第三話
講堂に入るものが少なくなり、席がほとんど埋まった頃。演台に一人の老人が上った。
黒の法衣は、アテルイが着ていたものや、ロマラムタが着ているものとは少し違う。柔らかな生地に、棚引くような皺を作っている。首から下げているのは、ロマラムタの物と同じ、蛇を象ったペンダントだ。
老人が演台に上がると、講堂は静まり返った。
「かつて大地に、八柱の神が降り立ちました」
老人の声は、不思議と講堂に響き渡った。
「八柱の神は、大地に住んでいた人々を統治しておりました。しかし地上の瘴気に毒され、一柱の神を残し、散り散りとなってしまいました。残った一柱の神は、地上の人々を救うため、雲をも超える聖堂を建立なされたのです。それがこの聖堂、テマリスアマ大聖堂であります。そして残った一柱の神は、大聖堂の頂点からその御稜威によって、地上の瘴気を祓い清めました。さらには深き信仰によって、その神秘の一部を我らに授けるという恩恵を施して下さったのです。その神の名はウィロウ。我らが信奉する、唯一の真なる神であります。以上のことが、聖典の序文に記されおります――」
反響するように、或いは空気に染み入るように、老人の声が寂たる講堂に吹き抜けていく。典礼は粛々と進められた。
始め異変に気が付いたのは、ロマラムタだった。
「誰かいる」
「え?」
隣に座っていたプルウィアが怪訝な顔をした。
「誰かいるって、それは、どういう……?」
プルウィアは首を振って、辺りを見回した。典礼の参加者が、講堂の席を埋め尽くしている。
「プルウィア、お前は中座して、アテルイを探して来い」
ロマラムタが僅かに腰を浮かした。周囲に警戒して、いつでも動けるようにしているのである。
「急げ」
ロマラムタがプルウィアを急かした。
「わ、わかりました」
戸惑いながらも承諾して、プルウィアは席を立った。出口へ向かい、階段を上っていく。典礼中の中座を恥じ、また周囲の視線に顔を俯けつつも、出口の扉までやってきた。扉の前に、見掛けない顔の男が立っていた。
「あの、通してくださいますか」
プルウィアは笑顔を作って言った。
「典礼中ですよ」
男が応えた。
「承知しています。ですが、急用を頼まれてしまいまして」
「いけませんね、典礼は最後まで聞かないと」
「それはわかっています。しかしですね……」
何故だか男は、プルウィアに扉を通らせる気がないようだ。先程のロマラムタの言動と相俟って、プルウィアは急に不安を感じた。
「通してください」
「席に戻って」
男は聞く耳を持たない。場合によっては、強引な手段を取ることになるかもしれない。覚悟を固め、拳を握った時だった。ガラスの砕けた甲高い音がした。天井からだ。まるで空気そのものに亀裂が入ったかのよう。天井を見上げたプルウィアの目に、降ってくる人影が見えた。それもいくつも。
「衝撃」
男が言い放ち、プルウィアが向き直ったとき、男の手がプルウィアの胸に当てられていた。
「しまっ――」
プルウィアは咄嗟に腕を上げたが、遅すぎる。熊に衝突でもしたような強い衝撃を体に受けて、プルウィアは仰向けに倒れた。激痛が胸を襲う。呼吸がまともに出来ず、喘ぐことしかできない。
天井から降ってきた人影が講堂に降り立つと、あちこちで悲鳴が上がった。続いて、火や水、土や風が飛び交う。法術の応酬が始まったのだ。
プルウィアは人影の正体を思う。手甲、脛当て、鉢金。露出の少ない苔色の装束。機動性を重視した戦闘服であることは見て取れた。涙で滲んだ視界の中で、プルウィアは扉の男を見た。男は扉に向かって、印を結び、詠唱していた。
「――道を妨げる者、抗いて手中に収むることならず。ギハオを信ずるもの、妨げる者からをも果報を得ん」
男が詠唱を終えると、扉に青白い靄が掛かった。ギハオ神道か、とプルウィアは思った。痛む胸を押さえながら立ち上がる。
「なにをしたのです」
プルウィアが男に問うた。
「一人も逃がさん」
男はプルウィアを見遣ると、掌を向けた。
「火炎!」
男の掌から火が吹き出る。常人なら瞬く間に焼き殺されるであろう灼熱。プルウィアは棒を円に振り回した。火はプルウィアの手前で散り飛ぶように消えた。
「馬鹿な」
男が言った。その刹那に、プルウィアは全力で踏み込んでいた。男の目に、棒が点となって迫った。反応しきれず、男は眉間を打ち貫かれた。仰け反った拍子に背後の扉に激突する。扉に掛かった靄が震えて、男を弾き返した。
「拒絶結界……」
プルウィアが呟いた。
「よくもやってくれたわね」
怒りに燃えた目をぎらつかせ、プルウィアは足下に倒れた男を見下ろす。片手に持っていた棒をくるりと反転させ、縦に真っ直ぐ持つ。そのまま男の頭蓋へ搗いた。鈍く、なにかが砕けるような音がした。うつ伏せになった男の顔から血が出てきて、血溜まりを作った。
プルウィアは男に興味を失い、痛む胸を擦りながら辺りを見回した。突然の襲撃に、混乱の坩堝と化している。うかうかしていると、法術の流れ弾にやられかねない。プルウィアは急ぎ足で扉の前に立った。扉に掛かった靄を観察して、プルウィアの顔に焦りが出てきた。
「駄目だ、解呪に時間が掛かる」
なにか手はないかと、プルウィアは講堂を見回した。ひどい戦闘で、手立てなどありそうもない。あちこちで血飛沫が上がっている。やられているのはほとんど味方だ。プルウィアは棒を握り締め、戦闘の真っただ中へ駆け出した。戦闘中の一団に躍り出る。
「やあッ」
掛け声とともに、棒を薙ぎ払う。牽制を受けた三人の敵は、跳ね足で距離を取り、その間に法術を使った。
「火炎」「水砲」「鎌鼬」
三種の法術がプルウィアを襲う。
「防壁!」
プルウィアが叫ぶと、板状の光が現れて、敵の法術からプルウィアを守った。それからプルウィアの後方から火の玉が飛ぶ。味方の援護だ。敵が火の玉に気を取られた一瞬、プルウィアは目を凝らした。プルウィアの視線の先、敵の頭上に、何十本もの棒が出現する。それに気付いた敵の一人が叫喚した。
「無詠唱だと!」
驚愕する敵に、プルウィアの口元がにやりと歪む。
「後悔なさい!」
プルウィアの発声と同時、空中の棒が弾かれたように降り注いだ。敵は瞬く間に打ち倒れる。床に突き刺さっている棒さえあった。
敵を倒したプルウィアは、さらに奥へと駆け抜ける。目的地はない。ただ敵を蹂躙するのみだ。
法術を放ち、法術を躱す。近付く敵には棒を打ち振るった。まとまった敵には先程と同じ手管、すなわち棒を驟雨の如くに降らせて一掃した。
しかし奮戦むなしく、全体としての戦況は劣勢だった。そのうちプルウィアはロマラムタの姿を目にした。
「大司教!」
プルウィアは驚愕の声を上げた。禍々しい鎧に身を包んだ敵が、ロマラムタの首を絞め上げていた。
プルウィアは舌打ちして、この敵の側面へ回り込んだ。下手に法術を放てば、ロマラムタに当たってしまうためだった。しかし側面に回り込んだだけでは完璧とは言えない。敵は軽々とロマラムタを持ち上げているのだ。素早い動きで、ロマラムタを盾にするかもしれない。
とはいえ、この敵の素早さについては、プルウィアは心配していなかった。なにせ鎧を着こんでいるのだ。他の機動性に富んだ敵たちとは違う。どういうつもりかしらないが、兜まで被り込んでいる。刺々しい装飾や、黒々とした苔色の配色には威圧感があったが、それだけだ。だから、あえて接近戦を仕掛けたのは、念のためだ。
「ふんッ」
棒を叩きつけた。空振った感触に、プルウィアの思考が空白になる。敵がいない。
脇腹に、木の幹で叩きつけられたような衝撃が起こった。椅子を何脚も跳ね飛ばしながら、プルウィアは転がった。
呼吸ができない。痛みに、芋虫のようにのたうち回った。敵が尋常でない素早さでプルウィアの攻撃を避け、蹴りを見舞っていたのだった。
プルウィアの脇腹から血が出ている。蹴った拍子に、刺々しい装飾の一部がプルウィアの腹を突き刺していた。
「ぃよーし、全員、静まれえい!」
不意に、演台の方から声がした。声は講堂に鳴り響いた。次第に戦闘行為が止んでいく。
プルウィアたちは、負けていた。朧な意識の中で、プルウィアは演台を見た。
そこに立っていたのは、苔色の装束に、首から竜のペンダントを下げた男。そしてその傍らには、首を括っているかのように、宙に漂う、老人の姿があった。
「そんな、教主様――」
プルウィアの意識は、その嘆きとともに黒く沈んだ。