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ポルタトーリ  作者: Vapor cone
9/46

8.熱砂からの脱出

 コンクリート剥き出しの部屋だった。

 天井には裸電球が一つぶら下がっているだけ。通路との間にはドア代わりの鉄格子。言わば、牢屋のような造りとなっていた。ような、とは部屋の造りが簡易的だったからだ。

 後付けされたような鉄格子。室内や通路の壁に窓の痕跡があるが、それは大雑把にレンガとモルタルで埋められている。とても蒸し暑く埃っぽかった。時折、見えない通路の奥から吹いて来る風が救いだったが、部屋の隅に置かれただけの便器からは常に異臭が漂っていた。

 その狭い空間に、塗装の剥げたスチールベッドが二つ置かれていた。薄い汚れたマットの上で、向かい合うように腰を下している男が二人。黒ずんだシャツが、にじみ出る汗で背中に張り付いていた。スラックスは砂埃で元の色も判らない。足元には空になった食器とスプーンが、金属のトレーに乗せて置いてある。二人とも裸足だったが、辺りに靴は見当たらなかった。

「……交渉は、始まっているのでしょうか?」

 問い掛けた、細身で面長の男。小川だった。垢黒くなった顔と伸びた髭。癖毛は固まったように頭に張り付いていた。疲弊した表情をしている。

「そうなっていると、考えたいですね……」答えたのは越谷だった。こちらも髭が伸び、少しやつれた感じで頬がこけていた。「……我々が無事でいるということは、何かしらのアクションが起きているということでしょう……」

「そうですよね……」

 俯く小川。


 あれから何日経っただろう。外の光が届かないここでは、昼か夜かさえも判らない。腕時計は、とうに没収されてしまっている。

 お互いに励まし合っていた二人だが、時間の経過と共に会話も少なくなっていた。何とも言えない脱力感。それに、恐怖からくる緊張と変化の乏しく不快な環境。疲労はピークに達していた。

 二人は武装グループの人質となっていた。もちろん、誰かが説明してくれた訳ではないが、状況を見ればそう判断するのは普通だ。いろいろ連れ回されてから、ここに監禁された。何処なのか全く見当もつかないが、襲撃された場所からは大分離れていることは確かだった。

 グループの数人から尋問も受けた。内容は日本政府の内情から、イラクでの活動についてなど事細かに訊かれた。尋問は比較的穏やかに行われたが、米国との関わり合いの事になると厳しく問い詰められた。

 二人の話に食い違いがあると余計な誤解を招くので、お互いありのままに話すようにした。その為、越谷が警察庁から出向している在外公館警備対策官だと分かると、自ずと質問は増えた。在外公館警備対策官は、その名の通り在外公館の警備対策を企画立案する官職だ。相手が興味を示すのも当然だった。

 越谷に対する尋問は、サマーワに駐留する陸自の状況にまで及んだが、それを詳しく知る者でないと分かると、深く追及されることはなかった。元々、日本の自衛隊を脅威とは見なしていないようだった。

 拉致された時から比べると、極端に身の危険を感じることは無くなったが、それも人質としての価値があるまでと考えてよかった。越谷も小川も、それは自覚していた。自分達は、あくまでも交渉の道具に過ぎないのだと。

「要求は、やっぱり身代金でしょうか?」小川が訊く。「それとも、陸自の撤退?」

 ため息交じりで苦笑する越谷。

「両方考えられるでしょうね……そうなると、官邸も外務省も大変な騒ぎになってますね。公表してたらマスコミも……」

 越谷は、ふと小川を一瞥した。

「……」

 ずっと、家族のことを気にしていた小川がうな垂れる。

 彼は外務省キャリアの書記官で、越谷と違って結婚しており、幼い娘がいる。いたたまれない気持ちは、より強いだろう。それに警察とは違い普通の公務員だ。特殊な状況に対する心構えも違う。

 彼の為にも助かる方法を模索する越谷だったが、この状況下で良い案など出るはずもない。今は、交渉がうまくいくことを祈るしかなかった。

 しかし、分かったこともある。この武装グループは、かなり組織立った活動をしている。統率された兵士達は身なりも整っていて、使っている武器も正規の軍隊が使用するような物だ。ただの犯罪集団ではない。尋問を担当していた男は英語も堪能だった。つまり、旧イラク軍の残党と考えて間違いないだろう。開戦当時、抵抗らしい抵抗をしなかった彼らが地下にもぐり、今勢いを盛り返しつつあると聞いていた。

 それから、今回の犯行が日本人を狙ったものではないことも窺えた。たまたま、捕まえたのが日本人だったというものだろう。

 だが、組織がしっかりしているということは、日本政府が交渉する上で厄介だということだ。小さな勢力なら同じ部族を通じて身代金を提示し、水面下で交渉することができるかもしれないが、大きな勢力は政治的な要求を強く出してくることが多い。そうなると交渉は行き詰まる。

 こういった場合、交渉意外に選択肢が無いというのも、日本という国の泣き所である。安全保障の為の手段は多いに越したことはないのだが、なかなかそうはならない。

 そして、今はただ待つしかなかった。


 ベッドで仰向けになり、天井の隅をぼんやりと眺めていた越谷。

 襲撃された時の光景が頭に浮かんだ。炎上した車。血まみれで倒れていた警備員。在外公館警備対策官という立場上、契約しているPMCに警備員の派遣を依頼したもの越谷だった。少なからず、警備員達とも交流があったことを思うと心が痛んだ。傭兵のようであり、時々悪い噂が流れる職種ではあるが、気さくでいい奴がほとんどだった。それに、アラブ人の運転手のことも気掛かりだ。武装グループの目的が外国人の誘拐であれば、関係ない彼は解放されている可能性もある。そうであれば良いと願った。

「……!」

 不意に通路に気配を感じて、現実に引き戻される。顔を上げた越谷。同じく横になっていた小川も、つられて起き上がった。

「……なんです?」

 通路に誰かいた。二人が凝視する中、鉄格子の向こうの影から現れたのは、黒いベールで顔を覆った女だった。ベールの隙間から目だけが覗いていた。それは、深いグリーンの瞳だった。

「……」

 思わず声を失っていた越谷。突然こんな場所に、不釣り合いな女性が現れたからではない。その女の存在に何故か戸惑ったのだ。経験したことのない感覚。その怪しげなまでの眼差しから、得体のしれないものを感じた。説明はできないが、一瞬、見えない波のようなものに包み込まれた気がした。

「(起きろ!)」

 アラビア語の罵声。呆然としていた越谷が我に返る。女の横に、顔をフェイスマスクで隠した男を見付けた。食事や排泄物の世話をする監視役だった。いつも通路の奥で見張っている。

 監視役はトカレフのような自動拳銃を構えると、越谷と小川に奥に下がるように命じた。二人が黙って従うと、悲鳴のような音を立てて鉄格子が開く。監視役と女が部屋に入って来た。恐々として様子を見守る二人。先ほど感じたものは、まだ薄っすらと続いていた。そして、印象的な深いグリーンの瞳から目が離せなくなっていた。

 監視役は銃を突き付けると、二人をコンクリートの壁際に追いやって立たせた。壁に背中を付けたまま、女の一挙手一投足に気を揉む小川。頬が引き攣っていた。何が起ころうとしているのか、全く予想が付かなかったからだ。それは越谷も同じだった。

 女は持ってきたアルミケースを床に置き蓋を開けた。固唾を呑む越谷と小川。張り詰める空気の中、取り出されたのは一眼レフカメラだった。

 胸を撫で下ろした二人をよそに、撮影を始めた女。無言のまま手で体の向きを指図する。されるがままにフラッシュを浴びた。眩しさで表情を歪めた越谷だったが、女にとって表情はどうでもいいようだった。女は撮影を手際よく進めていく。ファインダーを覗くグリーンの瞳。印象的である反面驚くほど冷淡で、そこから感情はまったく読み取れなかった。

 写真を撮られながらも、女の身なりを観察する越谷。ベールこそまとっているが、服装はアラブの民族衣装ではなかった。ワークシャツに綿のパンツ。トレッキングブーツを履いている。武装グループの仲間にしては違和感があった。イスラム圏は男性中心の社会であることからもそう感じた。

 考えられるとすれば、ジャーナリストだ。報道を使って事件を煽り、交渉を有利にするつもりなのかもしれない。当然、西側のメディアではなく、反体制派に肩入れする地元の新聞とかであろう。

 撮影が終わる。屈み込んでカメラをアルミケースに仕舞う女。その時、越谷は自分の足元をじっと見詰める女の視線に気付いた。裸足なのが気になったのであろうか。ほんの少しだが動きを止めた。

 それを見て、催促するように女の肩を叩いた監視役。立ち上がった女は監視役と出て行った。再び悲鳴のような音を立てて閉じられた鉄格子。何事も無かったかのように去っていく二人。しかし、見えない通路の奥から微かにアラビア語の会話が聞こえた。

「(……次は、米軍兵士のところへ……)」

「(おい! よけいなことを喋るな!)」

 越谷は聞き逃さなかった。眉間に皺を寄せる。米軍兵士(・・・・)と確かに聞こえた。他にも捕らわれている者がいると思わせる会話。終始無言だった女が、最後に何故そう言ったのか。まるで……

「あの女性は、誰なんでしょうか?」

 茫然と立ち尽くしていた小川が訊いた。

「ジャーナリスト……ですかね……」

 越谷は女が消えて行った通路の奥を見続けていた。そう、まるで自分達に米軍兵士の存在を知らせたかのように思えた。だが、それに何の意味があるのかは分からなかった。

 後になって聞いたことだが、あの女に関して小川は全く変わった感じは受けなかったという。あの感覚はいったい何だったのだろうか。疑問は晴れなかった。しかし、それは越谷にとっての始まりであった。



「……地震?」

 微かな振動を感じてベッドから飛び降りた越谷と小川。日本で経験する地震の前触れのようだった。しかし、遠くから散発的に響き始めた音に、そうではないことを気付かされる。明らかに爆発音だった。

 ベールの女が現われてから、数日が経過していた。相変わらず、何の変化も無かった中での出来事に二人は動揺した。通路では監視役が慌てふためいている。右往左往しながら携帯電話に向かって叫んでいた。

 何事かと鉄格子に飛びついた越谷と小川だったが、通路の奥の様子は判らなかった。すると、遠かった音が一気に近くなる。お互い顔を見合わせた。小川は強張った表情で目を丸くする。何か言いたげだったが、口にしなくとも越谷には分かった。次の瞬間、悪い予感は的中する。

 激しい振動と衝撃。すぐ近くだった。思わず耳を塞ぐ。同時に明かりが消え、辺りが真っ黒になる。続けて、通路を熱風が激しく通過した。鉄格子を抜けて吹き込む砂煙と焦げた臭い。半ば飛ばされるように、部屋の床に倒れ込んだ二人。

 辺りが濛々とする中、かろうじて目を開けた越谷。鉄格子の向こう。暗い通路を微かな軌跡が連続して横切っていた。初めは判らなかったが、耳から手を放して気付く。ヒュン、ヒュンと空気を掠める不気味な音。銃弾が飛び交っていた。

 次第に大きくなる銃撃音。咄嗟に小川の頭を押さえ込み床に伏せた越谷。ベールの女の言葉が頭に浮んだ。そして、これは米軍が事を起こしたのだと直感する。耳をつんざく銃声に総毛立ちながらも、できるだけ低い姿勢で小川を引っ張り、部屋の奥に移動した。慌てて動かない方が得策だと考えた。敵に間違えられて、巻き添えになることを避ける為だ。

 銃声は暫らくして治まった。鉄格子の向こうを半眼で窺う越谷。暗闇の中、通路にぼんやりとではあるが人影が浮かんでいた。足音がする。しかし、それを直視するには勇気が必要だった。

 躊躇していると、目の前で凄まじい火花が散った!

 鉄格子から吹き上がったオレンジ色の光が、床にこぼれ落ちる。閃光に慄く越谷と小川。エンジンカッターが唸っていた。あっという間に切断された南京錠。すかさず鉄格子が開かれ、正体不明の集団が雪崩れ込んで来た。フラッシュライトで照らされる二人。集団の一人が叫んだ。越谷の予想は正しかった。聞き慣れた英語だった。

「(我々は合衆国陸軍(U.S.ARMY)です! あなた方を救出します!)」

「あう、あ……」

 小川が口を半開きにして、言葉にならない声を発した。眩しさで目を伏せる二人に、相手はかまわず問い掛けた。

Mr.(ミスター)Koshigaya(コシガヤ)?」

Yes(はい)!」

Mr.(ミスター)Ogawa(オガワ)?」

「……Yes(はい)!」

 越谷は反射的に、小川は詰まりながらも答えた。

 呼びかけたのは、デザートパターンの迷彩服に身を包んだ完全武装の兵士だった。カモフラージュとして黒くペイントされた顔。ヘッドギアに暗視装置。構えたM4カービン自動小銃には光像式照準器とIRレーザーサイト(エイミングデバイス)が装備されていた。

 その勢いに圧倒され、呆然としてしまう越谷と小川。

「(時間が無い。早くここを出ますよ! 少し走って貰う事になりますから、これを履いて下さい!)」

 そう言った兵士は、それぞれの足元に何かを放った。それはベロクロで締める、ラフなスニーカーだった。それを見詰めたまま、依然として動きが止まっている越谷と小川。

Hurry up(早く)! Hurry up(早く)!」

 激を飛ばした兵士に促され、慌ててスニーカーを履いた二人。何故かサイズは合っていた。

GO(行け)! GO(行け)! GO(行け)!」

 兵士の合図と共に、部屋を飛び出し通路を走った。暗闇の中、前方を照らす兵士のフラッシュライトだけが頼りだった。

MOVE(走れ)! MOVE(走れ)!」

 怒鳴る兵士に背中を押され、越谷と小川は迷路のような通路を駆け抜ける。所々に人が倒れていた。その一人がライトで照らし出される。あの監視役の男だった。逃げ惑っていたが、犠牲になってしまったようだ。床に血溜まりが出来ていた。目の前の現実に足がすくんだ小川と越谷。兵士が苛立つように急かす。

「GO! GO! GO!」

 二人が再び走り出す。感傷している時間は無かった。

 進んで行くと、先に僅かな明かりが見えた。それは、壁に開いた大きな穴からこぼれている。突入の際に破壊したのであろう、焼けた匂いがした。越谷と小川は、そこから兵士に誘導され外に出る。

 越谷は息を呑んだ。今が夜だったことにではない。監禁されていた場所が、コンクリートの建物が立ち並ぶ市街地だったことにでもない。そこが、まさに戦場だったからだ。

 頭上では幾重にも重なる光線が交錯していた。曳光弾の軌跡だった。連続した銃声が、四方八方から轟いている。後方で上がった照明弾が、眩しく辺りを照らし出す。散発的に地鳴りのような爆発音が腹に伝わる。既に、市街戦の様相を呈していた。

「(よく聞いて下さい! あの丘の上まで走りますよ!)」

 兵士の一人が市街地の外れを指差した。薄明かりの中、見遣った先には小さな丘があった。500メートルほど離れているだろうか。勾配はゆるいが、草木はほとんど生えておらず、点々と背丈ほどの岩があるだけだった。

「あそこが、ゴールということか……」

 呟いた越谷はスニーカーの必要性を理解した。戦闘により破壊され、散乱した建物の瓦礫。到底、裸足では歩くことすら間々ならないだろう。

 兵士の合図を機に建物の影から飛び出す。越谷と小川を取り囲む救出部隊は5人。市街地から丘へと目指した。

 丘の登り口まで来たところで、越谷は暗闇に目を凝らす。すると、丘の中腹に同じように頂上に向かって移動する集団を発見した。

「(先行部隊だ。あれの後を追うぞ!)」

 兵士の言葉を聞いて、それが別の救出部隊であることが分かった。例の米軍兵士を救出しているのかもしれないと越谷は考えた。

 懸命に走る越谷。だが、足がもたついた。監禁されてから、ほとんど動いていないのが災いした。小川も同じ様子だった。不意に、横にいた兵士が後ろに向かって発砲する。銃声に思わず頸をすくめた越谷と小川。追手がすぐそこに迫って来ているようだった。他の兵士も立ち止まり、加勢するように暗闇に向かって撃ち始める。暗視装置を着けていない二人は何も分からない状況だ。思わず足が止まる。

「(止まらないで、走るんだ!)」

 兵士に肩を押され再び走り出す。二人は岩などの障害物を盾にして、縫うように移動した。背後の銃声は続いている。時折、近くを銃弾が掠める。恐怖と戦いながら、死に物狂いで駆け上がった。

 丘の頂上が見え始めた。下を見ると、兵士達は先ほどの所に未だ留まっている。振り返り、このまま一気に行こうとした時だった。越谷は足を取られて転倒してしまう。何かに躓いたのだろうと思った。しかし、足元には何も無かった。奇妙に思いながら、慌てて立ち上がろうとするが、何故かよろめいて地面に手を着いてしまった。その時、ようやく左足の感覚がなくなっている事に気付く。つま先まで完全に痺れていた。

「越谷さん!」

 横で叫んだ小川。その視線の先に目を遣る越谷。太腿から赤黒い液体が染み出して、スラックスに広がっていた。掌をあてると生暖かいものがベッタリと付いてきた。焦げた臭いが漂う。銃弾が腿の外側を貫通していた。

「越谷さん、掴まって!」

 小川は動転しながらも必至だった。越谷はその肩を借りて何とか立ち上がる。しかし歩き出そうとするも、思うように進めない。小川は焦りながらも後方を確認する。兵士達はまだ追い付いて来ない。自分達で何とかするしかなかった。

「もう少しなのに!」

 苛立たしく嘆いた小川は、越谷を引き摺るようにして進み出した。


 先行していたのは、やはり捕虜になっていた米軍兵士を救出した部隊だった。越谷達と同じように、完全武装の兵士達に囲まれながら丘の頂上に到着した。救出された者達の中には、頭に包帯を巻かれた怪我人もいる。皆が消耗しきった表情だった。

 丘の上で彼らを待っていたのは、米陸軍のヘリコプターMH-60Kブラックホークだった。頂上の平坦な空き地に、文字通り真っ黒な機体が3つ並んでいる。搭載された強力なT700ターボシャフトエンジンの甲高い音が響き、エキゾーストフレームからの排気熱で空気が揺らぐ。暗視装置を付けたパイロットはローターを回しながら、いつでも飛び立てる状態を維持していた。

 ヘリの周囲を警戒していた兵士達が駆け寄る。暗闇の中。救出された米軍兵士達が、次々とヘリに押し込まれていく。その傍らで、男が激を飛ばしていた。屈強そうな体躯と歴戦をくぐり抜けてきたような顔つき。この作戦の指揮官だった。男は救出された兵士達の肩を労うように叩いたが、表情は和らがなかった。作戦は、まだ完了していない。

 戻って来た救出部隊の兵士達。今度はヘリを守る為に周囲に散らばって行く。しかし、その一人は踵を返すと指揮官に歩み寄った。

「(日本人は? どうなっている?)」

 上官に対する物言いではなかった。しかも、女の兵士だった。指揮官は渋い顔で手を大げさに振った。

「(まだ250ヤード先だ! 追手の数が多い、手こずっている……そうだな?)」

 指揮官は横にいる兵士に訊いた。

Yes,sir.(はい、そうです)

 答えた兵士。抱えている無骨なノートPCのモニターには、鮮明な赤外線画像が映し出されていた。それは、この上空を飛んでいる無人機(UAV)RQ-1Lプレデターからリアルタイムで送られて来ているものだった。地上を動き回る人や車両が、白黒ではっきりと映っている。それは、辛くも越谷達の救出部隊の苦戦をありありと映し出していた。

 女兵士は苦々しい表情で訊く。

「(近接航空支援(CAS)は?)」

「(ここに向かっている途中、30マイル手前で地上からロケット攻撃を受けた。被害は無かったが、応戦した為に到着が遅れている!)」

 指揮官が顔を歪めて答えると、女は決断したように頷いた。

「(分かった、援護に戻るわ!)」

「(よし、頼む)」

 期待できる吉報は無かった。女兵士は背中を向けると銃を構えて駆け出した。それを見送る指揮官。ノートPCを抱えていた兵士が怪訝そうに言った。

「(よろしいのですか?)」

「(ああ、構わん。基本スタンドプレーは無しだが、あいつは特別だ。こちらの人員は割けない、命綱のヘリを守らねばならないからな)」

「……」

 訝しむ兵士の表情を見て、指揮官はニヤリと口角を上げた。

「(まぁ、見ていれば分かるさ)」

 その時、背後の通信員から指揮官に報告が入った。

「(支援機、到着まで12分!)」

「(よし! 仲間を撃たんように、詳細な状況を伝えるんだ。追手を蹴散らせろ!)」ノートPCの映像に一瞥をくれた指揮官は、続けて祈るように呟いた。「(間に合ってくれよ……)」


「越谷さん! しっかり!」

 小川に半分抱き抱えられるようにして進んでいた越谷。出血のせいか意識が朦朧としてきていた。不意に斜め後ろを振り返ると、人影が視界に入った。やっと、救出部隊が追い付いたのだと思った。時を同じくして頭上に照明弾が上がる。人影は救出部隊の兵士ではなかった。

 小川は気付いていない。その距離十数メートル。黒っぽい戦闘服を着た男が、自動小銃をこちらに向けていた。銃口越しに相手と目が合う。「撃たれる!」反射的に目を閉じたと同時に銃声が轟いた。

 胸元から血が吹き上がる! 崩れ落ちるように倒れたのは戦闘服の男だった。小川が至近距離であがった銃声に驚きよろける。越谷も吊られて倒れ込んだ。

「(間に合ったようね)」

 恐々と目を開けた越谷。自分や小川に弾が当たっていない事を確認する。「……今の声は?」そして、気付く。

 見上げた視線の先に現われたのは、前傾姿勢で自動小銃を構えた兵士だった。一緒にいた救出部隊とは別の米軍兵士。

 小川は横で目を丸くし呆然と固まっている。動揺が収まらないのは越谷も同じだったが、兵士が発した声に違和感を覚えていた。射撃姿勢のまま、倒れる二人の横まで近づいた兵士。周囲を警戒しつつ越谷の足に視線を落とす。

「(でも……少し遅かったみたいね)」

 兵士はジョークでも言うかのように淡々と呟いた。やはり、女の声だった。先ほどの違和感を納得した。

 照明弾が煌々と辺りを照らす中、暗視装置を跳ね上げて顔を見せた女兵士。越谷は更に驚く。印象的な深いグリーンの瞳。薄暗い中でもすぐに判った。自分たちの写真を撮っていった、あの女に間違いなかった。

 頬にフェイスペイントが塗られているが、今はベールで隠されていた顔を露わにしている。シャープな顎のラインと鼻筋が通った顔立ちだ。少しだけ東洋を感じさせる雰囲気がある。アジアというよりはトルコ寄りではあるが。

「(君は……)」

 デザートパターンの迷彩服にボディアーマー。弾倉をいくつも差し込んだタクティカルベスト。太腿に着けたサイホルスターに納まる大型の自動拳銃。ただ、構えている自動小銃はフラッシュライトと光像式照準器が装備されているものの、M4カービンではなくAK47だった。越谷は、その出で立ちを確かめるように見遣ってから続けた。

「(……君は、米軍の人間だったのか?)」

 銃口を丘の麓に向けたまま、女兵士はその言葉を聞き流したようだった。照明弾の明かりが尽きる。

「(……そのまま伏せていて、まだいる)」

 そう呟く女兵士。暗視装置を再び下ろし暗闇に向かって、たて続けに引き金を引いた。マズルフラッシュの閃光で浮かび上がる姿。その射撃は恐ろしいほどに卓越していた。7.62ミリ弾の強い反動を、決して大柄ではない体躯でしなやかに受け止めている。

 相手からの反撃もあって近傍を複数の弾丸が通過したが、射撃姿勢が乱れることはなかった。しかも、こちらの発砲に比例して向こうからの銃撃が確実に減っていく。暗闇の中で人がバタバタと倒れていった。

 銃撃が止むと辺りは静かになった。女兵士はタクティカルベストから抜いた予備弾倉で、銃に付いた弾倉を弾き飛ばして交換。そして、右手を銃のグリップから離すことなく左手を下から回し込みチャージングハンドルを引いた。AK47のリロードを手際よく終わらせ、再び周囲に目を光らせる。

「――Clear(クリア)!」

 その様子を下から呆然と見上げていた越谷。その躊躇いのない動きと、冷静沈着な様子に背筋がぞくっとする。この人間は戦闘マシーンなのではないかと思えた。

 女兵士は射撃姿勢を崩さないまま、小川に指示を出す。小川は言われるままに越谷を近くにあった地面の窪みに引きずり込んだ。

 周囲を警戒する女兵士。窪みに二人が入るのを見定めると、背中で答えた。

「(……さっきの質問だけど。私は軍の人間ではないわ……)」

 そこまで言うと沈黙する。再び暗闇に視線を漂わせ、ヘッドギアに付いたインカムに耳を傾けた。

「(……仲間が来た)」

 暗闇から後退する救出部隊の5人が現れた。その一人が女を見咎めて言った。

「(来てくれて、助かる)」

「(回り込んで来た奴らは仕留めたわ)」

「(そうか。だが、状況は良くない。装甲車が出てきやがった。歩兵の増援も加わっている。11時と2時の方向だ。挟まれるとまずい)」

 そう言って方向を示した兵士だったが、倒れている越谷の足を見て悲嘆の声をあげた。

「(くそっ! 撃たれたのか?)」

 兵士の一人。衛生兵(メディック)が応急処置に取り掛かる。早く移動しないといけないことは越谷にも分かっていた。虚勢を張ってみせる。

「(だ、大丈夫だ! 歩ける、行こう!)」

「(……慌てるな、Mr.止血しないと死んじまうぞ)」

 衛生兵は越谷をたしなめるように笑って見せた。

 時折、赤い閃光が頭上を掠め始め、近くの地面から着弾による土埃が上がった。このまま待っても、状況が好転するとは思えなかった。相手はこちらの正確な位置を掴んでいないようだが、数では上回っていると推測される。早めの離脱が絶対条件だが、この先頂上までは隠れる岩が無かった。暗闇とはいえ照明弾でも上げられたら丸見えだ。状況を察してか、小川は辛そうな顔で押し黙っていた。

 その時だった。沈黙していた女兵士が空を仰いだ。

「(やっと、来たわね)」

 越谷はその言葉の意味が飲み込めないまま、続いた爆音に頸をすくめた。

 背後の丘から飛び出した黒い物体。周期的なローターの羽音と甲高いタービン音を轟かせたのは、AH-64Dアパッチ・ロングボウだった。

 超低空で侵入した2機のヘリは、旋回しながら越谷達に迫っていた追手に一斉掃射を加えた。機体下部にあるM230機関砲から放たれる30ミリ榴弾。赤に近いオレンジ色の軌跡を残しながら雨の様に降り注ぎ、地上で凄まじく炸裂した。

 続けて射出されたヘルファイヤ対戦車ミサイルが、丘を登って来ていた装甲車を貫いた。暗闇で起こる爆発。辺りが昼間のようになるほどの火柱だった。攻撃ヘリの襲来に圧倒される追手。あっという間に散在し、銃撃も途絶えた。

 その光景に歓声を上げる救出部隊の兵士達。志気が一気に上がった。

「(さあ、行くわよ!)」

 女兵士の号令で撤収が開始された。アパッチ支援の下、屈強な兵士に背負われた越谷は楽々と運ばれた。丘の上で待っていた指揮官は安堵の表情で救出部隊を迎えた。撤収が完了し、ブラックホークはテールを持ち上げた姿勢で一気に上昇した。その後をアパッチが続く。地上ではスクラップとなった車両から赤々と炎が上がり、黒煙が風にたなびいていた。


 帰投するブラックホーク。機内に設置された担架で治療を受ける越谷。左足のスラックスは治療の為に切り裂かれ、露出した太腿には止血フィルムが張られていた。腕には輸血と点滴も施されている。幸いにも急所は外れていた。生々しい治療を不安そうに見守っていた小川だったが、傷が大事に至るものではないと聞き胸を撫で下ろす。

「(……ピッタリで良かったわ)」

 横に座る女兵士が言った。ヘッドギアを脱ぎ、肩に落ちた髪に手櫛を入れながら越谷の足元に視線を落とす。仰向けになっている越谷からは見えなかったが、自分の履いているスニーカーのことを言っているのだと分かった。あの時のことが思い出される。足のサイズを確認していたのだ。女には訊きたいことが山のようにあった。だが、急に意識が遠のき始める。打たれた鎮静剤のせいだった。

 越谷はぼんやりとその顔を見詰める。女はとても穏やかな表情をしていた。戦っていた時とは別人だった。感情のない人間かと思いきや、違っていたようだ。ただ、非常に興味深い人間であることに変わりはない。

 取り敢えず、言うべきことの一つを口にした。

「(助けてくれて……ありがとう……)」

「(ええ……でも、お礼なら、どうぞデルタとナイツに)」

 女はぶっきらぼうに答え、隣にいた救出部隊の兵士とヘリのパイロットを指差して見せた。謙遜しているのだろうか。それでも女の口角は上がっていた。微笑とまでは行かないが、その表情は満足そうだった。あまり感情を表には出さないタイプらしい。

「この女は何者なのか……」そう考えながら、深いグリーンの瞳を見ていると、瞼はいつの間にか閉じていた。

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