一昨日の記憶
「稗田くん、何をしているんだい?」
昼休み、部下の稗田が自分の席に座りながら夢中で何かをやっているのを見咎めて、梅津は声をかけた。最初は携帯電話でメールでも打っているのかと思ったが、そうではないらしい。
「ああ、課長。これですよ、これ」
稗田が手にして見せたのは、電卓くらいの大きさのものだった。
「何だい、それは?」
梅津はズレたメガネを直しながら、まじまじと見つめた。
「ゲームですよ」
「ゲーム?」
稗田はまだ入社二年目の若い社員だ。とは言え、梅津からしてみると会社にゲームを持ち込むのは感心しない。いくら休み時間であったとしてもだ。電車の中でもいい歳をしたサラリーマンがゲームに没頭しているのを見ると嘆きたくなる。
そんな梅津の心中など知らない稗田は、得意げに説明を始めた。
「ゲームって言っても、これは頭の体操なんですよ。クイズみたいに色々な問題が出題されるんです。単純な足し算とか、ジャンケンで負けるにはどれを出したらいいか、だとか。その結果と答えを出すスピードによって、最後に脳年齢が表示されるんですよ。僕が初めてやったときは脳年齢が四十六歳でした。でも、今は十四歳くらいまで若返りましたよ。課長もやってみますか?」
そう言って稗田は、携帯ゲーム機を梅津に差し出した。
梅津は手を伸ばしかけたが、思い直してやめた。ゲーム機など触ったこともないのだ。操作もおぼつかない梅津がまともに解答など出来るわけがない。きっと、とんでもない脳年齢が表示され、部下に笑われるのがオチだ。
「オレはいい」
努めて無関心を装いながら梅津は答えた。稗田は残念そうな顔をする。いつも厳しい課長をからかう、せっかくの口実を逃したからだろう。
「そうですかぁ。脳年齢ってのは、日頃から鍛えておかないと、段々、衰えるって話ですよ」
「オレはこうやって毎日、ちゃんと仕事で頭を使っている」
「そういうのとは違うんですよ。例えば課長、一昨日の夜、何を食べたか憶えていますか?」
「一昨日の夜? 当たり前だ」
とは言ってみたものの、梅津は懸命に記憶の糸をたぐり寄せた。
――昨日は確か、アジの開き……いや、あれは朝だったか。夜は……そうそう、ロールキャベツだった。とすると、一昨日はヒレカツ……いや、待て、ヒレカツは三日前だった気がする……それとも四日前か?
あれでもない、これでもない、と様々なおかずがぐるぐると頭の中を駆け巡り、梅津はすっかり混乱してしまった。
結局、一昨日の晩に何を食べたのか思い出すことが出来ないまま、梅津は帰宅の途に就いた。
「ただいま」
梅津が帰宅すると、先に夕飯を済ませたらしい妻の多恵子がテレビを見ながらくつろいでいた。一人娘の友香は学習塾の日なので呑気なものである。仕事から疲れて帰ってきた夫に「お帰りなさい」の一言もない。
そんな妻の態度に、梅津は少し腹が立った。
「お前、一昨日の夜、何を食べたのか憶えているか?」
脳年齢の話を思い出した梅津は、妻をからかってやろうと思った。どうせ毎日、家の中でゴロゴロしているのだ。憶えてやしないだろう。
「何よ、藪から棒に」
多恵子は訝った。
梅津はネクタイを外しながら、
「一昨日、何を食べたか思い出せないようだと、脳年齢が衰えている証拠なんだとさ。お前は大丈夫かと思って」
「まだ、そんなにもうろくしてないわよ」
多恵子は心外そうに言った。
「じゃあ、何を食べたか言ってみろ」
「そんなの『宝鮨』のお寿司に決まってんじゃ──」
多恵子はそこまで言って、ハッとした。慌てて口を押える。
同時に梅津の記憶が呼び覚まされた。一昨日は残業で遅くなり、何も用意していないからと、一人侘びしくお茶漬けを食べたことを。