祖の男
あるところに、ひとりの男がおりました。
男はひとり、山で獣を狩り、森で木の実をとり、暮らしていました。
日がのぼり沈み、月がのぼり沈み、ながい年月を、男はひとりで暮らしていました。
ある日、男がいつものように山で狩りをしていると、熊が現れました。熊は山の主でした。
山の主の熊は口をひらきます。
「男よ、山でひとり、たくましく生きる男よ。私は年老いて、小さく弱くなってしまった。なので、山の主の座をお前に託そうと思う。お前ならば、山の主として相応しかろう。私に代わり、山の主となってはくれまいか」
男は応えました。
「山の主がいなくなれば、山はやせ細り、山に住むものも難儀するだろう。私はこれまで山の恵みで生きてきた。その恩がある。私で良ければ、山の主となろう」
男のことばに、熊は大きく頭を下げました。
「ありがたい。だが、山の主となるには神に挨拶をしてこなければならない。ここから東に、日が昇る方に、ずっとずっと行ったところに、神の社がある。神に会い、山の主の代替わりを伝えてくれまいか」
熊は、己の前足の爪を一本折り、男に渡します。
「これを、神に渡しておくれ」
男は熊の爪を受けとると、無くさないように穴をあけて紐をとおして、首にかけました。
「では、これから東に行き、神に挨拶してこよう。山の主よ、私が戻るまで、山を守りたまえ」
男は熊に一礼すると、東へと歩きだしました。山の主の熊は、男の背を見送りました。
男は東へ東へと、日の昇るところへと歩き続けます。
山を下り、平原を渡り、幾日も歩いてゆくと大きな山がありました。
剣のように鋭い岩が天に向かっていくつも伸びる、大きな山でした。
山をのぼる道が見つからず、歩いていると一軒の小屋がありました。
男は小屋の戸の前で訪ねます。
「もし、誰かいませぬか」
「どうぞ、お入りください」
男が小屋に入ると、中にはひとりの女がいました。美しい女でした。
男は女に話します。
「私は神の社に行く途中、山を越える道を知りませぬか」
「あの山を越えるには、丈夫な靴が要ります。私が作ってもよいのですが、今は手を痛めております」
男は少し考えて、
「手を痛めては、難儀だろう。その手が治るまで、私がお世話しよう。手が治れば靴を作っていただけようか」
美しい女はうなずいて、男と女はしばらく小屋で、いっしょに暮らしました。
男は狩りにいったり、小屋を直したりと働きました。
ある日、女は言いました。
「心やさしきお方、あなたのおかげで小屋は立派になり、獣の干し肉も増えました。お礼にこの剣を使ってください」
女は男に、赤い剣を渡します。
「この剣を山のふもとの赤い岩に刺し、西に一回、東に一回うごかせば、山を越える道があらわれます」
「ありがたい。この剣は帰りにかならず、お返しする」
男は山に行き、赤い岩を探します。見つけた赤い岩に、女から借りた剣を刺し、西に一回、東に一回動かすと、山が唸りをあげて浮かび上がりました。
男は空に浮かんだ山の下をくぐって、東へ東へと歩きつづけます。
幾日も歩き続けてゆくと、大きな川がありました。向こう岸がかろうじて見えるほどの大きな川でした。
橋や船でもないかと、川のそばを歩いてゆくと、一軒の小屋がありました。
「もし、誰かいませぬか」
「どうぞ、お入りください」
男が中に入ると、小屋の中には女がいました。美しい女が座っていました。
「私は神の社に行く途中、川を渡るに、船か橋はありませぬか」
「この川に橋はありませぬ。船が無ければ渡れませぬ」
「船はどこにありまするか」
「私が船をつくりましょう。けれど、足を痛めて立てませぬ。足が治れば、船をつくりましょう」
男は少し考えて、
「足を痛めては難儀だろう。足が治るまで、私がお世話しよう」
こうして、男と女はしばらく小屋で暮らしました。男は女を背におって外を歩いたり、木を切って薪を割ったりと働きました。
ある日、女が言いました。
「心やさしきお方、あなたのおかげで足は良くなり、薪も増えました。お礼にこの勾玉を使ってください」
女は男に勾玉を渡します。
「この勾玉を川の水につけ、川上に一回、川下に一回ふれば、川を渡る道があらわれます」
「ありがたい。この勾玉は帰りにかならずお返しする」
男が川の水に勾玉をつけ、川上に一回、川下に一回ふると、川の流れが止まりました。流れの止まった川の底を、男は東に、東に、歩きました。
幾日も歩き続けていると、大きな岩壁が見えました。天まで届きそうな岩壁は、右にも左にもずっと伸びています。
男は岩壁を越える道がないかと、岩壁に沿って歩いていくと、一軒の小屋がありました。
「もし、誰かいませぬか」
「どうぞ、お入りください」
男が小屋に入ると、女がいました。目に包帯を巻いた、美しい女でした。
「私は神の社に行く途中、岩壁を越える道はありませぬか」
「岩壁に空いている洞穴を抜ければ、越えることができまする。されど、灯りがなければ洞穴を抜けることができませぬ」
「灯りはどこにありますか」
「灯りは私がつくりましょう。されど、目を痛めて、今は灯りをつくれませぬ」
男は少し考えて、
「目が見えねば難儀だろう。目が見えるようになるまで、私がお世話しよう」
こうして男と女はしばらく小屋でいっしょに暮らしました。
男は小屋のそうじをしたり、着物を洗ったり、破れたところを繕ったりして働きました。
ある日、女が言いました。
「心やさしきお方、あなたのおかげで小屋はきれいになり、着物も直していただきました。お礼にこの鏡をお使いください」
「ありがたい。この鏡は帰りにかならずお返しする」
男が岩壁の洞穴に鏡を向けると、鏡はひかり輝いて、男のゆく道を照らします。
男は鏡の明かりをたよりに、くらい洞穴の中を東へ東へと歩きます。
幾日も東に、東に歩いてゆくと、大きな社が見えてきました。金色にひかり輝く社は、神の住まう社でした。
社の門の前、神の使いの門番に熊の爪を見せると、神の使いの門番は、男を社の中に案内しました。
神の社の中は、色とりどりの花が咲き乱れ、あざやかな羽の鳥が、さえずっていました。
ひかりをまとう神の前に案内された男は、神に山の主の熊の話を伝えました。
「山の主に頼まれたので、私が次の山の主になりまする」
男は神に、熊の爪を渡しました。
神は熊の爪を受けとり、こう言いました。
「男よ、お前が道中、出会ったのは、私の娘なのだ。娘より話を聞いている。お前ならば、山の主に相応しかろう。だが、お前には爪も牙も翼も毛皮も無い。お前にこれを与えよう。好きなものを持って帰るがよい」
神はみっつのものを、男の前に並べました。
「この斧はどんな大木でも切れる。岩も割れる」
男は応えます。
「神よ、そんなものをいただいては、人はそれに頼ってしまいまする。そんな斧に頼っていては、己の力で木を切ったり、岩を割ったりできなくなってしまう。私にその斧は要りませぬ」
神は次に篝火を指します。
「この篝火は、いつまでも消えることなく燃え続ける。薪もいらず、闇夜を照らす」
男は応えます。
「神よ、そんなものをいただいては、己で火を起こすことができなくなりまする。また、いつまでも燃え続けるなら、倒れると火事になりまする。そのような扱いのむずかしいものは、私には要りませぬ」
神は次に巻物をひろげます。
「この文字があれば、さまざまなことを書き残すことができる。木や紙にいろいろなことを書いて伝えることができる」
男は応えます。
「神よ、そのようなものに頼れば、人は己でおぼえることができなくなりまする。文字におぼえることを任せてしまえば、頭がばかになりまする。そのような便利すぎるもの、私には要りませぬ」
神は言いました。
「欲の無い男だ。神の社に来た者には、なにかを持たせて帰らせている。これを受け取らぬのであれば、帰りの道で、私の娘からのものを持ち帰るがいい。男よ、お前を新しい山の主と認めよう」
新しい山の主となった男は、かつての山に帰ります。
岩壁の洞穴を、鏡で照らして抜けて、女のいる小屋に訪れます。
「この鏡のおかげで洞穴を抜けられた。鏡を、お返しする」
「持って帰っても良いのですよ」
「私は山の主となった身。むやみやたらと闇夜を照らせば、山の獣をおどろかせる。これはお返しする」
「ならば、この子をお連れなさい」
女は男に赤子を渡します。
「この子は私とあなたの子。あなたが神の社にいる間に生まれました。神の娘、日の女神の子、新しい山の主の子です」
男は赤子を背負い、かつての山へと帰ります。
大きな川で、川の水に勾玉をつけて、川をせき止め、川底を歩いて渡ります。背中の子は元気に笑います。
男は川のそばの小屋を訪ねます。出迎えた女に、男は勾玉を返すと、女は言いました。
「お持ちになっても、良いのですよ」
「私は山の主となった身、気まぐれに川の流れを止めたなら、川下に住むものが驚くだろう。この勾玉はお返しする」
「では、この子をお連れなさい。この子は私とあなたの子。神の娘、月の女神と新しい山の主の子です」
男は赤子を抱いて、かつての山へと帰ります。
剣のような岩を生やした岩山を、赤い剣で浮かべます。
ふたりの赤子は空飛ぶ山をみて、びっくりして泣き出します。男はふたりの赤子をあやしながら、浮かぶ山の下をくぐって、西へ西へと歩きます。
男は山のふもとの小屋を訪ねます。中の女に、
「この剣のおかげで、岩山を越えて神の社にたどり着けた。この剣をお返しする」
「持って帰らないのですか?」
「私は山の主となった身、いたずらに山を動かせば、山に住むものが迷惑する。この剣はお返しする」
「それならば、この子をお連れなさい。あなたの旅の間に生まれた子。神の娘、星の女神と山の主の子供です」
女は男に、赤子を手渡します。
「三人の子供は、娘が二人、息子が一人。娘の一人を妻にして、残りの二人を夫婦にしなさい」
「星の女神の言うとうりにしよう」
長い長い旅を終えて、男は山に帰りました。かつての山の主の熊が出迎えます。
「新しい山の主よ、この山をお前に任せよう」
「ならば熊よ、手伝ってほしい」
男は熊の手助けを借りて、三人の子供を育てます。三人の子供達はすくすくと元気に育ちました。
星の女神のことばどうりに、娘の一人を妻にして、もう一人の娘と息子は夫婦になりました。
二組の夫婦から、また子供が生まれ、山の主の男は、人の祖となりました。
こうして、地に人が増えたのです。
やがて男の子供の中から、神の社に赴くものがあらわれました。神は娘の女神の子孫である子供を歓迎して、神の宝を持たせました。
神の宝を授かった子供達は、山から離れ、それぞれの部族の長となりました。
文字の民は、文字を使って記録を残します。神の物語、人の歌を書き残します。
だけど文字に頼って、物覚えが悪くなりました。
頭の良い人が書いたとうりにすればいいと、己で考える者が少なくなりました。
篝火の民は炎を使います。炎を使って鉄や鋼をつくりかえることができるようになりました。
だけど、炎の扱いを間違えて、森や山を燃やしてしまいます。
斧の民は斧を使って、木を切り岩を砕きます。
だけど、自分達だけに都合よく山を切り開き、山を削るので、多くの獣が死んでしまいました。
また、ありあまる力をよその部族に向け、他の部族から奪ったり、殺したりするようになりました。
山に住む、文字も篝火も斧も無い部族は、おとなしく山とともに暮らしていました。
しかし、他の部族に森の木を切られ、山を焼かれて、住むところを失いました。
日と月と星の女神は、人に宝を与えた神を責めました。泣きながら訴えました。
神も人に神の宝を与えたことを悔やみ、泣きました。
だけど、神の宝は人の手に渡り、広まり、いまさら取り返すこともできません。
女神達は、夫の山の主とその子供達だけでも助けようと、神に願います。
神も女神達の訴えを聞き、山の主とその子供達を、神の社の近くに住むことを許しました。
女神達も、人が増えて、騒がしくなった土地より離れて、神の社に住むことにしました。
今も人の祖の男は、神の社の近くの森で暮らしています。妻になった娘と、夫婦になった子供の四人で暮らしています。
日の女神、月の女神、星の|女神が遊びにきたりします。神も、孫の顔を見にきます。
人の祖の男は、神の社の近くから、今も人の末を見守っています。