7.異国での失望
乾燥した大地を貫いて伸びる一本の道路。
太陽に焼かれ、ひび割れたアスファルトから濛々と立ち上る陽炎。傍らに立つアラビア語の道路標識。見渡す限りの砂漠を熱い風が吹き抜けると、遠くで蜃気楼のように何かが浮かび上がった。
砂塵を舞上げながらやって来たのは大型のSUVだった。連なって疾走する二台の白いランドクルーザー。この地域で良く目にする車両だ。速度を落とすことなく車列を維持している。何かを警戒しているように見えた。
「小川さん?」
後続の車両。後部座席に男が二人座っていた。双方とも半袖のワイシャツにスラックス。その一人が、隣の男に繰り返して言った。
「小川さん?」
「……えっ?」
我に帰って振り向いたのは、細身で面長の男だった。癖毛なのか頭全体を撫で付けたような髪型をしている。
「大丈夫ですよ。このエリアは米軍の勢力下です。まあ、絶対の安全はないでしょうけど……」
外の景色を険しい表情で見ていた彼に、優しく声を掛けた端正な顔立ちの男。肌は褐色に焼けていて、髪は横を刈り上げた短髪にしていた。それは、若かりし越谷隆太郎の姿だった。
「ええ、そうですね……」
苦笑して答えた小川。彼が外交官として赴任して、まだ三ヶ月。越谷と一緒に外回りを始めたのは一ヶ月前だ。彼の不安は想像できた。越谷自身も一年経って、やっと慣れてきたところだった。ここは日本とは何もかもが違い過ぎる。
越谷の前で車のハンドルを握っているアラブ人の男。ケフィイェと呼ぶスカーフを被っている。現地人だが回避運転等の訓練を受けているプロのドライバーだ。一方、助手席に座っているのはベージュ色のコットンシャツとパンツ姿の白人男性。サングラスに社名のロゴ入りキャップ。そして、ボディアーマーを着用し胸元にはM4カービン自動小銃を抱えている。銃口は足元に向けられているが、いつでも引き金に指を掛けられる状態で周囲に目を光らせていた。先を走る車両にも同じように現地採用のドライバーと武装した警備員が二人同乗している。
武装した彼らは英国系のPMCから派遣された警備員である。後に正式名称をPMSCとすることになるが、その企業形態は様々で呼び名も色々ある。基本的に社員は警察や軍等での経歴を持つ者達で構成されており、軍隊に近い装備とスキルを持っている。ここイラクでも数十社のPMCが活動しており、米国や英国など各国の仕事を請け負っている。
そして当然ではあるが、海外で自前の警備組織を持てない日本政府も、そのお得意先の一つである。これは決して特別なことではなく、大手のセキュリティ会社にイラクでの警備を依頼すれば、自ずと直属か傘下のPMCが受け持つことになる。危険な地域における活動には、必要不可欠な存在だ。日本ではこのような企業を民間軍事会社のほか、単に民間警備会社などとも呼んでいる。
「私は……私は、ここで役に立てているのでしょうか?」
暫らくしてから、小川がたどたどしく言った。膝に乗せた書類に目を落としていた越谷が顔を上げた。
「何です?」
前を向き、目を伏せた小川。その横顔は心境を物語っていた。彼が表情を強張らしていたのは、この状況下による不安ではなかったようだ。
小川はポツリポツリと話し出す。
「一緒に仕事をしていて思うのですが、越谷さんは現地の人との打ち合わせでも、最初からとても親しく接しますよね。相手に対して決して壁を作らないというか……そんなふうに感じます……私も同じようにとは思うのですが、なかなか出来ません……」小川は言葉を詰まらせながらも続けた。「……この仕事は人との繋がりをつくることが一番大切なのに……自分の性格というか、能力の低さが嫌になります……」
越谷は軽く頷いて微笑みをつくって見せた。
「そうですか? 小川さんも十分な働きをしていると思いますよ」
「いいえ、全然ダメです。志を持ってここに来た以上、イラクと日本の架け橋になるのが、私の役割だと思っています……ですが、やはり、うまくできているとは到底思えません……」
即答して越谷を見据える小川。眼差しは真剣で、決して謙遜から口にしているものではなかった。口を噤んだ越谷。気持ちは十分すぎるほど分った。その言葉が意味するところの根本的な原因は、彼の能力にあるのではない。苛立ちを覚えているのは越谷も同じだった。
ブッシュ大統領が2003年5月に戦闘終結宣言をしたとはいえ、一年以上経った今もイラク戦争後の混乱が治まる気配はない。治安は悪化し民間人の犠牲者も増えるばかりで、イラク国民の苦しみは増大している。しかし、そんな中を平和貢献の名目で活動している日本の立場は微妙だ。なぜなら、歓迎してくれている人達もいるが、イラク人の観点から見れば、日本は戦争を起こした米国の同盟国の一つに過ぎない。場合によっては敵視される可能性も十分考えられる。
しかし、そんな状況でも越谷には信念があった。小川も同じだった。たとえどんな状況であっても、目の前で苦しんでいる人々の現状がある限り、手を差し伸べたい気持ちに変わりはない。日本は自衛隊を派遣した。その賛否は別として、それが無駄で終わらないことが大切だった。様々な要因で活動が制限される自衛隊。いかにスムーズに活動できるかが重要となる。だからこそ、自分達のような外交官がイラクを走り回り調整を行っている。
だが、現実は厳しかった。確かにポジティブリストで制約される自衛隊の活動にも問題はあるが、それ以前に情報があまりにも不足していた。本国ではCENTRIXと呼ばれる米軍と同盟軍が情報共有できる軍事情報処理システムが自衛隊でも運用され、かなり改善されたようだが、現地においてのローカル情報は自分達の足で稼ぐしかなかった。海外において独自の情報機関を持たない日本は、平和貢献であってもその効率性を欠くこととなった。出来るはずの事が、なかなか出来ない。歯がゆいばかりであった。
越谷は渋い顔をしつつも、はにかんで見せた。
「……私も同じですよ。実際、実質的な成果はあまり出ていないじゃないですか。だから、同じです……私が思うに、今はその時期ではないのかもしれませんね……」しかし、言葉に反して越谷の眼差しには何か強いのもがあった。「……ですが、我々が役に立てる時は、必ずやって来ると思います。だから、その時の為に準備をしておきましょう。そしてこれも勉強です。この経験は決して無駄にはなりませんよ……私はそう思います」
小川はそれを聞くと、越谷を一瞥した。そして、ゆっくりと車の天井を見上げて大きく息を吐いた。
「……そうですね」
表情が和らいだ小川。溜まっていた澱が少し洗い流されたように見えた。どちらかというと無口な小川が、自分から気持ちを打ち明けてくれた事を嬉しく思った越谷。今後も一緒に尽力していくことを確かめ合えた気がした。
「――!」
その時だった。唐突にシートベルトが二人の胸を締め付けた。現実に引き戻さたような感覚。高速走行していた車のスピードが一気に落ちていた。何事かと前方に目を凝らす越谷と小川。砂塵で汚れたフロントガラスの向こうは、先行車に遮られ様子が窺えなかった。
助手席の警備員が後ろを振り向く。頭に付けたインカムに手を当てている。先行の車両と交信していた。
「(……道路を人が渡っているようです……警戒しながら近づきます)」
イントネーションに特徴のある英国英語で伝えた警備員。
先行の車両。その助手席の警備員が双眼鏡で確認する。遠くに現れた人影はヤギを連れた子供だった。十数頭のヤギを民族衣装の少年が棒を振り回しながら追っている。距離はまだ離れていたが、警備員の表情が強張る。双眼鏡をダッシュボードに置くと、膝に置いていたM4カービンのグリップを握り直す。銃の安全装置が外された。
越谷達が乗る後続車にも同様に緊張が伝わっていた。息を呑む越谷と小川。取り越し苦労であることを祈った。スピードを極端に落とすのは危険である。車列はスピードを調整しながら、少年がヤギを従えて道を渡りきるタイミングを見計らって近づく。
心配をよそに、少年とヤギは何事も無く道路を横断した。先行車のドライバーは、それを皮切りにアクセルを煽り一気に加速する。後続車もそれに続く。通り過ぎながら胸を撫で下ろした越谷だったが、窓ガラス越しに異変を感じた。道路を渡った少年が、持っていた棒を放り投げ、ヤギそっちのけで一目散に走り去って行くのだ。
「まずい……」越谷が、そう感じたのと同時だった。前を走るランドクルーザーが、吊られたように浮き上る。真下の道路が大きく盛り上がっていた。地面から何かが飛び出してきたような錯覚。続けてすさまじい炸裂音と共に火柱と白煙が吹き上がった! 吹き飛ぶボンネット。衝撃を受け炎に包まれた先行車は、弾き飛ばされるように横転した。
「IED!」
後続車の車内で警備員が叫んだ!
それは、道路に仕掛けられた即席爆発装置だった。ドライバーが横転した先行車を回避しようと、慌ててハンドルを切る。だが、炎と猛烈な砂煙で完全に視界を失っていた。吹き飛んだアスファルトの破片が地面と後続車に降り注ぐ。越谷と小川は振り回されながらも必至でもがき耐えた。後続車はけたたましいスキール音をたてながら、何とか先行車をかわした。だが、砂煙を抜けた先に道路は無かった。
ランドクルーザーが道路から外れ、砂丘に突っ込み大きくバウンドする。衝撃が車内を襲う。耐え切れず手を離してしまった小川は、飛び上がり天井に頭をぶつけた。越谷も躰を大きく揺さぶられ、後部座席でひっくり返った。ハンドルと格闘する運転手。左右に振られる車体。このまま先行車のように横転するのかと思われた時、鈍い衝撃と共に停止した。
ドライバーは即座に退避行動に移ろうとしていたが、アクセルを踏んでも動かない。タイヤは無情にも空転していた。砂丘に乗り上げスタックしたのだ。
仰向けになっていた小川が、茫然とした表情で起き上がる。顔からは血の気が引いていた。おずおずと窓の外を覗く。狙ったように、鼻先の窓ガラスに何かが激しく当たった。
「うわぁ!」
小川は再び身を仰け反らせ倒れ込んだ。厚い防弾ガラスが蜘蛛の巣状に割れていた。助手席の警備員が、すかさず声を張り上げる。
「Get down! Get down!」
銃撃だった。車両の窓ガラスとボディに連続的に加わる衝撃。外からハンマーで叩かれたような、こもった音が車内に伝わる。今まで経験したことの無い恐怖感。
なおも止まない銃撃。この車両は防弾仕様だが、各国の要人が乗るような重装甲ではなかった。いつまでも銃弾の貫通を免れることはできない。警備員は決断したように叫んだ。
「(頭を低くしたまま、ここにいろ! 外に出るなよ!)」
彼は弾の飛んで来る方向を見定め、銃撃の合間を縫って飛び出した。ボンネットの上に銃を乗せ、車両を盾にする。激しい応戦が始まった。弾倉を交換しながら、広範囲に弾をばら撒く警備員。
越谷と小川は、なす術なく車内で縮こまっていた。ドライバーは運転席で頭を抱え、聞き取れない声で唱えるように呟いていた。砂漠に響き続ける乾いた銃声。越谷の脳裏を様々な思いが駆け抜けた。
――数分、いや数十秒だったのかもしれない。気が付くと銃声は収まり、辺りは静かになっていた。
恐々としながら目を開けた越谷。小川もドライバーも無事な様子が窺えた。胸を撫で下ろし、震えながら大きく深呼吸した時だった。背後で勢いよくドアが開いたかと思うと、振り返る間もなくシャツの襟首を誰かに鷲摑みにされた。
そのまま、車外へ引きずり出された越谷。同時に騒がしいアラビア語が耳に入ってきた。
何処から現れたのか、銃撃で穴だらけになったランドクルーザーを男達が取り囲んでいた。AK47自動小銃やスコープ付きのドラグノフ狙撃銃を手にしている。民族的な服装ではなく、黒っぽい戦闘服を着ていた。顔をフェイスマスクやスカーフで覆った彼等。しきりに銃を持ち上げ叫んでいる。勝利を喜んでいるかのようだった。
地面に膝を突かされる越谷。両手は頭の後ろで組まされた。混乱していた。頭の中は真っ白になったままで、夢を見ているような感覚。続けて引きずり出された小川も同じように横に並ばされた。彼は顔を引き攣らせていた。自分も同じ顔をしているのだろうと越谷は思った。異常なほど、顔から汗が噴き出していた。それが顎に伝って落ちる。しかし、熱さは全く感じなかった。ただ、周りで叫ぶ声が耳に響いていた。
次第に状況を認識する越谷。同時にそれが絶望的であることを思い知る。数十メートル後方で黒煙を上げながら炎上する、先行していたランドクルーザー。そして視界の隅には、応戦に飛び出した警備員の姿があった。車両の傍らで血まみれになって倒れている。思わず目を背けた。「自分達も殺される」そう感じた。
だが次の瞬間、目の前が真っ暗になった。何かで顔を覆われていた。