第四話
アテルイは薄っすらと目を開けた。陽光は相変わらず窓から注いでいるが、明らかに角度が変わっている。
「しまった、寝過ぎたな」
むくりと体を起こして、アテルイは伸びをした。ふむ、と一息吐くと、たちまち顔を険しくした。
窓のガラスを破り、座っているアテルイを飛び越えて、大きな影が部屋に侵入してきた。パラパラとガラス片が飛び散る。
人影の正体は、苔色の装束を身に付けた人間だった。侵入者は、自身の背後に立つアテルイを見付けた。
「拘そ――!」
「沈黙」
法術の詠唱をしようとした侵入者だが、声が出せなくなった。アテルイの法術が早かったのだ。
しかし敵は即座に思考を切り替えた。腰の短刀を抜き放ち、目にも止まらぬ速さでアテルイに切りかかった。
アテルイは侵入者の手首を押し払う。力を受け流され、侵入者がほんの僅か前のめりになる。侵入者はその瞬間、自分を支える地面がなくなったように感じた。気付けば床に叩きつけられている。起き上がろうとして、短刀を持った指がアテルイに踏み砕かれた。
「ッア――!」
侵入者が掠れた悲鳴を上げた。アテルイの法術によって、まともに声を出すことはかなわない。アテルイは侵入者の襟首を掴み上げ、立たせた。
「お前がネズミか?」
アテルイが問い掛ける。言葉での返答は期待していない。反応を窺いたいだけである。首に掛かった紐に気付き、アテルイは紐を引っ張った。紐に引っ張られ、装束の内側から竜をあしらったペンダントが出てきた。
「ギハオ神道か。まさか敵の総本山に攻撃を仕掛けるとはな」
アテルイが言った。戦意を喪失しかけていた侵入者だったが、力を振り絞り、アテルイに殴り掛かった。
アテルイは難なく避けたついでに、侵入者の腹に膝蹴りを喰らわせる。自身の勢いの相乗で、侵入者の腹は強い衝撃を受けた。
侵入者から力が抜けると、アテルイは侵入者の体を反転させて、後頭部の髪を掴んだ。そして窓縁に叩きつけた。窓に残っていたガラスが、侵入者の顔を切り裂く。
「今から法術を解く。俺の質問に答えろ。素直に答えれば命は助ける」
アテルイが言った。侵入者の頭を引っ張り上げる。いつでも叩きつけられるように構えた。侵入者の目玉の先には、特に大きなガラスが尖っていた。眼球に叩き付ければ、容易に貫通するだろう。
「お前は一人で大聖堂に侵入したのか?」
「拘――!」
ずん、と侵入者の眼球を、ガラスが突き刺した。侵入者は痙攣したあと、動かなくなった。アテルイは溜め息を吐いた。窓縁で息絶えた侵入者を尻目に、部屋を出る。
部屋を出てすぐ、アテルイは足下を見た。女性が転がっていた。白を基調とした動きやすい服。神官ではない。使用人だ。
「おい、大丈夫か」
アテルイが抱き起こす。女性は肩を押さえていた。肩に切り傷がある。かなりの血を流したようだ。
「俺の言葉が分かるか」
アテルイが言うと、女性は弱々しく頷いた。
「名前は?」
「イド」
「よし、イドだな。なにが起きたかわかるか?」
「急に、知らない人が、襲ってきました。他の皆も……」
イドは栗色の髪を揺らして、苦し気に喘ぐ。これ以上は止めておいたほうが良いと、アテルイは判断した。
「取り敢えず俺の部屋に隠れていろ。手当ての道具を探してくる」
アテルイはイドを抱き上げて、部屋に戻った。侵入者の死体を見て、嫌そうに息を漏らしたイドだったが、抗議する体力もあまり残っていなかった。
「傷をしっかり押さえておくんだぞ」
アテルイはそう言い残して、部屋を再び出た。廊下を早足に進んでいく。何気ないようだが、神経を集中させて、遠くから聞こえる音を探っている。
十歩先の曲がり角で、二人の侵入者が姿を見せた。気付いたのはアテルイが早い。獲物を追う獣のように跳ね跳んだ。
侵入者がアテルイに気付いたとき、アテルイは侵入者の懐に入り込んでいた。下から上へ、突き上げるように掌打を放つ。侵入者は辛うじて踏み止まったが、アテルイが敢えてそうなるように力加減をしていた。隣にいたもう一人の侵入者が、掌をアテルイに向ける。
「火炎!」
その侵入者が法術を放った。アテルイは掌打でふらついていた侵入者を引っ張っていた。その反動を利用して、侵入者と位置を入れ替える。
侵入者は仲間の炎を受けて、体の前面を焼け爛らせた。ふらついたところに火炎を浴びた侵入者は、途端に踏ん張る力を失った。アテルイの蹴りを受け、燃えた体のまま、勢いに任せて、仲間にしがみつく。
法術を放った侵入者に火が燃え移る。慌てて火を払おうとしても、仲間がしがみついているために上手くできない。やがて二人とも火だるまになり、息絶えた。
悲鳴が上がらなかったのは、侵入者が法術を放った直後に、アテルイが沈黙の法術を使っていたからだ。
アテルイは先を急いだ。アテルイが目指したのは洗い場だ。そう距離はない。洗い場の近くには厨房があり、使用人室があった。欲しいのは、清潔な布、水、それと裁縫道具だ。
アテルイは迷わず進んだ。廊下には、罪のない人の死体がいくつも転がっていた。看過できない所業だった。
途中、敵に出くわした。法術を使われる前に、沈黙の法術で防いだ。斬りつけてきた短刀を避けて、顔面を叩く。ひるんだ隙に、敵の喉元を突いた。さらに手を捻り上げ、短刀を奪う。
手を捻り上げられて、敵は床に膝を付けた。うなじの辺りを目掛けて短刀を突き刺す。敵は死んだ。
アテルイは自分の感情を殺すように努めた。やらなければやられるし、侵入者たちは許されないことをしたのだ。俺の行き着く先も同じだから、彼らは俺が殺すべきだ。そう念じながら、洗い場に辿り着いた。
洗い場から使用人室へ、使用人室から厨房へ。清潔な布を手に入れ、水を桶に汲み、裁縫道具の針は火で炙っておいた。アテルイは急いで部屋に戻った。
「俺だ、入るぞ」
アテルイが扉を開けると、イドが胡乱な目付きで見ていた。だが今すぐに息絶えてしまうというようなことはなさそうだった。
「間に合ったか」
アテルイは持ってきた物を、一通りイドの前に並べた。
「傷を見せろ」
アテルイが言うと、イドは肩口を押さえていた手を、ゆっくりと離した。アテルイはイドの服に手を伸ばして、引き裂いた。
「っひ!?」
イドが声を漏らした。
「服があったんじゃ傷が見え辛いだろ。手当もできん」
アテルイが言った。心外だなと思っていた。そんなアテルイの様子に、邪な他意などないとイドは理解した。
「ちょっと染みるかもしれんぞ」
アテルイは先ず、ありったけの水を使って傷口を洗い流した。イドや床が水浸しになってしまったが、気にしてはいられない。次に、裁縫道具を使って、傷口を縫合した。
「痛いだろうが、我慢してくれ」
針がイドの肌を貫通して、糸を通す。イドの目に涙が溜まる。唇を噛むようにして耐えた。
「最後だ」
アテルイは、持ってきた布でイドの傷口を縛った。
「これで大丈夫だろう。安静にしていろよ」
「ありがとうございます」
イドは消え入るような声で言った。
「それじゃあ、俺は行くから」
アテルイが立ち上がろうとすると、イドはアテルイの服の裾を掴んだ。
「ここにいて下さい……」
「心細いのは分かるがなあ」
あまり時間を掛けると、色々と手遅れになりかねない。アテルイは悩む素振りを見せた。すぐに出ていくことは腹の中で決まっている。問題はどうやってこの娘を説得するか。
「あ、そうだ。イドとか言ったな。助けて欲しい奴はいないか」
「助け……?」
「ああ、友人とか」
「それなら、います」
「どんな奴だ?」
「私と同じくらいの女の子で、私と同じような栗色の髪です。名前はウニン」
「他に特徴は?」
「小柄で、ええと、あとは……」
「分かった、それで十分だ」
アテルイが部屋を去ろうとすると、イドが言った。
「生きて戻ってください」
アテルイはちらりとイドを見たが、返事をせずに部屋を出た。