表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

三軒長屋

作者: 夜尋いさし

 今となっては三軒長屋という建物を探すこと自体が難しいのかもしれない。僕が小学生の頃でさえその建物はまわりから沈んでいるように見えた。古びた瓦屋根は一部トタンで覆われ、端のほうは崩れ落ちそうに見えた。向かって真中の家と右端の家には二階があり、それぞれ窓が正面を向いていたが、汚れの染み付いた窓枠の向こうには暖かい生活などなさそうに見えた。

 しかしそれが新しい僕の家だった。

 まわりに一戸建ての家が立ち並ぶ中、地主がきまぐれにほっておいた家。その真中と左側に僕達一家5人は移り住むことになったのだった。

 右側の家には松本という一家が住んでいた。下卑た笑いをたたえた肉体労働者風のおじさんと、余計な苦労をさんざんしてきたようなおばさん。そして僕と同い年の男の子が一人住んでいた。名前はトシオとかトシノブとかそんな感じだったように思う。トシ君と僕は呼んでいたから、多分そうだろう。

 トシ君は、すぐに相手の顔色をうかがい、表面だけとりつくろいあとで相手の陰口をたたく、というような両親の性格のいやな部分をうけついでいたが、僕とはなぜか仲が良かった。引っ越していったその日から近所の公園に一緒にでかけて、ビーだま遊びやぶらんこ漕ぎ競争をしたことを覚えている。

 そこに集まった子供たちの輪にとけこむことは、それほど難しいことではなかった。誰しも新しい仲間が増えることを喜んでくれた。というのも、みんな三角ベースより野球がしたかったからだ。ゴムボールにプラスチックのバットで、海浜の公園で夕暮れまでかけまわることもしばしだった。

 みんなで遊ぶ公園から僕とトシ君が住んでいる家は目と鼻の先にあった。例えば母が夕飯を知らせる声は、母の姿が見えなくても聞こえるくらいだった。

 そんなある夕暮れだった。僕の耳に、家の方から奇妙な叫び声が聞こえた。

 ひぃぃぃ

 とガラスを爪でこすったような甲高い声は、ふしぎと夕暮れに溶けこむような感じで、僕は違和感を感じなかった。一緒に遊んでいた友達たちも別に気にしていないようだった。

 しかしトシ君だけががばっとたちあがり、いきなり家の方にむかって駆け出した。

 「トシ、どないしたんや?」

 僕が声をかけるとトシ君は一瞬立ち止まり、少し嫌な感じの笑顔でふりむいた。

 「用事思い出してん。またな!」

 それだけ話すと、トシ君は家の方へと消えていった。僕はそれほど気にもせず、白い陶器のような新しいビーだまを手に入れるために、親指と中指ではさんだビーだまの照準をつけ、人差し指ではじき出した。

 かちーん

 僕の深緑のビーだまは白い陶器のようなビーだまに命中し、同時に白いビーだまの持ち主は天を仰いで嘆息した。僕はほこらしげにその白い玉を手に取った。

 「ビーだまチェンジな。これ使たろー」

 「ええし。それきれいけど弱いからな。」

 「うるさいわ。お前が下手やねん。」

 そんなやりとりを続け、やがて母たちが呼びに来る声に一人二人と帰っていった。

 僕も最後の一人になる前に、皆に別れを告げ、家路へとついた。

 

 僕の家の玄関は三軒長屋の左側を使っていた。真中にも玄関はあったのだが、玄関を物置にしてしまい、いつも雨戸を閉めていた。

 「ただいまー。」

 玄関をあけるとそこはそのまま母の仕事場になっていた。三台の業務用ミシンが置かれ、部屋にはセーターが山のように積まれている。母はセーターの仕上げの仕事を内職にして、家計の足しにしていた。その部屋を抜けると、トイレと風呂場のある部屋。そこを右に折れると三軒長屋の真中部分へと入る。そこがテレビの部屋になっており、その奥に小さな台所があった。

 テレビの部屋には妹と弟が座って、サザエさんを見ていた。

 「にいちゃんおかえりー。」

 テレビから目を離さず声をかけてきた二人の頭を軽くはたき、台所にいる母の横へと僕は駆けていった。

 母は煮物と炒め物をしていて、少し忙しそうだった。

 「どやったん?ちゃんと手洗っておいでや。」

 微笑む母に大きくうなずき、裏口から出て、共同の水場で手を洗おうとしたとき、夕方に聞こえた悲鳴のような声が、また聞こえた。

 それはあきらかに隣の家からだった。

 ひぃぃぃぃ。

 立ち止まり、母をふりかえると、少し眉根をよせた母の顔が見えた。しかし僕が母を見ていることに気づくと再び笑顔に戻った。

 「どないしたん?さっさと洗っておいで。ごはんにするよ。」

 母の笑顔に安心して水場へ向かった僕は、水道のじゃぐちをひねり、強く水を出した。

 この水場は、松本家と共用の水場であり、裏口はお互いの家につながっていた。

 松本家を裏側から見ると、1階はすでに真っ暗で、二階に少し灯りが見えた。

 ふと、その灯りが揺れ、いきなり窓が開いた。

 びくっと、肩をすくめた僕を、窓から嫌らしい笑顔が見下ろしてきた。松本のおじさんが上半身裸で僕を見下ろしていた。

 「ボウズ。ちょっと行水したいから、そこええか?」

 あわててうなずくと、水道を止め、再び松本のおじさんを見上げてうなずき、そのまま母が待つ台所にかけこんだ。

 母は既に食卓の準備に入っており、今のやりとりには気づいていないようだった。

 「さ、ごはんにしますよ。お父さんよんどいで。」

 「はーい。」

 妹と弟が我先に争うように、二階の父の部屋にかけあがっていった。

 「あんたも早くあがりや。どないしたん?」

 ぼーっと立っていた僕に母がやさしく声をかけてきた。僕はなんでもない、というふうに首を振り、食卓へと食器を運ぶのを手伝った。


 僕の部屋は弟と共同で、二階の父の部屋の奥にあった。二階の階段に近い方が父の部屋で、そこを通りぬけた水場に面したところが僕と弟の部屋だった。

 まだ小さかった弟はわりと早くに寝入ってしまったが、僕は遅くまで本を読んでいることが多かった。その日も、市の図書館で借りてきた民話全集を読みふけって、気がつくと一二時を越してしまっていた。

 そろそろ寝ないと怒られる。

 そう思い電気を消すと、うすよごれた窓越しに、隣の松本家の二階の窓が開く音が聞こえた。隣の窓は、僕と弟の部屋の窓を開くとちょうど右側にあり、1mと離れていなかった。ただ窓は曇りガラスで、お互いの部屋の中は見えないようになっていた。だからお互いに窓を開くことはほとんどなかったのだが、珍しく窓が開く気配に、ふと、電気を消したまま、そっとこちらの窓を開こうとしてみた。

 曇りガラスの向こうに、人影らしきものも見える。多分、隣の誰かが外を見ているのだろう。そう思いながら、窓に手をかけ、音のしないように、1ミリ、また1ミリと窓を開いていった。

 やがて2cmほども開いたろうか。こちらに気をつけていなければ窓が開くのもきづかれていないはずだ。そう思いながら僕は窓の隙間から隣の窓を盗み見た。

 女の人が窓から空を見上げていた。

 上半身は裸だった。そして汗にまみれていた。

 黒く長い髪が汗で体にへばりつき、少し力を失ったような乳房を覆っていた。

 そして、口がはんびらきになり、口の端には薄汚れた粘液のようなものがこびりつき、いやらしくひきつっていた。

 少し小さな声で、ひぃひひひ、と笑っているのが聞こえた。僕は、窓から外を盗み見たそのままの姿勢で、ひざをゆっくりとまげ、窓枠の下まで身を隠した。

 そして、そのまま曇りガラスをじっとみつめて、身動き一つしなかった。

 どれくらいの時間がたったのか、やがて隣の窓が勢い良くしまり、灯りも消えてしまった。

 そうなって僕はやっと、自分のふとんにもぐりこみ、弟の手をにぎりしめてふとんを頭からかぶって、必死に眠ろうとした。


 それからそういうことがあったかどうかはもう覚えていない。ただ、僕たち一家が引っ越して3年ほど過ぎた後、松本家は隣を引き払っていった。そして父が三軒長屋をまるごと買取り、一戸建てに立てかえることを決めた。

 その頃にはもう中学生になっていた僕は、ふと興味を抱き、弟と一緒に取り壊す直前の隣に入っていった。

 家具も何もない、がらんどうの家は、うちの左端の部分とそれほど構造的には大差無かったように思う。

 また、僕自身がどこかで期待していた、血痕やおぞましいものもなにもなかった。

 ただ、一階と二階の間の屋根裏部分を掃除したとき、7体のネコの白骨死体が見つかったが、これは屋根裏部分に迷い込んで出られなくなった迷いネコの行く末だろう、ということでさほど誰も気にしなかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ