み込めるよう、研究が始まった。

 マジック・ウォッチは融和派が生み出し、戦争の道具となったものだ。しかし、使い方次第では福音にもなり得る。迅速な術式の発動を可能にする画期的なデバイスの生産技術は、諸外国にも輸出された。日本のみが最新のテクノロジーを独占しては海外から不満の声が出るだろうと、七賢人が判断した結果である。


「…それで、何の用でしょうか」

 杉本は例の円卓の間に足を踏み入れ、テーブルを囲む五人の老魔術師に見つめられて姿勢を正した。

「よく来てくれた。実は、君に頼みたいことがある」

 白髪の老人が椅子からおもむろに立ち上がり、穏やかな笑みを浮かべる。

「過激派、そして融和派との長い戦いの中で、我々は多くの同志を失った。末永、そして松宮もその一人だ」

「…戦争が終わった今、慣例に従うのならば、七賢人は欠員を補充する必要があります」

 眼鏡の老婦人も、優しい視線を杉本に投げかけた。

「つまり、私に新たな七賢人の一員として加わって欲しいと?」

 恐縮して尋ねた杉本に、先ほどの老人は満足げに頷いた。

「そうだ。先の戦いで君の残した功績は、称賛に値する。次代を担う魔術師にふさわしい。老いぼれの勝手な頼みだが、引き受けてくれるか?」

 杉本はさすがに驚きを隠せず、しばし黙考した。しかし、やがて顔を上げて首を縦に振った。

「…微力ながら、今後の魔法界の未来のために全力を尽くします」

 その表情は実に晴れ晴れとしていて、一点の曇りもなかった。

 こうして杉本は、七賢人の第六席となった。


 予想よりも早くに退院が決まり、高木はスーツケースに着替えなどの荷物を詰め込んで病室を後にしようとしていた。入院着ではなく久しぶりに自分の服に袖を通すと、何だか新鮮に感じる。

 北野は治療にもう少しかかるらしい。怪我の程度が大きかったため、今しばらくリハビリに励む必要があるとのことだった。去り際にちらりとベッドへ視線を向けると、彼女はまんざらでもなさそうな口ぶりで言った。

「良かったじゃない、あたしより先に回復して」

「…なあ、それもしかして嫌味か?」

「別に。先に行ってて、すぐ追いつくから」

 勝気な笑みで応じた北野を見て、高木はふっと微笑んだ。

「…ああ。待ってる」

 そして、一週間ほど慣れ親しんだ真っ白な部屋に別れを告げた。

 病室の外に出た高木を待っていたのは、スライド式のドアの側に立っていた杉本だった。高木に気がつくと片手を上げ、歩み寄ってくる。

「師匠、昇進おめでとうございます」

 まず口をついて出たのは、当然のことながら祝辞だった。杉本が新たに七賢人になったという知らせはあっという間に広まり、今では知らない魔術師の方が珍しいだろう。融和派の最高権力者だった二条を倒したことはもちろん、これまでの彼の功績が認められたことが弟子として誇らしかった。

 思い返せば、杉本は過激派や融和派の魔術師を相手に命を賭けて戦い、幾度か死の淵に立ちさえした。北野を人質に取った「征」との激戦では、彼の召喚した大悪魔に苦戦を強いられた。「武」の奇襲攻撃を受けた際、高木を庇って重傷を負ったこともある。常に仲間のために体を張って戦う杉本の姿は眩しく見え、高木は彼を心から尊敬していた。

 杉本は照れくさそうな表情を浮かべ、苦笑した。

「ありがとう。おかげで仕事が忙しくてな、ここに来るのにも、所用の合間を縫ってどうにかという感じだ」

 どうも退院を祝いに来ただけというわけではなさそうだ。そうであれば、多忙なのにもかかわらず、わざわざ協会から離れた病院まで足を運ぶだろうか。高木に会いに来た理由は他にもあるという風に聞こえる。

「高木も退院おめでとう。生憎、時間がない。手短に要件を伝えよう」

 そう言って、杉本は鞄から一冊の分厚い書物を取り出した。表紙には複雑な紋様が描かれている。

「…これは?」

「冥界術の奥義書…融和派本拠地の保管庫に収納されていたのが発見され、先ほど穏健派の手に戻ってきたところだ」

 過激派が魔法協会の書庫から持ち出したと言われていた書物を、何故融和派が所持していたのか。高木には真相は分からなかったが、これもまた過激派と融和派が通じていた証拠なのだろうと思う。過激派が持っていた奥義書を、何らかの理由で融和派が引き取った―あるいは奪い取ったのではないか。

「…ってことは」

 師の言わんとすることを理解し、高木は息を飲んだ。杉本が頷き、続ける。

「内容を調べたところ、冥界術の契約の解除方法も記載されている。…倉橋が解き放ってしまった魔物たちは、先日穏健派が完全に駆逐し終えた。武器としてのみ魔法を使う時代は終わったんだ。今のお前は、魂の自由を奪われるのを代償にしてまで冥界術の力を借りる必要はない。これに書いてある手順に従って、契約を解け」

 杉本は奥義書のやや黄ばんだページをめくり、無数の半円を組み合わせた形の魔法陣が記されている章に行きついた。そこを開いた状態で高木に本を手渡し、説明する。

「この魔法陣を約五倍に拡大して書き、その中に術者が座るようにしてこの術は発動するとある。ページに汚れがない以上、これをそのまま拡大コピーして使えば問題ないはずだ」

 なるほど、確かに古式魔術は術を使うたびに魔法陣を書く必要がある。けれども「威」改め久松明日香のように紋章を記した紙を持ち歩いていればスムーズに発動できるし、書物に記されているものをコピーしても、手で複写するよりだいぶ手間を省くことができる。要は工夫次第というわけで、マジック・ウォッチで使えない複雑な術もこのようにすれば割と簡単に扱える。

 しかし高木には、別の考えがあった。

「いえ、多分その必要はないです」

「どういうことだ」

 訝しげに見つめる杉本の前で、高木はそのページに記載された魔法陣の上へ片手を載せた。

「俺が冥界術を会得したとき、儀式手順は踏んでいませんでした。ただ強く祈ること―それだけで意識を冥界へ飛ばすことができて、契約を結ぶことができたんです。だったら、その逆も可能なはずです」

 目を閉じ、心の中で異界の存在へ呼びかける。手を載せた紋章が熱くなった気がした。

 数秒後、高木の精神は闇の中へといざなわれていた。

 

『随分と久しぶりだね。今度は何が望みだい?』

 見上げるほどの背丈の最高位の悪魔、冥王ハーデースは高木を見下ろして言った。

深い青色の皮膚に覆われた肉体は筋肉が大きく隆起していて、纏っている修道士のようなローブの上からでもそれは明らかだった。

頭部には六本の角。何本もの尾の先には、鋭い毒針がそなわっている。さらに体には無数の蛇が絡みついている。冥界の時間の流れはこの世界と異なるというが、以前対面したときと何ら変わらぬ外見であった。

「契約を解除してくれ」

 それを聞くと、冥王はつまらなそうな表情を浮かべた。

『そうか…まあ、良しとしよう。現状、私が魔術師たちに貸し出せる戦力はあまりない。いくら術者の魂を手に入れられるとしても、冥界術の使い手が増えすぎてしまっては困るからね』

 倉橋烈が開いた異界の門から数多くの冥界の魔物たちが地上へ降り立ち、魔術師たちによって討伐された。「貸し出せる戦力はあまりない」とはそうした背景があるからだろう、と高木は思う。意志に反して呼び出され、戦うことを強いられた彼らもまた、この戦いの犠牲者であるといえるのかもしれない。

 そして、ハーデースは左手をさっと振った。掌から白く光る鱗粉のようなものが舞い落ち、そのうちのいくらかが高木の身体に触れ、吸い込まれるようにして消える。

 同時に、脇腹をひんやりとした感覚が襲った。契約の刻印が消されたのだ、と直感的に理解した。

「…これで終わりか?」

『ああ、全て完了した。君の魂は再び解放され、自由となった』

 拍子抜けするほどあっさりと儀式が終わったため、高木はあまり実感が湧かなかった。これからは冥界術を使うことができなくなると言われても、それは現実味を帯びたこととして現れてこなかった。

『君のような見所のある魔術師と契約するのは、実に久々だった。少しばかり残念だよ』

 なおも名残惜しそうに言う冥王に、高木は苦笑いして答えた。

「悪いな。でも、もう大丈夫だ。あんたたちの力を借りなくても、俺は十分やっていける」

 それは決して虚勢ではなかった。

 魔術師同士の戦争は終結し、兵器として魔法を使う必要はほとんどなくなった。否、それだけではない。数々の戦いの中で、高木はかけがえのない仲間たちに出会えた。たとえ再び魔法を悪用しようとする者が現れたとしても、彼らと一緒ならば絶対に負けないと信じられる。

『立派になったものだ』

 ハーデースは眩しそうに高木を見やると、出し抜けに指を鳴らした。

『では、さらばだ。若き魔術師よ』

 直後、紺色の肌をした悪魔の姿はかき消えた。あとには白い靄のようなものが残るだけだ。

 だが、高木には何の異変も起こらない。

「…ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 必死で呼びかけるが、返答はすぐには返ってこなかった。焦りばかりが募る。契約を解除しても現実の世界に意識が戻らないとなると、何のための契約解除なのか分からない。もしかすると、このままここに幽閉されたままになるのか―と悪夢のような想像が頭をよぎる。

 ふと、どこからか冥王の可笑しそうな笑い声が聞こえてくる。

『驚かせて悪かった。最後に、君にサプライズプレゼントをあげようと思ってね』

「…サプライズプレゼント?」

 聞き返してみたが、今度こそ本当に返事はない。

 代わりに、頭上から力強い咆哮が響いてきた。馴染みのある相棒の叫びだった。

「ガーゴイル!」

 無事でいてくれたことに安堵し、体から力が抜けそうなくらい嬉しかった。

 悪魔をかたどった魔像は翼を広げて下降し、高木の眼前に降り立った。石で造られた顔を高木に向け、語りかける。

(―高木、生きていたか。心配させおって。こちらの世界にいる間、やきもきしていたぞ)

「それはこっちの台詞だ。そっちこそ、あの後大丈夫だったのかよ」

(俺ならピンピンしている)

 ガーゴイルはやや胸を反らし、自慢げに言った。

(―倉橋の操っていたガーゴイルを食い止めておくなど、容易いことだ。あんな若造ごときに俺が負けるはずがなかろう。それに、光の柱が消滅すると奴も他の冥界の住人同様、自我を取り戻した。もはや戦意を失っている状態だった)

「またまた、調子よくしちゃって」

 そこで高木ははっとした。見れば、自分の体の輪郭が徐々にぼんやりとし、粒子化しつつある。この世界に留まれるタイムリミットは、刻一刻と迫っていた。

(―どうやら、お別れのようだな) 

 静かに言い、ガーゴイルは高木を真正面から見つめた。

(短い間だったが、お前と共に戦えて良かった。高木、お前は強い。俺も長く生きてきたが、お前ほど可能性を感じる魔術師に出会ったのは初めてだった。迷ったときは、自分自身の強さを信じろ。遠く離れていても、俺はお前の将来に期待している)

 表情を変えないはずの石の彫像が微かに笑った気がして、目頭が熱くなった。

「…俺も、お前と契約することができたのを嬉しく思ってる。お前は最高の相棒だ」

(―感謝するぞ、高木)

 高木が差し出した右手を、大きくごつごつとした冷たい左手が握り締める。

 やがて、視界が光に包まれた。

 現実へと意識が帰還する最後の瞬間まで、握手を交わした両者は微笑んで互いを見つめていた。


「終わったのか?」 

 高木が閉じていた目を開いたのに気づき、杉本が問う。

「はい」

 頷き、右手に視線を落とす。あのガーゴイルのことを忘れることは一生ないだろう、と高木は思った。彼との絆もまた、戦いの中で得た大切なものの一つだった。信頼し合える、かけがえのない仲間だ。

 奥義書を師に返して、高木はふと気になって尋ねてみた。

「そういえば、久松さんは契約を解かないんですか?」

 杉本は首を振り、言った。

「彼女にも高木にしたのと同じような説明をしたんだが、やんわりと断られてしまってな。今や彼女は、冥界術の知識を持ちその扱いにも長けた貴重な存在だ。その技術を無にするよりは、後世のために役立てる道を選んだんじゃないか」

「そうなんですね…」

 穏健派に転向し、自身の知識や技能をもって正しい目的のために貢献する。その姿勢は、今は亡き高木の母と重なるものであった。

 高木自身、戦いを終わらせようと奮闘した母の志を継いでいる。しかし、彼女の意志は別なかたちでも受け継がれているのかもしれなかった。

 人の思いは無限に繋がっていく。それこそが、人間の可能性でもあるのだ。


 杉本に礼を述べ、病院を後にする。

 しばらくぶりに自宅に帰れるのは嬉しいが、やらなければならないことを想像すると気が重くなる。レポート課題を急いで片付けなければならないし、明日の講義内容の予習もしなければならない。バイト先の飲食店にも、何かうまい理由をでっちあげて無断欠勤のわけを説明しなければならなかった。買い足しておかなければならない日用品だってたくさんある。

 けれども、不思議と足取りは軽かった。

 明日から始まる新しい未来は、輝いて見えた。


 穏健派は新体制を整え、魔術師たちをグループごとに分けた。

 古式魔法の発動手順を簡略化し、マジック・ウォッチに組み込んで実用的なものにすることが主な任務だ。班ごとに一つのテーマが課され、それにそって開発を進める。一連の作業は「共同開発」と呼ばれるようになった。

以前のような戦闘訓練はもう行われていない。戦闘用の魔法の開発に勤しむ必要がなくなり、魔術師たちはあるべき姿に戻ったのだ。

 高木の振り分けられた班は、彼と篠崎、北野、それに倉橋をメンバーに加え、江原兄弟が監督することとなった。テーマは水。水脈の場所の探知など、実生活で役立つような身近な魔法を使いやすくするための研究が主となる予定だ。師である杉本は七賢人としての責務を果たさねばならないため、江原悠、江原想が高木たちの指導や助言を行う役目を買って出たというわけである。


 倉橋は魔法協会に身柄を保護され、協会近くのアパートに住まわされている。高木や杉本の説得の甲斐あり、彼の所業に対する刑罰の執行には猶予がつけられた。今は経過観察のようなかたちがとられていて、監視付きという条件のもと彼の自由は確保されている。

「もしまた彼が世界に対する脅威となると判断したら、私たちは情けを捨てて処分する。そのときが来れば、君にも多数決による決定に従ってもらう…それでいいんですね?」

 倉橋の処理に関する書類に印鑑を押して杉本に返しながら、痩せた老人は険しい顔つきで言った。円卓についたまま見上げるその眼差しは、覚悟はあるのかと問うているようでもあった。

「分かっています」

 杉本は首肯し、老魔術師の気迫に怯まずに応じた。

「俺や俺の弟子たちが、彼を正しい道へ導きます。そのようなことは起こさせません」

「…結構です」

 老人はふっと微笑み、身振りで下がってよいと示した。まだ湯気が立ち昇っているティーカップに手を伸ばし、紅茶を一口飲む。

「倉橋君は、魔術への適性が誰よりも高い。融和派の行った人造魔術師計画は決して許されることではありませんが、彼の存在もまた、魔法界の一つの可能性を示しているのかもしれませんね…」

 中身はまだ熱かったらしく、老人はカップをテーブルに置くと顔をしかめた。自分の席に座り書類を整理していた杉本は、それを横目で見てくすりと笑った。


 その日の共同開発も無事に終わり、それぞれは帰路に着こうとしていた。

 魔術書を紐解きながら、そこに記された詠唱を簡単な数字や記号に置き換えることで簡略化。魔法陣の体系へと変えていき、マジック・ウォッチに読み込めるものとする。なかなか根気がいる作業である上に、今まで模擬戦中心の訓練しか受けてこなかった高木らにとっては未知の領域である。それでも、数をこなすうちにコツが掴めてきた。江原兄弟の示してくれる置き換えの方法も、だいぶ覚えてきつつある。

「…よし、今日はここまでにしよう。お疲れ様」

 数時間の作業が終わりを告げ、江原悠の合図で皆は解散となった。筆記用具や紋章を書くためのルーズリーフを鞄にしまい、高木は椅子を引いて立ち上がった。

各自、伸びをしたり携帯をいじったりとリラックスした様子だ。六人掛けのテーブルを囲んでいた一同は連れだって、協会の三階にある小会議室を後にした。階段を降り外へ出る。季節は夏真っ盛りで、冷房の効いた室内が少し恋しい。夕日は眩しく、ぎらぎらと照りつけてきた。高木は思わず、目を細めた。

「どうした、兄貴。帰らないのか」

 扉の内側に立ったままの悠を、弟の想は不思議そうに見た。

「やりかけの仕事があるんでね。ちょっとそれを片付けてからだ」

「堅苦しいなあ。そんなのはさ、明日に回しちゃえばいいんだよ。大体兄貴は真面目過ぎるんだ、そんなだから…」

 どうやら、想の演説はまだまだ続きそうだ。悠が弟の大きな体越しに高木たちに申し訳なさそうな目を向け、「先に帰っていていいよ」と伝える。苦笑交じりに会釈し、そっと踵を返した。

 少し歩いたところで、倉橋が片手を振って脇道に逸れた。

「じゃあ、またね」

 彼の住むアパートはここを真っ直ぐ行った先にある。

「おう、またな」

「また来週ですね」

 高木と篠崎も笑顔で手を振り返し、帰宅組は三人に減った。一方北野は完全にそっぽを向き、舌打ちさえしている。聞かなかったことにして、高木は歩みを進めた。

 倉橋のことを他の面々がどの程度受け入れているのかは、高木から見て微妙なところだった。篠崎は普通に接しているが、接し方がややぎこちなく感じる部分もある。しかし、まだ顔を合わせて間もないことを考慮すれば、さほど不自然ではなかった。

北野に関しては、あからさまに彼に冷たい態度を取っている。最後の決戦の際、倉橋の操るガーゴイルは彼女に重傷を負わせた。おそらく、そのことを恨みに思っているのだろう。北野が大怪我をして入院するはめになったのは、元を正せば倉橋のせいだ。

 もっとも彼自身、その件については申し訳なく思っているらしい。自分が傷つけてしまった魔術師たちへ謝りに行き花束を渡したりするなど、誠意を見せている。北野にも当然そうしているはずなのだが、彼女が倉橋に心を開くのははたしていつのことだろうか。

 そんなことをぼんやりと頭の隅で考えながら歩いていたせいか、高木は後方で北野が篠崎に囁きかけたことに気づかなかった。

「…ちょっと、あんた」

「何ですか?」

 急に服の袖を引っ張られ、篠崎はびっくりして聞き返した。

「その服」

「あっ…」 

 指摘されて初めて気がつき、篠崎はかあっと頬を赤らめた。今彼女が着ているのは、以前北野とショッピングに行った際に買った例の「勝負服」―薄い水色のチュニックに紺のスカート、というコーディネートだった。今日はどれを着ていこう、と何とはなしに選んだ結果が、偶然にもあのときのコーデと一致していたのである。

「ふーん…そっかあ、この後楽しいデートってわけ」

 にやりと意地悪そうな笑みを浮かべた北野の言葉を、真っ赤になった篠崎が全力で否定する。

「…ち、違います!そんな意図はなくて…別に先輩とそんなことをするつもりはないですし…」

 徐々にもごもごと口ごもり始めた彼女を、北野は猫じゃらしで遊ぶ猫のように楽しそうに見つめた。

「あたしは『先輩と』なんて一言も言ってないんだけどな?」

「あっ…いや、その」

 しどろもどろになってしまった篠崎に近づき、さらに弄ぼうとした北野を、ちょうど振り返った高木の視線が捉えた。二人がなかなか付いてこないので、歩調が速すぎたかと思い一旦足を止めたところだった。

 幸いというべきか、篠崎の紅潮した横顔には特別な注意は払われなかったようだった。

「…どうかしたか?」

「何でもない」

 ぴたりと会話を中断した二人へ、高木が困惑気味な目を向ける。それを撥ねつけるように北野はぴしゃりと言うと、わざとらしい仕草で腕時計に表示された時刻を確認した。もちろん魔法発動用のデバイスではなく、市販の時計だ。

「あっ、いけない。友達とショッピングに行く予定があるんだった。急いで帰らなきゃ」

 そして先ほどまでと打って変わった煌びやかな笑顔をつくり、高木を追い越して駆けていく。退院したばかりとは思えない元気の良さに、高木は圧倒されるようだった。

 走り去る直前、北野は篠崎の耳元で呟いていた。

「―頑張りなさいよ、この後。せっかくあたしが一芝居打ってあげたんだから」

 僅かに体を震わせた篠崎を満足げに一瞥し、北野は去った。

(何なんだ、あいつは…)

 高木は心の中でため息をついた。共に行動して長い付き合いだが、未だに彼女の性格を把握し切れているとは言い難い。気を取り直して篠崎の方を振り返り、微笑む。

「それじゃ、帰るか」

「はい!」

 篠崎が高木の横に並ぶ格好になり、二人は談笑しながら駅までの道を歩いた。

 表面上は何ともない風を装っていたが、篠崎の心臓は早鐘を打っていた。


(どうしよう…)

 悩んでいるのは、心が乱され動揺しているのは、無論北野の放った台詞のせいだ。

『私、まだよく分からないですけど、いつか自分の気持ちに答えを出します』

 しばらく前、北野に「高木のことが好きではないのか」と問い詰められ、葛藤した挙句に篠崎はこう答えた。

 北野に勇気づけられたわけではないが、もしかすると今がそうすべきときではないかという気もした。

 結論はすぐには出ない。迷ったまま、高木と他愛のない話を続ける。今日の作業がしんどかったこと、最近の学校での出来事、等々。 

 答えを出すべきなのか決めかねていたが、一つだけ確かなのは今この瞬間が楽しいということだった。このまま時間が止まればいい、とさえ思った。

 二人で一緒にいられる時間が、笑い合える時間が、彼女にとってはきらきらと輝く宝物のようだった。薄暗くなりつつある辺りの風景の色彩までもが、鮮やかに明るく見えた。


 ふと、高木は空を仰いだ。降ってきた水滴が髪に当たった感触を再確認し、呟く。

「…雨だな」

「…雨ですね」

 篠崎も困ったように言った。いつしか上空には黒雲が立ち込めていて、雨は徐々に激しく降り注いだ。

 高木のまず頭に浮かんだのは、手近なコンビニに駆け込んでビニール傘を買うことだった。駅まではまだ十分ほど歩かねばならない。自分一人ならば多少濡れるのは構わずに走って向かう距離だが、篠崎をそれに付き合わせるのは言語道断だ。退院してからそれほど日が経っていない彼女に、無理をさせるわけにはいかない。

 ここから最寄りのコンビニまで、若干の距離があるのは問題だった。歩いて四五分はかかるだろう。そこまで歩くとだいぶ雨に濡れてしまうし、そこで傘を買うのも「駅まであと少しの距離なのに」と随分無駄な出費に感じられる。

 しかし他に方法はない以上、背に腹は代えられない。コンビニまで少しだけ急ごう、と声を掛けようとして篠崎の方を向くと、彼女は鞄からマジック・ウォッチを取り出しているところだった。

「先輩、ここは私が」

 にっこりと笑い、篠崎は腕時計型のデバイスを装着した細い左手を天に向けた。

『ポセイドン・エリア』

 聞き慣れない合成音声が鳴り、三角形を組み合わせた形の水色の魔法陣が投射される。ほどなくして、高木と篠崎を中心とする半径三メートルの半球状の空間は不可視のバリアで包まれた。指定した範囲内への水の侵入を遮断する、特殊障壁である。

 頬を打つ雨粒が消え、二人のいる場所は嘘のように晴れている。

「これは…今日組み立てたやつか」

 先刻、魔導書に記された呪文を記号に置き換え終わった魔法だった。作業終了とともに、そのデータは各自のデバイスに一時保存されている。一応、発動することは可能な状態だった。

 高木は驚いたような、心配するような目で篠崎を見た。

 術式は完成したものの、まだ微調整は終わっていない。置き換え方がやや強引であったり不適切であったりした場合、術が正常に発動しない、術者に通常の倍近い負担がかかるなどのリスクにさらされることになる。テストの済んでいない魔法を使うのは危険で、ましてやそれを篠崎に試させたくはなかった。気持ちは嬉しかったが、だ。

 高木の思いを汲み取ったように、篠崎は微笑んでふるふると首を振った。

「大丈夫です。何ともありませんから」

「…そうか」

 心の隅に危惧を抱かないでもなかったが、本人がそう言うのなら問題ないだろうと結論づける。代わりに俺が使うと言っても、きっと彼女は代わろうとしないだろう。

「じゃあ、すまないけど頼む」

「はい」

 二人が歩調を合わせて歩くのに合わせて、透明な膜も移動する。

 一旦途切れた会話が再開し、また笑顔が咲き乱れた。


 異変が起きたのは、駅に着き、バリアを解除してからだった。改札へ向かおうとした高木を追おうとした篠崎の体が、ふらっと揺れる。

 倒れそうになった彼女を抱き止め、高木は軽く肩を揺すった。

「おい、どうした」

「…何でもないです」

 台詞とは裏腹に、篠崎の呼吸はやや乱れ、首筋を汗が流れていた。顔も火照っているが、猛暑が原因だとはとても思えない。

「そんなわけないだろ…やっぱり、副作用が出ちまったか」

 高木は苦い表情を浮かべたまま篠崎を助け起こし、肩を貸して立たせた。行き交う人々の好奇の視線を無視して、改札を抜ける。

 エスカレーターを降りてホームに向かうのも一苦労だった。奇跡的に空いていたベンチに座り込むと、篠崎は背もたれに身を預けてぐったりとしてしまった。

「…何でこんなになるまで黙ってたんだ」

 横をちらりと見て、高木が声をひそめて言う。結果的に責めるような言い方になってしまっているが、篠崎の体調を思ってこその言葉だった。

「すみません…」

 篠崎の返答は弱々しい。

「最初は、本当に何ともなかったんですけど…術を解いたら、急に体から力が抜けてしまって」

 苦しげに息を漏らす彼女は辛そうで、それが高木に決意を固めさせた。

「無理するな。…今日は送っていく」


 篠崎の家まで向かう電車は逆方面で、いくらか遠回りになってしまう。けれども、衰弱し切った彼女を一人で帰らせることなど論外だ。それに、以前自分たちは逆の立場だったではないか。

 あの日―自分も高木を護衛すると言って聞かず、篠崎が高木の家の前までついてきた日。あのとき、彼女は自分を守るために努力を厭わなかった。ならば、その恩をここで返さなければならないではないか。

 遠慮する篠崎を制し、二人は同じ電車に乗り込んだ。空いている席を見つけ、並んで座る。

 柔らかい感触を肩に感じてどきりとすると、篠崎が体を預け、もたれかかってきていた。チュニック越しに体温が伝わり、高木は心拍数が上がったのを自覚した。

「先輩…」

「な、何だ?」

 耳元で囁くように言われてさらにどぎまぎしてしまい、高木は挙動不審だったかもしれない。

向かい側の席に腰掛けている若者のグループから、生温かい視線が投げかけられた。傍から見れば、自分たちはいちゃついているカップルなのだろう。

「駅に着くまで、眠ってもいいですか…?」

「…ああ。ゆっくり休め」

 極度の疲労状態にあるせいか篠崎の声音はやけに甘く、蠱惑的に聞こえた。普段なら決して取らないであろう態度だった。

 高木が安心させるように答えると、篠崎はほっとしたように微笑し、瞼を閉じた。

 二人は、一方が一方に寄りかかった姿勢のまま約二十分を過ごした。

 その間にたくさんの人たちが乗ってきて、たくさんの人たちが降りていった。景色もぐんぐん変わり、復興工事中の一画が見えたり、はたまた無傷で残ったビル群が窓の向こうに映ったりした。

 けれども二人はほとんど体を動かすことなく、ただ温もりだけを感じていた。


 少し眠ったおかげで、篠崎はだいぶ体力を取り戻したようだった。まだ少し足元がおぼつかないが、表情に活力が戻っている。

 篠崎の最寄りの駅で降りると、幸いにも雨は止んでいた。彼女に肩を貸し、道案内をしてもらいながら歩く。

「…あっ、そこを右です」

「おう」

 不慣れな土地だ。京都から関東に出てきてもう半年近くが経つが、東京郊外へはこれまで足を伸ばしたことがない。けれども篠崎の案内は的確で、迷うことはなかった。

時折、篠崎は申し訳なさそうに謝ってきた。

「すみません、私なんかのために、こんな…」

「いいんだよ」

 その度に、高木は笑って否定する。

「これまで、篠崎には何度も助けられてるからな。…篠崎が側にいてくれて、すごく心強かった。こんなの、借りを返したうちにも入らないって」

 庭の樹木がきちんと手入れされている、小奇麗な一戸建て。そこが、篠崎が母と二人で住んでいる家らしかった。

 五分ほど歩いて洋風な外観のその住宅が見えてくると、篠崎ははっとしたように口に手を当てた。

「お母さん、もう帰ってるかもしれないです」

「…まじか」

 母親に、この状況を一体どう説明すればいいのか。年上の異性に自宅まで送り届けられるというのは、高校二年生の女の子からすればちょっとした事件かもしれない。高木はしばし思案した。

「部活中に体調を崩しちゃって送ってもらった、とか」

「…私、今は部活やってないんです。父の看病をする時間も大切にしたいと思って、去年の半ばに辞めました。…だから、その言い訳は無理そうです」

 彼女らしい、殊勝な心がけだ。苦笑する篠崎を横目に、高木は頭を掻いた。

「そうか…ちなみに、魔法協会に行く口実はいつもどうしてるんだ?」

 もしかしたらそれと同じ理由を使えるかもしれない、と淡い期待を抱いていたのだが、それは呆気なく打ち砕かれた。

「北野さんと似たような感じです。友達と遊ぶ…とか。あ、でも、同性の友達とですけど…」

 赤面して俯いた篠崎は健気で純粋で、汚れなく見えた。その横顔がたまらなく愛しくて、高木はつい勢いで口走ってしまった。頬がかあっと熱くなるのが自分でも分かり、篠崎と視線を合わせるのも恥ずかしい。途中で目を逸らしかけつつも、最後まで言い切る。

「…じゃあ、これでどうだ。実は彼氏とデートに行ってたけど、気分が悪くなって送ってもらった」

「…えっ」

 篠崎はぽかんと口を開け、次の瞬間真っ赤になってあたふたし始めた。

「せ、先輩の彼女だなんて、そんな」

 心の準備が、とその後に聞こえたような気もしたし、聞こえなかったような気もした。

「…やっぱり、言い訳としては駄目か」

 照れて目を伏せ、高木は付け足した。


 門の前まで来ると、篠崎は高木の肩から手を離した。

「もう歩ける?」

「大丈夫そうです。えっと…余計な心配をかけてしまってすみません。それと、ここまで送ってくれてありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げた篠崎に、高木は微笑みかけた。玄関まで高木がついていく必要がないのなら、あれこれと言い訳を考える必要もなくなったということだ。何はともあれ、彼女が無事に回復してよかった。

「いいって。それじゃ、また来週な」

「はい…それでは、また」

 軽く手を振って、高木が立ち去る。篠崎は名残惜しそうに、その後ろ姿を見つめていた。


自室に入りベッドに腰掛けてもなお、篠崎の心臓は早鐘を打っていた。手近にあったクッションを抱き締め、横になる。頭に浮かぶのは、あの人のことばかりだった。頬はずっと紅潮していて、それどころかますます熱くなるようでもあった。


 駅へと戻る道中の高木も、先刻彼女が見せた可憐な仕草や表情を思い返し、心を揺さぶられていた。いまだに顔が火照っているのを、曇天のもたらす闇が隠してくれてよかった。

 熱を追い払おうとするように何気なく空を見上げると、いわゆる朧月夜だった。「アルテミス・アタック」を使うにはいまいちな条件だ、などと考えてしまうのは魔術師の悪い癖だ。

 それよりも、今夜は別のことを考えてしまいそうだった。

 微かに差し込む月明かりが、愛と平和に満ちたこの世界を優しく照らしている。


 この作品を最後まで読んでいただいた方、本当にありがとうございました。当初予定していたのよりも長編になってしまったのですが、楽しんでいただけたのなら幸いです。

 個人的には、これまでに書いた作品の中で一番完成度の高いものに仕上げることができたのではないかと思っております(笑)よければ、感想やご意見お聞かせください。

 また、スピンオフ短編の執筆も計画中です。そちらにも期待していただけると嬉しいです。

 それでは、また次の作品でお会いしましょう!

 

 2018年12月23日 東京某所にて

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