第四話 レインはシェリルと約束をする
馬車が動き始め、レイン達はまたしばし揺られることになる。
かなり大きい馬車で、10人ほどがゆったりと乗ることができる。
レイン達の他に乗客はいなかった。よく考えれば、今日は休日だ。
目的地である官舎通りへ行く人は少ないはずだった。
とはいえ、途中で乗る人がいないとも限らない。
二人で身体を寄せて座ると、ふわりと優しい柑橘系の匂いがする。
シェリルのまとう香水の香りだった。
その後も近況やらを延々と語りあった。レインは主に娘のニアのことだったが。
話したいこと、聞きたいことがたくさん、たくさんあった。それはシェリルも同じようだ。
「ニアは、もう剣聖を継いだのか?」
「それな……まだ俺に勝てないからって、継ぎたがらないんだ。今のニアは同じ頃の俺より強いのにな……」
「あの当時のレインより強いのか、凄いな……」
「努力家なんだ、体力も底無しだし……そろそろニアの修行に付き合うのが辛くなってきた」
これは本音だった。ニアとの手合わせはもう、手抜きで出来るものではない。
一人でドラゴンも斬り伏せる実力になったニアだから、当然だった。
とはいえ、非常に嬉しくもある。剣聖として、これ以上ない後継者なのは間違いなかった。
ふむふむ、とシェリルは膝に置いた尾を撫でながらレインを見上げてきた。
幾分か面白がっているようだ。
「他の子ども達も育ってるようだし、順調じゃないか。やっぱりレインは先生とかに向いてるんだな」
「……何の話だ?」
レインはたらりと汗をかいた。心当たりはあるものの、とりあえずとぼけてみる。
「孤児院と学校の経営合わせて12件、大学等への出資多数の件だ」
「そ、それは……拝み倒されて金を貸しているだけだ」
「ずっと担保も利子も取らずにか、大した金貸しだな……」
にやりとシェリルは笑ったが、どことなく尊敬の眼差しだ。
対してレインは恥ずかしく仕方なかった。
どうにも、褒められるのも有難がられるのも性に合わないのだ。
出身校の件もかつての仲間《流星の担い手》のうち、リーダーのレイアにしか相談したことはなかったのに。
「知ったのはつい最近だ。驚いたぞ、訪れた学校にレインの銅像があったんだから」
「あれかよ……! 俺は建てるな、って言ったんだけどな……」
「金は掃いて捨てる程あったはずなのに、質素だなとは感じていた。まさか、慈善事業に使っていたとはな……」
レインは冒険者時代には整理しきれていなかった心情を、率直に吐露した。
恥ずかしさに理由をつけたいのもあったが。
「俺も、身寄りはなかったからな……勉強も小さい頃は無縁だった。そういうの……断ち切れるなら、なんかしたいと思っただけだ」
「立派じゃないか、本当に」
うんうん、とシェリルは頷いていた。
本当に、気恥ずかしい。レインは照れ隠しに頭をかくしかなかった。
楽しいおしゃべりをしているうちに、目的地へと着いたらしい。
結局、二人だけでまた1時間も過ごしていた。
道の馬車駅から、大会事務局まではすぐ近くとのことだ。
もうすぐ、目的地へと着いてしまう。
二度と会えないわけじゃない、でも気軽には会えない。
二人きりの時間も、武術大会への登録が済めばおしまいだ。
《流星の担い手》が解散して、こんなにシェリルと話したのは初めてだった。
そもそも二人きりでいることも初めてなのだ。大抵他に誰かいたし、時間も短かった。
シェリルは変わりなく、眩しいばかりだ。
時が経ってもこんなに色褪せない感情を、レインは知らなかった。
40年生きて燃え上がるゆえに、なおさら強く感じていた。
牡牛通りと比べると、官舎通りは閑散としている。
背の高く白い官舎が立ち並び、まばらな人たちが忙しそうに歩いているだけだ。
屋台も少なく、辻馬車の御者が暇そうに新聞を読んでいる。
官舎通りでもひと際古く勇ましい騎士や英雄たちの銅像に囲まれているのが、武術大会の事務局だ。
何せ、帝国武術大会には百数十年の歴史があるのだ。帝国がまだ戦乱の世を戦い抜いていた頃から開催され、数々の武芸者が見出されてきた。
事務局に着くと、シェリルの事前準備のおかげで登録はすんなりと終わってしまった。
ちょっとした書類審査と大会のルール説明、簡単な質疑応答だけだった。
登録が済めば、事務局に長居は無用だ。
少しだけ、レインのテンションは下がってきていた。
「根回しはしていたが……思ったよりもあっさり通ったな」
「タラーン公の横槍はなかったってことか……」
「大会事務局では名誉と伝統が重んじられるからな、そう簡単にタラーン公の賄賂工作は通じないさ。問題は……この後だが」
「大会当日まで、ちゃんと気を抜かず備えるさ」
「隠れ家はもちろん提供するぞ、その方が……」
「それじゃ落ち着かねぇし……それに、少し気合を入れたいのもある。身軽にさせてくれねぇか。俺もニアも、腕はあるんだ」
シェリルは迷ったようだが、ややあってレインの言い分を認めたようだ。
「……手の者を家の近くに待機させておく。それぐらいはさせてくれ」
「ああ、悪いな……」
官舎通りの馬車駅まで、すぐに戻ってきてしまった。
シェリルはこれからドゼー公を訪れて、諸々の報告をするという。
つまりここで別れることになる。
何もなければ、次に会うのは来月の武術大会当日だろう。
それも終わってしまえば――考えたくもない、会える理由がレインには思い当たらなかった。
頂きで空を照らす太陽が、官舎通りの道をさんさんと照らしている。
それなのに、レインの心は少し冷えてきていた。
「次は、いつ会えるかねぇ」
ぽつりと、レインは当てもなく呟いた。
言われるまでもない、大会当日だ。それでもレインは声に出してしまっていた。
しかし、シェリルの答えは予想外のものだった。
「来週、時間がとれる。夕食でも一緒に食べよう!」
「えっ……あ……?」
「ああ、もう……つまり、こういうことだ!」
シェリルはさっとレインの首に両腕を回すと、そのままぐっと引き寄せた。
オレンジの爽やかな香りが、レインを包みこむ。
そのままシェリルの唇が、レインの頬に当たった。
キスされてる、そう思った時にはシェリルはぱっと離れている。
遅れてレインは、頬に残るシェリルの唇の熱を感じ取っていた。
「昔の続き、私達は出来るかな……?」
レインは、シェリルの中にも自分と同じ火の粉が残っていると確信した。
初恋というには歳を取りすぎているかも知れないが、恋慕の情がまだあると。
瞳を潤ませたシェリルが、弱気に言う。
「……出来るさ、きっと」
「うん……始めよう、もう一度。手紙を出すからな、必ず来てくれ」
涙が、シェリルの瞳からこぼれる。
レインとシェリルが離れたのは、ちゃんとした理由があった。
病弱な兄を助けるために、シェリルは伯爵代行として冒険者から貴族へと戻ったのだ。
その責務は、今も続いている。
だからシェリルは唇ではなく頬にキスをしたのだろう。
すぐには区切りも進展もできないが、それでもレインは嬉しかった。
艶かしく、シェリルが自身の唇をいとおしそうに撫でている。
どきりとしながら、レインは答えた。
「ああ、必ず行くからな!」
「楽しみにしているよ、また会える日を……!」
微笑んだシェリルは、ひらりと身を翻した。
道の彼方から、待ち合いの黒馬車がやって来ている。
時間だ、次に会う時までの別れの時間だ。
眩しい太陽の暖かさを、レインは身に受けていた。
名残惜しい、それでも大きな幸せを感じながら、レインはシェリルを見送るのだった。
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