第八話
絢爛な装飾は、蛇を象徴した物が多い。彫像の数々はその限りではなく、題材は様々だ。また描かれた絵は、主にウィロウ教の神話を描いている。
芸術に疎そうなジョーでも、平時ならば、じっくり観賞するのも、やぶさかでないと思ったことだろう。今のジョーにそのような余裕はない。ジョーの不安はいよいよ絶頂だった。アテルイの肩で、ウニンが暴れていた。
「離してくださいぃ、助けて下さいぃ……」
「おい、本当に大丈夫なのかよ!?」
アテルイの後ろを歩きながら、ジョーが言った。
「お前もさっき見ただろう。この状態でギハオ神道の人間とすれ違っても、話しかけられさえしなかった。堂々としていろ」
「それはそうだけどよ……」
アテルイの返答に、ジョーは心配そうな目でウニンを見た。顔を真っ赤にして暴れているが、アテルイは全く離さない。
「お願いです、助けて、殺さないでください」
必死に訴えかけるが、アテルイは聞く耳を持たない。何故なら、ウニンの懇願は演技だからだ。ウニンを捕らえたギハオ神道の者を演じて、堂々と聖獅子の間に入る作戦だった。
その作戦に、ジョーは不安で落ち着かない。ウニンも顔色を悪くしていた。そのうち三人は、聖獅子の間の前に辿り着いた。アテルイとジョーの目の前には、金縁で装飾された、白い両開きの扉がある。扉の真ん中には、金色の線で獅子が描かれている。
「ウニン」
アテルイが呼び掛けた。
「は、はい、なんです?」
「入ったらうんと暴れろよ」
「わかりました、頑張ります」
答えたウニンの顔は、際限なく不安そうだった。恐怖のあまり吐き出してしまうのではないかと、ジョーが思ったほどだ。
「万一のことがあったらどうするんだ?」
ジョーが訊いた。
「俺が守る」
アテルイはそう言うと、聖獅子の間の扉を開けた。聖獅子の間は広く、緋色の床と壁に、四隅は生成り色の柱で支えられている。また聖獅子の間の二階にあたる部分には、柱と同色の欄干がある。見張りのためだろう、欄干にはギハオ神道の者が三人、聖獅子の間を見下ろしていた。聖獅子の間の一階には、大勢の人間が集められ、縛られていた。それを、八人のギハオ神道の男が見張っている。
人質になっている者たちの、そのほとんどが使用人だ。なかには神官も混じっているが、その位はアテルイと大差ない。戦力としては期待できそうになかった。
「離して、助けて下さい!」
ウニンがここぞとばかりに、全力で叫んだ。聖獅子の間の視線が、アテルイたちに集中する。ジョーは生きた心地がしなかった。人質の集団に向かって、アテルイが歩いていく。
途中、ウニンを担ぎ直したりして、精一杯に時間を稼ぐ。状況を把握する時間が欲しかった。
人質の中には、アテルイのことに気が付く者もいた。そのうちの一人の神官が、顔を怒りで紅潮させた。
「貴様、やはり裏切――」
「沈黙」
下手なことを叫ばれては、アテルイたちの正体がばれる。アテルイは即座に法術で黙らせた。叫ぼうとした神官は、怒りの表情のままで、口をぱくぱくさせた。声は出ていない。ギハオ神道の者に気付かれていないかどうか、ジョーは戦々恐々とした。
「おい」
アテルイが、見張りの一人に声を掛けた。ジョーは「マジか」と、誰にも聞こえないくらいの声で驚いた。
「こいつを天使像の後ろで見付けたんだ。どの辺りに置いておけばいい」
アテルイが見張りに問い掛けて、ウニンを揺すった。
「うに」ウニンが呻いて、思い出したように叫んだ。「助けて下さい!」
見張りは訝るような視線をアテルイに向けたが、人質の塊の隅を指差した。
「悪いな」
アテルイはそう言って、指差された場所にウニンを下ろした。
「おい」
ウニンを下ろすと、見張りがアテルイに話しかけた。
「聖典の第三章の第一節が言えるか」
見張りが言った。アテルイたちを疑っているのは間違いなかった。ジョーは脱糞しそうになった。
「主は瘴気の荒野を歩む。それは民のため」
アテルイが至極すんなりと答えた。見張りの目から疑いの色は消えなかったが、それ以上は追及しなかった。見張りはアテルイたちから離れた。
「いくぞ」
アテルイが囁き声でジョーに言った。ジョーは戸惑いながらもアテルイに続いて、聖獅子の間を出た。二人の後ろ姿をウニンが見詰める。信じてますからね、と心の中で嘆いていた。聖獅子の間を出て、アテルイとジョーは人気の少ない場所を選んで歩いていた。
「おい、あんた」
ジョーが言った。
「よくギハオの経典の文句なんてわかったな」
「ロマラムタに俺のことを聞いていたんじゃなかったのか」
「え? いや、あんたが強いってくらいしか聞いてねえよ」
「……それはもういい。それより、聖獅子の間にいる人質を助け出すぞ」
「どうやってだ。手はあるのか?」
ジョーは聖獅子の間にいた、見張りたちを思い起こした。アテルイ一人ならば、特に悩む必要もなく、突入して屠り去ることも可能だろう。
しかし、あれだけ人質がいては別だ。アテルイが見張りを倒す間に、何人が殺められるか、わかったものではない。ジョーの問いに、アテルイは頷いた。
「手はある。が、俺は一人では難しい」
「俺の出番か」
「そうだ、出来るか?」
「内容によるな。奴らを倒せとかってのは無理だぜ」
「そんなことは頼まない」
「よし、ならいいぜ」
アテルイはジョーに作戦を説明した。説明を終えると、二人は場所を変えた。
「それじゃあ、俺は行ってくるぜ。あんたはここでいいのか?」
ジョーが言った。アテルイはギハオ神道の格好をやめて、元の黒い服を着ていた。そして場所は、天使像の前。廊下の突き当りだ。
「ああ、頼んだぞ」
アテルイが言うと、ジョーは聖獅子の間に向かって走り出した。ジョーの姿が、角を曲がって見えなくなると、アテルイは深呼吸した。
「祈れ、ウィロウの業を。民は天を仰ぎ見て、災いより逃れんと欲す」
それは、ウィロウ教の経典の一節だった。法術を発動するための引き金となる。法術は信仰の深さによって、使える法術の種類が増え、効果も強くなる。
慣れた法術であれば、経典の詠唱を省略することもできる。つまり、「火炎」や「沈黙」の一言で法術を行使できてしまう。しかしそれには欠点もあった。
「災禍に民はただ祈るのみ。嘆きも喚きも絶えるまで、ただ祈り続ける」
詠唱を省略しない場合と比べて、効果が格段に落ちてしまうのだ。例えばアテルイが使う、詠唱を省略した沈黙の法術は、アテルイの半径から五歩ほどしか効果を発揮しない。
沈黙の法術は、通常、省略しないで詠唱したらば、その効果の範囲は、半径から五十歩は固いだろう。
つまり、省略しない場合と比べて、およそ十倍の効果を発揮する。むしろ、これこそが法術の本来の力だ。
「黙せよ、祈りに言葉は不要。口を縫え、祈りの他は無用。黙せ、黙せ、ただ祈れ」
「こっちだ、油断するな!」
廊下の角の向こうから、ジョーの声が聞こえた。大勢の足音と一緒だ。そして、ジョーが姿を現した。後ろには、大勢の敵を引き連れている。
「掛かれ!」
ジョーの掛け声に、敵は一斉に構える。法術を放とうと、省略した詠唱を言おうとする。そしてそれより早く、アテルイの詠唱が終わった。
「――信ある者は、沈黙のうちに一切を終わらせる」